6.自分の足で
翌朝。
リシェルは、そっとベッドから身を起こし、窓から差し込む光に目を細めた。
身体のあちこちにはまだ鈍い痛みが残っている。
けれど、それでも今日はどうしてもやりたいことがあった。
(……鏡)
立ち上がり、ゆっくりと鏡の前へと歩み寄る。
映った自分は、やはり少し疲れた顔をしていて、
頬にはまだ白いガーゼが貼られている。
(……でも、昨日よりは……)
胸の奥に小さく息を吸い込む。
「……わたしは……よく、やってる……」
喉がかすかに震える。
それでも、昨日よりずっとスムーズに声が出た。
「……いつも……ありがとう」
言いきった瞬間、胸の奥がじんと熱くなる。
(……言えた……)
完全ではない。
まだ声は小さいし、途中でつかえそうにもなった。
それでも──確かに、言えた。
(少しずつでいい……私は、変わっていける)
ふと、ガーゼの下に隠れた傷に触れそうになり、そっと指を引っ込めた。
(……この傷)
鏡の中で、ガーゼ越しに自分の頬を見つめる。
(“王妃”にはふさわしくない顔……そう思われるのなら)
だったら──と、思考が自然と繋がっていく。
(だったら、これを理由に……婚約を、辞退できるんじゃないかしら)
“王太子の婚約者”という立場から退く。
その代わりに、表向きには“神のもとで静かに祈る道を選んだ”という形にする。
(修道院……)
顔に傷を負ったことを恥じ、心を鎮めるために修道院へ入る──
そう言えば、少なくとも体裁としては不自然ではない。
(……そこから先は、私次第)
修道院に行くふりをして、途中で姿を消す。
どこか安全な場所へ──森の中、誰にも知られない場所へ逃げる…。
ぼんやりとした輪郭だった“逃げ道”が、
ようやく形を持ち始めた気がした。
その時だった。
コン、コン。
控えめなノックの音が、静かな部屋に響いた。
「……リシェル様、ヘレナでございます。入ってもよろしいでしょうか?」
「ええ。どうぞ」
返事をすると、扉がそっと開く。
ヘレナが朝食のトレイを抱えて入ってきた。
「おはようございます、リシェル様。お加減はいかがですか」
「……おはよう、ヘレナ。痛みは……まあ、なんとか、ね」
そう言うと、ヘレナはトレイをテーブルに置き、
少しだけ申し訳なさそうに微笑んだ。
「他の使用人たちは……相変わらずでございましたね」
リシェルは、思わず目を瞬いた。
「……え?」
「今日も、こちらに伺おうとしましたら……誰もこちらのお部屋の様子を気にしていないようでしたので」
ヘレナは、わずかに肩をすくめる。
「ですが、それはそれで……悪いことばかりでもございません」
「……どういうこと?」
問い返すと、ヘレナは少しだけ声を落として続けた。
「誰もこっちを気にしてない分、わたくしはこれからもこっそりとお部屋に伺いやすくなりまして」
「……ああ」
思わず、ふっと笑いがこぼれた。
(そうか……無視されているのは、悪いことばかりじゃないのね)
自分でも驚くほど自然に笑ったことに、リシェルはほんの少しだけ目を見開く。
ヘレナは、その変化を見逃さなかった。
「……今、少しだけ……前よりも、柔らかいお顔をなさいました」
「そうかしら」
「ええ。とても……いいお顔でございます」
そう言ってから、ヘレナは椅子を引き寄せ、そっとリシェルの髪に手を伸ばした。
「髪を少し整えさせてくださいませ。リヴィア様に似てとてもお美しい髪ですわ」
柔らかな指先が、優しく髪を梳いていく。
そのたびに、胸の奥の緊張が少しずつ解けていく気がした。
しばらく沈黙が流れたあと、リシェルは、迷いを飲み込みきれずに口を開いた。
「……ヘレナ。実はね」
髪に触れる手が、ほんのわずかに止まる。
「昨日……トマスと、少し話したの」
「トマスさんと…?」
「ええ。馬小屋のところで。
