第2話
数日後――
「確かにお前の言った通りだったよ」
再び恭平の事務所を訪れた宮田は、先日の恭平の言葉が見事に的中していたと認めた。その宮田の傍らには頼子の姿もある。
「無事に犯人を逮捕出来たようだね」
先日と同じようにソファに座った2人にコーヒーを出しながら、恭平は宮田の晴れやかな表情を見て笑った。
恭平の言う通り、本田正臣はゲイだった。政治家に限らず表舞台に立とうとする人間としては致命的だ。同性愛者に対する世間の風当たりはまだまだ厳しい。圭子との結婚はそれをカモフラージュする為の仮初のもので、彼の周りに女性が多いのもカモフラージュだった。だが逆にゲイであることを疑って調べてみると、彼と関係の深そうな男性は限られてくる。すぐに本田正臣の本当の恋人は見つかった。そして任意で取り調べをすると、比較的あっさりと犯行を自供したのだ。
「結局、この件に本田正臣は全く関わっておらず、全てその男が1人でやったことだったよ」
本田正臣の関与を疑っていた宮田としては、どこか納得のいかない思いもあった。しかし自分自身で取り調べた結果、そう結論せざるを得なかった。
「動機は嫉妬だね?」
自分で淹れたコーヒーを美味そうに啜りながら、恭平は犯行の動機をずばりと言い当てた。
「ああ、その通りだよ」
もう今更この程度を見破られたからといって、驚く気にはなれなかった。恐らく恭平はあのワイドショーの映像を見た瞬間に全てを悟ったのだろう。
「でも、私には分かりません。本田正臣も犯人の男もゲイだったわけでしょう? 他の男に対して嫉妬するならまだしも、ただのカモフラージュで結婚しただけの奥さんに嫉妬して殺しまでするなんて……」
直接取り調べに関わっていない頼子は、宮田から真相を聞いた後でも釈然としない思いを抱いていた。結局全てが恭平の言った通りになってしまったことに対する悔しさもあるのだろう。
「本田圭子は、当然夫がゲイであることを知っていただろう。それを分かった上で仮初の夫婦を演じ、夫を支えてきた」
ソファの背もたれに身体を預けた恭平は、コーヒーの香りを楽しむように眼を閉じて言った。
「そこに一般的な“男女の愛”は無くとも、2人は固い絆で結ばれたパートナーだったのだろう。いや、最初はそうでなくても、最近になってそういう絆が生まれたのかもしれない」
淡々と語る恭平の言葉を、頼子と宮田は黙って聞いていた。犯人の動機に懐疑的なのは宮田も同様だった。
「異性愛者でも、時として別の異性よりも相手と強い絆で結ばれた同性に激しい敵愾心を持つことがある。より複雑な事情を抱える同性愛者であれば、そういう感情は異性愛者よりも強いと思うね」
前半部分は頼子にも何となく理解出来た。言われてみれば、頼子の周りにもそんな悩みを抱えた友人がいる。「私と友達と、どっちが大事なのよ!?」などと、ドラマや漫画でしかお目にかかれないようなセリフを実際に彼氏にぶちまけたらしい。特に女性の方がそういった感情を持ちやすいのかもしれない。
しかし後半部分はどうしても首を傾げたくなってしまう。本当にそれだけの理由で人一人を殺すものだろうか。宮田も同じ気持ちだったのか「そんなものだろうか」と誰に言うでもなく呟いたが、「そんなものだよ」と軽く笑った恭平の言葉を聞いた途端、全ての憑き物が落ちたかのようにすっきりとした表情になっていた。
確かに恭平の言葉には妙な説得力がある。その説得力が一体どこから来るものなのか頼子にはまだ分からなかったが、少なくとも宮田は恭平に全幅の信頼を寄せているのだろう。
「まぁ、本田正臣は事件そのものには無関係だったわけだが、これで政治生命は間違いなく断たれたわけだ。しかし、奴がゲイだなんてどうして分かったんだ?」
