7.静かなる決意
翌朝の食堂は、いつもと変わらぬ冷たい優雅さに満ちていた。
磨き上げられた銀器。
香り高い紅茶。
並べられたパンと卵料理。
(……ここだけ切り取れば、理想的な絵画みたいね)
リシェルは、静かに席に着き、手を組んだ。
「ミネットは最近、王妃教育にもよく励んでいると聞いたぞ」
父・エドマンドの声が、落ち着いた調子で響く。
「お父様ったら。まだ始めたばかりですのに」
ミネットは少しだけ首を傾げ、控えめな笑みを浮かべる。
その仕草は、いかにも“かわいらしい令嬢”そのものだった。
カサンドラが、満足げに微笑む。
「ミネットは本当に、聡明で謙遜まで出来るなんて素晴らしいわ」
(……そう。王妃教育、ね)
胸の奥が、わずかにざわめく。
それは本来なら、自分のために用意されていたものだ。
少なくとも、この家の外側から見れば──。
エドマンドの視線が、ふと、リシェルへと向けられた。
「それに比べて……お前は」
(また、同じ言葉かしら)
覚悟を固める前に、思いがけない言葉が続いた。
「……あの顔では、王妃として人前に立つのは難しかろうな」
静かなため息が、テーブルの上に落ちる。
「いっそ、修道院にでも籠もって神に祈り、己の行いを省みるのも……一つの道かもしれん」
「お父様ったら、大げさですわ」
ミネットが紅茶を口に運びながらくすりと笑う。
「でも……傷を負っても、きちんと“反省”できる場所があるのは、良いことですわよね? お母様」
カサンドラも、意味ありげに笑みを深めた。
「ええ。ふさわしい場所というものは、誰にでもございますから」
(……修道院)
胸の内側が、ひどく静かに揺れた。
(“冗談”のつもりかもしれないけれど……)
──ちょうど、いい。
(…それを、利用すればいい)
自分の意志で選び取るための言い訳として。
この家から出る“正式な理由”として。
リシェルは、何も言わず、静かにナイフとフォークを置いた。
⸻
朝食を終え、廊下を歩いていると、
ふと、人の気配がして足を止めた。
曲がり角の向こうから、ひそひそとした声が聞こえてくる。
「……聞いた?お嬢様、顔に傷が残るかもしれないんですって」
「ええ、聞きましたわ。可哀想に……と、言うべきなのかしらねぇ」
「でも、王太子殿下の婚約者でしょう?さすがに、あのままというわけには」
「その点、ミネット様なら問題なく務めを果たされるでしょうね。あの方なら、立派な王妃に……」
くすくすと笑い声が混じる。
「そのうち、本当に修道院に入れられるのでは?“心も顔も、神の前で清めてきなさい”なんて」
「やだ、声が大きいわよ」
慌てて声が小さくなる。
(……勝手なこと言っちゃって)
胸の奥で、冷たいものがスッと立ち上がる。
(何も言わなければ、“そういうふうにされる側”のままなんだわ)
この家の中で、リシェルの意思など、誰も求めていない。
黙って従っていればいい人形。
それが、“今までの”リシェルだった。
(……だから)
(勝手に決められる前に……自分で決めなきゃ)
静かに踵を返し、部屋へと戻る。
⸻
扉を閉めると、現実の音が少しだけ遠のいたように感じた。
机の引き出しから、小さな紙片とペンを取り出す。
(……逃げるって、言葉は書かないでおこう)
それは、まだ文字にして見たくない言葉だった。
代わりに、紙の端に、小さく書き始める。
「持ち出すもの」
震える手で、一つずつ。
・最低限の着替え
・路銀になるだけのお金
・外套
・目立たない靴
・包帯、薬草
・顔を隠せる布
(……あとは)
少し迷ってから、最後にそっと一行を足した。
・“ここではない場所”で、生きる覚悟
書いた瞬間、胸の奥がじんと熱くなる。
(……本気で、やるつもりなんだ、私)
紙を折り畳み、衣装箪笥の奥、本の影に隠す。
(次は……トマスに、もう少し踏み込んで相談しないと)
昨日、勇気を出して話したことで、
“話してもいい大人”が、本当にこの世界にいるのだと知った。
(……私には、ヘレナがいて。トマスもいて)
前世の自分を思い返し、その差に、少しだけ眩暈がした。
(今度こそ、ちゃんと頼る)
そう決めて、リシェルは部屋を出た。
⸻
屋敷の裏手へ向かう廊下は、
いつもより静かに感じられた。
誰も声をかけてこない。
誰も、特別気に留めない。
(……本当に、私のことなんて誰も見ていないのね)
だからこそ、今は好都合だった。
「トマスは……馬小屋よね」
裏庭を抜け、いつもの匂い
──藁と土と、馬のあたたかな気配が混ざった空気に包まれる。
馬小屋の前では、トマスが荷車の整理をしていた。
「……トマス」
声をかけると、トマスはすぐに振り向き、
驚いたように目を見開いた。
「リシェルお嬢様」
慌てて帽子を取って頭を下げる。
「お身体の具合は……よろしいのですか?」
「ええ。まだ少し痛むけれど、歩けるわ」
「そうでございますか……無理はなさらぬよう」
トマスの目が、さりげなく頬のガーゼを見やる。
その視線には、憐れみではなく、純粋な心配が宿っていた。
(……安心する目、だわ)
少しだけ、胸の奥が緩む。
「昨日は……話を聞いてくれて、ありがとう」
