第1話 無能と追放された修復師
雨は、王都の石畳に冷たく張り付いていた。
門へ向かう大通りの端を、俺は背負い袋ひとつで歩く。外套の内側には、もう使い道のない紋章章が重たく当たっている。勇者一行の印。外すとき、金具が鳴った音は、雨より冷たかった。
「レイン。お前は戦えない。ここで終わりだ」
最後の会議で、勇者は視線を合わせなかった。
鎧の継ぎは俺がやった。剣の癖も、靴底の減りも、薬包の並びも、眠っている間に直した。それでも、目に見える勝利じゃないものは、勝利として数えてもらえない。
「荷物持ちの無能」
誰の声か、いまでは曖昧だ。魔法士が鼻で笑い、神官は目を伏せ、斥候は何も言わなかった。俺は「そうか」とだけ返し、机の端に紋章を置いた。
直せるものなら直す。だが、壊した責任は消えない。あの場では、誰もそれを引き受けなかった。
雨脚が強くなる。門番の傘に、黒い水玉が弾けた。
「出るのか、こんな天気に」
「はい。行けるところまで」
「身分証は?」
「……ここに、まだ」外套の内側を示すと、門番は一瞬だけ眉を動かし、言葉を選ぶように口を開いた。
「返上は、外でやれ。中はもう関係ねえだろ」
そう言ってくれたのは優しさだと思いたい。俺は頷き、門をくぐった。石畳が土の道に変わる。泥は靴の底にまとわりつき、体温をゆっくり吸っていく。背中の袋は、思ったより軽かった。持っていけるものなんて、案外、少ない。
門を出ると、石畳が土の道に変わる。泥が靴にまとわりつき、体温をゆっくり吸っ
ていく。道沿いの木柵が折れていた。癖で足が止まる。折れ口に手を当てると、濡れた繊維がほどける感触とともに、頭の中に小さな図面が立ち上がった。斜めに添え木、針金一本、濡れ皮で圧——直る。けれど今は、直す相手が違う。自分の行き先だ。
昼頃、孤独な荷車に追いついた。片輪が泥に沈み、軸が割れている。
「押すぞ」
言いながら楔を外し、割れ目に薄板を噛ませ、濡れた紐で圧をかける。
「動かして」
ぎい、と鈍い音がして、車輪は泥から抜けた。
「助かった。あんた、どこの職人だ」
「修復師です」
「王都でも食えねえって聞くが……」
苦笑が漏れる。中年は濡れた包みを差し出した。
「パンだ。半分湿っちまったけどよ」
「ありがとうございます」
別れ際、男は言った。
「この先の分かれ道、南へ折れると村がある。寄るなら——気をつけな」
気をつける相手は言わない。言えない種類のことは、いつだって多い。
分かれ道は、思ったより早く来た。斜めに立つ古い木の道標に、雨粒が筋を作っている。
近づいた瞬間、胸の底で、細い糸がつんと張った。ひびに指を当てる。木の冷たさの奥で、別のものが触れ返してきた。脈、ではない。呼吸に似た、間欠的な流れ。俺の“視界”が静かに切り替わり、木目の下に薄い線が浮かぶ。文字でも紋でもない、古い“働き”の痕。線は南へ伸びていた。道標は、まだ役目を忘れていない。
俺は外套の内側から紋章を外した。金具が、雨より冷たい音を立てる。泥にそっと置き、代わりに道標へ掌を当てた。
「行くよ」
誰にでもなくそう呟き、南へ折れる。
雨が止み、雨の匂いが、土から鉄へと変わった。低い柵、歪んだ門。空気は重く、どこかに甘い腐臭が混じっている。村だ。色という色が洗い流されたみたいに、すべてが灰色だ。
門、と呼ぶには頼りない出入口をくぐると、広場らしき場所の真ん中に乾いた井戸があった。石積みは崩れ、目地は粉を吹き、口は白くひび割れている。
縄の切れ端を握った少年が一人、こちらを見るでもなく、ただ立っていた。
「水は?」
そう問うと、少年は首を振った。喉が鳴る音が、雨音よりはっきり聞こえる。
「ずっと、出ない」
声は、もう泣く力も残っていない音だった。
俺は井戸の縁に手を置いた。石の継ぎ目、崩れた目地、古い符の欠片。ひびの走りは血管のようで、俺には“流れ”が見える。吸い上げるべき水脈は生きている。ただ喉が塞がっているだけだ。
「直せる?」少年が訊く。
「やってみる」
石を一つ抜き、楔を外し、目地の粉を指で払う。井戸の深さを測るために、小石を一つ落とす。しばらくして、かすかな反響。遠い。だが、返事はある。
古い符の欠片を拾い、継ぎ目に差し込む。足りない部分は、外套の内ポケットから取り出した薄い金属片で補った。工房の炉で拾った、名のない金属。皮膚がざわつく手触り。
「ここを——押して」
少年に頼み、外れていた石を支えてもらう。俺は欠けた輪郭を指でなぞり、“形の記憶”を呼び起こすように組み直す。
最後の一片を嵌め、指先で符をなぞった瞬間、深いところで、音がした。
ひゅ、と。
井戸が、息を吸った。
風の匂いが変わる。空気に、湿った土の甘さが混じった。石の間から、細い水筋が一つ、白く光りながら這い上がってくる。少年が息を呑む音が、俺の耳に真っ直ぐ届いた。
「出た……!」
最初の一滴が、井戸の縁を濡らした。続いて二滴、三滴。水筋はすぐに糸になり、やがて指先を濡らすほどの細流になる。
広場の影から人が集まってくる。誰も声を出さない。水が落ちる音だけが、響いた。
俺はゆっくりと手を離す。全身が、ひどく軽く、同時に重い。肩で息をしているのに、胸の奥は静かだった。
「——直った」
自分で言って、指先を見た。薄い金属片が、わずかに温い。表面に刻まれた見知らぬ紋が、一瞬だけ光った。印章の形に似た、その光は、遠い方角へ細く伸び——すぐに消えた。
少年が縄を掴み直し、桶の影を探す。誰かが駆けていき、誰かが笑い、誰かが泣いた。泣き声は、嬉しいときにも壊れる。
門の外から、馬車の音がひとつ。振り返ると、濡れた道に小さな影。旗竿の先には、見慣れた紋。王都だ。
呼びつける声は、いつの時代も遠くから届く。けれど、今の俺はそこへ走っていかない。走っていくべき場所は、もうここにある。
井戸は、もう一度、深く息をした。
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第1話を読んでいただき、ありがとうございます。
追放された修復師レインの物語、ここから始まります。
まずは滅びかけた村で、壊れた井戸や工房、そして傷ついた人たちを少しずつ“直して”いく話になります。
ただ物を修理するだけではなく、失われたものを取り戻しながら、やがて大きな運命へ繋がっていく物語にしたいと思っています。
次回は、この村でレインが最初に向き合う「別の壊れたもの」が出てきます。
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