5.愛人(他称)は地雷を踏む
朝日で目が覚める。すっかり健康的な習慣が身に着いた。この世界に来てから一か月半が過ぎた。ぐっと伸びをして体を起こし、テーブルの方を確認する。よし、今日はいない。
私の部屋で晩酌をすることが日課になった魔王。朝起きた時にテーブルで頬杖をついてこっちを見ている魔王と目が合うか、一応自室に戻って休んでいるかの二パターンに分かれる。圧倒的に前者が多い。気を遣うからやめてほしいと思うんだけど、さすがにここまで続くと慣れてしまった。
「トトラ、おはよう」
呼び鈴を鳴らすとすぐに姿を現すコボルト。今日もモフモフである。
「おはようございます、ユズハ。今日は魔王様いらっしゃいませんね」
「そだね」
「魔王様もこちらで眠れば良いのに」
「それ絶対、本人に言わないでね」
やりかねない。
あの愛人推薦事件のあと、トトラを叱ろうと思った。厳しく抗議するつもりだったのだ。しかし、話し始めて間もなく、この黒いお目目がウルッウルになって……『怒るんですか?こんなに可愛い僕ですよ?本当に怒るの?こんなに可愛いのに?すべてが許される可愛さなのに?』と無言の圧がすごかった。あれは無理だ。どれだけこちらに正当性があろうと、あの目を向けられたら聖人だって有罪になる。こっちが悪いのだ。可愛さこそが正義だった。
朝の準備を整えると、見計らったように魔王が入ってくる。いつものことだ。
なんなの、ドアの前で聞き耳立ててんの?なんか怖いから聞かないけどさぁ。
「またヴェンスと会うのか」
「はい。昨日の相談、続きしたいんで」
部屋を出る私の後を、魔王がついてくる。会議室の方へ向かうと、ちょうどヴェンス課長と鉢合わせた。
「おはようございます」
「おはよう」
課長の態度は、ずいぶん軟化した。笑顔を見せてくれるなんてことはないが、私の話を聞いてくれるようになったし、数字の管理に関心を持ち始めている。おかげで物資の在庫をどうすれば把握できるようになるか、どうすれば自給率を上げられるのかという前向きな議論ができるようになった。
最近は朝になると会議室で打ち合わせするのが定例だ。最初の頃は私の方が会いに行こうとしていたんだ。しかし、そうするとどうしても移動において支障が出る。飛べないという壁だ。それを、魔王が解決しようとする。抱っこで連れて行ってくれるわけだ。さすがに毎回それは困るのでコボルトにお願いして梯子を設置してもらったこともある。しかし、翌日には魔王命令で撤去された。魔王に抗議したけれど、『翼が引っかかって邪魔だ』と言われてしまえば言い返せない。私の為に、他の魔族達が不自由したり、怪我の元になるのは困る。だけど、だからといって魔王が私の足になるのはもっと困る。毎度魔王に抱えられて登場する私に、嫌な顔をしたのはヴェンス課長だ。かくして私が自分の足で行ける会議室が集合場所となるに至った。
「先日教えていただいた魔獣資源についてリスト化しました。次に人間の商人が来た時には、これらについて価格交渉をしていただきたいです」
「ああ。海の魔獣は人間が捕えるのは難しいはずだ。うまく売りつけよう」
「ナギクサの養殖も検討したいですね。安定供給できれば人間達へ売ることもできるかと」
「あれは、さほど腹の足しにはなるまい?」
「干したものを水に戻すといい出汁が出るみたいなんです。食卓を豊かにするのに使う感じですね。人間には高級品として売れると思います。なんなら、一度商人にも試食させて、調理法をレクチャーしても良いですね」
「ふむ」
そんな会話をしている間、魔王は私達を黙って見ている。……ジーっと見ている。やりづらいからやめてほしいのだけれど、何度言ってもやめてくれない。相談した結果を後で報告に行くから、同席しなくていいって言ってるんだけどな。一時間ほどの打ち合わせの間、ずっとこれだ。
