第12話
「ふぅ、やれやれ。事情聴取って長いものだねぇ。もうすっかり日が暮れてしまったじゃないか」
堀健次郎はその後通報を受けて駆け付けた警官隊に引き渡された。四谷警察署で事情聴取を終え、恭平と頼子がようやく解放された時には、夕日もすっかりビルの間に呑み込まれていた。
「お疲れさまでした、本庄さん。それと一応、ありがとうございました」
四谷警察署を後にして自分の事務所へと帰ろうとする恭平に、何となく一緒に並んで歩きながら頼子が労いと感謝の言葉を掛けた。まだ“一応”の部分に若干の抵抗があるものの、以前に比べれば随分と素直になったものだと、恭平は笑みを浮かべた。
「まさか2回も警察署に行く事になるとは思わなかったよ。気分直しにディナーでもどうだい?」
「い、いえ……これから帰って残務処理がありますから」
恭平の言葉の響きには、やはりどこか警察に対する不信感のようなものが見え隠れする。それを感じ取った頼子は、咄嗟に恭平の誘いを断った。
「そう、じゃあ頑張ってね」
昼間とは違って、恭平の方も今回はあっさりと引き下がった。
「あ、あのっ! 1つだけ教えて下さい」
頼子はその場から立ち去っていく恭平の背中に慌てて呼びかけた。
「どうして、堀健次郎が本気じゃないって分かったんですか? 私には、本当に人を殺しそうなほどの迫力に感じました」
拳銃を頼子達に向けた堀の表情は怒りに眼を剥き、焦点は定まらず、明らかに常軌を逸していた。まるで薬物でもやっているのではないかと思えるほどの堀の姿に、どうして殺意がないなどと確信出来よう。
「あれは大事な人を殺され、その復讐をしようという人間の表情じゃない」
恭平ははっきりと断言した。
「……まるで、そういう人間の顔をよく知っているような口振りですね」
頼子は、何か触れてはいけないものに触れているのではないかという思いを持ちながら核心に迫った。
「ああ、よぉく知ってるよ」
恭平はそれだけ言うと、意味ありげな笑みを浮かべて再び背を向けて歩き始めた。頼子は何も言えず、遠ざかっていく恭平の背中をただ呆然と見つめていた――
「よう、昨日は大変だったみたいだな」
翌日、出勤してきた頼子に宮田が声を掛けた。頼子の活躍はすでに捜査一課内で噂になっている。中には民間人まで巻き込んで人質に取られた頼子のうかつさを責める者もあったが、多くは1人で無事に事件を解決した頼子の力を高く評価した。当然ながら、実は恭平の力によるものだということは知られていない。
「私は何も……全部本庄さんのおかげです」
「本庄の手柄は全てお前の手柄だ。お前は不満だろうが、俺達はそうやってお互いを利用し合う関係だ」
宮田はそう言って、本庄の卓越した能力と比べて自身の無力感に苛まれる頼子を励まそうとした。
「係長、私達が本庄さんを利用しているのは分かります。でも、じゃあ本庄さんは私達の何を利用しているんですか?」
以前した質問を、頼子はもう一度宮田に尋ねた。恭平の事を知りたいと思う気持ちは、あの時よりもずっと強くなっていた。
「この前も言っただろ。それは本人に直接聞いてくれ」
それが出来ないからこうして宮田に訊いているのだが、宮田は頑として口を割ろうとはしなかった。
「そんなことより、今日はこいつを届けてくれ」
なおも食い下がろうとした頼子に、宮田は玉付きの茶封筒を渡した。今まで何度か持っていった捜査資料と同じ封筒だが、厚みはほとんどない。中身は紙数枚の資料と思われた。
「これ、何ですか?」
事件はもう解決した。新たな事件も起こっていないのに、わざわざ届けなくてはならない資料などあるのかと頼子は疑問に思った。
「中身については詮索しないことだ。黙って渡してくれればそれでいい」
またもや宮田は答えてくれなかった。しかしその様子から、この封筒こそが恐らく宮田から恭平に支払われている“報酬”なのだと頼子は察した。
「一応言っておくが、開けるんじゃないぞ」
頼子の心を見透かしたように、宮田が釘を刺した。
「あ、開けたりしませんよっ!」
頼子は慌てて否定した。
「ならいいが。ああ、そうだ。ついでにこいつも渡しておく」
宮田はポケットから1本の鍵を取り出し、頼子に手渡した。
「これ、何の鍵ですか?」
「本庄の事務所の鍵だ。もし奴が中にいなかったら、そいつで勝手に入っていいからな」
驚く頼子に「本庄は了解済みだ」と付け加えて、宮田は立ち去った。残された頼子は、手渡された封筒と事務所の鍵とを交互に見ながら、言いようのない不安に襲われた。
