終.魔王のものにはならんので
ゴロン、と鈍い音を立ててボトルが転がる。
床に散乱している空き瓶の数は、二十を超えていた。すっかり高く上った月が、部屋の中を照らしている。
「……魔王」
「なんだ」
「さすがに、顔赤いけど」
「だからどうした」
声はハッキリとしていた。けれどこちらを睨む目は白目まで真っ赤だし、心なしか潤んでいる。グラスに新たな酒瓶をひっくり返し、注がれた液体を飲み干す様は鬼気迫っている。息継ぎも無く、一気。こちらの喉が焼けそうだ。
「飲みたいなら、好きにすればいいけど」
今日は私は飲まない。だけどそれでも私の分のグラスを出してくれていたから、こちらにも赤ワインを注いでやって、滑らせるように差し出した。魔王がそのグラスを手に取り、視線を落とす。
「それで、在庫を飲み干したら、私は帰れないってこと?」
「……お前は酒係だろう」
「横暴なんだよなぁ」
必死に言葉を重ねた。お願いだから、早く飲んでほしい。目を合わせていられなくて、視線を逸らす。ベッドの上には、箱が置かれていた。商人からもらったレースだ。おそらくコボルトが運び込んでくれたんだろう。白木の箱を見つめながら、口を開く。
「私の所有権は、私にある。どうするかを魔王に決める権利なんてないんだよ」
「……だから、こうしてる」
トン、とグラスがテーブルに置かれる音がした。視線を戻すと、空になったグラスを手に、こちらをジッと見ている魔王が居る。また、一気に飲み干したらしい。
「ユズハ、行くな」
低い声。かすれた声。その声が私の名前を呼ぶのを初めて聞いたように思う。狙ってる?ここぞって時まで、呼ばないって決めてた?そう茶化したくなるくらいには……心臓にきた。
「私は、帰りたい」
「会いたい奴がいるからか」
息を止めてしまった。それは返事だ。
「……トール、という男か?」
トトラか。いや、もしくはあの会話も聞いていたのか。頷くこともできないまま、沈黙を選ぶ。
わずか数秒の静寂を破ったのは、ガラスが割れる硬質な音だ。いつの間にか落としていた視線を上げた。魔王の手にあったはずのグラスが無い。いや、ある。破片が飛び散っている。
「ちょっと!?何してんの!」
席を立って慌てて駆け寄る。握りしめられている彼の手を無理やり開かせた。手の内に残されていた破片が落ちるだけで、手のひらには怪我一つ無かった。そうだった、こいつ魔王だった。大きなため息がこぼれる。テーブルの上に用意してあったポケットティッシュで、手についた酒を拭いてやった。
「まったく、物に当たるのやめなって」
言葉は途中で途切れる。私のお腹に頭を押し当てるように、抱き着いてきた男がいるからだ。
「………あのさ……私の服で拭かないでくんない」
まだ拭き終わってなかったのに。背中に当たっている魔王の手から、じんわり水分がしみ込んでいる気がする。地味にやだ。その言葉を聞き入れたわけではないはずだ。なのに、ゆっくりと魔王の手が落ちて行った。もたれかかってくる体重が増えたので、慌ててその体を、テーブルの方へと向きを変えさせた。
ボトルやグラスを急いで端に寄せると、そこに魔王が突っ伏す。……寝た、かな?前髪に隠れがちな瞳をそっと覗き込む。長いまつげが伏せられて、いつもの紅が見えない。
魔王にも、薬は効くようだ。
「……ごめん」
ポケットの中。錠剤のシートがカサリと音を立てた気がした。数年前に、お世話になったものだ。
