わたくしの婚約破棄は、予定通りでございます
これは、予定通りに生きると決めた令嬢が、台本にない声に振り向いてしまう話です。
「ああ、やっと来ましたのね。――遅いですわ、殿下」
広間が、水を打ったように静まる。シャンデリアの灯りが数百の瞳を照らした。
「リゼット・フォン・クラウディア。余は、そなたとの婚約を破棄する」
エドヴァルトの声が、高い天井に反響する。彼の隣に立つ男爵令嬢が、不安げに裾を握っていた。
まあ、台本通りなのだから。拍手でも送るべきかしら。
「承知いたしましたわ、殿下」
わたくしは腰を深く折り、完璧な礼をとった。ざわめきが広間を満たす。泣き崩れるはずだと、皆が思っていたのだろう。
残念ながら、その演目は上演されない。
「……では、ごきげんよう」
扇を開き、口元を隠す。微笑みの形を保つために。侯爵令嬢は人前で顔を歪めない。それが母の教えだった。
わたくしには前世の記憶がある。この世界が、かつて読んだ物語の中であることも知っている。侯爵令嬢リゼットは悪役で、今夜この場で婚約を破棄される――そこまでは、三年前から知っていた。
だから備えた。泣かずに済むよう、笑って退場できるよう。どの位置に立てば灯りが綺麗に見えるかまで予習した。
まあ。ここまで準備した令嬢が泣くようでは、頭が悪い。
予定通り。何もかも、予定通り。
広間の出口まで、二十歩。
わたくしは歩調を崩さなかった。靴の中で足の指に力を入れて、一歩ずつ床を踏む。背中に視線が刺さっている。囁きが、波のようについてくる。
『可哀想に』と、誰かが言った。
可哀想。その一語が、扇を持つ指に力を込めさせる。同情は予定に入っていない。いや、正確には予定に入っているけれど。受け取るつもりはない。
廊下に出ると、使用人が二人、慌てて目を逸らした。壁際に控える侍女が小さく頭を下げる。その横顔が泣きそうに見えたのは、きっと灯りのせいだ。
足を止めず、角を曲がる。もう一つ角を曲がる。そこでようやく、息を吐いた。
長い廊下の先に、露台が見えた。
秋の夜気が頬を撫でる。露台には誰もいない。月だけが石の手すりを白く染めていた。
グラスはもう置いてきた。手袋を外す必要もない。やるべきことは済んだのだ。
ただ、扇を握る指先が、小さく震えていた。
いや。震えているのは指ではなく、扇の骨が軋んでいるだけだ。そういうことにしておく。
「お供します」
振り向くと、ユリウスが立っていた。王宮騎士団の副団長。かつてわたくしの護衛を務めた男だ。
壁に背を預け、腕を組んでいる。まるで最初からそこにいたかのように。
「あら。どなたの命令で?」
「誰の命令でもありません」
短い沈黙が落ちる。月光が彼の横顔を照らした。表情は読めない。いつもそうだ。この人は、鎧と同じくらい顔が硬い。
「護衛の任はもう解かれたはずですわ」
「ええ。ですから、これは任務ではなく」
ユリウスは言葉を切った。視線を月から、こちらへ移す。
「……ただの、おせっかいです」
わたくしは扇を閉じた。笑みが漏れそうになる。おせっかい。騎士の口から出る言葉ではない。
まあ、この人はいつもそうだった。言葉は少ないのに、妙に的確な場所に立つ。護衛だった頃から、ずっと。
月が雲に隠れ、露台が翳った。遠く広間から、弦楽の音が漏れ聞こえる。
「泣かないのですか?」
ユリウスの声は静かだった。責めるでもなく、慰めるでもない。ただ訊いている。事実の確認のように。
「泣く理由がございませんわ。予定通りですもの」
「あなたは、いつもそうだ」
手すりに背を向けたまま、ユリウスが呟く。
「いつも台本を読んでいるような顔をする。次に何が起こるか、知っているように」
指先が、冷たい石の手すりに触れた。
知っているように、ではない。ただそれだけだ。
けれど、この騎士の台詞は、どこにも書かれていなかった。
「……わたくしが演技をしていると?」
「はい」
迷いのない一語だった。わたくしは扇の骨を指で辿る。象牙の冷たさが爪先に伝う。
「護衛の分際で、生意気ですわね」
「元・護衛です。今はただの、おせっかいですので」
雲が流れ、再び月が露台を照らした。ユリウスの瞳に、光が一点だけ灯る。
この人は見ていたのだ。三年かけて積み上げた「予定通り」の裏側を。台本を暗記した令嬢の、震える指先を。
「お見事でした」
ユリウスが、背を壁から離した。
「あの広間での振る舞い。完璧な退場です」
「ええ。練習しましたもの」
「――だから、もう降りてもいいのでは」
声が、低く響いた。舞台を降りろ、と。その台詞は台本にない。
わたくしは口を開こうとして、閉じた。用意していた言葉がどれも合わない。「予定通りですわ」も。「ご心配なく」も。どれを選んでも嘘になる気がした。
ユリウスは深く一礼した。踵を返す。騎士の背中が、広間へ続く扉に向かう。
呼び止めるつもりはなかった。予定にない行動はとらない。そう決めていたのだから。
けれど。
「――ユリウス」
声が出ていた。自分の喉から。名前を呼んだのは、初めてだった。いつも「騎士殿」か「副団長」としか呼ばなかった人の名を。
ユリウスが足を止める。振り向く。その顔に浮かんだものを、わたくしは知らない。前世の物語にも、三年分の台本にも、あの表情は載っていない。
月が、露台を満たしていた。弦楽の音がやんでいる。
この先はもう、台本には書かれていない。
扇を持つ手は、もう震えていなかった。
最後までお付き合いくださり、ありがとうございました。
それでは、また別の物語で。




