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異世界恋愛短編集

白い結婚のはずでしたが、契約内容が途中から溺愛に書き換えられています

作者: 百鬼清風

 私はエリシア・ルヴェール。

 王国ヴァルグレイスの伯爵家に生まれ、王太子補佐官クラウス・リーヴェンと婚約していた――少なくとも、今日の朝までは。


 場所は王宮の謁見の間。

 この国で、婚約破棄を公に宣言する場として最も好まれる場所だ。理由は単純で、貴族社会は噂よりも記録を信じるから。ここで言い渡された内容は、公文書として残り、後から塗り替えにくい。


 つまり、逃げ場がない。


「エリシア・ルヴェール。君との婚約を、ここに解消する」


 クラウスの声はよく通り、堂々としていた。自分が正しい立場にいると信じて疑わない人の声だ。

 一歩も動かず、その言葉を正面から受け止めた。逃げる素振りを見せれば、それだけで“やましい”と判断される空気が、この場にはある。


「理由は明白だ。彼女からは、未来の妃として必要なものが感じられない」


 その瞬間、周囲の貴族たちの視線が一斉に私へ向いた。

 驚き、納得、失望、そしてどこか安心したような色。ああ、この人たちは今、物語を理解しやすい形に当てはめている。


「思いやりも、情熱も、寄り添う意志も見えない。心の通わない相手と国を支える覚悟は持てない」


 ずいぶん立派な言い分だと思った。

 ただ、それがこの場で口にされる内容として、どれほど強いかも分かっている。


 王国ヴァルグレイスでは、王族やその補佐官の婚約が破棄される場合、理由が「性格的欠陥」と記されると、その評価は長く尾を引く。

 裏を返せば、浮気や不貞よりも、こちらのほうが扱いやすい。誰かを悪者にせず、切り捨てられる側だけが沈む。


 口を開きかけて、閉じた。

 反論はいくつも浮かんだ。思い出も、積み重ねも、言葉にすれば並べられる。

 けれど、それをここで吐き出せば、“感情をぶつける女”になる。彼の用意した筋書きの中で、最も都合のいい役だ。


「……以上だ」


 クラウスが締めくくると、控えていた書記官が淡々とペンを走らせた。

 私の評価は、この瞬間から「感情が希薄で、妃として不適格な令嬢」になる。


 沈黙が落ちた。

 視線だけが、私を取り囲む。


 一礼した。深くもなく、浅くもない、形式通りの動き。

 この場で感情を見せないほうがいいと判断したからだ。今は、何かを守るより、これ以上失わないほうが優先だった。


「承知いたしました」


 自分の声が、思ったよりも澄んでいて、内心で少し驚いた。

 クラウスが、ほんの一瞬だけ目を見開いたのが分かる。たぶん、涙か、縋る言葉を期待していたのだろう。


「これまでのご厚意に感謝いたします。どうか、今後のご活躍を」


 それ以上は言わなかった。

 余計な一言は、記録に残る。沈黙は、残らない。



 謁見の間を出た瞬間、背中に刺さっていた視線が、ようやく薄れた。

 長い廊下を歩きながら、胸の奥で何かがざわつく。痛みなのか、安堵なのか、自分でも判別がつかない。


 ただ一つ分かっているのは今、自由になったわけではないということだ。

 婚約を失った令嬢は、庇護を同時に失う。しかも今回は、王太子補佐官付きという立場からの転落。次の行き先を見つけられなければ、社交界から自然に消える。


「……さて、どうしましょうか」


 思わず独り言がこぼれた。

 立ち止まると、本当に何もなくなる気がして、足は止めなかった。


 感情がないと言われた。

 けれど、今こうして胸の内が落ち着かないのは、何なのだろう。悔しさか、寂しさか、それとも――ようやく終わったという解放感か。


 少なくとも一つだけは、はっきりしている。

 もう、誰かの理想を演じる立場ではない。


 その事実だけを、しっかりと胸に刻みながら、王宮の外へと歩みを進めた。



 屋敷に戻って三日目、応接室で紅茶を前にしていた。

 落ち着いているように見えるかもしれないけれど、実際は違う。何もしない時間が続くと、頭の中が勝手に喋り出す。あの場面は別の言い方があったのでは、あの視線はどういう意味だったのか、と延々と。