「養殖に関しては、セトに任せるべきだな。あやつは私より民との距離が近い。やれそうな魔族を見つけるだろう」
「分かりました。私から伝えますか?」
「頼む。昼過ぎにこちらへ寄越す。私は今日は農協の立ち上げのために動きたい」
「はい。お願いします」
収穫量の把握と向上の為、私達は農協の立ち上げを決めた。ヴェンス課長の一族の中から、管理が得意そうな人材をトップに据えて設立するのだ。細かい動きを相談し終え、課長は魔王の視線に少し居心地悪そうにしながら出て行った。話し合った内容をパソコンでまとめつつ、魔王の方をチラリと見る。
「魔王様から、何かご意見はありますか?」
「……」
無言だ。無いのか。ちゃんと聞いてたんだろうか。タイピングを再開していると、魔王が口を開く。
「農業をしていた者たちは、これまで気ままにやっていた。統率しようとすれば必ず反発がある。必要ならば俺を呼べ。権威はこういう時に使えばいい」
「……ありがとうございます」
ちゃんと聞いてたらしい。確かに、確実に反発はある。収穫量の報告義務なんて、絶対面倒だと思われるだろう。収穫量に応じて報酬を与えるとか、メリットも提示する予定だが、魔王様の一声が後押しになるならば当てにしたい。
「お前は昼までどうするんだ」
「昼からセトさんに説明する内容をまとめます。養殖計画の骨子は作っておきたいですし」
魔族文化にまだ疎い私だ。たぶん大幅に修正はかかるだろうけどね。
「魔王様は何するんですか」
「お前を見てる」
「暇すぎんだろ」
思わず素の声が出た。
「実際、お前たちに比べれば暇だ」
「……まあ、そうですね」
これが通常の国家なら、色んな会議もあれば、交渉関係の仕事もあるはずだ。しかし、この国においては違う。会議とは言っても私やヴェンス課長からの報告を受けて、重要な部分の判断を下してもらうだけ。一日に十五分くらいで十分な仕事量。
そして外交できるような国は無い。ここは後々改善すべきだけど。
残るは貴族との交流とかになるだろうが、これも無い。この国には貴族と言う制度は無いようだけど、それに相当するものといえば、幹部である三人の家だと思う。これらの家と魔王の交流があるかと言えば……無い。幹部たちとしか会わない。なんなら幹部とも必要が無いと会わない。何せ魔王の力が強すぎるので、貴族のご機嫌を取る必要が無いし、各地の代官をしているとかもないので、情報交換の必要もない。魔王が必要な時に呼びつけて命じるだけで済む関係。
そりゃ、やることが無くて暇だろう。
「なんか大物の魔獣でも狩って来てみたらどうですか?」
「前にお前が言っていた絶滅危惧とか生態バランスとかいうのはいいのか」
「その地域のヌシみたいな、数匹しかいなさそうなやつ以外ならちょっとくらい良いんじゃないですか?」
知らんが。とりあえず何か仕事を与えないと、マジでこの魔王はずっと私の仕事を見てるだけだ。正直、邪魔。
「……やめておく」
気乗りしなかったらしい。しばらくタイピング音だけが部屋に響いた。完成度八割くらいの資料ができたところで、私は一度伸びをする。どうせ修正がかかる案だしな。これくらいでも良い気がする。
「……キリーちゃんのとこにでも行きます?気分転換に」
「任せる」
任されたので、部屋をでることにした。魔王に抱きかかえられて、キリーちゃんがいる棟へ。腹を掴むんじゃない、という再三の抗議のおかげで、横抱きだ。それでもなんか機嫌が悪い時はたまに腹に腕を回して持ち上げてくる。米俵じゃないんだぞ、と言いたい。
「お前は本当に聖女が好きだな」
「召喚され仲間だし。それにキリーちゃん、可愛くて良い子でしょ」
