星のイミテーション
改札機に慌てて定期を当てた浩子が、ヒールの踵を鳴らして東口に辿り着いた時には、最終のパスは、既に駅前の交差点を左に曲がっていくところであった。
「しまった……」
舌打ちした彼女は、肩で息をつきながら、バス停脇のガードレールに手をついた。
激しく脈打つ血管の中を、アルコールが我が物顔で駆け巡っていた。
喉がキュウキュウと掠れた悲鳴を上げる。
冴えない街灯が、背中をぼんやりと黄色く照らす中、彼女は、まず呼吸を整えようと努めた。
やがて、空気が楽に胸に入るようになって、塗料の剥げかかったガードレールに腰掛けた浩子は、火照った頬にかかる髪の毛を掻きあげた。
耳元でキラリとイヤリングが揺れる。
ゆっくりと息を吸った唇の聞から、忌々しげな短い吐息が漏れた。
同僚の希美と、上司の悪口を肴にバーでグラスを傾けたまではよかったが、その後のカラオケボックスで二時間というのは、さすがにまずかったらしい。
「どうしようか……」
家まで歩くには、相当の覚悟が要る距離があった。浩子は、横目でタクシー乗り場を見た。
円い看板の前には、家路を急ぐサラリーマン達が長い列を作っている。
「お・ね・え・さ・ん」
不意に、鈴を鳴らしたような透き通る声音が響いた。
振り向いた歩道の上に、裸足のままで立っていたのは、彼女の胸の辺りまでしか届かないような、小さな少年であった。
真っ白なワンピースのような服を身につけた裸足の少年は、両手を後ろ手に組んだまま、黒い瞳で真っすぐに彼女を見上げていた。
その大きめの白い服のせいか、それともアルコールのせいなのか、少年の輪郭は、ぼんやりと光っているように見えた。
それは、見慣れた駅前の風景の中で、そこだけ日常がほころんだような、そんな感じであった。
「何? どうしたの、ボク?」
普段なら、眉をひそめるだろう違和感があったが、浩子は、その少年のまなざしに心惹かれた。
うっすらと紫がかった黒曜石のような瞳の色には、魂まで吸い込まれてしまいそうな無限の深さがあった。
同じ目線になるように腰を落とした浩子に、少年はこんなことを言った。
「僕が、家まで送ってあげようか?」
あまりの現実的な言葉に――いや、本当は、そんな少年がそんな台詞を言うなど、十分に非現実的ではあったが――、浩子は唖然とした。
そして、少年の容姿から、何か幻想的な言葉を期待していた自分自身に苦笑した。
……そうよね。そんなこと、ある訳ないか……私ったら、かなり酔ってるわ……
短く息をついた後、気を取り直して彼女は微笑んだ。
「ありがとう。でも、私なら大丈夫よ。ボクの方こそ早くおうちに帰らなきゃ。ボク一人? パパかママはどこ? 」
「大丈夫、送り狼になんかならないよ」
浩子の問いには答えず、人懐っこそうな微笑みで、少年は言った。
送り狼?……
ませた子供だと思いながら、浩子は困ったように顔を顰めてみせた。
「そうね、ボクが車持ってるんだったら別だけどね……暫く歩いたら、タクシー拾えると思うから、悪いけど、いいわ」
彼女はそれで終わりにするつもりだったが、少年は諦めるどころか、小さくかぶりを振った。
「タクシーよりはずっと早いよ。さあ」
言い終わる前に、少年はスッと浩子の手を取った。
少年の手は、彼女が驚くほど柔らかで、そして温かかった。
温もりが、彼女の体の中に流れ込んだ。
その時、脳裏に、深い緑の枝葉の聞からこぼれる、初夏の陽差しが見えたような気がした。
浩子が不思議な感覚に浸っている聞に、少年は澄んだ瞳をゆっくりと閉じた。
眉宇に淡い影が落ちて、少年の白い背中が不意に盛り上がった。
サラサラと夜風に揺れる鳶色の髪が、微かに逆立ったその時、少年の肩の陰からは、音もなく巨大な白い翼が現れていた。
