第3話
それから僅か1ヶ月後のことだった。
大田区大森警察署管内の小さな公園で、若い女性の刺殺体が発見された。被害者の名は加藤翔子、25歳。都内の商社に勤めるOLだった。
大森署はその日の内に重要参考人として被害者の恋人で自称ミュージシャンの堀健次郎を任意同行した。
この堀という男、ミュージシャンとは名ばかりで、たまに寂れたライブハウスで演奏する以外はほとんど音楽活動らしいこともしていないプー太郎だった。当然金など持っているはずもなく、加藤翔子がその生活を支えていた。
いわゆる“ヒモ”のような男ではあったが、加藤翔子に頭が上がらないのかと言えばそうではなく、徹底的に束縛し、時には暴力まで振るうこともあったらしいことが周辺の聞き込みで判明した。
犯行当時のアリバイも無い。血の気が多く喧嘩っ早い性格で、過去には傷害での逮捕歴もあった。心象は間違いなくクロだ。あとは堀の自供を引き出すだけ。本庁が出張って捜査本部を設けるまでもなく、所轄署だけで事件解決は時間の問題だと思われた。しかし――
「いつまで経っても落ちる気配はナシ――ね?」
恭平はいつものように事務所中央に置かれた革張りのソファに深く身体を預け、自ら淹れたコーヒーの芳醇な香りを楽しんでいた。
事件発生から1週間が経過し、ついに宮田はこの事件について恭平の力を借るべく頼子を派遣した。
「ええ、元々状況証拠だけで物証は何もありませんでしたからね」
恭平と向かい合って座った頼子はあからさまに不機嫌そうな表情を浮かべている。1ヶ月前はまんまと恭平に嵌められる形でコンビを組むことを了承してしまった。後になってその事に気付いても後の祭りだ。仕方なく頼子は、こうして極めて不本意ながら恭平のもとへ捜査情報を伝えに来たというわけだ。
「で? まさかそれだけで警部が僕の所へ君を寄越すはずがないよね。その後何があったんだい?」
宮田も事件が起きる度に恭平の力を借りているわけではない。宮田が“厄介だ”と認めた事件でのみ、恭平に協力を求め、彼もそれに応じて事件解決に尽力してきた。だから、今回の頼子の話も必ず続きがあると確信していた。
「……2件目の殺人が起きました。場所は前回の公園から直線距離にして約5キロ程度の近場で、今回の被害者も若い女性です」
どこまで見透かしているのかと内心驚きながらも、頼子は決してそれを表に出さないように意識しながら“2件目”の殺人事件について説明した。
加藤翔子が刺殺されてからちょうど1週間後、今度は人通りの少ない路上で若い女性の刺殺体が発見された。どちらも死亡推定時刻から、火曜の夜9時~11時の犯行であると推定された。
被害者の名は池田照美、21歳。現場近くのマンションに住む女子大生で、帰宅途中を襲われたと思われる。
1件目同様、暴行された形跡はなく、所持品も奪われてはいなかった。さらに死因も酷似していて、背後から細長い刃物によって一突きにされたようだ。
「確かによく似た事件だね。だから警察はこの2件が同一犯による連続殺人だと判断した?」
ここまでの頼子の説明だけでも、確かに2件の事件は同一犯による犯行だと考えるには充分だった。同じ曜日、同じ時間帯、同じ手口で、同じように若い女性が殺されている。被害者2人の共通点は、今のところ“若い女性”だということしか浮かんでこないが、猟奇的な犯罪者ならそれだけで充分狙う理由になるのかもしれない。しかし、恭平は頼子の話しぶりから、まだ何か重要な事を話していないと察していた。
「それだけじゃありません。これです」
恭平に促されて、観念したように頼子は2枚の写真を恭平の目の前に並べた。
「これは……トランプ? スペードとハートのAだね」
「これはそれぞれの被害者の服のポケットに入っていました。1件目の加藤翔子にはスペードのAが、2件目の池田照美にはハートのAです」
これにどんな意味があるのか今のところ不明だが、少なくとも2つの殺人事件が繋がっていることを示す決定的な証拠だった。
「というか、1件目のポケットにもこれが入ってたんだよね。なんで警察はそれについて考えようともしなかったんだい?」
「そ、それは……特に事件とは関係がないだろうって。お守りか何かのつもりで持っていたんじゃないかと判断されたようです」
初動捜査の段階で大森署の捜査に不手際があったことは明らかだ。頼子達本庁の捜査一課には関係のない話だが、頼子は自分が責められているようで恥ずかしくなった。
「ふ~ん、お守りねぇ。所轄とはいえ、もうちょっとしっかりしてほしいよねぇ。最初に慎重な捜査をしていれば、無実の若者を逮捕して恥をかくこともなかったろうに」
恭平は既に堀健次郎がこの事件とは無関係だと判断しているようだが、頼子はそれに異を唱えた。
「まだ堀健次郎が無実だと決まったわけじゃありませんよ。確かに2件目の殺人は彼には不可能ですが、同一犯に見せかけるためのフェイクという可能性もあります」
頼子の言う通り、捜査本部はこの2件の殺人事件を同一犯による連続殺人の線を軸に、堀と共犯による犯行の線も併せて捜査している。その場合、容疑者として浮かぶのは池田照美を殺害する動機を持ち、なおかつ堀健次郎とも繋がりのある人物ということになる。今のところそれらしい人間は浮かんではいないが、可能性が無いとも言えなかった。
「うん、理には適ってるね。僕は違うと思うけど」