同意を求めたのに返答が無かった。素直にほめるのが照れ臭いんだろうか。キリーちゃんの部屋をノックすると、フエロがドアを開けてくれる。フエロは赤毛のトイプードルっぽいコボルトの女性だ。わずかに目を伏せ、静かに私達を出迎えると、機敏にテーブルのセッティングを始めた。日に日に彼女の動作が洗練されて行ってる気がする。キリーちゃんが指導しているのだろうか。
「いらっしゃいませ、ユズハ。魔王様」
今日も天使の笑顔が出迎えてくれた。神々しい。
「いつも突然でごめんね」
「いいえ。会いに来てくださって嬉しいですわ」
朝と夜はキリーちゃんが神に祈りをささげるので、そこを避けるように時々会いに来る。キリーちゃんの日課はそれくらいらしく、たぶん彼女も暇だろう。フエロが用意してくれたテーブルセットに、三人で腰かける。間もなく、紅茶に似たハーブティーが出された。
「キリーちゃん、最近もまた部屋にこもり切り?たまには体動かした方が良いよ」
えらそうに言っているが私もインドア派だ。ただ、この世界に来てからあちらこちらに視察へ行く。移動は大体魔王が運んでくれているが、現地についてからは歩き回ることも多いので、最近少し体が締まって来た。規則正しい生活のおかげで、肌つやもよくなっている。魔王にさらわれた後の方が健康と言うのはちょっと認めがたいが。
「時々、廊下をお散歩いたします。けれど、もともとあまり外を出歩かない生活をしていましたから」
元の世界でも、彼女は半引きこもりだったらしい。大事な聖女様だ。危険の無いように守られていたんだろうけど。
「……もし寂しくなったら言ってね」
たぶん、大事に守ってくれていた親しい人が、元の世界にはいたんじゃないかと思う。彼女から泣き言なんて一度も聞いたことがないけれど。私の言葉に、キリーちゃんは目を見開いた後、ふわりと微笑んだ。
「寂しいと言ったら、ユズハが添い寝をしてくれるのですか?」
「キリーちゃんが望むなら喜んで」
「ふふ、魔王様に怒られてしまわないかしら?」
楽しげに笑って言われる言葉が引っかかる。キリーちゃん、私と魔王の事なんだと思ってるのかな。魔王が好きなんだよね?魔王が私に懐いてる事実に、もうちょっと危機感持ってくれていいんだけどな。しかし、そこを突っ込む前に、キリーちゃんはカップを置いて微笑む。
「わたくしには……わたくしのことをこうして案じてくれる者は、これまでおりませんでした」
「そんなこと、ないでしょ?」
びっくりした。こんなに大切に育てられていそうな娘さんだ。
「もちろん、聖女としてのわたくしを尊重し、生活を守ってくれる者はたくさんおりましたし、感謝しています。けれどこうして寂しくないかと、心を砕き、名前を呼んでわたくし個人を見てくれたのはユズハが初めてです。だから、わたくしにとってユズハは特別なのですよ」
「キリーちゃん……」
「ねぇ、魔王様?」
感動してたのに、なんでそこで魔王様?
「………」
水を向けられた魔王は無言スルー。しかしキリーちゃんは気にした様子もなくニコニコしている。この二人の関係、今どうなってるんだ。よく分からん。
そこで、コボルトが急に部屋へ現れた。コーギーっぽいコボルトだ。トトラはチワワ、フエロはトイプードルっぽいので、本当にコボルトの容姿も千差万別である。
「魔王様、ヴェンス様より、火急のお呼び出しです」
「……ふむ。どこだ」
「東の崖のようです」
「分かった」
魔王が席を立ち、私の髪をひとふさつまむ。
「ここにいろ」
「はぁ」
どちらにしろ、魔族の誰かに頼まないと私はどこにも行けない。まぁ、いざとなればどうにでもできなくは無いんだけど。
パサリと私の髪が肩に落とされる。なんで一瞬つまんだ?あ、ちょっと伸びてきたな。そろそろ切りたい。傷み放題のミディアムヘアーは、肩甲骨のあたりまで伸びつつある。最近はトトラがケアしてくれるので幾分マシだが、やっぱりまだブラシに引っかかりが……
「ユズハは、愛人になっても魔王様にあまり甘えたりしませんのね」
