第11話
「あの、ちょっといいですか?」
恭平と別れた頼子は、解体作業中のビルの前でパーカーのフードを目深に被った若い男に声をかけられた。
「すいません、警察の人ですよね?」
一瞬ナンパかと思って身構えたが、男は頼子を刑事だと分かって声を掛けたようだ。それでつい安心してしまった頼子だったが、本来ならそちらの方こそ警戒しなければならないことだった。
「動くな」
男が不自然なほど体を接近させてきたので、さすがに不審に思った頼子が離れようとした瞬間、男が低く凄んだ声を出し、周りからは見えないように身体で隠しながら拳銃を頼子の腰に突き付けた。生まれて初めての経験に、頼子はさぁっと血の気が引いていくのを感じた――
「あれ、何してんの?」
そのまま工事作業の行われていない無人の廃ビルに連れ込まれそうになった時、2人に声をかけた男がいた。恭平だ。
「おおっとぉ、何やら取り込み中みたいだね。何だか邪魔者みたいだから、僕は消えるね」
そう言って踵を返そうとした恭平に、男は慌てて銃口を向け、「動くな」と叫んだ。今度ははっきりと周りからも見えるように拳銃を向けたため、辺りは俄かに騒然となった。
「くっ……! てめぇも来い!」
がっしりと頼子の腕を掴んだまま、男は頼子と恭平に交互に銃口を向け、廃ビルの中に入るよう命じた。ここで男の腕を取って組伏せることも出来たかもしれないが、万が一拳銃が暴発して周囲の人間に当たってしまってはならないと思い、頼子は黙って男の命令に従った。その後を追いかけるように、恭平も小走りで頼子の傍までやってきた。
「なんで来ちゃったんですか!? 狙われたのは私なんだから、わざわざ捕まりに来なくてもよかったのに……っ」
囁くように恭平に文句を言う頼子の顔は、自分の命の危険と、民間人である恭平を巻き込んでしまった後悔とで蒼ざめていた。しかし、恭平が一緒にいてくれるという妙な安心かも僅かながら感じていた。
「いやぁ、ちょっと気になったからついて来ただけなんだけど、まさかこんなことになるなんてねぇ」
同じように囁く恭平の方は、それほど怯えている様子は無い。顔色は至って平常通りだし、身体も震えてはいなかった。頼子にはそれが信じられなかった。
「ゴチャゴチャうるせぇぞ! 黙ってろ!」
男は相当気が立っているようだ。頼子の腕を掴む手に一層力が入り、頼子は痛みで顔を引きつらせた。
「ちょっと君、レディに乱暴はいけないよ。僕達は抵抗したりしないから、彼女を放してやってくれ」
「黙ってろって言ったのが聞こえなかったのかよ! ぶっ殺されてぇのか!」
恭平の言葉に、男はますます激昂して拳銃を恭平に向けた。今にも引き金を引きそうな状態にも拘らず、不思議と恭平は落ち着いていた。
「分かった分かった。もう何も言わないからそんな物騒なもの向けないでくれよ」
一応怖がっているようにも見えるが、どこか余裕も感じる。そんな態度の恭平に、男は苛立ちを募らせていった。
「おい、手錠を出せ」
廃ビルの一階フロアの真ん中あたりに来たところで、男は頼子を恭平に向けて突き飛ばすように放した。
「え?」
「手錠だよっ! そいつでてめぇとそっちの男を柱に繋ぐんだ!」
男は拳銃を振り回しながら叫んだ。頼子は言われた通りに手錠を取り出し、片方をまず自分の左手に、そして一度むき出しになった柱の鉄筋に通してから恭平の右手にもう片一方の輪を嵌めた。その時、何か違和感を覚えて頼子は恭平の顔を見たが、恭平が小さくウィンクして「黙ってて」という合図を送る。
「あ、あなたの目的は何なの? どうして私を狙ったの?」
頼子は出来るだけ男を刺激しないように、その目的を尋ねた。フードに隠れているため顔がよく確認出来ず、この男が誰なのか未だに分からない。
「翔子を殺した犯人、捕まったんだってなぁ」
そう言って男は目深に被っていたフードを脱いだ。顕わになったその顔に、頼子は眼を瞠って息を呑んだ。
「堀……健次郎」