 だから来客の知らせを聞いたとき、正直ほっとした。

 思考が現実に引き戻されるからだ。


「辺境伯、レオンハルト・アーデン様がお見えです」


 耳を疑った。

 王国の西端を治める辺境伯。武勲と統治の両方で名を知られ、王都に滅多に姿を見せない人物。その名が、なぜここで出てくる。


 断る理由を探す前に、体が動いていた。

 会わずに済ませたら、その後ずっと気になると分かっていたからだ。



 レオンハルト・アーデンは、噂よりも静かな人だった。

 威圧感がないわけではない。ただ、声を張り上げたり、視線で押し潰したりはしない。そこにいるだけで場が締まるタイプだ。


「突然の訪問を許していただき、感謝する」


 形式的な挨拶のあと、彼はすぐ本題に入った。回り道をしない性質なのだろう。無駄な前置きがないぶん、聞く側も覚悟が決まる。


「あなたに、結婚の提案がある」


 咳き込まなかった自分を褒めたい。

 まだ婚約破棄の余韻が残る時期に、別の縁談。普通なら戸惑いを装う場面かもしれないが、違った。驚きはしたが、拒否感はなかった。


「条件付きだ」


 その一言で、内容の方向性が見えた。

 この国には、そういう婚姻がある。家同士の均衡を保つため、感情を介在させない結びつき。白い結婚と呼ばれる制度だ。


「愛情は不要。後継は養子で構わない。互いの私生活には踏み込まない」


 淡々と告げられる条件は、どれも明確だった。

 そこに期待や甘さが含まれていない点が、かえって誠実に感じられる。


「なぜ、私なのでしょう」


 質問が口をついて出た。

 評価が下がった令嬢を選ぶ利点は、外から見れば少ないはずだ。


「あなたは、記録に傷がついただけだ」


 彼はそう言った。

 同情でも慰めでもない、事実確認のような口調で。


「感情を押し付けられなかった。それを欠点として扱う者がいる一方で、利点と見る者もいる」


 胸の奥が、少しだけざわついた。

 自分でも整理しきれていなかった部分を、他人に言語化された気がしたからだ。


 しばらく考えた。

 断れば、この先どうなるかは分からない。受ければ、少なくとも立場は安定する。どちらが安全か、という話ではない。今の私が選びたいのは、余計な期待を背負わない道だった。