お茶を噴くかと思った。こらえた私えらい。
「なんて?なんで?愛人?私愛人じゃないけど?」
「あら」
あら、じゃない。
「待って、あのさ。キリーちゃんって魔王が好きなんだよね?」
「もちろん、お慕いしておりますわ」
「……魔王のお嫁さんになりたいんだよね?」
改めて確認したことは無かった。初対面で劇的に寝返ったキリーちゃんだ。その想いの強さはそれだけで分かったつもりだった。しかし、ならばなぜ平然と私が愛人だと受け入れているのか。一夫多妻制を歓迎する文化だったのか。
キリーちゃんは驚いたように目を丸くしていた。
「……ユズハ?」
「はい?」
「聖女とはいずれ神の御元に迎えられる者。現世で誰かと結ばれることはありません」
「えっ」
宗教の壁。
「わたくしは魔王様をお慕いしておりますが、寵愛を得たいとも女の幸せを得たいとも思っておりません」
清らかな笑顔で言いきられてしまった。
嘘でしょ……そんなバカな。
前提がひっくり返って、頭が真っ白になる。
「ただ日々、魔王様が生きてくださっている。そして、為すべきを遂げてくださっていればそれで幸せなのです。大好きなユズハと共に居てくれるならば安心です。二人の姿を見ていると満たされます」
絶句した。これは、『推し』だ。キリーちゃんが魔王に抱いている感情は恋愛ではなく、推しだった。なんなら私とセットで推されているまである。こっちは魔王とキリーちゃんのカップル推しだったのに。なんでここですれ違うんだ。こんな片想いあんまりだ。
思わず額を押さえた。
「まあ、ユズハ。頭痛が?」
細い指先がそっと私の肩に触れてくれる。温かい波動が全身を包んだ。めちゃくちゃ癒される。肩こりは軽くなった。ありがとう。だけど心労は消えない。
「……キリーちゃん」
「はい?」
「私はね、元の世界に帰りたいんだよ」
「……」
「魔王の愛人になんて、なる気は無いんだ」
キリーちゃんの手が、そのまま私の頬を撫でる。
「ユズハ。元の世界に残してきたものが?」
紫水晶の瞳に私が映っている。表情の消えた私が。
「……うん」
……あーあ、あの漫画の続き、どうなったんだろ。
◇
しばらくして、魔王が戻って来た。なんでも崖の一部が崩れたらしい。崖下に建物や人はおらず、被害は無かったそうだけど。
「……少々きな臭い」
「きな臭い?」
聞き返してみても、魔王はそれ以上語らない。珍しく険しい表情で、黙り込んでしまう。それを見たキリーちゃんも、少し心配そうに眉を下げた。
「ユズハ。戻った方が良いのでは?」
「そうだね。そろそろお昼だし。またね、キリーちゃん」
セトくんと会う前に、お昼食べないと。
「魔王」
「ああ」
手を伸ばすと、私が肩を掴みやすいように魔王が屈む。肩に指をかけると同時にひょいと抱き上げられて、そのまま部屋を出た。
「……あれで愛人だと宣伝しているつもりがないのですね」
そんなフエロの呟きは、私には届かなかった。
◇
「セトさん。わざわざ来てもらってすみません」
「ううん。いいんだけど」
昼過ぎになって、会議室にセトくんがやって来た。苦笑気味に口を開く。
「やっぱり慣れないなぁ。ユズハってこの部屋に居る時はなんでそんなかしこまるの?」
「仕事なんで」
「ほんと、意外と真面目だよね」
意外ってなんだ。
あらかじめ用意していた資料を見ながら、ナギクサの養殖に関する展望を話す。
「養殖か。農業に興味がある者なら、関心を示すかもしれない」
「農作物の収穫量は減らしたくないので、できれば現在は農業に従事していない方がいいですね。農業経験が海中での養殖に活きるかどうかも未知数なので、ひとまずは未経験でも良いかなと。どちらかといえば、海の事を知っている人材にチャレンジしてほしいです」
そう話をしている途中、また会議室にコボルトが現れた。さきほどと同じコーギーだ。
「魔王様。西区で火災が発生しました」