金色の短髪を逆さに立て、いかにもロックミュージシャンといった風貌の男は、大谷史夫に最初に殺された最初の被害者、加藤翔子の恋人だった。彼女が殺害された当初、警察はこの堀健次郎を第一容疑者として連行し、第二、第三の事件が起きてから釈放した。頼子は直接この堀健次郎の取り調べにも関わっておらず、顔は知っていたが面識はなかった。
「犯人扱いされた事を恨んでるの? 確かにあなたには申し訳ないことをしたわ。でも――」
「そんなことじゃねぇ!」
堀健次郎を犯人だと決めつけて連行したのは大森警察署の刑事だ。頼子が恨まれる筋合いはない。しかし堀の目的は全く別のものだった。
「翔子を殺した犯人をよぉ、俺の手でぶっ殺してやりてぇんだよ。そうしねぇと気が済まねぇんだよぉ!」
堀は心の平衡を失っているように見えた。あるのはただ、恋人を殺された激しい怒りだけだ。焦点の定まらない眼球があらぬ方向を向き、怒りに震える右手に握られた拳銃からはいつ弾丸が飛び出すか分からない。
「つまりは復讐ってわけかい? そんなことしなくても大谷史夫は死刑になるよ、きっと」
「俺の手でぶっ殺すんだよぉ!」
恭平が冷静に説得を試みるも、堀はますますヒステリックになっていった。今にも暴発してしまいそうな堀の様子に、頼子は蒼ざめた顔でただ震えている。
「ふぅん。それで、頼子君を人質にとってどうしようっていうんだい? 大谷史夫が憎いなら、直接本人にその拳銃をぶっ放せばいいだけじゃないか」
頼子とは対照的に、恭平は妙に落ち着き払っていた。一つ間違えば命を失うかもしれない状況で顔色一つ変えない恭平が、頼子には全く理解出来なかった。
「だからよぉ、そいつをここに連れて来るんだよ! この女はそのための人質だ」
怒りに我を忘れているとはいえ、その拳銃を持って警視庁に乗り込むほど自暴自棄になっているわけではないようだ。しかし、愚かな行動であることには違いない。
「そんなこと、本当に出来ると思っているのかい? たとえ刑事を人質に取ったって、警察は決して取引には応じないよ」
恭平は呆れたように鼻で笑って、堀の愚行を窘めた。
「うるせぇ!」
ガァンと、耳を劈くような大音響が崩れかけた鉄筋コンクリートのフロアに響き、頼子がその音に小さく悲鳴を上げた。堀が拳銃を天井に向かって1発発射したのだ。間違いなく本物の銃だ。もしかしたら堀の持っている拳銃は偽物で、恭平はそれに気付いたからこそこんなに落ち着いていられるのではないかと思っていた頼子の考えは、あっさりと否定されてしまった。
「だったら、そこら辺のガキでも追加するか!? そうすりゃサツも考えるだろ!」
恭平の挑発まがいの言動で、事態は最悪の方向へと向かいそうになっていた。堀の言うような状況だけは絶対に避けなければならないが、今の頼子にはどうする事も出来ない。
「あぁ、それには及ばないよ。僕は警察じゃなくて民間人だからね」
本当に堀が新たに人質を連れてくるとは思えなかったが、一応その可能性を排除する為、恭平は自分の身分を明かした。刑事ではなく民間の一般人が人質なら、警察も少しは考えてくれるのではないかと暗に匂わせたのだ。
「あぁ? てめぇ、サツじゃねぇのか」
刑事ではないと知った途端、堀の恭平に対する警戒感が一気に薄れたような気がした。
「僕が刑事に見えるかい? 自慢じゃないけど、喧嘩は物凄く弱いよ?」
「じゃあ、一体何モンだ?」
恭平の誘導により、警戒感の薄れた堀は本来気にする必要のない事に関心を向けられていた。狙い通りに堀の意識を操ったことに、恭平はにやりと笑みを浮かべた。
「そうだなぁ。まぁ、一言で言うと霊能力者かな」
「霊能力者ぁ!? ふざけてんのかテメェ!」
堀は再び激昂して恭平のすぐ目の前まで詰め寄り、その鼻先に触れるくらい至近距離に銃口を突き付けた。
「わわっ、ちょっと落ち着いてくれよ。嘘じゃないって。僕には死者の声が聞こえるんだ。本当だよ」
