5.この家の外へ
ヘレナが部屋を出ていったあと、
リシェルはしばらく、ぼんやりと天井を見上げていた。
胸の奥には、まだかすかな震えが残っている。
(……この家を、出よう)
その言葉が、はっきりと形になったのは、前世も含めてきっと今が初めてだった。
今までも「どこか遠くへ行きたい」と思ったことはある。
消えてしまえたら、と願った夜もある。
けれどそれは、“逃げたい”というより“終わらせたい”という諦めに近い願いだった。
今、胸の奥に灯っているのはそれとは少し違う。
(ここにいたら……私は、また何も感じなくなる)
前世の自分を思い出す。
母に縛られ、何も選べないまま、“自分”が薄くなっていった日々。
(今度こそ……自分のことは、自分で助ける)
怖い。
けれど、怖さの向こうに、ほんの少しだけ“希望”と呼べるものが揺れていた。
(……まずは、トマスと話してみよう)
ヘレナが言っていた。
トマスも、自分の味方でいてくれると。
扉に手をかけたところで、
ふと足が止まった。
(……大丈夫。私は、前より少しは……前に進めてる)
自分に言い聞かせるように、そっと息を吸い、
廊下へと踏み出した。
⸻
途中、広間のそばを通ると、聞き慣れた男の声が耳に届いた。
「ミネットは最近、よく勉強しているそうだな。将来が楽しみだ」
父・エドマンドの声だ。
立ち止まり、思わず柱の陰に身を寄せる。
「お父様ったら、大げさですわ」
ミネットの少し照れたような声が続く。
その口調には、隠しきれない得意さがにじんでいた。
カサンドラの、満足げな笑みが目に浮かぶようだ。
「謙遜なさって。ミネット様は本当に聡明なお嬢様でいらっしゃいますもの」
「ええ、王妃教育を受けるにふさわしいですわ」
(……王妃、教育……)
胸のあたりが少しだけざわつく。
その時、不意にエドマンドの視線がこちらを向いた気がした。
身を固くしたが、もう遅かったらしい。
彼はリシェルの姿を見やると、わずかに眉をひそめた。
「それに引きかえ……お前は」
ゆっくりとため息をつく。
「なんともみっともないな、その顔は。少しは愛想良くできないものか」
胸の奥が、ストンと冷えた。
(……傷の心配じゃなくて、そこなのね)
ミネットがちらりとこちらを見て、勝ち誇ったように目を細める。
「お姉様も、もう少し鏡をご覧になったらよろしいのに。“王妃候補”に見える立ち振る舞いを、心がけませんと」
その声音は甘く、けれどその中身は棘だらけだった。
返事をする気にもなれず、リシェルは静かに一礼してその場を離れた。
(……ここは、私の居場所じゃない)
歩き出したときだった。
角を曲がったところで、使用人のひとりが、わざとらしく肩をぶつけてきた。
「……あっ、失礼しましたぁ、お嬢様」
落とした布を拾いながらも、その目は少しも申し訳なさそうではない。
周囲にいた他の使用人も、見て見ぬふりを決め込んでいる。
誰も注意しない。
誰もおかしいと思わない。
(…ここは…私の居場所じゃないわ)
胸の奥で、冷たいものと熱いものが混じり合う。
(このままここにいたら……本当に心が壊されてしまう)
その確信が静かに、けれど鮮明に刻まれた。
(……まずはトマスに、会いに行こう)
足は自然と、屋敷の裏手へ向かっていた。
⸻
馬小屋のそばは、
乾いた藁と、暖かなお日様の匂いがして、不思議と臭くなかった。
トマスは、いつものように黙々と仕事をしていた。
慣れた手つきで馬具を磨きながら、馬に何か小さく話しかけている。
「……トマス」
声をかけると、トマスは驚いたように振り向き、すぐに姿勢を正した。
「これは……リシェルお嬢様。お怪我の具合は大丈夫でございますか?」
「ええ……まだ少し痛むけれど、大丈夫よ」
そう答えながらも、
胸の鼓動はいつもより早い。
トマスは、リシェルの頬に貼られたガーゼを見て、
わずかに眉を寄せた。
「……さぞ、痛かったことでございましょう。どうか、無理はなさらぬよう」
その声音には、作り物ではない心配がにじんでいた。
(……こうして心配してくれる人が、家の中にもいる)