それにしても、効き始めるには十五分くらいはかかったはずだけど。異常に早いのは酒のせいか、魔王のせいか。ワインの中で、少し溶け始めていたせいか。重篤な副作用とかが無いと良い。いや、その危険性も考えにあったのに、それでも使うと決めたのは私だ。それなのに都合のいいことを。私は犯罪者だ。薬を盛るなんて最低だ。
だけど、こうでもしないと……
「本当に、ごめん」
決心が鈍る前に、行かないといけない。商人が待ってくれるのは夜明けまで。私の足では、ギリギリだ。準備はしてきた。ロープはベッドの下に隠してある。下まで降りるには十分な長さだ。万が一落下したとしても、今の私には魔王の守護がある。
「ほんと最低」
魔王から逃れるために、魔王の守護を当てにする。自分の身勝手さに嫌気がした。
ロープを引きずり出し、ベッドの上の箱を手にする。荷物になるけど仕方がない。このレースは商人に返したい。
商人には『聖女を神殿まで連れて行けばきっと謝礼が出る』と持ち掛けた。『万が一魔族に見つかることがあっても、私が勝手に船にもぐりこんだことにすればいい』と。そんな危なっかしい提案を彼は受け入れてくれたようだけど、借りは極力作りたくない。船を降りた後は、隙を見て逃げるつもりでいる。船賃として工芸品をいくつか置いていくけれど、それ以上は世話になるつもりはない。
私が色んな物を作り出せることは知られている。わざと知らせた。利用価値があると思わせたかった。だけど、それは諸刃の剣だ。飼い殺しにされる危険性もある。だから大陸に着いた後は、自分の足に頼った方が良い。そのために、ここしばらくは積極的に視察に出て運動してきた。それでも運動不足は否めないけど、以前よりはマシなはず。
不安はある。恐怖もある。だけど私が帰る道は、これしかない。
ロープとレース。荷物はそれだけ。それだけを手に、魔王の背後にある扉へと駆け寄った。重い扉をそっと開けて、薄暗い廊下が視界に映る。
ガダンッ!
激しい音を立てて、扉が閉まった。扉の上部を、後ろから押さえつける手によって。全体重をそこにかけているかのようで、ミシリと木の板が悲鳴を上げている。黒い服の袖から覗く、筋肉質な太い腕。背後から聞こえる息遣いは荒い。背中に感じる体温に、血の気が引いた。
「っ……まお」
おそるおそる振り返ると同時に、顎を掴まれた。唇に何か押し当てられる。視界もおぼつかず、前後不覚に陥った。唇の隙間から温かい質量が押し入ってきて、口の中に液体が流れ込んでくる。鼻をつくアルコールの香り。容赦なく注ぎ込まれる圧を慌てて嚥下した。渋いような、苦いような。顔を背けようとしても、強く掴んでくる手が、追いかけてくる顔がそれを許してくれない。
「ん……んーん!」
声にならない声で抗議をあげるとようやく、唇が離れた。間近に見える赤い瞳。心臓がバクバク鳴っていてうるさい。またその顔が近付いて身構えた。しかし、唇が触れ合うことは無い。ただ、私の唇の端からあふれて零れた雫を、熱い舌が舐めとっていく。
「ひぁっ…!?やめ」
ぞわりと背筋を何かが走る。いつの間にか腰を抜かしていた私の腕をやや乱暴に引っ張って立たせると、魔王はそのままベッドの上へと放り投げてきた。ベッドの上で弾んで仰向けに倒れこんだ。ロープと箱が私の手を離れて宙を舞う。ロープはベッドの端に引っかかり、開いた箱からハラリと落ちた大判のレースは、私の頭の上に頼りなく落ちた。