犯人は逮捕されたものの、事件の真相はまだ報道されていない。しかし時間の問題だろう。誰もが予想だにしなかった結末に違いない。それだけ、本田正臣は巧妙に自分の真の姿を隠していた。警察がどれだけ周辺を調べても噂すら聞こえてこなかったのに、どうして恭平は見破ることが出来たのであろうか。
「簡単なことだよ。異性愛者でも同性愛者でも、さらには小児性愛者だったとしても、好きになる対象が違うだけで、それを前にした時の反応は皆同じなんだよ」
さも当然のように恭平は言ってのけた。言っていることは理解出来るが、そんな簡単に分かれば苦労はしない、と二人は思った。特に頼子の方はあからさまに疑惑の眼差しを向けている。
「おや、信じていないみたいだね。じゃあ、ちょっと試してみようか?」
頼子の視線を受けて、恭平は笑いながら肩を竦めた。そしておもむろに上着のポケットから10枚ほどの写真を取り出すと、それをまるでトランプを切るようにシャッフルして見せた。
「……一体何をするつもりですか?」
何の説明もないまま写真を手渡された頼子は、怪訝そうに眉を顰めた。
「いいから、いいから。その写真をよーく見て」
写真には様々な年代の男女が写っていた。先程シャッフルしたので並びはバラバラだ。頼子はそれをトランプのババ抜きやポーカーのように自分に向けて広げているので、恭平からは写真の裏側しか見えない。
「ふむふむ、これだ」
しばらくそのまま頼子の顔を覗き込んでいた恭平が、突然1枚の写真を頼子の手から抜き取った。
「おっとぉ、君って案外ミーハーだったんだね」
写真に写っていたのは、最近人気急上昇中の若い男性アイドルの姿だった。恭平はわざと大袈裟に驚いた声を上げて笑みを浮かべた。
「君は今、このアイドルに夢中のようだね」
恭平が目の前で写真をヒラヒラと揺らしながら言うと、頼子の顔が真っ赤に染まった。
「なっ……ち、違いますよ! 何言ってるんですかっ!」
頼子は耳まで赤くしながら否定した。
「ほぅ、そいつは俺も意外だったな。てっきりもう少し渋い趣味だと思ってたよ」
口調も表情もいつもと変わらなかったが、宮田の肩は小刻みに震えていた。頼子がコンサート会場でうちわやペンライトを振り回しながらアイドルに黄色い声を上げている姿を想像したら、可愛らしくもあり可笑しくもあった。
「だ、だから違うって言ってるじゃないですか! そんなの、この人が勝手に言ってるだけですって!」
笑いを堪える宮田に、頼子は半狂乱気味に訴えた。しかしむきになって否定すればするほど、自ら認めてしまっているようなものだということに気付いていない。
「まぁまぁ、別にアイドル好きは恥ずかしいことじゃないだろ? ともあれ、これで僕の言うことを信じてもらえたかな?」
頼子の必死の否定などお構いなしに、恭平は自分の力を証明出来たことに満足げであった。
「知りません! 係長、私はもう二度とここへは来ませんからねっ!」
ついに頼子は席を立ってしまった。頼子にしてみれば、そもそも何故自分がこの場所に付き合わされているのかも分からなかったのだ。
「悪いが、そういうわけにはいかん。お前はこれからもここに顔を出すんだ。ただし、今度からは1人でな」
1人で先に帰ろうとした頼子に、宮田から衝撃の一言が発せられた。
「なっ……どうして私が!?」
「俺も今年から部下を持つ身だ。もう以前のように好き勝手には動けない」
宮田は抗議する頼子にというよりも、恭平に向かって説明するように話した。
「係長なんだってね。出世おめでとう」
どこか皮肉が込められているような恭平の言葉に、宮田は軽く苦笑いを浮かべた。
「だからお前が俺の代わりにこいつと協力して事件を解決するんだ」
最後の言葉ははっきりと頼子に向かって言った。つまり、今まで宮田がやってきたことを頼子が引き継ぐということだ。
