蝕む毒すら蔭らぬ笑みを
見えないものを見ようとする行為を天体観測というのなら、
きっと、それははるか遠くを眺むこと。
ある人はそれを夢と呼び、
ある人はそれを希望といった。
届くはずもない月を見上げては手を伸ばした。
眩しく映るだろう。輝いているのだろう。それらの顔は。
ひたすらに、ひたむきに、前に歩いていくのだろう。その足は。
では、僕は?いったい何を見ようとしているのだろうか。
ふっと自嘲しながら教室を見渡す。
夏が蔭る9月。だらけきった学生は急な抜き打ちテストに四苦八苦している様子が見える。
そんなに必死に頑張るべきものかねぇ。サボっても死ぬことはないこんな現実に。
努力というものは、そんなに綺麗なものじゃない。
報われるのは学生まで。何故なら勉強という"世界で一番簡単に努力が反映される"鳥籠にいるのだから。
その鳥籠から放たれてしまっては、もうそのおまじないは通じない。
今まで見えてこなかったあらゆるものが見えてくる。
それが大人。それが社会。もちろん、多少は学生のうちに自然と学べるものではあるけれど。
見えないものを見ようとする行為を天体観測というのなら、
目の前の見えてこなかったものを進んで見る行為を、僕は服毒と捉えるだろう。
夢の中で生きて行けるなら、希望と努力だけで閉じれる世界ならば。
きっと見る必要がなかったものたちだ。常に僕たちの傍に横たわっていたものだとしても。
だから、その毒に侵される前に、毒を持って毒を制す必要がある。
他人に向ける「毒」ではなく、自分に向かって撃ちこむ「独」だ。
緩和剤と言っていい。ワクチンと言って差し支えない。絶望さえ避けられるなら儲けものだ。
「それじゃああと20分だ。終わりのチャイムが鳴る頃には戻ってくるから、教卓の上に回答用紙を置いておくように」
そう告げて教室を出る。なんなら、5分くらい遅れて戻るつもりだ。さて、何をして時間をつぶそう。
研究者の本分は研究だ。なのに大学なんぞに所属してしまっているが故にお荷物も増えてくる。
学生のお守り、教育もその一つだ。怠惰な僕には向かない仕事。適度に力を抜くに限る。
外の空気をゆっくり吸いたくて屋上へ向かう。この時間は空いている。空間がだけではなく、鍵が開いている。
頑丈な観音開きの扉を押し開けると、予想通り先客がいた。
肩まで伸ばした黒髪が、まだ生ぬるい夏風に揺れている。
ぼんやり空を眺めている彼女は流し目で僕を見やると、「もう、そんな時間か」と呟く。
抜き打ちテストの詳細を告げ、問題用紙をあらかた見たのち、すぐ席を立った学生だ。
少しスマホをいじった後、僕と入れ替わるかのように屋上から出て行こうとする。きっと教室に戻るのだろう。残りの15分で回答を作成すれば何も問題はないのだから。
僕が抜き打ちテストを発表した時の内容はこうだ。
・時間内に問題用紙の問題の8割以上正答すること。そうでなければ再テストかつ評定にマイナスを付与する。
・回答可能な時間は只今から90分後まで。
・範囲は今まで習ったことをすべて使えば解けるぎりぎりの難易度にしている。
・不正を見つけた際、その不正部分の点数は0点とする。
僕の横を通り過ぎる瞬間、彼女はこう言った。
「先生、タバコなんて吸わないのに、いつもこの時間タバコ吸いに行くなんて言って教室出るよね。そしていつもここに来る。」
鍵は元の場所に置いておいてね、と屋上の鍵を手渡してくる。僕はそれを受け取る。
「『範囲は今まで習ったことをすべて使えば解けるぎりぎりの難易度』。それで今日テストを受けている子の何人が8割の点数を実力で獲れると思ってるの?」
僕は答えない。いや、一応答えておくか。
「さぁ、分からないねぇ。でも、君はそろそろ教室に戻った方がいいねぇ」
「そ-するわ」
興味が無くなったかのように踵を返して彼女は屋上を立ち去る。その後ろ姿を見送った後、苦笑する。
きっと彼女は再テストを受けることはないだろう。
この屋上から教室まで、どんだけ急いでも5分はかかる。つまり、僕がここにいることが分かれば
それを教室にいる彼らに伝えることができれば、最低5分は確実に僕は教室の状況を把握することができない。
・不正を見つけた際、その不正部分の点数は0点とする。
何をもって不正とするか。社会には「正しい」の定義さえ曖昧だ。そして、不正を証明するものがなければ不正なんて存在しない。
なんなら、僕は彼女の筆跡なんて覚えていない。教室を抜け出した彼女の回答用紙に、誰かが代筆していたところで僕は関与しない。
・時間内に問題用紙の問題の8割以上正答すること。そうでなければ再テストかつ評定にマイナスを付与する。
求めていることはこれだ。ルールの抜け穴を見つけることができるか。事前にふさぐことができるか。目的の為に誰かと適切に協力することができるか。これらの能力は定型の勉強で学ぶ知識ではないが必要だ。
サボれる部分をサボり、力を入れるところは入れる。見極めさえ間違えなければなんとかなる。
バレなければいい。それでいい。自分が正しいと思う道であればそれは怠惰でさえ正義となる。
清濁は飲み込む。見たくないものだけ代わりに見てやろう。代わりに喰ってやろう。
この目の前に現れる異形すらも。
「でも、惜しいねぇ。あの子は満点ではないねぇ。」
皆既月食ですら、完全な闇に覆われることはない。屈折した赤銅色が顕現してしまうことがあるように。
毎日決まった時間に屋上に来るのは、彼女がこの時間に屋上に向かうからだ。
彼女には見えていない何かに彼女が憑かれるからだ。
この屋上に顕現するこの世のものではないモノ。本来見なくても良いモノ。
どろどろとしたモノ。屋上にいる彼女にいつもまとわりついているモノ。
人を堕とすモノ。人を落とすモノ。
これは「毒」だ。どちらかというと「独」に近いモノ。孤独が蝕んでできたナニカ。
「民俗学の研究者ではないんだがねぇ。化学畑の私に対処できるモノなのかねぇ」
でも、「ドク」なら、私の研究分野でしかない。
笑みがこぼれる。意味が分からないものを調べるのはやはり楽しい。自分が抑えられない。
「さて、何を撃ちこもうか。何が効くか。ふぐ毒でもぶち込んでやろうかねぇ。」
「ん。なんだ。あれとやるのか。なら一緒に殺るか。ほら、これ使いな」
後ろから声がかかると同時に、何かが飛んでくる。リボルバーだった。
「ちなみに、銭湯上がりに飲むのは珈琲牛乳かい?不法侵入者くん」
「フルーツ牛乳かな。白衣の先生さん」
「よし、この変なバケモノを倒したら次は君だ。珈琲牛乳のすばらしさを私がその身に叩き込んであげよう」
「はは。楽しみにしているよ」
毒に染まったそのリボルバーの、引き金が、引かれた。