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ネナベが往くっ!  作者: 雪野メノウ
第1幕 銀のイーワン
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【000】「キミ、大丈夫?」

 背後から聞こえる獣の唸り声がより一層、近づいた気がした。

 走り慣れた道をすでに大きく外れてしまい、自分が今どこにいるのか分からなくなってからもう既にかなり経つ。

 少女がいかに野山で鍛えた健脚(けんきゃく)であり、村一番の――といっても子供たちの中で――脚力を持っているとしてもすでに体力は限界に近い。

 心臓は早鐘(はやがね)のように脈打ち、喉は焼け付いたように熱い。


 それでもなお。

 少女が足を止めないのは――否。

 足を止められないのは、恐怖が身体を支配していたからだった。


 少女を追うのは1頭の<森林狼(しんりんろう)>。


 この近隣ではまず見ることのない『魔物(モンスター)』の一種だ。

 深い森に生息し、5頭から10頭ほどの群れを作る比較的、よく見られるモンスターである。

 その黒く、わずかに緑を帯びた毛は草むらに身を潜め、獲物を狩る為の迷彩として役立つ。

 本来は人里からある程度、離れた森林などに生息するモンスターだが、群れからはぐれたのかこの森林狼は1頭だけで人里近くの森にまで下りて来ていたのだろう。


 森林狼は本来、臆病なモンスターだ。

 自分より大きな獲物には必ず倍か、それ以上の群れで狩りを行い、不利と見ればすぐに退く。故に本来なら人間をはぐれた1頭の森林狼が襲う事はほぼあり得ない。

 本来ならば。


 1つ目は、森に(まき)を拾いに来ていた村娘の少女――ビビがまだ10歳の誕生日を迎えたばかりの少女であること。


 2つ目は、森林狼が群れを作らずの狩り、そして縄張りの外の慣れぬ森で狩りが上手くできず、腹を空かせていたこと。


 3つ目は、ビビが人里近くの、幼少の頃から通い慣れた森にモンスターがいるとは夢にも思わず、茂みに隠れて息を潜める森林狼に飛び掛かられる寸前まで気付かなかったこと。


 この3つの偶然が重なったことが、ビビにとって最大の不運だった。

 よりによって。

 ビビがそう思うのも無理はないが、ビビはいくつかの点において幸運でもあった。

 それは襲われる寸前で、嗅いだことのない獣臭さがビビに立ち止まる機会を与え、結果として森林狼の奇襲を(かわ)すことが出来たこと。

 二つ目はビビが薪拾いに来た『行き』であったこと。これが『帰り』であったなら、背の籠には薪代わりの枯れ枝が詰められており、逃げることさえままならなかっただろう。


 そして森林狼が空腹であったこと。ビビが襲われるきっかけには違いないが、飢えた時間は確実に森林狼の体力を削り、その脚力は大きく衰えていた。

 その結果としてビビは今に至るまで、その命を保つことに成功していた。どれか1つ

 でも欠けていたならば、ビビは森林狼の空腹を満たす餌として屍を晒すことになっていただろう。


 結果としてビビは森林狼の奇襲から辛くも逃れ、悲鳴を上げて逃げ出した。

 森林狼は飢えをしのぐ為、そして『モンスター』の本能として人を殺すためにビビを追いかける。

 ビビの決死の追いかけっこは、すでに限界に来ていた。


「たすけて……! だれか、たすけて……!」


 いくら飢え衰えてもモンスターと幼い村娘では体力の桁がそもそも違う。

 これまで逃げ切れていたこと、それそのものが奇跡と言っていいのだから。


 息を切らせ、足元がおろそかになったビビがねじれた木の根に足を(つまづ)かせ、転んでしまったのは不運ではない。コインを投げ続ければ、いつか裏が出るような当たり前の必然だった。

 立ち上がることも叶わず、わずかに泥から顔を上げたビビは視線を慌てて後ろに向ける。


「ヒッ――!」


 叫びの成りそこないは恐怖で引きつった喉で止まり、悲鳴にすらならず。

 振り向いたビビの視界。

 そこには自分を食い殺そうとする――明確な死が、顎を広げ迫る。


――その死を砕いたのは一条の銀閃(ぎんせん)だった。


「……え?」


 死を覚悟した少女の視界に最初に写ったのは黒い外套(コート)