「なんで私が……嫌ですよ絶対!」
思いもよらなかった宮田の言葉に頼子の声は震えていたが、最後の拒否だけは力強かった。先程恭平にアイドル好きを暴露されたことが余程腹に据えかねたようだ。
そうでなくとも宮田のやっていることはかなり問題のある行為だ。一般人に捜査情報を流して協力してもらうというだけでも警察官としての矜持に悖るし、その上恭平の言っている事はほとんど勘のようなもので客観的根拠に乏しい。そんなものを信じてもし冤罪でも生み出そうものなら、とても個人の責任では済まされない事態となるだろう。
「気持ちは分からんでもないが、お前に拒否権はないぞ。これが嫌なら、捜査一課にお前の居場所はない」
頼子の気持ちに一定の理解を示しつつも、最終的には有無を言わさぬ脅迫めいた言葉で無理やり抑えつけた。
「そんなぁ……」
頼子は目の前が真っ暗になった。念願叶って警視庁捜査一課に配属され、これからが自分の刑事人生の始まりだと思っていた矢先に、いきなりその道を閉ざされてしまった思いだ。
「まぁ、そんなに悲観するな。こいつを上手く利用すれば、お前は一課の誰よりも多く手柄を上げられる。それは俺が保障してやる」
この世の終わりのような顔をしている頼子をさすがに不憫に思ったか、宮田は頼子の肩に手を置いて元気付けようとした。しかし頼子はそれを振り払うように身をよじって宮田を睨みつけた。
「……係長もこの人のおかげで今まで事件を解決出来ていたわけですか」
捜査一課随一の検挙率を誇り、一課のホープと呼ばれた宮田。そんな宮田の姿に頼子は憧れていた。頼子にとって宮田は目標とすべき理想の刑事だったのだ。それが全て虚像だったという思いが、頼子に失望と共に激しい怒りを抱かせた。
「……まぁ、全てというわけじゃないが、確かにこいつのおかげで解決出来た事件もあったな。そのおかげで出世したと言われても否定はしない」
頼子の責めるような視線に対して、宮田は視線を合わそうとしない。それを後ろめたさから来るものだと思った頼子は、ますます不信感を顕わにした。
「見損ないました係長。しかもそんな違法捜査を人に押し付けるなんて――」
「はい、そこまで」
一方的に責め立てる頼子の前に身体を割り込ませるようにして、恭平が頼子の言葉を遮った。
「頼子君、君はちょっと落ち着いた方がいい。警部は警部で、相変わらず女性に対しては口下手だねぇ。そんな事じゃ誤解を招くだけだよ」
恭平は頭に血が昇っている頼子だけでなく、言い訳することなく黙って頼子の非難を浴び続けている宮田に対しても苦言を呈した。
「僕は確かに警部の捜査に協力してはいるけどね、そもそも協力する価値もないような無能な人間だったら僕は相手にもしないよ。同じように、たとえ警部の代役でも君が無能な人間なら協力する気はないよ」
事件解決の為に恭平の力を利用しているとはいえ、それを抜きにしても宮田の刑事としての能力はかなり高いと恭平は評価している。そういう相手でなければ恭平は歯牙にもかけないということを宮田も分かっているので、頼子を自分の代役に選んだのはむしろ頼子を高く評価しているからこそだ。
「僕は宮田警部を信頼しているし、君は宮田警部に信頼されているってことさ」
恭平の言葉は良くも悪くも人の心に直接響く。ちょっとした一言で逆上もさせるし、逆に頑なになった心を瞬時に解きほぐしもする。“心を操る”と言えば大袈裟に聞こえるかもしれないが、恭平は確かにそういう類の力を持っていた。
恭平の甘く囁くような言葉に、それまで固く閉ざしてしまっていた頼子の心も次第に軟化していった。恭平はその瞬間を見逃すことなく、さらに言葉を紡ぐ。
「ま、だからと言って僕が君を信頼するかどうかは別の話だけどね」