レース越しの視界、大きな影がゆっくりと私に圧し掛かる。
「ま、待って」
「待つつもりだった」
口をついた制止の言葉に、間髪入れず答えが返った。おぼつかない視界では、魔王がどんな顔をしているのかも伺えない。
「お前が、待てと言うなら何年でも。お前が死ぬまでに俺を選ぶなら、待っても良かった」
かすれた声。
「俺には、お前が必要だ」
震える唇を、何とか開く。
「……私が居なくても、この後は課長とセトくんでうまくやれる」
私一人で抱えていた仕事などない。すべてを共有してきた。この日の為に。
「そうじゃない」
黒い影が首を振る。
「……俺に、お前が必要なんだ」
必要。誰かを求める言葉をそれしか知らないように、繰り返される。
動かそうとした手を、すかさず掴まれた。圧し掛かってくる体重。押さえつけられた両手。少しも身じろぎできない。
思い知る。これまで、どれだけ手加減されてきたのか。その気になれば一瞬で捕まる己の身の、なんて頼りない……
体の震えが止まらない。どれだけ押さえ込もうとしても、ますます酷くなってしまう。レース越しにまた唇が触れた。宥めるように、慰めるように。最初のそれとは裏腹に、ひどく優しい。
「っ……」
じわりと目頭が熱くなる。情けなさで、頭が煮えそうだ。あんな卑怯な手を使っておいて、それでも逃れられない。たったこれだけで体が震えて、体が熱くて、力が抜けてしまう。決意が揺らぐ。
ごめん、ごめん。
「ごめん、とおる……」
口をついた謝罪は、掠れていた。けれどそれでも聞き取ったらしい魔王の手が、グッと力を込めた。
「そんなに、惚れていたのか」
その問いかけを聞いて、詰めていた息が漏れる。こんな状況でも、私は笑えるのか。
惚れていた、って……
口を開こうとして、気付いた。ぐるぐる、視界が回る。急速に訪れる眠気。さっき飲まされたワインで酔いが回ったんだろうか。いや、でもまさか。
「……魔王っ……飲んで、なかったの?」
テーブルの上を振り返った。割れたグラス。そこに薬を入れたはずだ。そして魔王が飲んだ。だけど、よく考えると私は飲み干す瞬間を見ていない。割れたのは、私が差し出したグラスじゃない?すり替えられてた……?どこまで読まれていたのかと、背筋が冷える。
力の抜けた私の腕を解放して、大きな手がレースを持ち上げる。クリアになった視界で、赤い瞳が優しく笑ったのが見えた。
◇
目を勢いよく開けた。バチっと音が出た気がしたくらい、大きく見開く。視界に映るのは、石造りの部屋。消えた蝋燭。朝日に照らされる、散乱したボトル。石壁に窓枠型の光が白く浮いている。
「は……」
ガバッと体を起こそうとして、失敗した。何かに拘束されている。その何かは考えるまでもない。背中にピッタリとくっつく体温は、太い腕を私の体に巻き付けていた。
「起きたのか」
「起きたのかじゃ……ゲホッ……」
乾いた喉が奥で張り付いた。拘束がわずかに緩められたので、水差しに手を伸ばす。けれどそこに手が届くより先に、目の前に水の球が浮いた。
「わ!?」
「喉が渇いたんだろう?飲め」
いや、何のための水差しだと……けれどまだお腹に回されたままの手のせいで、水差しには一歩届かない。しぶしぶ、目の前の水球に口をつけた。冷たい温度が喉を滑り落ちていく。手のひら大もあった水を一気に飲み干して、息を吐いた。
「落ち着いたか?」
「誰が落ち着い……」
言いながら、首を回して視線を巡らす。えっと、埠頭の方角、あっちか!
