10.選ぶのは私
扉が閉まり、足音が遠ざかっていく。
応接間には、重たい静寂が落ちた。
婚約は、解消された。
それだけのこと。
けれど、その「だけ」が、リシェルの胸の奥で静かに響いている。
エドマンドが咳払いをひとつした。
「……では、修道院への件を進めよう。王家側との調整は問題ない」
実務的な声音だった。
感情は、ほとんど混じらない。
カサンドラが扇を閉じる。
「出立の日取りは、できるだけ早いほうがよろしいでしょう。噂が広がる前に」
「三日後に、王都行きの馬車を手配できる」
父の言葉に、リシェルは顔を上げた。
「……ありがとうございます」
いったん、礼を言う。
それから、ゆっくりと続けた。
「ですが……」
エドマンドの視線が向く。
「修道院へ参る身でございます。これ以上、家のご厚意に甘えるのは相応しくないかと存じます」
静かに、けれど淀みなく。
「私なんかのために、わざわざ家の馬車を出していただくのは……心苦しくございます。乗合馬車で十分でございます」
室内が、わずかに静まる。
カサンドラが眉を上げた。
「乗合馬車? あなたが?」
「はい」
リシェルは視線を伏せる。
「これからは、質素に生きる覚悟でおります。最初の一歩から、慎ましくあるべきかと」
卑屈ではない。
ただ、柔らかい。
エドマンドは数秒、娘を見つめた。
「……好きにしろ」
怒りも、失望もない。
ただ判断。
「修道院側へは、書状を出しておく。道中の安全は最低限確保するが、それで構わんな」
「はい。ありがとうございます」
深く頭を下げる。
カサンドラは扇越しに娘を見た。
「ずいぶんと殊勝になったものね」
その声音には皮肉も混じるが、強い拒絶はない。
ミネットが静かに口を開く。
「お姉様は……本気なのですね」
リシェルは微笑んだ。
「ええ。本気よ」
それ以上、何も言わない。
王妃の座も、家の庇護も。
自分から降りた。
それだけだ。
⸻
部屋へ戻ると、ようやく肩の力が抜けた。
(……言えた)
家の馬車を断った。
ほんの小さなこと。
けれど、それは確かな一歩だった。
ノックの音。
「リシェル様、ヘレナでございます」
「どうぞ」
入ってきたヘレナは、どこか安堵したような顔をしていた。
「お話は伺いました。乗合馬車をお選びになったとか」
「ええ」
少しだけ笑う。
「修道院へ行くのに、仰々しく送り出していただくのは……違う気がして」
ヘレナは頷いた。
「とても、リシェル様らしいご判断でございます」
沈黙が落ちる。
リシェルは、声を落とした。
「トマスに……便を確認したいの」
ヘレナの瞳がわずかに細くなる。
「北門の便ですね」
「ええ。…できれば、修道院方面へ向かうものを」
その言葉の意味を、ヘレナは察している。
「今なら、裏庭におります」
「ありがとう」
外套を羽織る。
足取りは、昨日より確かだった。
⸻
馬小屋の空気は、変わらない。
藁の匂い、温かな息遣い。
「……トマス」
振り向いた彼は、すぐに帽子を取った。
「お嬢様」
「正式に、修道院へ参ることになったわ」
トマスは静かに頷く。
「左様でございますか」
「家の馬車は断ったの。乗合馬車で向かうことにしたわ」
一瞬だけ、トマスの目に光が宿る。
「……賢明なご判断でございます」
「北門から出る便は、三日後だったかしら」
「はい。朝の便がひとつ。修道院方面の街道へ向かいます」
「途中、森の近くを通る?」
問いは、あくまで穏やかに。
トマスも同じ調子で答える。
「ええ。商人が荷を降ろす場所がございます」
沈黙。
風が藁を揺らす。
「……そのあたりの道の様子も、教えていただける?」
トマスは深く一礼した。
「もちろんでございます」
声は低く、揺れない。
「行き先を決めるのは、お嬢様でございますゆえ」
胸の奥で、鼓動がひとつ鳴る。
逃げるのではない。
選ぶのだ。
修道院という名の道を歩きながら、
その先を、自分で。
リシェルは小さく息を吸った。
(……私は、もう人形じゃない)
静かに、歯車は動き始めている。




