13.小屋での夜
小屋の中は、思っていたよりも静かだった。
古い木の匂い。
乾いた藁の匂い。
少し湿った空気。
けれど、不思議と息がしやすい。
リシェルは外套を脱ぎ、壁にかけた。
(……ここが、今日から私の居場所)
広いわけではない。
粗末な机と椅子。
小さな寝台。
隅には古びた暖炉。
それでも、屋敷の部屋よりもずっと軽い空気が流れていた。
誰の視線もない。
誰のために振る舞う必要もない。
ただ、ここにいればいい。
リシェルはゆっくり腰を下ろした。
しばらく、何もしないまま座っていた。
(……静かね)
屋敷の静けさとは違う。
あちらは、息を潜める静けさ。
こちらは、森そのものの静けさだった。
遠くで鳥の声がする。
風が枝を揺らす。
葉が擦れる音。
その中に、ふと小さな音が混じった。
かさ。
リシェルは顔を上げる。
窓の隙間から、何かが入り込んできた。
淡い光の粒。
ほこり……ではない。
ふわ、と床の上に落ちて、形を変える。
「……?」
子猫くらいの大きさの影が、そこにいた。
丸い輪郭。
細い尻尾。
尻尾の先だけが、うっすら光っている。
「……猫?」
思わず口に出た。
影は、しばらくその場で座っていたが、やがててとてと歩き出した。
音もなく、床を滑るように。
リシェルの足元まで来ると、そこでまたぺたりと座る。
じっと見上げている。
(……なに、これ)
怖くはない。
むしろ、どこか落ち着く。
「……住んでたの?」
問いかけると、影はこてん、と首を傾げた。
その仕草があまりにも猫らしくて、思わず小さく笑ってしまう。
「ごめんね。急に来ちゃって」
リシェルは膝をついた。
そっと手を伸ばす。
触れるとは思っていなかった。
けれど、影は逃げない。
すり、と額を寄せてくる。
「……え?」
指先に、柔らかい感触があった。
温かくも、冷たくもない。
不思議な触れ心地。
「……精霊?」
試しにそう言うと、影の尻尾がゆっくり揺れた。
まるで
“まあ、そんなところ”
と言うみたいに。
リシェルは小さく息を吐いた。
胸の奥に残っていた緊張が、少しずつほどけていく。
「……じゃあ、先住民ね」
影は当然のようにリシェルの隣に座り、くるりと丸くなった。
(……ふふ)
思わず笑みがこぼれる。
「いいわ。ここ、一緒に使いましょう」
そう言うと、影は尻尾を一度だけ揺らした。
それが返事のようだった。
リシェルは寝台に腰を下ろす。
疲れが、どっと押し寄せてきた。
森を歩き、すべてを終わらせて、ここに来た。
それでも──
不思議と、胸は軽かった。
(……終わったんだ)
もう、誰の娘でもない。
誰の婚約者でもない。
ただ、ここで生きる。
そう決めた。
影の精霊は、寝台の端にちょこんと乗り、丸くなる。
まるで、前からそこにいたみたいに。
リシェルは小さく笑い、横になった。
外では風が木々を揺らしている。
森の音に包まれながら、まぶたがゆっくり閉じていく。
「……おやすみ」
そう呟くと、影の尻尾がふわりと揺れた。
そのまま、リシェルは深く眠りに落ちた。
屋敷を出てから、初めての──
本当に静かな眠りだった。