その方向は壁だった。その手前の魔王と視線が合う。
「……外を見たいなら、連れて行ってやろう」
「え」
そのまま抱え上げられた。ドアを開けると、風が吹き込んでくる。バルコニーから入り込む風は、今日の南風が強いことを教えていた。
北の大陸へと向かう船には追い風だろう。
羽を広げて飛び立つ魔王の肩にしがみつき、北の埠頭へと視線を向ける。よく見えない。魔王はさらに上昇し、北へ飛んだ。
次第に見えてくる埠頭。そこに……船はない。
遥か遠く、波を切って走る船影が目に入った瞬間、思わず口から叫びが漏れた。
「あーー!私の船!」
「お前の船ではない」
落ち着いた訂正は、かえって頭に血を上らせた。あの時薬を飲まされなければ、きっと私は今頃……
「この極悪非道!駄目魔王!」
「駄目魔王なのは知っている。だからお前が必要なんだろう」
力いっぱい、魔王の胸に拳を振り落とした。鈍い音。かけらも効いていないことは分かる。人を殴った感触に、自己嫌悪が増しただけだ。
「お前は俺の物だ。離れることは許さない」
「私はあんたのものじゃない!」
そう吠えた。地上の住民たちが驚いて空を見上げるんじゃないかと言うほど大声で。
「トールには渡せない」
その名前に、じわりと目頭が熱くなる。見られたくなくて、顔を俯かせた。
「それがお前の番だったとしても」
笑えない冗談だ。昨夜言い損ねた言葉を口にする。
「遠琉は……弟だよ」
「弟?」
「もう、世界で一人だけの……私の家族なんだよ」
両親が死んだのは、四年前。私が二十歳で、弟が十八の時だ。私たちを心配して、しょっちゅう様子を見に来てくれていたばあちゃんも、一年前に亡くなってしまった。
「私まで居なくなったら……あの子は一人になる」
就職が決まったところだった。来年の春には大学卒業だ。晴れやかな門出が待っていた。
それなのに……突然消えた姉を、あの子はどんな思いで探してるんだろう。
「私が……帰らなきゃ」
「お前の弟は、お前がいないとダメな男なのか?」
その問いに、ついに堪えていたものが決壊した。強い風に煽られて、涙の滴が飛んでいく。
「うるさいな!分かってるよ!遠琉は……私なんかいなくても平気だよ!」
魔王の目が、驚いたように見開かれている。
「大変な中でもしっかり切り替えて、自分で願書も準備してちゃんと志望大学入ってさ!」
お金はしっかり両親が残してくれたから、当座の生活費や学費の心配も無かった。それなのに、一人で不安になって上手く眠れなくなったのは、私だけだ。
「料理も掃除も私よりずっと上手で!二年前、あいつが家を出てから困ったの、私の方だし!」
『いつまでもゆずの世話になりたくない』
その言葉を聞いた時、自分がどんな世話を出来たのかと思い返して途方に暮れた。遠琉が大学入学を機に家を出ると決めて。それなら私もと決断したけど……家族四人で暮らしたアパートを引き払ったあの日、先に歩き出したあいつの背中を、手持ち無沙汰に見送った。
その後も半年に一度くらいは会いに行ったけど、部屋の乱れ一つ見当たらないくらいのしっかり者だ。両親が亡くなる前は、それなりに反抗期で子供っぽいところがあったはずなのに、あいつは急速に大人になった。
一人暮らしして、バイトをして、順調に単位をとって、大手企業からの内定ももらって。出来すぎなくらい、出来た弟だ。私がやったことなんて、書類上の世帯主になったことくらいじゃないか。色んな手続きすら、しばらくはばあちゃんの助けが必要だった。
私がもっとうまくやっていたら。私がもっと支えてやれたら。あんなにしっかり者にならなくて良かったんじゃないか。もっと子どもでいられたんじゃないか。まだ全然、親代わりらしい事、してやれてない。
「私がっ……」
「お前が、居たからだろう」
吐きだしかけた自分への怨嗟を、魔王の声が遮った。
「お前は周囲を強くする。お前が居たから、弟は強く育った」
見上げた先にある魔王の表情は真剣そのものだった。
真顔で恥ずかしいこと言うなよ。
泣きながら思わず笑った。細めた目から、また熱い雫が飛ぶ。
「……あいつは、たぶん元から強かったよ」
「そうか。お前の弟だからな。ならばきっと、これからも強く生きる」
そうだろうな、と思う。きっといなくなった私を探してくれる。警察に届け出て、私の会社やアパートへの連絡とかも。卒業前の大変な時期に。それでもきっとあいつなら、やる。見つからない私への気持ちの整理も、そのうちつけるだろう。
「俺は違う」
紅い瞳が、私を覗き込む。
「お前がいないとダメだ」
すぅ、と息を吸い込んだ。
「……おっも……」
そして吐きだした。誰だこんなヘビー級の男を育てたのは。私じゃないぞ。
「お前がどうしても元の世界に戻りたいと言うなら……」
「いうなら?」
まさか、手助けする気があるのか。船が行く先へ、魔王は一瞬目を向ける。またこちらに戻ってきた視線は、まっすぐだった。
「俺も連れていけ」
「は?」
魔王を?元の世界へ?
