第10話
そして、運命の火曜日はすぐにやってきた。
場所は大田区内のとある公園の中。ここは駅からこの先のマンションに向かう近道になっている。時刻は夜の10時を回ったところだ。この時間になると人の姿はほとんどない。しかし街灯はしっかりと設置してあり、それなりに明るかった。
その公園内で1人、時計を気にしながら立ち尽くす男がいた。そろそろここを通るであろうターゲットの姿が見えるのを今か今かと待ち侘びている。
響孝介が逮捕されたのは予想より早かったとはいえ、まずまず計画通りと言えなくもなかった。物的証拠を仕込む暇はなかったが、状況証拠だけでも充分立件出来ると踏んでいたからだ。しかし警察はあろうことか奴を釈放してしまった。一体何を考えているのか、その時は男も首を傾げたものだ。
しかし、それならそれでいい。その時のためにこの凶器を取っておいたのだから。先程響孝介の自宅の前を見てきたが、警察が張り込んでいる様子はなかった。無能な警察のおかげで、こうして今日殺人事件が起きても、前の3件と同様、奴のアリバイを証明するものは誰もいない。今度は現場に奴の所持品の1つでも置いておけばいいだろう。凶器はそこらの川にでも捨てた方が、逆にリアリティがある。これで今度こそ奴が連続通り魔殺人事件の犯人だ。
男がビジネス鞄に仕込んだ刃渡り20センチ程もある刺身包丁の柄をしっかりと握って確認した時、遠く前方から人影が近づいてくるのが見えた。
来た、と男は思った。すかさず携帯電話を取り出し、いかにも仕事でトラブルがあったかのような会話を1人で演じながら、相手に気取られないように視線を逸らしつつ正面から近付いていった。
思った通り、人影の主はターゲットの女だ。俯き加減で歩いているのではっきりとは分からなかったが、この時間にこの場所を1人で歩いているのだから、そうに違いない。たとえ別人でも構いはしなかった。若い女であれば誰でもいいのだ。
2人の距離がどんどん近付いていき、ついに2つの影が重なった。次の瞬間、男はビジネス鞄から凶器を取り出し、女の背中を一突きにする――はずだった。
「なっ……!?」
完全にすれ違う前に、女の手が男の右手首をがっしりと掴んだ。何が起きたのか理解出来ない男が狼狽した表情で女の顔を見ると、相手は狙っていた女とはまるで別人だった。
「まさか……あなたが犯人だったなんて……っ!」
男の手をぎりぎりと握り締めた女――頼子は怒りに震える声で男の名を呼んだ。
「大谷史夫……殺人未遂の現行犯、並びに3件の殺人の容疑で逮捕します」
大谷雅代の夫、大谷史夫は、そこで初めて目の前の女が刑事だと気が付いた。それと同時に夥しい数のサーチライトがその場を照らし、大谷はまぶしさのあまり残った左手で眼を覆った。
次の瞬間、右腕が強く横に引かれたかと思うと、一瞬大谷の身体は宙を舞い、そして背中から地面に思い切り叩きつけられた。放りだされたビジネス鞄からは、凶器の刺身包丁がこぼれ、サーチライトを反射してきらりと光った。
「あなたは……絶対に許せません!」
背中から地面に落下して悶絶する大谷に、頼子は手錠を掛けた。
「ようし、そこまでだ鏑木。それ以上やったら、そいつ死んじまうぞ」
このまま首でも締めてやりたい衝動を必死で堪える頼子の肩を、宮田がそっと掴んだ。本来なら抵抗の意思のない容疑者を投げ飛ばしたこと自体問題だが、そこは見過ごすことにする。
「なんで……どうして分かった!?」
他の捜査員達に引き起こされた大谷は、今でも信じられないという表情で誰に言うでもなく叫んだ。
「お前が響メンタルクリニックのクライエントからターゲットを選定していたのは分かっていた。そしてお前の考えた条件に合致する女はあと1人だけだったこともな」
宮田は半狂乱の大谷に冷たい視線を投げ付けながら言った。この男は、3件目の殺人まではほぼ完璧な計算で進めていった。しかし完璧過ぎる計画が仇となったのだ。そもそも火曜の夜10時前後に1人で人気のない所を通る若い女性が、そんなに大勢いるはずがない。響メンタルクリニックのクライエントの中からターゲットを選んでいると分かってしまえば、次に犯人が誰を狙うのかを予測するのは容易いことだった。
「響孝介が釈放されてもお前が動かなければ俺達の負けだった。最後の最後でドジ踏んだもんだな」
宮田は一か八かの賭けに勝ったようなものだと思ったが、この作戦を立案した恭平はそうは考えていなかったようだ。完璧な計画のもとに淡々と仕事をこなす人間は、必ず最後までその計画通りに事を運ぼうとする。それが綿密な計画であればある程、ほんの些細な綻びが全体の崩壊を招くことを、この手の人間は知らないのだ。