そしてその日の午後、頼子は宮田の言いつけ通り恭平の事務所にやってきた。いつものように3階に上がり、ドアの横のインターホンを押す。いつもならすぐに恭平の応答があり、ドアの鍵が開けられるのだが、この日は何度鳴らしても応答がなかった。
「早速留守なの……?」
宮田から鍵は預かったものの、本当に勝手に入っていいものかと頼子はしばらく思案した。しかしこのままじっとしているわけにもいかず、意を決して鍵を差し込む。
「お邪魔しまぁす……」
そぉっとドアを開け、頼子は無人の室内に入った。しかし入ってすぐに、無人などではない事に気がついた。
「なっ、なんだ本庄さん……いたんだ」
頼子は部屋の中央に据えられた大きなソファで横になっている恭平の姿を見て、驚きの声を上げた。
恭平は上着を脱ぎ捨てた格好で小さく寝息を立てていた。このままでは風邪をひいてしまうかもしれないと頼子は思ったが、この不思議な状況に気が引けてしまい、起こすべきかどうか迷った。
結局迷った挙句、そのまま寝かせておこうと判断して、何か上に掛ける毛布でも無いかと事務所内を捜索しようとした時――
「ヨウコ……」
「えっ? あ、はい」
頼子は不意に名前を呼ばれた気がして、反射的に返事をした。しかし振り返ってみると、恭平はさっきまでと何も変わらず、ソファの上で眠ったままだ。寝言だったのかと頼子は溜息をついたが、その言葉が妙に頭から離れなくなった。
(ヨウコ……? 女の人の名前?)
何故か頼子の鼓動が速くなった。ソファで眠る恭平のすぐ手前のテーブルには、先程頼子が置いた茶封筒がある。頼子は早鐘のようになった心臓に急き立てられるように、震える手をその封筒に伸ばした。
勝手に見てはいけないことは分かっているのだが、もうこれ以上この衝動を抑えることが出来ない。恭平が変わらず寝息を立てているのをちらりと確認してから、ついに頼子は封筒の玉紐を解き、中の資料を取り出した。
「赤い子供殺人事件……?」
資料に描かれていた表題を読んで、頼子は首を傾げた。どこかで聞いた事のあるような名前だが、頼子にはピンと来なかった。しかし何故か心臓の鼓動はさらに激しくなる。
「まさか、本庄さん……」
ある種の確信にも似た思いが頼子の心を支配した。がたがたと震える手で資料を封筒に戻し、頼子は逃げるように恭平の事務所を後にした――
「赤い子供殺人事件……これだ」
警視庁に戻ってきた頼子は、データベースから資料にあった事件を調べた。事件はすぐに見つかった。当時はかなり世間を騒がせた事件らしく、その頃の新聞の記事も残されていた。
赤い子供殺人事件――
今からちょうど10年前に発生した、連続通り魔殺人事件。若い女性ばかりが9人も犠牲になり、犯人は未だに捕まっていない。犯人は犯行の度にマスコミ各社に犯行声明文を送り付けており、その中で自分自身を“赤い子供”と呼称したことからこの名が付けられている。
その犯行手口は様々で、刺殺・絞殺・撲殺と多岐に亘った。唯一共通しているのは、犯人は必ず現場にある特定のマークを描いているという事。しかもそれは被害者の血液を用いて描かれていたので、センセーショナルな猟奇殺人事件として当時は随分とマスコミを騒がせた。
しかし世間を恐怖に陥れたこの連続殺人は、9件目の殺人を最後にぱたりと止んだ。犯人の死亡説、海外逃亡説など、様々な憶測がメディアを賑わせたが、真相は未だに謎のままだった。
「ヨウコ……ヨウコ……あっ!」
頼子は縋るような思いでヨウコという名前を検索した。自分の考えが間違っていることを期待したが、そんな時に限って嫌な予感というのは当たるものだ。
「斎藤陽子、27歳。7人目の被害者……」
やはりヨウコとはこの事件の被害者の名前だった。しかし概要には頼子の予想をはるかに上回る衝撃的な事実が載っていた。
「お腹の中に子供……っ!?」
頼子は思わず口を押さえた。殺害された斎藤陽子は妊娠3カ月だったのだ。
「そうだ。赤い子供に殺された斎藤陽子の腹の中には、本庄との子供がいた。本庄は恋人だけじゃなく、自分の子供をも殺されたんだ」
驚愕の事実に蒼ざめた頼子に、宮田が背後から声を掛けた。弾かれたように頼子が振り向くと、宮田は沈痛な面持ちで眼を伏せていた。
「あれほど見るなと言ったのに」
そう言って溜息をついた宮田だったが、遅かれ早かれこうなることは分かっていた。