目の前に銃口を突き付けられ、初めて恭平は怯えた表情を見せた。しかし、もはや頼子にはそれが演技にしか見えない。堀が恭平のペースに呑まれているのを見て、先程までの恐怖が幾分かは和らいだ気がした。
「何が死者の声だ! だったら翔子の声を聞かせてみろよ! 出来なけりゃ今すぐぶっ殺してやる!」
これも恭平の狙った通りの流れなのであろうが、頼子はまた不安になってきた。本当に死者の声なんて聞けるはずがない。
以前、恭平が聖光女子大キャンパスで見せた同様のパフォーマンスは、後日タネ明かしをしてもらった。最初に祖母の死を言い当てた学生は、胸に年代物のブローチをしていた。大学生が付けるには少々古臭いデザインではあるが高級品だ。服の合わせ方から見て、最近付け始めたのだと予想したという。母親の形見というよりは祖母の形見と考えた方が自然だから、最近になって祖母が亡くなったのだろうと判断した。そしてそんな形見を大学にまで付けてくるということは、それだけ祖母を慕っていたということだろう。そこまで瞬時に見抜く洞察力は確かに人間離れしていたが、決して超能力の類ではなかった。
その後で恋愛の悩みを抱えていると看破した学生の方はもっと単純だった。およそ悩みのない人間というのは存在しない。「何か悩んでいるね?」と問いかければ、当然相手はその悩みを頭に思い浮かべる。その表情で、恭平はだいたいその悩みの種類を割り出すことが出来るという。それ自体は驚くべき能力だが、その後のアドバイスは口からデタラメもいいところだ。相手が喜びそうな、元気付けられそうなことをもっともらしく言っているだけで、それだけで相手は満足するのだという。
よって恭平の「死者の声を聞く」というのは全くのインチキなのである。今の堀は女子大生のように簡単に騙されてはくれないだろう。もしインチキがばれたら、本当に命が危ないと頼子は思った。
「……ごめん」
「あぁ?」
恭平の第一声はいきなり謝罪だった。堀の表情が険しくなる。頼子は恭平が殺されると本気で思った。
「『ごめん』って言ってる。彼女は君にずっと謝ってる」
恭平は加藤翔子の霊が堀に謝っているのだと言った。予想外の言葉だったのか、堀に戸惑いの色が浮かんだ。
「ごめんって何だよ……!? いい加減な事言うな!」
「え、何? ああ、うん――彼女は去年のクリスマスって言ってるよ」
目の前の堀を完全に無視して恭平は眼を閉じ、いかにも見えない何かと会話をしているような雰囲気で言葉を続けた。
「クリスマス……」
その単語に心当たりがあったのか、堀の声は暗く沈み、それまでのギラギラした殺気は息を潜めた。
「去年のクリスマス。一緒に過ごす約束をしたのに、君は現れなかったんだね? それで大喧嘩した」
「あ、あの日は……急にキャンセルになった別のバンドの代わりにオーディションに参加することになって……翔子には悪いと思ったけど、こんなチャンス滅多にあるもんじゃなくて……でも、結局受からなくて……そんなこと、情けなくて言えなくて……」
堀は震える声でその日の出来事を話し始めた。よほどその事に悔いがあったのだろう。今にも泣き出しそうな表情を浮かべている。
「彼女は知ってるよ。あの時正直に言ってくれれば、喧嘩なんかしなかったのにと言ってる」
「そんな馬鹿な……! 翔子が知ってるはずがない! 結局俺は本当の事は言わなかったんだ」
「霊になるとね、生きている間には見えなかったものが見えるようになるのさ。それで彼女は本当の事を知った。だから『ごめん』って謝ってる。気付いてやれなかった事を申し訳ないと思っているようだね」
もちろんそれは嘘だ。加藤翔子は写真が好きなようで、以前訪れた部屋の中には所狭しと写真が飾られていた。そのほとんどが堀とのツーショット写真であったが、その中に去年のクリスマスに撮影したであろう写真が1枚も無いことに気付いていたのだ。恋人同士がクリスマスに会わなかったのだから、何かあったに違いない。そしてクリスマスという単語を出した時の堀の反応を見て、その理由が堀側にあるのだと推量した。当然喧嘩にもなっただろう。その後の話は堀が勝手に喋っただけで、恭平はそれに乗っかっただけに過ぎない。