 外套の裾から見えた足は白銀の脚甲(きゃっこう)に包まれている。

 村から出たことのないビビにはそれがどれほどの値打ちがつくかは見当もつかなかったが、それでも今までに見たことの無いような輝きは一目でその価値を理解させた。

 どうやら先程の銀閃はこの脚甲から繰り出された蹴りであるらしい、ということをビビは遅れて理解する。

 困惑するビビには目の前に差し出されたモノがなんなのか、一瞬理解出来なかった。

 武骨ながらも繊細な白銀の腕甲(わんこう)。広げられた手の平。


「キミ、大丈夫?」


 少女と少年のような間のようなそのかすれた声でそう言われて。


 そして、それが自分の身を案じる言葉だと気付いて。

 それからようやく、ビビは自分が助かった事を理解した。


――◆――


 イーワンは初め、とても混乱していた。

 といってもゲーム中のバッドステータスの『混乱』ではない。イーワンに生半可なバッドステータスはそもそも通用しない。

 この混乱は本来の意味である『思考の整理がつかない』という意味で、だ。


 イーワンが立つのは木漏れ日の漏れる森の中。

 小鳥たちのさえずりが耳をくすぐり、草木の香りを乗せたそよ風が頬を撫でる。

 太陽の日差しは熱として確かな感触を感じさせ、空気には特有の重さが感じられた。

 筋肉の強張り。呼吸に合わせて膨らむ肺。血液の流れを感じ、体温が命を否応なしに自覚させる。

 背には愛用の武器の感触があるし、手足には使い慣れた腕甲と脚甲が白銀に煌めいている。

 右手、左手、右足、左足、首。

 五体満足で、意識をすれば指が動く。足が動く。首を回せば視界が動き、景色が代わり、自分の身体が見えた。


 何ら変わりない、いつもの『イーワン』の姿そのままだ。

 けれどそれが、それこそがイーワンを混乱の原因に他ならなかった。

 どこかは分からないが、イーワンとして立っている以上、どこかは分かる――VRMMO『エンシェント(Ancient)ワード(Word)オンライン(Online)』――通称『AWO』。それがイーワンが存在する世界、つまりゲームの世界だった。


