8.選び取るということ
「……自覚があるのなら、よかろう」
低い声が、静まり返った食堂に落ちた。
エドマンドの声だ。
その言葉は、決して優しくはなかった。
だが怒りもない。
ただの判断だった。
テーブルの上では、まだ温かい紅茶の湯気が揺れている。
ミネットの手が止まり、
カサンドラの視線がゆっくりとリシェルへ向けられていた。
それは──
数秒前、リシェルが告げた言葉への返答だった。
「王太子殿下との婚約を、辞退させていただきたく存じます」
食堂の空気が、あの瞬間、確かに変わった。
ミネットの微笑みが凍りつき、
カサンドラの紅茶の縁がわずかに揺れた。
そして今。
エドマンドは、娘をまっすぐに見つめている。
「……理由は」
問われる声は静かだった。
リシェルは視線を逸らさない。
「この顔では、将来王妃として人前に立つには相応しくございません」
一拍。
「未熟を恥じ、修道院にて己を見つめ直したく存じます」
言葉は自分を下げる形を取っている。
だが選んでいるのは、自分だ。
エドマンドは黙り込んだ。
怒る理由はない。
むしろ──都合がいい。
王妃教育を受けているミネット。
王家との体裁。
そして傷を負った長女。
数瞬の計算のあと、落ちたのが先ほどの言葉だった。
「……自覚があるのなら、よかろう」
静かな承認。
それは拒絶ではない。
止める意思もない。
カサンドラがゆっくりと口を開く。
「もちろんあなたの意思よね?」
探るような視線。
リシェルは瞬きもせずに答えた。
「はい。私の選択でございます」
その声音に、揺れはなかった。
ミネットが椅子から立ち上がる。
「お姉様……そんなにお辛かったのですね」
声は柔らかい。
だがその瞳の奥には、淡い光が宿っていた。
勝利の色。
(そう思っていればいいわ)
リシェルはただ、静かに一礼した。
エドマンドが事務的に告げる。
「王家にはこちらから打診する。修道院の件も手配しよう」
決定はあまりにも淡々としていた。
まるで、最初からそうなる予定だったかのように。
食堂の時間は再び動き出す。
カトラリーの音。
紅茶の香り。
けれど、もう同じ空気ではない。
⸻
廊下に出た瞬間、足元が少しだけ揺れた。
(……言えた)
震えていない。
泣いてもいない。
怒鳴られもしなかった。
ただ、受理された。
部屋へ戻ると、背中で扉を閉める。
胸に手を当てると、心臓の鼓動が力強く響いていた。
(……私は、選んだ)
鏡の前に立つ。
白いガーゼが、頬に浮かんでいる。
ゆっくりと息を吸う。
「……わたしは、よくやってる」
今までで一番、はっきりと。
「……ありがとう」
胸の奥がじんと熱を持つ。
その時。
コン、コン。
扉が叩かれた。
「リシェル様。王家より書簡が届いております」
侍従の声。
封を切ると、整った筆跡。
「明日、王太子アレクシス殿下が訪問されます」
(……早いわね)
婚約辞退の件を、本人の前で。
後戻りはできない。
けれど、足は震えなかった。
(大丈夫)
胸の奥の灯が、静かに揺れる。
(私はもう、言える)
窓の外には、重たい雲。
だがその向こうに広がる青空を、
リシェルは確かに想像していた。