「……承知しました」


 返事をすると、彼は一度だけ頷いた。

 満足とも安堵とも取れるが、どちらかに決めつけるほど感情は見えない。


「婚姻は、来月を予定している。準備は最低限でいい」


「ええ。私も、それで」


 言葉を交わしながら、胸の内で別の声が喋っていた。

 これ以上、何かを失う心配はない。そう思えたから、受け入れられた。



 レオンハルトが帰ったあと、一人で笑ってしまった。

 つい数日前まで、王太子補佐官の婚約者だった人間が、今度は辺境伯夫人になる予定らしい。


「人生って、忙しいわね」


 誰に向けたわけでもない言葉が、部屋に溶けた。

 白い結婚。契約。条件付き。どれも、私にとっては重たい響きのはずなのに、不思議と肩の力は抜けている。


 期待されない関係は、楽だ。

 そう思えた今の自分を、少しだけ信用してみることにした。



 辺境伯領アーデンに到着した日のことは、今でも妙に鮮明だ。

 空が広くて、風が強くて、王都の香水みたいな匂いが一切しない。最初に思ったのは、「ここ、声を出しても誰にも睨まれなさそう」だった。


 馬車を降りた私を迎えたのは、整列した使用人たちと、少し距離を取って立つレオンハルトだった。

 結婚式は簡素そのもの。誓いの言葉も短く、余計な演出はなかった。その流れのまま、私たちは夫婦として屋敷に入った。


「部屋は隣同士だが、扉は別だ。必要がなければ顔を合わせる必要もない」


 初日の説明がそれだった。

 分かりやすい。実に契約らしい。内心で頷きまくりながら、表情は穏やかに保った。ここで大げさな反応をすると、向こうが構えると感じたからだ。


「ありがとうございます。無理に関わらなくて済むのは助かります」


 本音だった。

 期待される役割がない状況は、息がしやすい。



 白い結婚の日常は、思ったよりも静かだった。

 夫人としての立場を与えられてはいたが、何かを指示されることも、成果を求められることもない。だからこそ、行動一つ一つを自分で選ぶ必要があった。


 朝は挨拶をする。

 理由は簡単で、同じ屋敷に住む以上、無視するほうが面倒だから。


 食事の席では、相手の話を最後まで聞く。

 途中で口を挟めば、議論になる。穏やかに終わらせたいなら、聞くほうが早い。


 使用人たちには、名前を覚えて声をかける。

 顔を知らない人に世話をされ続けるのは、私自身が落ち着かない。


 それだけだ。

 特別なことはしていない。ただ、自分がされて嫌なことを避け、自分がされたら楽なことを選んだ。


「奥様は、話しやすいですね」


 ある日、年配の侍女にそう言われた。

 思わず笑った。話しやすい、なんて評価をもらったのは初めてだったから。



 変化に気づいたのは、レオンハルトのほうだったと思う。

 最初は必要最低限だった会話が、少しずつ増えた。


「今日は風が強いな」


「ええ。洗濯物が全滅しそうです」


「……外に出さなければいい」


「それだと、干した意味がなくなりますね」


 そんなやり取りが、いつの間にか日常に混じる。

 喋っているつもりはなかった。ただ、頭に浮かんだことが、そのまま口に出ていただけだ。


 ある晩、廊下で鉢合わせたとき、彼が足を止めた。


「……無理はしていないか」


 意外な言葉だった。

 瞬きしてから、首を傾げた。


「どのあたりが、そう見えました?」


「……分からない。ただ、そう聞くべきだと思った」


 正直で、不器用な返答。

 少し考え、それから笑った。


「大丈夫です。ここでは、誰かに合わせる必要がないので」


 その言葉を選んだのは、事実だったからだ。

 彼はしばらく黙り込み、やがて小さく息を吐いた。


「それは……こちらにとっても、助かる」



 噂は、思ったより早く王都に戻ったらしい。

 辺境伯夫人が穏やかで、屋敷の空気が変わった、と。


 その話を聞いたとき、紅茶を吹きそうになった。

 空気を変えた覚えはない。ただ、静かに過ごしていただけなのに。


 けれど、評価というものは、本人の意識とは関係なく動くらしい。

 王宮で「感情がない」と記された私が、ここでは「一緒にいて疲れない」と言われている。


 皮肉だと思う反面、少しだけ胸が温かくなった。

 間違った存在ではなかったのかもしれない。


 その夜、部屋に戻る途中で、レオンハルトの声が聞こえた。


「エリシア」


 名前を呼ばれるだけで、足が止まる。

 呼ばれ慣れていないせいだ。


「……契約の内容についてだが」


 来た、と身構えた。

 何か不都合が出たのだろうか。


「書き換える必要は、まだない。ただ……」


 彼は一度言葉を切った。


「このままでも、悪くないと感じている」


 思わず、吹き出した。

 悪くない、という表現が、あまりにも彼らしかったから。


「それなら、しばらくはこのままでいきましょう」


 そう答えたのは、今の距離感が心地よかったからだ。

 白い結婚のはずの日常は、気づけば、少しだけ色を帯び始めていた。



 王都からの手紙が届いたのは、昼食のあとだった。