「係長……本庄さんはもしかして……もしかして……」
そこから先は言葉にならなかった。恭平が警察に協力しているのは、恋人と子供を殺した犯人に復讐する為だったのだ。その復讐が警察による逮捕ならいいが、もしそうでないなら――いや、間違いなく恭平は直接自分で裁きを下す事を望んでいるはずだ。それが頼子には堪らなく悲しかった。
「そういうことだ。俺はあいつに警察の捜査に協力する見返りとして、今も続いているこの事件の捜査資料を渡している。といっても、最後の犯行から10年が経っているから大した情報は無いがな」
むしろそんな情報すらも要求する恭平に、恐ろしいまでの執念を感じる。恐らくこの犯人を追いつめる為なら、恭平はどんなことでもするのだろう。
「係長はこれでいいんですか!? こんな、復讐を手助けするような事……っ!」
もし本当に宮田が恭平の復讐を黙認するつもりなら、警察官として絶対に許されないことだ。
「俺だってこのままでいいとは思っていない。しかしあいつの傷は俺にはどうする事も出来ない。こればっかりは本人の問題だからな」
諦めにも似た弱気な発言の後、宮田は頼子の肩に手を置いた。
「俺には無理だったが、お前ならなんとか出来るかもな」
それこそが頼子を自分の後釜に選んだ本当の理由だった。
「え……なんで私が……?」
「さあな、長年の刑事の勘ってやつだ」
困惑する頼子に、宮田は僅かに微笑を浮かべて言った。宮田にも確証があるわけではない。それでも、頼子なら何とか出来るのではないかという漠然とした予感があった。
「でも……私、これからどんな顔して本庄さんに会えば……」
頼子の声は震えていた。恭平の抱える闇に触れ、心が折れてしまったようだ。
「どんな顔も何もないだろう。お前はお前のままでいいんだよ。どうせあいつに小手先の誤魔化しや説得なんか通じない。余計なことは考えず、これからも今回と同じように2人で事件の捜査に当たってくれ」
そのままの頼子でいてくれればいいと、宮田は言った。しかし頼子はすぐには気持ちを切り替えられなかった。
「まぁ、無理にとは言わんがな。どうしても出来ないって言うのなら、別の人間を探すさ」
俯いたまま黙り込んでしまった頼子に深く溜息をついて、宮田はその場を立ち去ろうとした。
「ま、待って下さい!」
その背中に頼子の声が届く。
「私……やります。こんなの……このままじゃ哀し過ぎます」
その声は震えていたが、涙に濡れた眼差しだけは力強かった。それを見た宮田は、きっと大丈夫だと理由もなく確信を持った――
大谷史夫の事件が大々的に取り上げられるも、すぐに有名女子大の理事長が学生達に売春の斡旋を行ったとして逮捕された事件の報道に取って代わられ、それすらもワイドショーから姿を消した頃、また大きな殺人事件が起きた。
「――というわけです、恭平さん」
恭平の事務所を訪れ、事件の概要を説明する頼子の言葉に、恭平は心境の変化を感じた。
「どうしたんだい頼子君? いきなり名前で呼んだりして」
それまで“本庄さん”と呼んでいた頼子が、急に“恭平さん”と呼ぶようになり、恭平は不思議そうに首を傾げた。
「いいじゃないですか、別に。そっちだっていつも名前で呼んでるでしょ。それって何だか不公平じゃありません?」
頼子にはもう迷いはなかった。正直、恭平の抱える闇の深さは今の頼子にはどうする事も出来そうになかったが、それでも頼子は決して逃げないと心に決めたのだ。いつか正面からその闇と向き合える日が来ると信じて――
「ほら、早く行きますよ恭平さん!」
「行くってどこへだい? 僕は単なるコンサルタントで、事件の捜査自体は君達が――」
「そんなの、私が許しません!」
ぴしゃりと一喝して、頼子は恭平を強引に立ち上がらせた。
「やれやれ、分かったよ。それじゃ行きますか。ああそうだ。今度、君の大好きなアイドルのコンサートでも観に行こうよ。君がどんな顔してアイドルの応援するのか見てみたいし」
「……次そのことに触れたら、殴りますからね」
ニヤニヤと笑う恭平を一睨みして、頼子が事務所のドアを開ける。この日から、赤い子供との長い戦いが始まることになるのだが、この時の頼子は知る由も無かった――
≪了≫
ここまでお付き合い下さり、ありがとうございましたm(__)m
なんか続きそうな感じでの完結となりましたが、できればシリーズ化していきたいと思っております。