一度落ち着かせておいて、ここで敢えて挑発するような言葉。案の定、頼子は食いついてきた。
「な……っ! なんであなたが上から目線なんですか!? 私だってあなたを認めたわけじゃないですからね!」
「そうかい? それじゃあ、どちらが先に相手を認めさせることが出来るか勝負だね」
頼子には自分の力を認めてもらいたいという願望が強くあるのを恭平は見抜いていた。こう言えば必ず頼子は自分の力を恭平に見せつけてやりたいと思うはずだと確信している。
「……分かりました。でも、あなたが口先だけのいい加減な男だったら、その時は本当にこの役はお断りしますからね」
頼子の反応はまさに恭平の思惑通りだった。後になって頼子はまんまと乗せられてしまったことに気付くだろう。
「それじゃあ、改めてよろしくね」
頼子の挑むような視線にも温和な微笑みを絶やすことなく、恭平が右手を差し出した。しかし頼子は前回と違って握手には応じず、踵を返して無言で出て行ってしまった。
「やれやれ、これから大変だ」
言葉とは裏腹に、恭平は楽しそうだった。
「本当に大丈夫なんだろうな? あいつが本気でゴネたら、俺でも手に負えんぞ」
恭平は思い通りに頼子をコントロールしているつもりだろうが、傍から見ている宮田には心配で仕方なかった。先程はああ言ったものの、本当に頼子が嫌だと言ったなら無理強いはしたくなかったし、無理やりやらせても意味のないことだと分かっていた。
「大丈夫さ。知ってるだろ? 僕は女性の扱いが得意だってこと。そうそう、君が奥さんをモノにした時だって――」
恭平が数年前の宮田と妻との馴初めのエピソードを思い出した時、宮田がこれまでにないほど険しい表情で恭平を睨みつけた。
「分かってるだろうな? その話を鏑木にしたら、俺達の付き合いも終わりだぞ」
決して部下や同僚達に見せることのない、鬼のような形相とドスの利いた脅しだった。恭平は人をからかうのが趣味のような男なのだと理解してからは大抵のことは聞き流せるようになったのだが、この話題を持ち出されると冷静さを保てなくなる。
「おぉ怖い怖い。でも、君もそうやって少しは感情を表に出した方がいい。そういう意味じゃ、あっちのお嬢さんの方がよっぽど見込みがあるね」
「フン、そいつは結構。せいぜい愛想を尽かされんように仲良くやってくれ」
恭平の言う“見込み”という言葉を軽く鼻で笑った後、宮田もドアの方へと歩いて行った。
「ああ、警部。君の方こそ忘れてないだろうね?」
ドアノブに手を掛けた宮田の背中に恭平が呼びかける。その声で宮田は動きを止めた。
「分かっているさ。お前に嘘はつかんよ」
恭平は何も具体的なことは言わなかったが、宮田にはそれが何を指すのか重々承知していた。振り返ることなく恭平の言葉に応じて、宮田は部屋を出て行った。
「ふぅ、どうしたものかな……」
ビルから出たところで宮田は煙草に火をつけ、溜息と共に煙を吐き出した。長い緊張状態から解放された安堵感が、紫煙に巻かれて宙に漂う。
自分の代役として頼子を選んだ本当の理由を恭平に悟られはしないだろうかと気が気ではなかった。決して表情に出さないように努めたつもりだったが、なにしろ相手は“心を読む”プロだ。
(さすがにそれはないか)
しかし煙草を1本吸い終わる頃には、胸に蟠っていた不安も煙と共に消えていた。宮田本人ですら、その“本当の理由”に期待しているわけではない。自分には出来なかったが、もしかしたら頼子だったら、という漠然とした思いでしかない。いくらなんでも、そんな万に一つの期待まで見透かしはしないだろう。
「まぁ、後は鏑木次第だな……」
吸い終わった煙草を携帯灰皿に放り込み、宮田は一度ビルを見上げてから歩き出した――
≪続く≫