 バーチャル(Virtual)リアリティ(Reality)システムが実用化され、三世代以上が経ち、ゲームの主流がこちらに移ってすでに久しい。

 現にライトユーザーの中ではVRのゲーム以外は遊んだことが無い、というユーザーも少なくない。

 そして、イーワンもその1人だ。


 この『エンシェント・ワード・オンライン』に存在する1キャラクター。

 あるプレイヤーのPCが『イーワン』だ。

 これがただのログインであれば、混乱することなど何も無い。

 いつも通り、気の済むまで女の子たちと遊び、ログアウトするだけだ。


――しかし、これは『あり得ない』


 自分がリアル――現実世界における自身のパーソナリティのほとんどを喪失している事に気付いたからだ。

 それでいてこの身体――『イーワン』がゲームのキャラクターだという事はしっかりと理解出来ている。


 なのに自分の名前が思い出せない。


『自分の本名』も『ログインした時の状況』も思い出せない。

 おぼろげながらに思い出せるのは『自室の風景』、『父の顔』――そして。


 そんな事が些細に感じるほどの違和感がある。

 股間に感じる異物感。

 今まで経験のしたことのない感覚に確信に近い、嫌な予感を覚えながら恐る恐る手を伸ばす。


「うわ、本当に『ついて』るよ……」


 思わず呟いた少年と少女のようなかすれた声が自分の声と一致しない。

『私の声』はこんなハスキーボイスではないし、もっと『高い』


 もうひとつ、覚えている事は自分が『本来、女性である』ということだ。

 イーワンの性別は『男性』だ。

 しかし自分は『女性』である。


 つまり。


「ネナベなんかするんじゃなかった……ッ!!」


 自分のものとは思えぬハスキーボイスで後悔の言葉を吐きながら、イーワンはその場に崩れ落ちた。


 ネナベとは――現実世界で女性であるプレイヤーがゲーム中で男性と振舞うプレイヤーを指すスラングである。


――◆――


「というかログアウト、はそりゃできないよね……」


 ひとしきり、男性の象徴と過去の自分へと思いつく限りの罵声を吐き捨て、とりあえず表面上は落ち着いたイーワンがしたことは現状確認であった。

 ステータス画面を含むユーザーインターフェイス、チャットやフレンドリストなどメニュー画面の類は開き方すら分からない。

 ログアウトもその辺りに含まれているので、実質手も足も出ないのが現状だ。

 本来なら簡単なジェスチャー認証で開くはずのモノが機能していない辺り、否応無しにここが『イーワンの現実』(ゲームそのものの世界)ではないと思い知らされる。

 やり方が違うのか、それともそもそも存在しないのか。後者だとお手上げだ。


「でもこれ『泥はね』までするし、やっぱりゲームじゃないよなぁ」


 罵声の最中に足元を蹴りつけ、頬に跳ねた泥を指でぬぐいながらしみじみとそんな愚痴を漏らす。

 VRMMO稼働初期は技術力や単純なコストの問題で如何に仮想(ヴァーチャル)現実(リアリティ)と言えども、土や草などは自動生成の模造品、分かりやすく言えば手抜きが大半だった。

 フィールド扱いでほとんどは最上級の爆炎魔術を使おうが、その辺のボスを一撃で唐竹割りに出来る剣術だろうとステージ上の細枝には傷ひとつ付けられない、なんてことはザラだった。


 けど、それも二世代VRMMOまでの話だ。

 AWOのような三世代では技術革命(ブレイクスルー)が起き、この辺りの問題をまとめて解決し、大半の作業を大幅に効率化することに成功した。

 意識をゲーム内に落とし込み、神経系をキャラクターのそれに置き換える事で従来のゲーム体験とは文字通り次元の違うリアリティを感じることのできる体感型ゲーム――SFの中にしか存在しなかったレベルまで到達し、三世代VR技術は名実共にまさに『仮想現実』の名に恥じないモノへと昇華させたのだ。


 しかし、そんな三世代のVRMMOでも『泥がはねる』なんてことはまずあり得ない。

 それは単純に『つまらない』からだ。

 濡れた地面を走る度に泥が跳ねていたのでは、鬱陶しくてしょうがない。

 如何にリアルな仮想現実になったとしてもVRMMOは『ゲーム』であり、娯楽だ。

 過剰なリアリティを望むユーザーはそれほど多くはない。

 もちろん『仮想現実』として本職の軍人や医者が訓練(本来の用途)に使う時や、そういう鬱陶しいほどのリアルまでも含めて『売り』にするリアル志向のゲームがないわけではないが。

 戦闘中に泥をはねる事を「リアルで面白い!」と思うユーザーよりも単に「鬱陶しいな」と思うユーザーの方が多いのが『現実』というわけだ。

 痛覚などその最たるもので、VRMMOのリアルさはあくまでも「リアルに感じる」だけであってリアルではあり得ない。

 敵からダメージを受ける度に痛いのでは、まともなゲームなんて成り立つはずがない。


 このAWOもその例に漏れず、過剰なリアリティはそぎ落とした適度(カジュアル)なリアル感で楽しめるタイプのVRMMOである。

 だからこういった『リアル過ぎる仕様』はゲームそのままであればあり得ない。

 こうして指の間で水分を失い、砂へと変わっていく光景などリアル過ぎるにもほどがある。

 そして何よりも。


「うー……違和感あるなぁ……」


 股間の異物感があり得ない。

 AWOは全年齢対象のゲームである。意識をゲームに落とし込み、身体機能を置換するVRゲームにおいて、性風俗は厳重に取り締まられている。AWOのキャラクターはプレイヤーかどうかを問わず、過度な露出は出来ないし、その先の行為も当然できないように作られている。