その艶やかな羽根の一枚一枚が、光を振り撒くように小さく震えた。
飛び散った光のかけらは、グラスの中で氷が弾けるような、鋭く研ぎ澄まされた音色を奏でた。
浩子は言葉を失っていた。
彼女が触れた現実のほころびは、信じられないほど大きな裂け目となって、彼女自身をその中に飲み込んでいた。
日常は、もはや彼女の裡にしかなかった。
「いい? しっかりつかまってて」
なす術もなく立ち尽くす浩子に、翼の生えた少年はパチッとウインクしてみせた。
虹色の火花が飛んだ。
次の瞬間、黒い風が吹き抜けた。
街灯も、バス停も、ガードレールも、歩道も、辺りのものは突然の黒い風に掻き消された。
耳元で空気が捻りを上げて、浩子は目をしばたかせた。目の高さに浮かんだ満月の蒼い光の中、彼女の街の灯が足元に瞬いていた。
ヒールの下を風が旋って、浩子は悟った。
……飛んでる……
恐怖はなかった。
彼女の右手は、夜空を翔ける少年にしっかりと握られていた。
風が掻き乱す少年の鳶色の髪の上には、眩いばかりの光輪が浮かんでいる。
「彼女」は知っていた。
少年と言葉を交わしたあの瞬間から。
否定したのは、浩子自身だった。
しかし、今なら彼女にもわかる。
この少年が、どこから来たのか――
淡い紫色に輝く地平線が、彼女の眼下に壮大なリングを描いた。
縦横に走るヘッドライトの河が、まるで金の糸のように、無数の光をちりばめた漆黒の街を美しく縫い合わせている。
イミテーションの星達は、天を覆う本物が織り成すよりもきらびやかな星座を、夜の大地に刻んでいた。
幻想的な光景であった。
しかし、幻ではない。
それは、昨日も確かにそこにあった。
きっと、明日も変わらずそこにあるだろう。
見なかったのは、彼女であった。
見れなかったのも、彼女であった。
そういえば……ふと、浩子は思った。
……いつの頃からだろう、空を飛ぶ夢を見なくなったのは?……
小さな頃は、よく、こんな夢を見ていたような気がする……
「どこ? お姉さんのおうち」
目の前で羽ばたく少年が、浩子を振り返って尋ねていた。
光と闇の箱庭の中から、彼女は何とか自分の帰るべき場所を見付けた。
「あ……あの、あそこの坂の上に見えるマンションよ」
領いた少年は高度を下げた。
目前の夢幻の世界は音もなく大きくなり、光の錦は遥か地平へと飛び去った。
やがて、色の薄らいでいく暗聞からはよそよそしさが影を潜め、代わって、見慣れた日常が顔を覗かせ始めた。
地面に着く寸前、少年は、最後にもう一度だけ軽くはばたいた。
傘のように聞きかけたスカートはふわりと萎んで、浩子は、自信のない脚を夜風に曝すことなくコンクリートの上に舞い降りた。
マンションの入り口の前であった。
少年は、彼女からその柔らかな手をそっと離した。
途端に足からカが抜けて、くずおれそうになるのを、浩子は必死で堪えた。
「大丈夫?」
黒く澄んだ随が、彼女の顔色を心配そうに窺った。
「え、ええ」
平静を装って、大きく二、三度息を吸い込んだ後、彼女は改めて少年に目をやった。
頭上で光を放っていた輪は消えていた。
瞳の締麗な少年――それ以上に、彼を形容する言葉があるようには思えない。
ただ――
肩の上に折りたたまれた翼は、銀色の光をはらんで、少年の息遣いと共にゆっくりと上下していた。
……幻じゃない……
ふと気がついて、彼女は笑顔を作った。
「あ、どうもありがとう」
「どういたしまして」
少年は、小首を傾げるとニッコリと微笑んだ。
夜には似合いそうにない、向日葵の花のよう眩い笑顔であった。
浩子は思わず目を細めていた。
胸の中に、日なた色の波紋が広がっていくのがわかった。
「ええと……ちょっと部屋に寄ってかない? よかったら紅茶でもごちそうするわ 」