……大迷惑じゃん。
「いやいや、待って。あんた、魔族の王だよね?面倒見なきゃいけない国民がいっぱいいるでしょ。置いてってどうすんの」
「…………」
「…………」
いや返事!え、まさか見捨てる?嘘だろ、魔族に対する責任感は買ってたのに、あっさり捨てんの!?
「魔族も、望む者は連れていくか」
「やめろやめろ!大災害だ!あっちの世界に魔力とかあるかどうかも分かんないし、絶対全員が不幸になる!」
魔王のわがままに何人巻き込む気だ。
あちらの世界の人間も、こちらに住む数万人の魔族をも人質にとられた気分だった。魔王の表情が真剣そのものなのが悪質だ。
「お前が俺の物になるのが嫌なら、俺がお前の物になるしかない。お前が元の世界に帰るなら、俺も連れていけ」
「なんでそう両極端なん?この魔王……」
いつの間にか涙も引っ込んだ。魔王を連れて戻るとか、弟に叱られるどころの話じゃない。
「なら、ここに居てくれ」
「………」
「俺を恨んでもいい」
「別に、恨みとかはないけど……」
今度は何を言い出すのかと身構えた。けれど、次の言葉に心臓が跳ねる。
「元の世界に帰れないのは、お前のせいじゃない」
唇が震えた。
「俺が引き留めているせいだ。お前が、弟に謝る必要はない」
船にうまく、乗れたとして。本当に神殿までたどり着けるか不安だった。だけど何より怖かったのは……そこで望みが潰えることだ。できることが無くなって、足掻く余地が無くなって、その時、私は遠琉に……
「……一番の口説き文句だね」
この魔王は、私に逃げ道をくれようとしている。誰かを恨みながら、ずっと希望を捨てないでいられる、そんな道。
「恨むなら、神様にするけど」
「俺でいい」
食い気味に言われて、笑った。
私の恨みすら欲しがるこの男を、置いていくのは少し心配がすぎるから。
「魔王、頼みを聞いてほしい」
たぶん、私の願いならなんでも聞いてくれる男に、一つ頼みごとをしてみよう。
◆
「聖女召喚?」
その日、ヴェンスから受けた報告は、珍しく緊急性が高かった。人間の商人から得たという情報。
魔族を消滅させる力を持つ聖女を、とある国が呼び寄せようとしている。そしてついにその実行のめどが立ったと言う。幾度か行われている試みではあるが、今度は成功率が高いと言われているそうだ。
あの商人は、魔族と人間の戦争を止めたくはないらしい。裏でなんらかの利益を得ているのだろう。こうして情報をよこしてくれるなら、こちらに不都合はない。好きに踊っていればいい。
外は朝の陽ざしが差している。人間が行う儀式ならば、きっと日の高いうちにするだろう。今すぐ向かえば、あるいは。
「そうか。ならば俺が行こう」
「危険では」
「俺の方が速いし、お前たちが行ったところで、消されて終わるかもしれん」
「しかし……」
「俺が消滅すればそれまでだ。せいぜい世界の果てまでは追われないことを祈って逃げろ。この地の他に、お前たちが生きられる道があるかは知らんが」
ぐ、とヴェンスが口惜しげな顔をした。年を重ねても、この男は感情を隠すのがうまくない。返事を待たず、近くの扉を開け放ち、おもむろにそこから飛び立った。
聖女召喚が実行されるという神殿の場所へ真っすぐ。間に合うかはわからん。それでも行く。魔族を生き残らせる道を探ることが、魔王の生きる意味だからだ。
