4.よくやっている
翌朝。
リシェルは、身体の痛みをごまかしながら食堂へ向かった。
案の定、階段から落ちた翌日だというのに、誰ひとり声をかけに来なかった。
朝食の席に座ると、すぐにいつもどおりの光景が繰り広げられる。
カサンドラは優雅に紅茶を飲み、
ミネットは何事もなかったかのようにパンをちぎり口に運ぶ。
使用人たちは少しだけ気まずそうに視線を逸らしながらも口だけは達者だった。
「リシェル様、ぼんやりなさっていたから階段を踏み外されたんですよ」
「ミネット様は目の前でお姉様が落ちて……どれほど怖かったか」
「まあ、本当にお可哀想に…」
(……ミネットが突き落とした事を全員知っているのに……)
胸がスゥッと冷えていく。
ミネットは、わざとゆっくりと視線を向けてきた。
リシェルの頬に残る傷を見ると、くすっとあざ笑う。
「そんなお顔で……王妃になるおつもりですの? お姉様」
昨日までの自分なら、こういう言葉は受け流すだけで終わっていた。
感情を閉ざし、何も感じないふりをしてきた。
いや、本当に何も感じていなかったに等しかった。
でも、今日は、ほんの少しだけ胸の奥にざわめきと熱が生まれた。
(……私…もしかして…怒ってる……?)
それは弱々しいけれど、確かに“自分のための感情”だった。
何も言わず、リシェルは静かに席を立った。
⸻
部屋に戻り、鏡の前へいく。
扉を閉めると、今まで息が詰まっていたことに気づく。
(……鏡…またやってみよう)
昨日、言えなかった言葉。
喉が塞がってしまい、声にならなかった言葉。
勇気を振り絞って、鏡の前に立つ。
映った自分は、疲れた顔をしていた。
傷は赤く、瞼は少し腫れている。
(……こんな顔じゃ…よくやってるだなんて…)
否定し始めそうになったが、頭を振り、深く深呼吸をして──
「…私は…よく…やって…いるわ…。いつも………あ…りが…とう…」
絞り出すようで、かすれながらだが、それでも昨日より確かに“声”になった。
胸がじんと熱くなる。
(……少しだけ……言えた……)
その瞬間ふと、ある考えが浮かんだ。
(……この傷…これを理由に、婚約を辞退できるんじゃない……?)
王太子アレクシスは、リシェルにほとんど興味を示していない。
その名の通り、形だけの婚約だ。
辞退できる理由があるなら──
逃げられるかもしれない。
自由になれるかもしれない。
そう考えつくと、心臓が強く跳ねた。
⸻
コン、コン。
控えめなノックが響いた。
「……リシェル様、失礼いたしますね」
ドアからそっと入ってきたのはヘレナだった。
「傷の具合を見せていただけますか」
椅子に座ると、ヘレナは丁寧な手つきでガーゼを外す。かすかに冷たい薬草の香りが広がった。
「……昨日、ヘレナに言われたこと…鏡の前で…言えなかったわ」
リシェルはぽつりとこぼした。
「…声が出なかったの。でも…何度も頑張ったら…今日、少しだけ、言えるようになったわ」
ヘレナの瞳が驚きで揺れ、やがてゆっくりと微笑んだ。
「……まあ。本当に……頑張られたのですね。わたくし、とても嬉しゅうございます」
優しい声が、胸にしみた。
(……ヘレナは……私を見てくれる)
薬を塗り直し、ガーゼを新しくすると、ヘレナは小さく続けた。
「……それから、リシェル様。馬小屋のトマスも……ずっとあなた様の味方ですよ」
「トマスが……?」
「ええ。ご存じのとおり、昔から誠実な人です。いざという時には……どうか、相談なさい」
(……味方…私に……そんな人がいたなんて)
胸の奥がじんわりと温まっていく。
ヘレナはそっと礼をして、静かに部屋を後にした。