頼子の意見(というより、捜査本部の方針)に一理あるとしながらも、恭平は堀を犯人とは考えていないようだ。
「む、どうしてそう断言できるんですか?」
頼子自身もその可能性が高いとは思っていなかったが、こうもはっきり否定されてしまうと反発したい気持ちが湧いた。何より、恭平の言い方が癇に障るのだ。
「もしそうなら、これは完全な計画殺人だ。ヒモ同然の生活をしていた堀には加藤翔子を計画的に殺す理由がないだろ。別れ話を持ちかけられて、かっとなって殺してしまったというなら分かるけど」
確かにその通りだ。そもそも堀には加藤翔子を殺す動機がない。痴情の縺れから衝動的に殺してしまったというのが捜査本部の見解だったが、それなら複数犯による計画殺人という線とは完全に矛盾する。
結局、上層部は堀が犯人であるという可能性は全く考えていないのだ。しかしこのまま手放しで釈放してしまうと大森署の面子を潰すことにもなるので、建前上容疑者としているに過ぎない。そしてそのくだらない面子を守るために、貴重な人員を無駄な捜査に割り振っている。
「ホント、組織って面倒臭いよね。犯人は逮捕したいけど自分達の面子も守りたい。一体市民の安全と自分の保身と、どっちが大切なんだか」
恭平が警察組織を強烈に皮肉った時、頼子は違和感を覚えた。皮肉屋で人を食ったような恭平の口調はいつも通りだし、表情も変わらない。しかしそれでも、今の恭平の発言には今までにない“何か”を感じたような気がした。それが何かは分からなかったし、単なる気のせいであるという可能性もあったが、頼子は何故か妙に引っ掛かったのだ。
「本庄さんは……警察が嫌いなんですか?」
まだ若い頼子は、物事を“善”と“悪”に分けて捉えがちだった。人々を傷つける犯罪者が“悪”ならば、それを追いかける警察は“善”だ。無論、警察の全てが善良だと妄信するほど世間知らずでもないし、実際警察の不祥事というものも数え切れないほど見聞きしてきた。それでも一般的には警察は善であるはずだし、それこそが頼子の警察官としての誇りだった。そのため、犯罪者でもない一般市民に警察が嫌われるという現実に、頼子は悲しさや虚しさが綯い交ぜになったような感情を抱いていた。
「警察が一般市民に嫌われるのは平和な証拠だよ。警察に助けられた経験のない人間が多いという事は、それだけ治安がいいってことだからね。治安を守る警察官としては、むしろ誇りに思っていいことだと思うけどね」
そう言って微笑んだ恭平に、頼子はそれ以上何も訊けなくなった。恭平の心の内が一瞬垣間見えた気がしたが、逆に自分の心を見透かされてしまい、それ以上踏み込むことが出来なかった。
しばらく気まずい沈黙が続いた。いや、気まずさを感じているのは恐らく頼子の方だけなのだろう。恭平はそんな頼子の姿を見ているだけでも随分楽しそうだ。
「どうしてAなんだろうね?」
これはもう自分から喋ってやらないといつまでもこのままだと思った恭平が、仕方なく話題を当初の殺人事件に戻した。
「え?」
不意の言葉に、頼子は一瞬頭が真っ白になった。一拍遅れて言葉の意味を理解したが、今度はその真意を測りかねて困惑した。
「だって、トランプのAは4枚しかないんだよ? もしこの犯人が連続殺人鬼で、4人目を殺したとしたら、次はどうするんだろう」
1人目の被害者にはスペードのA、2人目の被害者にはハートのA。今後も同じように事件が起きるとしたら、3人目と4人目の被害者にはダイヤとクローバーのAが添えられることになるだろう。ならばその次はどうなるのか。
「犯人がどうするつもりかなんて知りませんよ。っていうか、4人目も3人目も出さないようにするのが私達の仕事でしょう!」
恭平の言いたいことは分かったが、頼子はそれを素直に受け取ることが出来なかった。恭平の言い方はまるで「5人目だとどうなるのか見てみたい」と言っているように聞こえるのだ。
「私達じゃなくて君達の仕事だけどね。僕の仕事はコンサルタントさ」
次の犠牲者が出る前に絶対に犯人を捕まえてやると意気込む頼子に対し、恭平の態度は実にドライだった。確かに警察の捜査に協力しているとはいえ、民間人である恭平には逮捕権も捜査権もない。そういう意味では、恭平の言っている事は至極当然であるようにも思えるが、頼子はそんな恭平の態度に激しく憤慨した。
「本庄さんは犯人が憎いとか、許せないとかいう感情は湧かないんですかっ!?」
警察官の中には、いかにも公務員然としていて淡々と仕事をこなしているだけといった人間も居るには居るが、少なくとも頼子ら警視庁捜査一課の刑事は違った。大なり小なり犯罪を憎み、犯人に対する怒りで以て危険な捜査に臨むモチベーションとしているのだ。
だが頼子の見る限り、恭平にはそういった感情が無いように思える。まるでゲームでもしているかのような、どこか楽しんでいる節すら感じるのだ。それが頼子を苛立たせていた。
「怒りや憎しみは冷静な判断力を損なうよ。それにそういう感情を表に出すと、容易く相手に利用される。本当に相手を憎く思うのなら、そんな素振りは露ほども見せずに笑うのさ」
そう言って浮かべた笑みに、頼子はぞくりと背筋が冷たくなった。先程感じた違和感が、より大きくなって再び頼子の胸に暗い影を落とす。
「あ、あの……っ。私、そろそろ戻ります」
突然その場の空気に耐えられなくなった頼子は、捜査資料をその場に残して逃げるように事務所を出て行った。
≪続く≫