「なんで……なんで響に目を付けた? 俺の計画じゃ、警察はまだ奴と事件を結び付けられはしなかったはずなのに……っ!」
自分が失敗した原因は、最後のミスではなくそこにあるのだと言うように、大谷は宮田に尋ねた。それに対し宮田は何も言わなかった――
「事件解決、おめでとう」
それから数日後、報告に来た頼子を恭平は半ば強引にランチに誘った。恭平の事務所の近くにある高級レストランで、恭平は事件解決を祝った。
「あの……その、えっと……ほ、本庄さんのおかげです……ありがとうございました……」
最後の方はもうほとんど聞こえないほど小さな声で、頼子は恭平に礼を言った。物凄く悔しい気持ちもあるのだが、恭平のおかげで事件が解決出来たのは紛れもない事実だ。
「どういたしまして。君も警察を辞めずに済んだね」
「そうですよ。危うくクビになるところだったんですから」
恭平に勧められたワインを頑なに拒んで、頼子は運ばれてきた前菜に手を付けた。
「別にそれでもいいじゃないか。僕がちゃんと面倒見てあげるよ」
恭平は笑いながら、1人でワインのグラスを口に運んだ。また頼子の顔が赤くなっているのが見なくても分かる。
「と、とにかく……大谷史夫も3件全ての犯行を認めました。これで本当に事件は解決なんですよね?」
現行犯で逮捕されている上に、凶器まで押収されてしまってはどうしようもないと観念したのか、その後の大谷は素直に取り調べに応じていた。
妻の大谷雅代を殺そうと思ったきっかけは、本当に些細なことだった。何事にも杓子定規通りにしないと気が済まない潔癖症の史夫との生活は雅代には息苦しく、次第にストレスが積み重なっていった。そして響メンタルクリニックでカウンセリングを受けるようになったのだが、響孝介と史夫とは学生時代からの友人だったそうだ。響は史夫に妻と2人でカウンセリングを受けるよう提案した。心理療法士の響から見れば、本当に治療が必要なのは雅代ではなく史夫の方だったのだ。史夫にはそれが許せなかったらしい。
「そんなことで無関係な人間2人と妻を殺し、友人にその罪をなすりつけようとしたのかい? 確かにそれは病気以外の何ものでもないね」
「まったくです。それで、大谷史夫はカウンセリングを受ける振りをして病院からクライエントのデータを盗み、犯行に利用したというわけです」
リストにあったクライエントの内、条件に合致したのは3人。本命の雅代と合わせて4人を殺すつもりで、それ以上は必要なかったから、現場に残すメッセージは4種類の絵柄のトランプでよかったのだ。
「係長の話ですと、大谷史夫はしきりに響孝介に目を付けた経緯を知りたがっていたらしいですよ。最初に係長に病院の事を訊かれた時、予想外の事に驚いてつい正直に答えてしまったって悔んでいました」
元々響孝介に罪を擦り付けるつもりだったから、宮田に訊かれた時、大谷は響メンタルクリニックに妻が通っているということを供述してしまったのだろう。何事も計画通りに進めようとする人間は、突発的な出来事に対してアドリブが利かないものだ。
「捜査本部内じゃ、それは宮田警部と君の手柄ってことになってるらしいね。この調子で僕と組んでいれば、その内君も出世出来るよ」
「その前にクビになってる可能性の方が高い気もしますけど……」
確かに今回のような無茶を毎回続けられたのでは、その煽りを受ける頼子は堪ったものじゃない。しかし今回の事件を通じて、なぜ宮田が簡単に自分の首を賭けるほど恭平を信頼しているのか、少しは分かったような気がした。
「あの……ごちそうさまでした。でも、今度からはこういうのは無しにして下さいね」
食事が終わり、2人は店を出た。頼子には場違いなほど高級なレストランに無理やり連れていった恭平は、当然会計も2人分払ったのだが、頼子はそれがあまり居心地のいいものではなかったようだ。
「ハハハ、了解。次からは定食屋にでもするよ。ところで、頼子君。君、ここに来るまでに尾行されたりしなかった?」
「えっ? そんな、一体誰が尾行なんて……」
唐突な恭平の言葉に、頼子は反射的に周囲を見回した。特に怪しい人物の姿は無い。
「気のせいじゃないんですか? 別に誰も尾行けてきてませんよ」
「そう、それならいいんだけど」
恭平にも別に確信があってのことではなかった。頼子が否定したので、それ以上は何も言わずに素直に引き下がる。
「それじゃ、また今度」
「ああ、身体には気を付けてね」
軽く握手を交わし、2人は別れた。恭平は自分の事務所の方へ2、3歩歩いたところで足を止め、反対方向へと歩いていく頼子の後ろ姿をじっと見守った。
≪続く≫