 衣服の上から触っても――故意に触った時点でアカウント停止モノの規約違反だが――女性の胸も男性の股間もマネキンのように硬いはずだ。

 だからこの生々しい感触はゲームではあり得なかった。

 本来、女性には備わっていないはずの器官が股の下にぶら下がっているというのは凄まじい違和感を感じさせる。

 幸い、というべきかどうか分からないが胸の薄さは大差ないが喜ぶべきには到底なれなかった。


「とりあえず装備やステータスはそのままみたいだけど……」


 白銀に輝く手足の装甲は長く愛用しているモノだし、身に纏っている黒い外套や口元を覆う頭巾もゲームの頃と何ら変わりない。

 手足の防具に関してはイーワンだけに装備できるように『専用化』されているモノだし、それ以外の装備だって性能に応じたステータスを要求する制限がかかっているはずだ。

 頭巾からこぼれかかる前髪がファンタジーでしか見たことの無い銀髪である辺り、見た目もキャラクターエディット時に設定したそのままだろう。

 鏡が手元にないので瞳の色までは確認できないが十中八九、間違いないだろう。

 ゲーム中ならコマンドひとつで自分のキャラクターは三人称視点(サードパーソン)で確認できたので、鏡なんてよっぽど筋金入りのロールプレイヤーしか持っていない。


 身体は驚くほどに軽い。

 これも高レベルキャラクターの恩恵か、それとも武具の性能かは判断しかねるが、ずっしりとした金属の質感を持つ腕甲も脚甲も動きを全く阻害しない。

 とりあえずはゲームそのままの動きを維持することに支障はなさそうだ。


 そうなると目下の問題は。


「ここ、どこ?」


 現在地が見当もつかないという事だ。

 周囲を見渡しても、森、森、森。

 獣道すら見当たらず、日中の為に星も見えない。

 日差しの感じからおそらくは10時から14時程度だろうと辺りをつけるのが精々で、というかそもそも東西が分かったところで現在地が分からなければどうしようもない。

 これが同じ森林でも『ムルガの大腐林(だいふりん)』や『トーナ刃樹海(じんじゅかい)』なら分かりやすいのだが、こんな特徴の無い森など少し街道を外れれば有り触れており、とてもではないが特定など出来ない。


 ――まあ、そんな場所ならこんな風に悠長に落ち着く事など出来なかっただろうけど。


 不幸中の幸いというべきか、周囲は穏やかで危険性は感じ取れない。

 気温と湿度の感じからやや南よりの比較的温暖な地域だろうというだけで、イーワンでさえも思いつく該当地域(エリア)は両手の指で足りないのだから。


 地図の類も持っていないではないが、最後にログアウトした場所は知り合いの女の子のギルドホームだ。

 大幅に現在地とズレているし、そもそもログアウトした地点やホームエリアに設定された地点以外とにいる時点で当てにならない。


 自分のプライベートエリアである自宅に移動先を設定してあるはずのショートカット系のアイテムも無いではないが、うんともすんとも言わず反応が無い。

 アイテムインベントリになっている背嚢(バックパック)は持ち運べるアイテム量が決まっており、よっぽどな理由がない限りは普段使いする消耗品しか入れていない。

 手元にあるのはよく使う自宅を記録した瞬間移動(テレポート)スクロールと各種回復ポーション類がやや多めにある程度。

 あまり大量の荷物を持ち運ぶと移動や回避にペナルティがかかるので、持ち運ぶ量は最低限にするのがこのゲームの常識(セオリー)であり、イーワンも例外ではない。

 アイテムを補給しようと思えば、自宅の倉庫(アイテムボックス)まで直接足を運ぶ必要がある。

 これが多人数で行う大規模戦闘(レイドボス攻略)前とかなら、まだ少しは備えているのだがログアウトする寸前まで、いつもと変わらない普段通りの日常だったのだから仕方がない。


 自宅には帰れず、今どこにいるのかも分からない。完全な迷子である。

 ここで途方に暮れていても仕方がない。

 とりあえず、適当に歩いて何か街なりダンジョンなり見つけるしかない、そう考えて足を踏み出したまさにその瞬間。


――かすかに少女の悲鳴が聞こえた。


 それを聞くや否や、イーワンの身体は放たれた矢の如く森を駈ける。

 その足取りに迷いや躊躇いは微塵も無く、先程まで感じていた混乱や戸惑いといった雑多な思考は一瞬で消え、極限まで澄み渡る。

 イーワンにとって『女を助ける』というのは、どんな事よりも優先して(しか)るべき目的なのだから。


 イーワンはただのプレイヤーではない。

 その自由度と独特のゲームバランスから類を見ない魅力をもって、星の数ほどあるVRMMOで常にランキングトップの人気を誇る『エンシェント・ワード・オンライン』――そのサーバーにおいてある称号を得たトップランカーの1人。


――サーバーランク第十位『銀』(ぎん)

――『銀盾(ぎんじゅん)イーワン』。


 変人奇人揃いのランカーのご多分に漏れず、イーワンも奇妙なプレイスタイルを一貫している。


 それは――『女性専門の護衛』


 故に公式から与えられた『銀』よりも、よく使われる二つ名がある。それが。


 ――『女好きのイーワン』である。


次回、「女の子の味方だよ」

3月2日更新予定。

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