……ヘレナが、トマスも私の味方でいてくれるって言ってくれたから」
ヘレナは驚いたように目を瞬き、けれど否定も詮索もしてこなかった。
「……話してみて、いかがでしたか?」
「…少し…怖かったけれど……話せて、よかったわ」
胸の前で指を絡ませる。
「私ね、この傷を理由に…王太子殿下との婚約を、辞退できないかと考えているの」
ヘレナの手が、そこで完全に止まった。
「…………」
驚き。
心配。
そして──どこか、安堵にも似た感情。
様々な想いが、その瞳の奥をかすめていく。
リシェルは続けた。
「この顔では……“将来の王妃”としてふさわしくないって、きっと言われる。だったら、私は…“修道院に入りたい”と申し出ようかと思うの」
ヘレナは、静かに息を吸い込んだ。
「……心を鎮めるために、と」
「ええ。今のままでは、婚約者として王太子殿下のお傍に立つ資格がない、と。…だから、神のもとで祈りながら、己を見つめ直したい……って」
言葉にしてみると、嘘と本音が複雑に絡み合っていくのが分かる。
修道院に行きたいわけではない。
本当に求めているのは“自由”だ。
けれど、それを正面から言えるほど、この家の空気は甘くなかった。
しばらく沈黙が続いたあと、ヘレナはそっと手を離し、正面からリシェルを見つめた。
「……リシェル様」
「なに?」
「それは……もう、お決めになられたことでしょうか?」
問いかけはとても慎重で、どこまでも優しかった。
リシェルは、少しだけ視線を落とす。
「……まだ、ちゃんとは決めていないわ。でも……このまま何もせずにいるのは、違うと思うの」
(ここにいたら、私はまた人形のように生きることになるわ)
胸の奥で、その言葉が静かに響いている。
「自分のことを……自分で助けたいの。」
ヘレナの瞳が、ふっと柔らかくなった。
「……わたくしは、リシェル様に拍手を送りたい気持ちでいっぱいでございます」
「……拍手?」
「ええ。ご自分の人生を、ご自分の手で選ぼうとなさっていることが……どれほど尊いことか」
ヘレナは、静かな声で続けた。
「……修道院の件をお父上に申し出るかどうかは、まだお決めにならなくて構いません。けれど……いつかその時が来たとき、リシェル様が“ご自分の選択だった”と胸を張って言えるように……わたくしは、そばにいたいと思います」
胸の奥が、じんわりと熱くなる。
「……ヘレナ」
「はい」
「……ありがとう」
それしか言えなかった。
けれど、その一言に、今のリシェルのすべてが込められていた。
ヘレナは深く頭を下げる。
「わたくしはいつでも、リシェル様の味方でございます。たとえ世間が何と言おうとも」
その言葉は、ゆっくりと、しかし確実に胸の奥に染み込んでいった。
⸻
ヘレナが部屋を出ていくと、静寂が戻ってきた。
さっきまでそこにあった温もりが消えてしまったようで、少しだけ心細くなる。
けれど──
(……私には、ヘレナがいて。トマスもいて)
前世には、一度も持てなかった“味方”が、今世には、確かに存在している。
(……逃げるって言えなかったけれど)
“修道院”という言葉に隠した本音を、ヘレナはきっと、どこかで気づいている。
追及しないまま、そっと支えようとしてくれていることが分かるから、余計に胸が熱くなる。
(……ちゃんと……計画を立てないと)
婚約辞退の申し出。
修道院という建前。
そこから先にどう動くか。
考えるべきことは山ほどある。
(……怖い。でも、やるしかない)
小さく息を吸い、吐く。
(……私の人生を、私の足で歩く)
窓の外を見ると、空は重たい雲に覆われている。
けれど、その向こうには、どこまでも続く青空があるはずだ。
(……私の行き先は、この家の外にある)
リシェルは、そっと拳を握りしめた。
その胸の奥には、もう消えることのない、静かな決意の灯がゆっくりと、しかし確かに燃え続けていた。