「果たして、神は応えるか?」
幾度祈れども、神が応えたことは無いと聞く。手順が違う?祈りが足りぬ?原因などさだかではない。
人間にとって害である俺を放置している時点で、神が人間の味方でないことは確かだ。神に祈ったことなどない。傍観者に助けを求めて、何になる。それに縋るのが人間だが。
次第に日が高く上り、明るく照らされる景色が、高速で通り過ぎていく。海を抜け、大地のはるか上を飛びながら、目指すのは白い尖塔が伸びる建造物だ。そこでは今頃神官たちが祈りを捧げているのかもしれない。
聖女。魔族を排除できる存在。そんな都合の良いものがいるのだろうか。
「もしいるのだとしたら、俺にも欲しいものだ」
俺にとって都合の良い存在を。どちらにも味方せぬ神ならば、俺にも寄越してくれれば良い。
そう心の中でつぶやいた瞬間、視線の先に光の柱が立ち上った。雲を突き破り、見上げてもその先が見えぬほど遠く。遥かな高みへ続く光の柱には、嫌でも超常めいた存在を知覚させられた。
これは、本当に成功したのか。
眼前に迫った建物の窓ガラスを、勢いのまま突き破った。その頃には光は止んでいた。祭壇に落ちるのは昼下がりの日差しだけだ。その中心に、二人の女がいた。
神が好みそうな、儚げな少女。そして、こちらを胡散臭そうに見ている女。
「おまけ?ですかね……?」
正体を尋ねてその言葉を聞いた瞬間、納得した。なるほど、俺へのおまけか、と。神官が祈りをささげた時、俺の願いもついでに聞き届けられたのかもしれない。
だから連れ帰った。この女は、俺の物だと確信したから。
◇
「俺を恨んでもいい」
そう告げた時、ユズハは呆れたように笑った。俺に恨みを向けるのは筋違いだと言うように。恨むなら神だという。
そうじゃない。ユズハは、俺の願いのために連れてこられたのだ。元の世界に弟を残してこさせたのは、元の世界に帰ることを諦めさせようとしているのは、全て俺だ。
恨んでいい。憎んでもいい。傍にいてくれれば、それでいい。
「魔王、頼みを聞いてほしい」
たとえそれが、俺の消滅だとしても。お前が望むなら。魔族の為に存在するはずの俺が、自分の為に初めて抱いたエゴだ。
「私と一緒に、人間の国へ行って」
迷うことなく、頷いた。
◆
「あなた様が真の聖女であらせられましたかー!!」
「ちがう」
目の前で平伏する神官たちに、私は死んだ目で返した。
魔王に連れてきてもらった人間の国。魔王国から一番近い国の西にある神殿は、私とキリーちゃんが召喚された場所だ。
突然訪問した女と魔王。当然ながら大騒ぎになった。『こちら召喚された聖女のおまけと魔王ですが、召喚に立ち会われた神官様方にご相談がございまして』と声をかけても、誰もろくすっぽ聞いてなかった。『黙らせるか?』と手から炎を生やす魔王を止めるのが大変だった。
声を大きくする魔法をお願いして、『魔王は宣戦布告を撤回するのでー!話を聞いてくださーい!』と私が叫んで、ようやく神殿のお偉いさんが前に出てきてくれたのだ。
かくかくしかじか、戦争を避けられるよう鋭意努力中です、とお伝えしたところ、膝をつかれた。当方、聖女ではございません。
「聖女はあの金髪の美少女です」
「しかし……」
神殿長を名乗ったじいちゃんが不満げにこちらを見上げてくる。