 封蝋を見た瞬間、嫌な予感がした。見覚えがある。というより、忘れたくても忘れられない印だ。


「……ああ、やっぱり」


 開く前から、誰からのものか分かってしまう自分に苦笑する。

 クラウス。元婚約者。今はもう、他人と呼ぶほうが正しい。



 内容は予想通りだった。

 辺境伯夫人としての私が、領内で好意的に受け止められていること。王都にまで噂が届いていること。そして――。


『君は、本当はもっと感情のある女性だったはずだ』


 そこで、声を上げて笑った。

 屋敷の静けさの中では、少し響きすぎたかもしれない。


「今さら、それ?」


 あの場で切り捨てたのは、彼自身だ。

 私が何を考え、どう在ろうとしていたのかを知ろうともしなかった。その結果が、王宮の公文書に残っている。


 返事を書かなかった。

 沈黙のほうが、今の立場を正確に伝えると思ったからだ。こちらから何かを言えば、彼はまだ自分が中心にいると勘違いする。



 数日後、来訪の知らせが入った。

 名乗りは、クラウス・リーヴェン。


「断ってください」


 即答だった。

 迷いがなかった理由は単純で、会えば消耗する未来が見えていたから。


 それでも彼は、辺境伯の許可を取り付けて現れた。

 正式な客として来られた以上、完全に無視するわけにはいかない。立場というものは、便利なようで厄介だ。



 応接室に現れたクラウスは、少し疲れた顔をしていた。

 以前は、自分が輝いていると信じて疑わない表情をしていたのに、今日は違う。


「久しぶりだね、エリシア」


「そうですね。ですが、懐かしむほど時間は経っていません」


 距離を取った言い回しを選んだのは、余計な誤解を避けるためだ。親しさを匂わせると、彼はすぐに勘違いする。


「君が、辺境伯夫人として高く評価されていると聞いた」


「噂は、話半分で受け取るものです」


「……君は変わったな」


 違う。

 変わっていない。ただ、彼が見ようとしなかった部分が、今は他人の目に触れているだけだ。


「私は、ずっと同じでした」


 そう告げると、彼は目を伏せた。

 言葉が刺さったのだろう。自分が見誤っていた事実を、ようやく突きつけられた顔だった。


「君は、感情がないのだと思っていた」


「それは、あなたが都合よく解釈しただけです」


 声が少し強くなった自覚はある。

 黙って受け流す選択もあったけれど、ここで線を引いておく必要があった。


「押し付けられることが苦手なだけでした」



 その会話を、レオンハルトは別室で聞いていたらしい。

 あとでその事実を知ったとき、少しだけ焦った。余計な誤解を招きたくなかったからだ。


 夕刻、廊下で彼に呼び止められた。


「無理をさせた」


 開口一番、それだった。

 謝罪から入る人だとは思っていなかったので、言葉に詰まる。


「立場上、完全には防げなかった」


「理解しています。私も、夫人という立場を引き受けていますから」


 そう答えたのは、責任を共有していると伝えたかったからだ。一方的に守られる関係は、契約に含まれていない。


 レオンハルトは、少し黙ったあと、静かに言った。


「……あの男は、君を失って初めて、何を得ていたのか分かったのだろう」


「ええ。でも、それに気づくのが遅すぎました」


 肩をすくめた。

 同情はない。ただ、哀れみも必要ないと思った。



 その夜、眠れなかった。

 胸の内が騒がしかったからだ。王宮で切り捨てられた記憶と、今の穏やかな日常が、頭の中で何度も入れ替わる。


 それでも一つだけ、はっきりしている。

 もう、過去に戻りたいとは思っていない。


 失ったと騒ぐ人がいても、こちらは前に進んでいる。

 それだけの話だ。


 そして、気づかぬうちに、白い結婚という契約は、確実に形を変え始めていた。



 その日は、朝から落ち着かなかった。

 理由ははっきりしている。昨夜、レオンハルトから「話がある」と告げられていたからだ。こういう前振りは、だいたい碌な内容じゃない。経験則として知っている。


 朝食の味が薄く感じたのは、舌の問題じゃない。

 考え事をしながら食べると、だいたいこうなる。



 場所は、屋敷の小さな書斎だった。

 窓から差し込む光が柔らかく、逃げ場のない雰囲気を作っている。こういう場所を選ぶ人だということも、少しずつ分かってきた。


「契約の件だが」


 来た。

 背筋を伸ばした。ここで曖昧な態度を取ると、話が長引く。


「白い結婚は、ここまでにしたい」


 一瞬、言葉の意味が頭に入ってこなかった。

 終わり。破棄。解消。似た単語が一気に浮かんで、整理が追いつかない。


「……そう、ですか」


 声が裏返らなかったのは、自分でも意外だった。

 動揺はしている。でも、取り乱すほどではない。少なくとも表には出ていないはずだ。


「身を引きます」


 そう口にしたのは、この契約が彼の厚意で成り立っていたと理解しているからだ。終わると言われた以上、縋る理由はない。


 けれど、レオンハルトは首を振った。