「西区!?」
思わず私が立ち上がる。西区には野菜の倉庫が多い。備蓄への影響が心配だ。
「俺が必要なのか?」
「強力な火魔法です」
魔王が、チッと舌を打って立ち上がった。そして、私の真横で一度足を止める。
「……死にたくないんだったな?」
赤い目が私を見下ろしていた。そりゃもちろん、と頷く。
「ならば」
太く長い指が、私の額に添えられる。目の前に赤い光が散った。よく見ると、光は額を中心にして魔法陣のような形を描いているようで、ゆっくり回っている。そこから発生した熱が、体の中に入り込もうとしてくる気配。
「うわ、なに!?」
思わず頭を振ると、熱は止まった。額を押さえて魔王から体をそらす。
「拒絶するな」
「そう言われても」
「死にたくないならば、俺を受け入れろ」
この魔法陣を受け入れることと、魔王を受け入れることの関連性がわからん。
「まって、この魔法陣何なの?」
説明プリーズ。
「説明している時間は無い。死にたいか、死にたくないか。選べ」
暴論だ。その二択なら、私が選べる道は決まっている。うう、と唸りながら、額を隠していた腕を下ろした。
「受け入れると宣言しろ」
「……う、受け入れます」
魔王の指が触れ、ふたたび魔法陣が浮かび上がる。入り込んでくる熱。振り払いたくなるのを必死で堪えた。あつい。焼けるほどってわけじゃない。熱くなりすぎたカイロくらい。我慢はできるけど、眉が寄るのは否めない。頭からつま先までその熱が走り、止んだ。
それを見届けると、魔王は何も言わず、足早に部屋を出て行った。ジンジンする額を押さえて、セトくんを見る。
「……セトくん、今の魔法陣なんだったのか知ってる?」
「いやぁ……そのうち、魔王様が説明してくださるんじゃない?」
困ったような笑顔。何か知ってる顔だ。物凄く嫌な予感がする。
「……これ、変な契約になってたりしないよね?」
「ははは」
否定して!そこは否定して!
「ほら、仕事するんでしょ。海中での作業となると、それなりに戦えるか、体が丈夫な魔族でないとなぁ」
これで切り替えろって言うのはちょっと無理がある。無理があるけど、セトくんを呼び出しているのは私だ。仕事しろと言われれば反論できない。はぁ、とため息をついて、椅子に座り直した。
「……適任はいますかね?」
「うーん……ああ、少し前に農業をやめて狩りに転身したのが何人かいた気がする。会いに行ってみる?」
「いいんですか?」
「僕じゃ上手く説明できそうにないし。ユズハから話せば興味を持つかもしれないよ」
「じゃあ、ぜひ」
「それなら、南区の酒場に行こうか。西区には今は近寄らない方が良さそうだし、離れた場所にしよう」
「なんか、今日トラブルが続いてるみたいですね。出ても大丈夫ですか?」
「大丈夫だよ。魔王様の守護があるし」
さっきの魔法陣の事か。一応、私の身を守るものなのは嘘じゃないらしい。
会議室を出て、バルコニーに立つ。ここから見える景色は南東だ。セト君に抱き上げてもらって飛び立ってから、首を回して西へと視線を向ける。黒い煙が立ち上っていた。
「大丈夫かな」
「魔王様はお強いから、やけどなんてしないよ」
「いや、倉庫が」
「ユズハ……」
魔王が炎に負けるとは思ってないよ。めちゃ強だってことは、この一か月で色んな人に教えてもらったもん。キリーちゃんですら、『おそらく魔族は祈りで消せても、魔王様は無理です。時間をかければ可能かもしれませんが、これだけ近くにいますからね。神聖力が及ぶ前に魔王様の手が私に届くでしょう』と言っていた。対魔特攻の聖女でこれなのだから、世界が滅んでも一人で生き残っていそうだ。心配するだけ無駄だろう。
「ユズハは、どうして魔王様に冷たいの?」
「冷たいかな?」
「あれだけ魔王様が歩み寄ってくださっているのに」
歩み寄ってるっていうのか?