リシェルがそう言うと、トマスは静かに頷いた。
「とんでもございません」
一拍置いて、リシェルは本題を切り出した。
「……トマス。私、王太子殿下との婚約を……辞退したいと考えているの」
トマスの手が、わずかに止まる。
「……それは、修道院へ入られる……というお話と、繋がっておりますか」
「……聞いていたのね」
「使用人たちの噂話は、否応なく耳に入ってまいりますゆえ」
トマスは苦い笑みを浮かべた。
「屋敷の中では、もう“そういうことにされつつある”ようでございます」
「……だからこそ、利用しようと思っているの」
リシェルは、胸の前で指を組む。
「この傷を理由に、王妃にはふさわしくないと、きっと言われる。だったら私のほうから、“修道院で心を鎮めたい”と申し出るわ。“王太子殿下の婚約者として未熟だったから”って」
言いながら、喉の奥がかすかに痛んだ。
それは本心からの反省ではなく、
そう言わなければ居場所を奪われる世界への、苦い迎合だ。
トマスはしばらく黙っていたが、やがて静かに言った。
「……お嬢様は、本当に……この家を出るおつもりなのですね」
「…………」
はっきりと“はい”とは言えなかった。
けれど、否定もしなかった。
その沈黙だけで、十分だったのだろう。
トマスは、ゆっくりと息を吐いた。
「……でしたら」
その声音が、少しだけ引き締まる。
「修道院へ向かう道のりについて、事前にお調べになっておいたほうがよろしゅうございます」
「……道のり?」
「ええ。乗合馬車の便、街道の分かれ道、人目の多い場所と少ない場所……」
トマスは、慣れた調子で言葉を並べた。
「たとえば、北門から出る乗合馬車であれば、三日後の朝にひとつ。ちょうど修道院方面の街道へ向かいますが……途中、森の近くで荷を降ろす商人もおりましてな」
リシェルの胸が、どくんと大きく脈打った。
(……森の近く)
「それは……“念のため”の話、かしら?」
問いかけると、トマスはわずかに目を細めた。
「ええ。“念のため”でございます」
淡々とした口調。
けれど、その奥には確かな意図がある。
「心のどこかに“備え”があることは、決して悪いことではございません。行き先を決めるのが、他人ではなくお嬢様ご自身であるのなら、なおさら」
(……私が、自分で、決めていい)
その言葉が、胸に真っ直ぐ刺さる。
トマスは続けた。
「それから……」
少し言いにくそうにしながらも、言葉を選んで口を開く。
「わたしには、昔……助けたことのある子がおりましてな」
(……前にも、少し話していた子ね)
「今は立派に成長して、世の表も裏も、ある程度わきまえております。身元を隠す方法や、身分を問われない場所などにも、詳しい」
「……そんな人が、いるのね」
「ええ。お嬢様が望まれるのであれば……その者に、手を貸してもらうこともできましょう」
言いながらも、トマスは押しつけがましくならないよう、少しだけ遠い距離を保っている。
選ぶのは、あくまでリシェル自身だ、というように。
リシェルは、指先に力を込めた。
「……今すぐにお願い、とは言えないけれど」
まっすぐにトマスを見る。
「でも……その時が来たら、その人の力を借りたいって、きっと思うわ」
トマスの表情が、少しだけ和らいだ。
「でしたら、その時までに…わたしはここで、準備を整えておきましょう」
「……ありがとう、トマス」
それしか言えなかった。
けれど、その一言に、どれほどの想いが込められているかは、自分が一番よく分かっている。
トマスは深く頭を下げた。
「わたしは、リシェルお嬢様がご自分で選ばれた道を、応援しております」
⸻
馬小屋を後にし、屋敷へ戻る途中。
石畳を踏みしめるたびに、胸の中の不安と希望がかすかに揺れる。
(……本当に、私はこの家を出られるかもしれない)
今までは、ぼんやりとした“願い”だった。
けれど今は、具体的な“手段”の輪郭が見え始めている。
修道院という建前。
北門から出る乗合馬車。
森の近くで荷を降ろす商人。
頼れるかもしれない“誰か”。
(……怖い。でも)
廊下で使用人とすれ違っても、誰も声をかけてこない。
冷たい視線を向ける者すら、今日はほとんどいなかった。
(ここにいる限り、私は“誰でもない”まま)
だからこそ──
(ここから出たら、初めて“私”になれるのかもしれない)
部屋に戻り、背中で扉を閉める。
胸に手を当てると、
心臓の鼓動が、いつもより少しだけ力強く響いていた。
(……準備を、急がなきゃ)
婚約辞退を切り出すタイミング。
修道院行きという建前の整え方。
荷物のまとめ方。
考えるべきことは、まだ山ほどある。
けれど──
(……歯車は、もう動き始めている)
そう思うと、不思議と足がすくむことはなかった。
リシェルはそっと窓を開けた。
冷たい風が、頬を撫でて通り過ぎていく。
重たい雲はまだ空を覆っている。
けれど、その向こう側にあるはずの空を、
今は確かに想像することができた。
(……私の行き先は、この家の外)
胸の奥で、小さな光がふっと揺れる。
それはまだ、か弱く頼りない。
けれど、確かに消えずに灯り続ける光だった。