「違う」


 短い否定だった。

 その一言で、空気が変わる。


「契約を終わらせたいのは、必要なくなったからだ」


 混乱が加速する。

 必要なくなった、という言い回しは、拒絶とも取れるし、その逆にも聞こえる。


「君がここにいることを前提に考えるようになっている」


 彼は言葉を選んでいた。

 慎重に、一つずつ並べるように。


「感情を押し付けない。踏み込みすぎない。だが、距離を保ちながら、確かに隣にいる。その在り方が……心地よかった」


 胸の奥が、じわじわと熱を帯びる。

 聞き慣れない評価だ。王宮でも、実家でも、元婚約者の隣でも、そんな言われ方は一度もなかった。


「君は、何も要求しなかった」


「それは……」


 口を挟みかけて、やめた。

 自分でも分かっている。要求しないほうが、関係が壊れないと考えていたからだ。


「その姿勢が、結果として私を安心させた」


 彼は、はっきりと言った。

 逃げ道を塞ぐように。


「だから、白い結婚では足りない」


 心臓が一拍、遅れて跳ねた。

 思わず笑ってしまった。緊張が限界を超えると、こうなる。


「困りますね。契約内容が、ずいぶん変わっています」


「書き換える」


 即答だった。

 その潔さに、今度は笑いが止まらなくなる。


「私は、あなたの隣にいる選択をしたい」


 その言葉が出たのは、今の関係を失いたくなかったからだ。

 もう一度、感情がないと切り捨てられる未来は、選びたくない。


 レオンハルトは、少しだけ表情を緩めた。


「では、これは契約ではなく、意思だ」



 書斎を出たあと、足元がふわふわしていた。

 現実感が追いつかない。けれど、胸の奥は妙に落ち着いている。


 白い結婚は終わった。

 代わりに始まったものが何なのか、まだ正確な名前はつけられない。


 ただ一つ確かなのは、私は今、選ばれている。

 条件ではなく、在り方そのもので。


 それだけで、世界は驚くほど明るく見えた。



 正式な再契約は、驚くほど静かに進んだ。

 白い結婚の終了と、新たな夫婦関係の確認。それだけの手続きなのに、書面に目を通している間、何度も深呼吸していた。手が震えそうになるのを誤魔化すためだ。


「緊張しているか」


「少しだけ。今度は逃げ道がないので」


 冗談めかして言ったつもりだったが、レオンハルトは首を横に振った。


「違う。今度は、逃げる必要がない」


 その言葉が、胸の奥にすとんと落ちた。

 ずっとどこかで身構えていた。期待されすぎないように、踏み込みすぎないように。そうしないと、また切り捨てられると思っていたからだ。



 王都では、遅れてざわめきが広がった。

 辺境伯夫妻が、名実ともに円満だという話。白い結婚が破棄され、正真正銘の夫婦になったという事実。


 同時に、クラウスの評価は急速に落ちていった。

 愛を語りながら、人を見ようとしなかった。その姿勢が、ようやく周囲にも伝わったらしい。


「君を手放したのは、痛恨だったな」


 そう漏らしたという話を、他人づてに聞いた。

 直接聞く機会がなかったことに、安堵している自分がいる。今さら、何を言われても困る。


 彼は孤立した。

 自分の言葉に酔い、自分の理想だけを追い、隣にいた人を見なかった結果だ。それを、ざまぁだとは思わない。ただ、起こるべくして起きた流れだと感じている。



 夕暮れの庭で、レオンハルトと並んで歩く。

 風が穏やかで、空の色がゆっくり変わっていく。


「最初は、白い結婚だった」


 彼がそう切り出した。

 分かっているという顔で頷く。


「条件で結ばれ、互いに踏み込まない。それが最善だと思っていた」


「今は?」


 問いかけると、彼は足を止め、こちらを見た。

 視線が真っ直ぐで、逃げ場がない。


「今は、君が隣にいること自体が前提だ」


 胸が、きゅっと締め付けられる。

 嬉しいのに、どう返せばいいのか分からない。


「……契約内容が、ずいぶん溺愛寄りですね」


「不満か」


「いいえ。修正は、歓迎します」


 そう答えた瞬間、彼が小さく笑った。

 滅多に見せない表情だ。だから余計に、心臓に悪い。



 夜、部屋に戻ってから、一人で天井を見上げていた。

 王宮で「感情がない」と記録されたあの日のことを思い出す。けれど、今はもう、胸を刺すような痛みはない。


 最初から何も欠けていなかった。

 ただ、見る側が違っていただけだ。


 選ばれる価値がなかったわけじゃない。

 選ぶ目を持つ人に、出会っていなかっただけ。


 隣の部屋から、足音が聞こえる。

 それだけで、自然と口元が緩んだ。


「白い結婚のはずでしたが……」


 小さく呟いて、笑った。


「契約内容、いつの間にか書き換えられていますね」



完。

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― 新着の感想 ―
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