「魔王様は、私のことを所有物だと思ってるだけだよ」
「特別な所有物だよ?」
「私は物じゃないの。そういう支配欲向けられても困る」
魔族にとって魔王に従うのは当たり前のことみたいだけど。
「酒場って、こんな時間からやってるの?」
話題を変えた。今はまだ昼過ぎだ。体感としては十五時前くらいだろうか。お酒を飲み始めるには早いと思う。
「やってるよ。お酒が好きな魔族は多いからね」
「お酒って購入品目に多少はあったけど、そんなにたくさん飲むような量あったっけ?」
「酒造所はあっちこっちにあるよ」
貴重な土地を酒にいくつも割いとんのかい。
セトくんが下降を始める。少し混みあった路地が眼下に見えた。人通りはそこそこ。異世界の酒場って、ちょっと興味あるよね。そんな風にワクワクしていた矢先。ヒュ、と息を呑む声が聞こえた。
セトくん?
そう呼び掛けることはできなかった。突然セトくんが向きを変え、飛行スピードを上げたからだ。
街並みを越えて、岩場のある海際へ。そして下降。ものすごい勢いで岩場が近付いてくる。ぶつかる。そう思った瞬間、セトくんがギュッと私を抱きかかえた。衝撃。ぐるぐると体が回ったり、どこかにぶつかっていることはわかるけれど、何が起きたのかさっぱり理解できない。
「ユズハ、大丈夫!?」
セトくんの声。体が少し離れたことで周囲が確認できた。岩場の上に、私は転がっていた。セトくんは私を背にかばうように屈みながら、頭上を見上げていた。視線の先を追いかけると、そこには羽を広げて宙に浮く魔族の姿がある。
浅黒い肌。深紅の髪を振り乱し、犬歯をむき出しにして、笑っている女性が一人。
「セレン、さん?」
確かそんな名前だった。この城に来た翌日に出会ったきり。その時も魔王との会話を聞いただけで、言葉を交わしたことは無い。
「相変わらず丈夫だね、セト坊!さすが頑丈さだけで幹部になった男は違う!嬲りがいがあるじゃないか」
セトくんは何も答えない。ただセレンさんの方を見て、私を自分の背後に隠している。よく見ると、彼の服はところどころ破れて焼け焦げていた。何か攻撃を受けたのだろうか。私は……何とも無いようだ。セトくんが庇ってくれたのかもしれない。
反応のないセトくんに興ざめしたように、セレンさんの表情から笑顔が消える。金色の瞳と、目が合った気がした。
「その人間を、よこしな」
気のせいじゃなかった。血の気が引く。狙いは、私だ。
「断る。この人間が何者かわかってるの?魔王様が許さないよ」
「はん……人間ごときに篭絡される魔王なんざ、とっとと殺してやればいいのさ」
「セレン!」
セトくんの声が一気に険しくなった。次の瞬間、あんなに遠くにいたはずのセレンさんが、セトくんの目の前に迫っている。伸ばされた手が、私の髪を掴んだ。
「うっ……」
「ユズハ!」
「なあ女ぁ……てめぇ、何のつもりなんだ?」
私の髪を掴んだまま、セレンさんが腰を曲げて、顔を近づけてくる。セトくんが間に割って入ろうとしてくれているけれど、その妨害を全く気にかけてもいない。
「なに、が……」
「知らねぇと思ってんのか。なぁ、戦争をやめる?馬鹿言ってんじゃねぇ。百年だ。この戦を心待ちにしてたやつらがどれだけいると思ってんだよ」
呼吸が止まった。そうだった。忘れていた。この人は戦をしたがっていた。
「あたしが生まれた頃には戦が終わっちまった。生まれが遅かったことをどれほど悔やんだことか。この日をずーっと待ってたんだ。金庫が空になったら、戦ができるってなぁ。それを、てめぇは、ぶっ壊そうってのかよ!」
髪を掴んだ手を揺さぶられて、視界がぶれる。声が出ない。何か返事をしたくても、声が出ない。いや、声が出たところで……何を言えばいい?
