3.静かな決意
——少し顔色が違うように見える
ただそれだけなのだが、ヘレナのその声は、静かに見守ってくれていたことを教えてくれた。
そして慰めでも同情でもなく、ただ気づいたことを、そのまま優しく伝えてくれたこともわかった。
こんなふうに自分の状態を見つめてくれる大人が、
自分の人生にいたことなんて──少なくとも前世ではなかったように思った。…気づかなかっただけかもしれないけれど。
ヘレナは、リシェルの手元にそっと清潔な布を置きながら続けた。
「…ご自分のことを、大切になさってください」
(……大切に…?…自分を?)
胸の奥に、かすかな震えが走る。
ヘレナはまるで、その震えの存在まで察しているように、ふっと柔らかく微笑んだ。
「…そうですね…鏡を見て、ご自分に一言だけでも。“よくやっている”と…認めてあげてください」
リシェルの呼吸が止まった。
「…わたくし、それが救いになった方を…何度か見たことがあります。“よくやっているね、いつもありがとう”そう自分に言ってあげてくださいませ」
(…そんなこと…自分に…?)
戸惑うリシェルにヘレナは控えめに言う。
「…簡単な言葉ですけど、もしかしたら口に出して言うことが難しく感じるかもしれませんね… ですが、それでも良いのです。焦らなくてよいのですよ」
「あまり思い悩まないでくださいませ…どうか、ゆっくりと…今はお休みください」
静かな声とともに、扉が閉まる。
部屋には再び、静寂が落ちた。
⸻
しばらく座っていたが、
胸の中のざわめきが落ち着く気配はなかった。
(……鏡を見て、自分に声をかける…そんな簡単なこと)
半信半疑で、気恥ずかしいような感情を感じた。
けれど同時に、どうしようもなく惹かれるようにリシェルは鏡の前へと立った。
映った自分は、想像していたよりずっと、疲れた顔をしていた。
頬はこけ、唇は乾き、傷が赤く浮かんでいる。
(……こんな顔、してたんだ……)
喉が詰まりそうになる。
胸の奥がずきりと痛む。
ゆっくりと唇を開く。
ヘレナが言っていた言葉が、頭の中で何度も反芻される。
“よく、やっているね、いつも、ありがとう”
ただ、それだけなのに。
(……言うだけ…言うだけよ…)
震える声を押し出すように、小さく、小さく言おうとした。
「……よく…やって………る…」
声にならなかった。
喉が蓋をしたように締め付けられる。
胸がキュッと苦しくなり、息が浅くなる。
(……どうして…??どうして、こんな簡単な……こんな一言が……言えないの……?)
前世の母親の声が、どろりと蘇ってくる。
—— あんたなんか、何してもダメ
—— 一人じゃ何もできない
—— 親に逆らうなんて、ひどい子だよ
(……やめて…!!!)
鏡の中の自分が歪んで見えた。
膝から力が抜け、そのまま鏡の前にしゃがみ込む。
涙は落ちなかった。
いや、涙すら、落ちなかった。
(……私、自分を認める言葉すら、言えないくらい……自分のことを蔑ろにしてきたんだ……)
ショックで、胸がきしむ。
体が震える。
絶望感と同時に、そこには確かに“気づき”もあった。
(……知らなかった…本当に……何も、気づいていなかった……)
静かな痛みの中で、ほんの小さな、かすかな想いが生まれる。
(……私、変わりたい……)
その思いは、声にならず、胸の奥で淡い光となって揺れていた。
(……今はまだ…こんな簡単な言葉すら、言えないけれど……)
頬を伝う涙を指でぬぐい、リシェルはきゅっと拳を握った。
リシェルの小さな決意は、確かに芽生えていた。




