第一話:図書室にて
秋瀬百合香という先輩がいた。
学校の中で、名前を知らない人はいないと思うほど有名な先輩だ。
整った顔立ちに少し漂う柑橘系の匂い、まるで天使のようだと評される優しさ。
彼女に告白する男が後を絶たないという話だ。
僕には全く無縁の人物だった。
学校生活が始まって二ヶ月、日差しの強い放課後。
「おい長柄、一つ頼まれてほしい」
僕にそう言ってきたのは一番の親友、高垣和也だった。
図書室に本を返したいのだが、開館が三十分後だという。
和也は今日、家で用事があるようでもう帰ってしまうとの事。
「別に明日でも大丈夫でしょ?」
と言うと今日が貸し出し期日という。
別に僕は特に用事があったわけでもないし、それを快く引き受けた。
図書室に着いたのは四十分後だった。
図書委員の機械的な挨拶を受けて、中に入る。
「本を返したいのですが…」
「元に置いてあった場所に戻してください。…えっと、その本だと下の階ですね」
この図書館、二階建てである。
一階には一般的な書物(小説や辞書、伝記等々)が置かれていて、地下には専門的な書物が置かれている。
僕はすぐに階段のほうに向かったが、興味深い本を見つけて立ち止まった。
『恋愛のススメ』
秋を連想しそうな薄い赤の表紙。
手にとって、なぜ自分がこの本に興味を持ったのか分からない。
ただ、何となく手にとってみたくなったのだ。
本を返す前に少しの時間を読書に割くのも悪くはないな。
適当な席に座るのまでに時間は掛からなかった。
半分程度読み終えたところで、数名の先輩が下の階に向かっていった。
そこで僕はようやく自分が図書室に来た理由を思い出した。
あぁ、本を返しに来たんだったな。
地下に向かって足を運ぶ。
地下は一階と違い、本棚で出来た迷路になっていた。
案内図と本の場所、自分の持っている本を確かめると、随分奥のほうまで行く必要があるらしい。
全く、和也も随分マニアックな本を読むもんだ…。
『難解図学大全集』と薄紫の表紙に書いてあり、八百ページぐらいの厚さだ。
そう思っていると、物音が聞こえた。
暗くて古臭い地下の図書室、怪しい物音に耳を澄ます。
「おい秋瀬、痛い目を見たくなければ素直に俺たちの言う事を聞くんだな…」
それは人の声だった。
数名の笑い声。
秋瀬? 写真?何の事だ?
直感でそこが修羅場である事を理解した。
逃げよう。 にげよう。 ニゲヨウ。
気付く、本当に逃げていいのか…と。
前に逃げて後悔したじゃないか…と。
「ひひひ…、じゃぁまずは服を脱いでもらおうか」
「お前たち、何やってるんだっ!」
考え終わる前に反射的に体が動いた。
驚いたように振り返ったおそらく三年の先輩三人と今にも泣きそうな秋瀬先輩。
「な、なんだお前!?」
驚きを隠せない先輩にまずは一撃、『難解図学大全集』で頭を殴打する。
「がっ」
一人が地に伏せ、我に帰った二人が殴ってこようとする。
「先輩っ、逃げて!」
秋瀬先輩は僕の言葉に反応して必死に階段に向かう。
それを一人の先輩が追おうとしたところに本を投げつける。
運良く足に当たって倒れこむが、残っていた先輩に僕は羽交い絞めにされる。
「てめぇ、よくも!」
数発、頭に拳が入った気がするが、それよりも先に僕の意識は無くなっていった。