私は、戦争を止めたかった。それがこの国の為にもなると思っていた。この人のように戦争を望む人達の事なんて……何も…………
不意に、視界がまぶしくなった。まるで、燃え盛る炎の中にいるかのよう。いや、ようではなく……私、燃えてない!?しかし、熱は無い。ただただ、熱くない炎に包まれているだけだ。
「チッ……人間の分際で、邪魔くせぇ!」
「やめろ!」
ぐわっと体が持ち上がった。そこで気付く。おかしい。痛みが無い。さっきから髪を掴まれているのに、今は持ち上げられてさえいるのに。
吠えるような声が聞こえるのと同時に、体が飛んでいった。猛スピードで通り過ぎる景色。次第に緩やかになった時、視界に映るのは青い海の水面だ。白波が立つその中に、私の体は吸い込まれて行った。
◇
『ゆずは、俺の事気にしないで好きに生きたらいいから』
次第に広くなっていく部屋。詰みあがるゴミ袋と段ボール。
『俺は、大丈夫だし』
そんなことを言われて、手にした掃除機をどう動かしたらいいのか、分からなくなった。
◇
コポリ、と口から空気が漏れる。話そうとしても、声が出なかった。暗い。ここはどこだ。ああ、きっとこれは夢だ。ずっと、長い長い……夢を見ている。早く戻らないと。
「とお、る……」
唇から声が漏れた。肌の感触が、意識に上ってくる。冷たい。重い。濡れた服がまとわりついて、気持ち悪い。誰かに抱えられていた。
「……まおう……?」
夕日を背にした真っ黒な影の中、赤い瞳が見えた気がした。かすむ瞳をこすっていると、硬い声が降って来た。
「……無事か」
「うん……?」
何が、どうなったんだっけ?周囲を見回した。波が押し寄せる岩場。そこに魔王は私を抱きかかえて立っていた。服がお互いずぶ濡れだ。
そして少し離れた場所に、跪いた……いや、なんかもう土下座に近いほど頭を下につけたセトくんと、いつだったか見たのと同じ、黒い縄で縛られて転がるセレンさん。
そうだった、私……
「……助けてくれたんだ、ありがとう」
とりあえず、それは分かった。ホッと体の力が抜ける。降ろしてもらおうと身じろぎしたけれど、強い力で抱え直された。
「魔王?」
「どうしたい?」
「え?」
降ろしてほしいが?
「あれの、処分の話だ。お前の望みも聞こうと思って、まだ殺さずにいる」
なんか怖い話が始まった。なんだなんだ。魔王の赤い目が、暗く沈んでいる。夕日の赤よりもずっと深く。その視線は、セレンさんを見ていた。
怒りをあらわに睨み返す彼女の眼差しにたじろぎもせず、まっすぐと。
「端から刻むか?一晩の間、海に幾度か鎮めて苦痛を与えた後、セツゲイに食わせるか?ああ、火の魔法に誇りを持っている一族だ。それをも上回る、俺の炎であぶってやってもいいが」
「………」
ドン引きである。何その地獄の三択。誰のための選択肢なの?私に選べって言ってる?
「……え、それ、どれかから選ばないといけないの?」
「他に望みがあるならば言え」
紅い瞳が、ようやく私を見た。顔が近い。なんで近づいてくるのかと思えば、濡れた髪に、魔王の頬が当たる。
……なんか、スリスリされてる。猫?猫なのか?
「私、犬派なんよな」
「何の話だ?」
何の話だろう。セレンさんを見た。日の傾き方からして、あれから数時間は経っていそうなんだけど、なんのタイムラグも無かったかのように彼女の怒りは鮮明なままだ。当然か。
「魔王様」
「なんだ」
「私の希望を聞いてくれるんですか?」
「そうだ」
「じゃあ、彼女との会談の場を希望します」
沈黙が落ちた。セトくんが顔を上げた。ポカンとしている。魔王の口が苦々しげに歪んでいく。セレンさんも何か言いたげにしているけれど、暴れることも声を出すこともできないようだ。
「私は……少し強引にことを進めすぎていました。対立意見の存在を忘れていた、私の手落ちです」
ぐっと唇を噛む。うまくやれている気になっていた。魔族の為になっていると思っていた。最初に聞いていたはずなのに、彼女の気持ちを。戦争をしないことが正しいと決め込んで、その意見を頭から追いやっていたのだ。
「俺は奴の希望を知っていた。その上で、お前のやることに許可を出した」
いつの間にか俯いていた顔を上げる。魔王がこちらを見下ろしていた。ふ、と笑みがもれる。庇ってくれているらしい。
「はい。私だけで責任を負えるとは思ってません。だからこそ……魔王様も共に、解決策を模索してください」
「これを殺せば済むのにか」
「それで済む話じゃありませんよ。戦うのが大好きな人、本当にセレンさんだけですか?」
「む……」
セレンさんを見る。高いところから申し訳ない。
「戦争を避けたいという気持ちに変わりはありません。だけど、妥協点を探す努力はするべきです」
「いいだろう。奴と話す場は設けてやる。ただし」
魔王の歯がガリッと音をならした。すごい音だった。ギョッとして見上げる。
「なんの代償も無しというのは、許さん」
「代償って」
「お前、日の差さない海中まで沈んでいたぞ」
「え!見たかった!」
深海体験!?