それだけで、少し救われる気がした。
「……トマス。少し、いいかしら」
リシェルは、胸の前でそっと両手を握る。
「ヘレナから……聞いたわ。あなたも、わたしの……味方でいてくれるって」
トマスは一瞬目を丸くしたが、すぐに穏やかに頷いた。
「ええ。お嬢様のことは、小さな頃からずっと見ておりますゆえ。何かあれば、どうか遠慮なく」
(……“遠慮なく”……)
その言葉が嬉しくて、同時に少しだけ怖かった。
前世で、一度も言えなかった言葉が喉元でつかえる。
“助けて”
たった三文字。
けれど、あまりにも重い。
「……その……」
リシェルは視線を落とした。
言葉が出てこない。
喉の奥で丸まって、出てくるのを拒んでいるようだった。
そんな様子を見て、トマスはふと視線を落とし、
少しだけ遠くを見るような目をした。
「……実は、昔の話なのですが」
「昔?」
「ええ。ある日、屋敷の近くの道で、行き倒れている子どもを見つけましてな」
トマスの声は静かだが、どこか温かい。
「その子供は、怪我もしておりましたし、そのままではどうにもならない様子でしたので……わたしと、当時の奥様…リヴィア様とで、家まで送り届けたのです」
(……お母様と?)
胸の奥で、懐かしい温もりが揺れる。
「その子は後日、きちんと礼を言いに来ましてな。今でも、何かあれば“困ったときは言ってください”と、そう言ってくれるのですよ」
トマスはそこで一度区切り、真っ直ぐにリシェルを見つめた。
「恩というのは、不思議なものでございます。してもらった側だけではなく、与えた側も、どこかで支えられているような気持ちになるものです」
(……トマスは、助けた側なのに)
それでも、困ったときは言って欲しい、と言ってもらえる関係。
(……そんなふうに……頼り、頼られる関係があるんだ)
胸の奥に、じんわりと温かいものが広がる。
トマスは、言葉を選ぶように続けた。
「ですから……リシェルお嬢様。お嬢様が……もし何かにお困りであれば。私でよろしければ、力になりとうございます」
「…………」
喉がきゅっと締め付けられる。
それでもさっきよりは、ずっとマシだった。
リシェルは、小さく息を吸う。
「……ありがとう。トマス」
顔を上げると、トマスの表情には、押しつけがましさも、哀れみもない。
ただ、「聞く準備ができている人」の顔をしていた。
「……その……今すぐではないのだけれど」
リシェルは、指先に力を込める。
「少し……時間をかけて、考えたいことがあるの。…その時が来たら…相談…しても、いいかしら」
トマスは、ゆっくりと、しかし力強く頷いた。
「もちろんでございます。その時が来ましたら、いつでもここにおります」
胸の奥の灯りが、少しだけ強くなった。
⸻
部屋に戻ると、リシェルはベッドの端に腰を下ろし、胸に手を当てた。
(……怖かった。でも……ちゃんと、話せた)
前世の自分なら、ここで何も言えなかっただろう。
“お母さんの負担になるから”
“怒らせたら大変だから”
そうやって、
“助けて”を飲み込んできた。
(……今度は、飲み込まなかった)
まだ「家を出たい」と口にはしていない。
それでも——
(……私は、逃げてもいい)
静かに、その言葉を胸の中で繰り返す。
(ううん、逃げるだけじゃない。ちゃんと…生きたいの)
前世の理恵の記憶が、遠くでかすかに疼いた。
(……あの時の私に、言ってあげたい。“本当は逃げて良かったんだよ”って)
今世のリシェルは、その言葉を、まず自分に向ける。
(……ここにいたら、また何も感じなくなってしまう。だから……出る準備を始めなきゃ)
そう心に決めると、胸のざわめきは、少しだけ静かになった。
小さく息を吐く。
(……きっと、まだ時間はかかるわ。でも……もう立ち止まりたくない)
窓の外には、重たい雲が広がっている。
それでも、必ず青空へと続いている。
(……私の行き先は、この家の外にある)
リシェルはそっと目を閉じた。
その胸の奥には、
もう消えることのない、小さな決意の灯がともっていた。