「……魔王を制するのが聖女ならば、お前が聖女なのではないか?」
「やめろ」
後押しすんな。私の中の聖女像を壊さないでほしい。
「ともかく……ご相談が二つあります。お話しする時間をいただけますか?」
そして案内されたのは応接室らしき場所だ。華美な調度品は一切ない、白い壁と黒木のテーブルセットだけが置かれた質素な部屋。けれど、腐敗した宗教施設とかじゃなさそうで、個人的には好印象だった。
「して、ご相談とは?」
「……まずは、魔王国は今後、戦争なしで人間の国との交流を深めていけるよう、努力してまいります。そのためには人間の国のことを知り、これまでの損害の補償を行う必要もあるでしょう。現時点ではその相談をするための関係性すら築けていない状況ですので、ご協力を頂きたく思います」
「なるほど……」
神殿長は私の言葉を受けて、魔王の方をチラリと見た。
「魔王殿の友好の意志が確かなのであれば、ご助力いたしましょう。平和な世が訪れることこそ、我らの本意です」
「……魔族を守る術が他にあるなら、戦を避けることに異論はない。ユズハが、新たな道を示した」
やめてほしい。そんな大げさなことはしていない。
これ以上何か言われる前に、咳ばらいをして話を遮った。
「それからもう一つ……お伺いしたいことがあります」
喉が渇く。神殿長の、白い眉の奥に隠れた小さな青い目を、真っすぐ見つめた。
「……私を、元の世界に返す方法はありますか?」
青い目が見開かれ、そしてためらいがちに伏せられる。胸がきつく締め付けられた。
「神より授かったものは返せない……そう、聞き及んでおります。再度神に願い出れば、あるいは……しかし……」
「これまでも召喚は幾度か試されたことがあるはずだ。なぜ今回は神が応えた?」
魔王の問いに、神殿長が溜息をつく。
「神話に残る、神が使うと言われるインクを見つけたのです。青く光る鉱石、それを砕いて世界樹の樹液に溶き、作成したインクを用いて、神にこいねがいました」
「じゃあ、そのインクを使えば?」
思わず前のめりになるけれど、神殿長はゆっくり首を振った。
「……鉱石は、古い遺跡で発見された一かけらのみ。もう残ってはおらぬのです。幾度か遺跡の再調査が行われましたが、おそらくこれ以上の発見は難しいかと」
「そう、ですか……」
体から力が抜けた。椅子に座り直す私の手を、魔王が掴む。どこかに行くとでも思っているのか。どこにも行けないのに。苦笑して『大丈夫』と小さくつぶやいた。
神殿長が、再び頭を下げた。
「すべてはわたくしの責任です。誠に申し訳ない。どのような罰でも受け入れましょう」
「いえ、頭を上げてください」
確かに、召喚される側の都合を考えずに呼び出すのはどうかと思うけど。それくらい切羽詰まっていたことも理解できてしまう。
隣の魔王を横目で見上げた。赤い瞳と目が合う。優しいまなざしだ。むず痒くなる。けれど、こんな目をしていても、その気になればこのあたり一帯焦土にできそうな魔王様だ。そりゃ怖いよね……
………いや、マジで怖いな?え、よく私殺されてないね?ていうか、私これに好かれてんの?
改めて考えてドン引きしてしまった。
これから死ぬまで……この魔王が暴走しないように手綱握りながら、何十年と生きていく?
「……無理じゃない?」
負担と責任でかすぎでは?