不意に視界が塞がれる。
「ぅ?いっだぁ!」
首を押さえる。噛まれた!誰に?決まってる。魔王だ。
犬派って言ったからか!?噛まれたいとは思ってなかったぞ!
「黙れ」
「いや無理でしょ、噛まれて黙ってる方がおかし……」
「いいから、黙れ」
また、私の頭に顔を寄せてくる。……まぁ、なんというか。
「……ごめん」
心配かけたっぽい。
大きなため息が聞こえた。
「戻るぞ」
「うん……うん?いや、セトくんとセレンさんは?」
「今夜は一晩このままだ」
「なんで!?」
セレンさんはまだしも、セトくんも!?
「セトくんに落ち度はない!」
「お前を守れなかった」
「そんなことセトくんの責任じゃないよ!ちゃんと守ろうとはしてくれてたし!」
「結局守れなかったんだろう。俺の物を守るのは奴の仕事の一つだ」
「わたしは、あんたのものじゃない」
一文字ずつ、言い聞かせるように告げる。
「せとくんに、おちどはない」
これももう一度。魔王の目が細められた。前髪の奥で眉がギュッと寄っているのがわかる。
「セトくん、帰ろ」
「いや、でも……」
「いいから。この件は私の希望聞いてくれるって魔王様言ってるから。帰ろ」
そういうことにしておく。魔王は否定しない。なら、いいでしょ。
「セレンさんは、本当にこのままで一晩平気なの?」
「……明日の朝見に行っても、元気にお前を睨むぞ」
ならまぁ……いいか。できれば少し頭を冷やしてほしいんだけど。こんなことをうっかり口にしたら、魔王が曲解して何をするか分からない。
三人で城へと戻る。途中でセトくんは深く頭を下げてから、自分の部屋へと向かっていった。そのお辞儀を一瞥もせず、魔王は浴室へと向かう。
大きなバスタブがある部屋だ。いつもはお湯が張られているけれど、今日は急な事だったし、準備がされていない。けれど目の前で、どこからともなく水が現れてバスタブの中へと飛び込んだ。そしてすぐに湯気があがりだす。
「え……魔王がやってる?」
「ああ」
魔法凄い。魔王凄い。
「じゃあ、魔王が先に……」
とりあえず降ろしてもらって、順番に入ろうと思ったのに。降ろしてくれない。魔王は私を抱き上げたまま、バスタブの中へ入る。
「え、ちょ!服!靴!」
バシャンという水の音に、私の叫びは掻き消えた。
服も靴もそのまま、魔王に抱きかかえられたまま、お湯の中。唖然とした。何だこれ。
「魔王、何?何がしたいの?」
おそるおそる顔を見上げようとして、失敗した。私のつむじに額を当てるように、魔王が屈みこんできたからだ。そして私を膝にのせたまま、ギュウギュウ抱きしめてくる。
「苦しい苦しい」
肌に張り付く服の感触、頬に触れるのは、魔王の濡れた服。
そういえば、魔王も濡れてたな。深海まで飛び込んできてくれたんだろうか。
「……魔王って……」
「…………」
「…………」
沈黙が落ちる。
「……なんだ」
「いや……何でもない」
肩に入っていた力を抜いて、少しだけ魔王にもたれかかる。わずかに身じろぐ気配がしたけれど、私に回された腕は離れない。お湯が冷めるまで、私達はしばらくそうしていた。
ご覧いただきありがとうございます。