「違う……っ! 俺が悪いんだ! 何もかも……あの時だって――」
「彼女は君を『赦す』と言っている。そして『愛している』と」
これが恭平の常套手段だ。死者に対して後悔を抱えている人間にはその如何を問わず『赦し』を与え、愛している人間には同じく『愛』を与える。それが死者の言葉だと言えば、いとも容易く人は靡いてしまう。心の弱った人間は、自分にとって都合のいいものを信じようとするものだ。それを上手く利用してやれば、人は誰でも“霊能力者”になれると恭平は思っていた。
「うぅ……翔子ぉ……」
堀は泣き崩れた。もう目の前の恭平も頼子も目に入っていない。それを確認した恭平は、頼子に視線で合図するなり、手錠に繋がれた右手を引き抜いた。
「えっ!? なっ……」
突然戒めから解き放たれた恭平を咄嗟に目で追った堀は、逆側から飛びかかった頼子に対応出来なかった。そのまま頼子は堀の右手首を捻り上げ、拳銃を奪った。
「ごめんねぇ。僕の手って着脱式なんだ」
訳も分からぬまま頼子に組伏せられて、混乱の極みにあった堀に、恭平が笑顔で作り物の手首を差し出した。以前、頼子を驚かせるために仕込んだのと同様の手品だ。
「てめぇ……っ、騙しやがったのか!?」
何が起きたのかようやく理解した堀は、怒りに任せ頼子を振り払おうとした。しかし女とはいえ現職の捜査一課の刑事である頼子に完全に抑え込まれてしまった後では虚しい抵抗でしかない。
「君だって、本当に復讐するつもりなんてなかったでしょ?」
うつ伏せに突っ伏す堀の前にしゃがみ込んで、恭平が堀の本音を暴露した。その言葉に堀だけでなく頼子も衝撃を受けた。
「えっ、本気じゃないって……どういうことですか?」
堀を押さえこんだまま、頼子が顔を上げた。ちょうど恭平と目線が同じ高さになる。
「彼は僕らを人質にしても大谷史夫に復讐なんて出来やしないことを、実は分かっていたのさ」
堀はぎりぎりと歯を食いしばり険しい表情で恭平を睨むが、否定の言葉は出なかった。
「そんな……じゃあ、一体何のためにこんな事……?」
確かに普通に考えれば、こんな事をしても無駄なのは分かりそうなものだ。しかしそれなら、最初からこんな暴挙には出るまい。
「“怒り”をアピールするためさ。俺は恋人を殺されて怒り狂っているんだ、とね」
「アピール? 一体誰にですか?」
「“自分自身”に、かな」
恭平の言葉に、頼子はますます訳が分からなくなった。自分自身にアピールするとは一体どういうことなのだろうか。
「彼はこういう事件を起こすことで、自分は加藤翔子を本気で愛していたんだと言い聞かせていたんだ。自己暗示の一種だね」
別に加藤翔子の事を愛していなかったわけではないだろう。しかしそれを証明することはもう出来ない。彼女を殺されたのに何もしない自分は、本当は彼女の事を愛していないのではないのか。このまま彼女のいない人生を一人のうのうと送るのは、彼女に対する裏切りではないのか。そういう歪んだ想いが次から次へと湧いて出て、何かをしなければならないという強迫観念に駆られた。
生前、加藤翔子に対する後ろめたい気持ちがあったのだろう。実際に行動を起こすことで、堀は本当に彼女を愛していたのだと自分自身に言い訳したかったのだ。
「そんな事で……拳銃まで用意してこんな大それた事をしたっていうんですか?」
頼子は信じられないと言った表情で堀を見下ろした。大谷史夫にも感じたことだが、動機と実際に起こした事件の規模が釣り合わないという思いはむしろこちらの方が強いかもしれない。
「自分で自分を追い込むタイプの人間っていうのはね、最初はほんの些細な闇でも、ゲレンデを転がり落ちる雪玉のように際限なく膨らみ続けていくものさ」
恭平は立ち上り、哀れみとも侮蔑ともつなかない眼差しで堀を見下ろした――_
≪続く≫