「今なんと?」
「やっぱり、謝罪はしてもらっていい気がしてきました」
「当然です……!」
改めて頭を下げる神殿長を見ながら、大きくため息をついた。
◇
「重くない?」
「問題ない」
神殿長が、お詫びと言う名のお土産を持たせてくれた。急いでかき集めてくれた人間の国のお菓子とか、野菜とか、種とか、香辛料とか、本とかいろいろ。さすがに手では持てないので、箱に詰めてくれた。私がその上に座り、魔王が箱ごと持ち上げる形で持ち帰ることになった。おそらく私込みだと百キロくらいあるんじゃないかと思う大きな箱をあっさり持ち上げた時、周囲から拍手が起きた。神官に囲まれて得意げにしている魔王はなんかシュールだった。
空はすっかり暗くなっている。箱の上に座ったまま、夜風を受けて目を閉じる。なんか、疲れたな。
「片道一時間くらいなんだもんね。結構近かったんだ」
魔王の飛行能力があるからだけど。たぶん馬車や船とかなら何日もかかるんじゃないだろうか。
「以前はこの道行きの中、お前は寝ていたからな」
「気を失ってたんだってば!」
人を呑気な人間みたいに言うなと何度言えば。
「怖かったんだよ!こんな高さ、生身で飛ぶことなんて無いんだから!怖いに決まってんじゃんよ!」
「……なるほど。飛べぬとそうなるのか」
背後から感心したような声が聞こえた。前向きに座っているせいで、いつもと違って魔王の顔がうかがえないな。
「今は怖くないのか?」
「んー、もう何度もやってるし、慣れたけど……直接抱きかかえられてるよりはちょっと怖いな」
うっかり滑り落ちそうで。想像してしまってぞわっとした。まあでも……
「もし落ちても、助けてくれるだろうって信頼はしてる」
「……落とさない」
急に声が近くなった。身を乗り出してきたのか、耳の真後ろに吐息を感じる。
「ちょっと」
「お前は俺に直接抱かれてる方が安心するのか」
「いやだって固定されてる感が違うし……近い!飛行に集中しろ!」
わき見運転すんな。
近かった温度が離れた。間に吹き込む夜風が首筋を撫でて、急に寒気を感じる。少し肩を竦めると、次の瞬間、暖かくなった。
「……何かした?」
「風の遮断を強めた。飛行の調整が面倒になるから、普段はあまりしないのだが」
「え、いや飛びにくくなるならやらなくていいよ」
「これくらい問題ない」
まあでも、もともと何かはしてくれてたのか。そりゃそうだよね。こんな高い場所、本来もっと寒いだろうし。
そう考えていると、数秒の沈黙の後に魔王が再び口を開く。
「欲しいものがあれば言え」
「ん?」
「ここに来たことを、後悔させないようにする」
眼下を見下ろした。真っ暗だ。だけどたぶん、人間の街がここには広がっている。もし、船に間に合っていたとして。うまく神殿にたどり着けていたとしても……結局は。
神殿長の言葉を聞いた時、わずかに残っていた希望が失われていって、胸が強く痛んだ。それなのに……同時に、ホッとしてしまっている自分もいたんだ。……最低だ。申し訳ない。弟にも、会社にも。
だけど、まだ魔王国と人間の国の関係修繕は始まったばかりだし。魔族の文化は危なっかしいし、キリーちゃんも放っておけないし。
「魔王は、私が帰ったらなんとかして追いかけてきそうだし……」
小さく笑う声が聞こえた。
「世界の歪みを見つけて、こじ開けてみせる」
「やめて?」
「時間ならたっぷりあるからな」
「やめろってば」
何度目か分からない溜息をついた後、少し考えて頬をかいた。
「私は、ここにいるんだし。そんなことしなくていいから」
もし、帰る方法があると言われたら……きっと私は迷わず帰った。だけどたぶん、後悔しないとは言えなかっただろう。ここでの時間を、忘れて生きていくのは難しい。
逃げ道を絶ったのは、自分の意志だ。
「ユズハ」
まだ耳慣れない、私の名前を呼ぶ声。
「なに」
「お前は俺の愛人ってことでいいのか?」
「愛人にはならんって言ってんだろ」
まあ、ちょっと役職は要相談で。
ご覧いただきありがとうございました。
ひとまず完結です。