とっさに気の利いた言葉が浮かばず、自分でも間が抜けていると思いながら、それでも何か言わなければと、浩子は少年に尋ねた。
「紅茶はいいよ。それより、僕、そのイヤリングが欲しいな」
両手を後ろ手に組んだ少年は、はにかみながらそう言った。
「これ?」
それは、海外で買った彼女のお気に入りだった。
さすがにイミテーションだったが、多面体にカットされた透明なプラスチックが光を七色に反射して、耳元を美しく彩っていた。
しかし――
今なら、たとえ本物のダイヤモンドでも惜しくはない、そう思えた。
「いいわよ 」
浩子が両耳のイヤリングをはずそうとすると、少年は慌てて言った。
「あっ、片方だけでいいんだ」
「そう?……」
少年が嬉しそうに差し出した両手の中に、浩子は右のイヤリングをそっと渡した。
七色の輝きは、少年の小さな手の平の中に収まった。
「でも、片方だけで何に使うの?」
浩子が訊くと、少年は少しばつが悪そうに、彼女の視線から目をそらした。
「さっきね、友達とふざけてたら、シリウスをどっかに落としちゃったんだ」
「シリウス?……お星様?!」
「うん。日が昇るまでに何とかしないと、 また怒られるから」
少年の滑らかな白い眉間に、小さな皺が寄せられた。
ふと言葉が胸に湧いて、浩子は思わずそれを口にしていた。
「神様に?」
「うん」
少年は額いて、彼女は思った。
……やっぱり、そうなんだ……
何か、ストンと腑に落ちたような、すがすがしい気分だった。
心の中を金色の風が渡っていって、彼女は妙に嬉しくなった。
「じゃあ、イヤリングありがとう、お姉さん」
浩子が気付いた時、少年は再び白い翼を広げていた。
慌てて彼女は叫んだ。
「あっ、ボク、名前は?!」
「ルシファー!」
鈴の声を残して、少年は風の中に消えた。
翼からこぼれた光が泡雪のように舞って、やがて、空気の中に溶け込んでいった。
薄墨の中に光が見えた。
坂を登ってきたミニバイクが、呆然と空を見上げる浩子の前を通り過ぎていった。
その、次第に掠れていく排気音と共に、ゆっくりと現実は戻ってきた。
ほころびはしっかりと口を閉じて、後には、片方のイヤリングだけが残った。
ルシファー……堕天使か……
「あははは」
声を出して、浩子は笑った。夢にしてはよく出来てるわ。
会社でコピーを取り、バーでカクテルを飲み、カラオケでマイクを握った彼女が、彼女自身にそう思わせた。
そう、夢よね……
ただ、それでも、今夜はよく眠れそうな気がした。
今夜なら、「彼女」に会えるかも知れない。
あの頃の「私自身」に……
* * *
翌日、会社の更衣室で、希美は浩子の耳元に気がついた。
「あれ、浩子、イヤリング片方どうしたの?」
「ああ、これ?」
七色の光を着飾った左耳とは反対に、少し寂しげな右の耳たぶを、浩子は指で軽く弾いてみせた。
「わかった。彼氏のところにでも忘れてきたんでしょ?」
希美は、からかうように彼女の顔を覗き込んだが、浩子はさらりとかわした。
「違うわ。星にしてもらったの」
「星に?」
眉をひそめる希美に向かって、浩子は嬉しそうに微笑んだ。
「そう。シリウスのイミテーションにね」
少女のような微笑みは、山吹色の花となって、彼女の顔で輝いた。
「星のイミテーション」をお読み頂き、ありがとうございます。本短編は、かなり以前に執筆した作品を、このたび電子化したものです。そのため、現在の作風とは少し雰囲気が異なるかも知れませんが、作者が辿って来た創作の足跡の一つとしてお楽しみ頂ければ幸いです。なお、挿絵については、短編「悪夢を見なくなった夜 ~その向こうにあるもの~」と同じAIモデルに演じてもらいました。




