常闇と顎
目を覚まして、最初に天井が見えて、そして自分が負けてしまったのを悟った。
身を起こすと、胸から胴体にかけて鈍い痛みが走った。その部分に目をやればきっちりと包帯が巻かれている。
しかし外傷があるわけではなく、ただの打ち身で済んでいるようだ。魔法で治療されたのかほとんど痛みも無い。
視界を広げると直ぐ傍に歪に凹んでしまった鎧が置かれていた。もう使えないだろうが、ユキネの体を守ってくれたらしい。
さらに視界を広げると、ユキネと同じようにベッドに横たわり治療を受けている人が見受けられた。
それに向こうの入り口の方からとてとてとフェンが近付いてきているのを見つけた。
フェンが近付いてくる間に、もう一度辺りを見渡す。
「…飲む?」
「ありがとう」
フェンから差し出された飲み物をありがたく受け取った。
ベッドから足を下ろし、コップを受け取った。自分でも気付かないうちにのどがかなり渇いていたのか、一度コップを傾ける間に中身は空になった。
フェンも自分の分のお茶をゆっくりと口に含むように飲んでいる。
それを見て少しだけ和んだ後、もう一度部屋を見渡した。
視線に気付いたフェンが口を開く。
「…ハルユキは、予選が終わって、用事があるからって、帰った」
「……え…?」
ぐわん、と一瞬世界が屈曲した気がして、思わず下を向く。
ひょっとしたら予選のダメージが残っているせいかもしれない。
しかし、恐らく本当の理由はもっと、我侭で独り善がりなものだと何となく分かっていた。
またしてもハルユキの事。
私を置いて、いなく、なった。ただそれだけの事に、世界は揺れる。
それなのに、乾いていく口が震えながらも笑顔の形を作っている。そんな自分が更に歪だった。
「…そうか。……帰った、か」
周りばかり見渡していたのは、知れずハルユキの姿を探してしまっていたらしい。その証拠に、もう周りを見渡す気は失せていた。
我侭な話だけどそれでも。それでも──。
「……帰る?」
「…そうだな」
もう完全に陽が落ちてしまっているのが、窓から入ってくる外気から察することが出来た。
待っていてくれたフェンにも申し訳ない。少し何か言いたそうなフェンの背中を押しながら、治療してくれていた兵士と一分程話して外に出た。
昼間とは違い上手い具合に冷えた空気が頬に当たる。これなら宿まで歩くのも苦痛ではないだろう。
「…あ、ごめんな。折角応援してもらったのに何も出来なくて」
その後ろ向きな言葉に、フェンはやっぱり首を横に振ってくれた。
弱くてごめんなさい。
本当はただそれだけ言いたかったのだが、そのまま口にすると嫌味臭く聞こえるのを嫌って、遠まわしに当たり障り無い言い方に変える。
少しの沈黙を挟んで、当たり障りの無い会話に移った。
ハルユキの話題に触れたくなくて、名前さえも出せないのが悔しかった。
「フェンは、その…、頑張れよ」
フェンの予選の話をするのも何か気まずいものを感じたが、それを意図的に避けるのも何か不自然な気がして、結局そのまま口にした。
比べるのも全く意味の無いことだが、それでもそう言ったのは。
今は自分の矮小さを浮き彫りにして、自分を納得させたかったのかもしれない。
◆ ◆ ◆
──ハッ…、ハッ…ッ!
夜の冷えた空気に荒い呼吸が溶けていく。
それだけの事が、どうしようもなく恋しくて出鱈目に走り回っていた。
肺に入ってくる空気が新鮮で必要以上に湿気を帯びていないのが嬉しくて堪らない。
しかし、どうしても体の方に限界が近付いてしまい、腰を折り曲げ膝に手を置き呼吸を整えることになった。
ある程度息が整うと今度は逆に腰に手をあてて、思い切り腰を伸展した。狭苦しかった牢とは違い、どこまででも続いている夜空が爽快だ。
「…さて、どうしてくれようか」
見渡す限りここはまた別の倉庫街。
この辺りに潜伏するのが妥当だと言えるだろう。
とりあえずはしっかりした服の調達。食料の確保。住居の獲得が必要な訳だが、住居の方は適当で問題ないだろう。
さっさとある程度の金を作ってこの町を出て行く必要があるのだ。
しばらく歩くと川が流れる音が聞こえてきた。そこから川を見つけるのは大して難しいものではなかった。
ある程度川が綺麗な事を軽く目と感触で確認すると、首から水の中に突っ込んで喉に水を流し込んだ。
「………っはぁッ!」
長い金髪の髪から水が滴る。
やっと満足いくまで潤すことが出来た渇きに笑みを深くしていると、黒い鏡のような川に月明かりで己の顔が映っているのに気付いた。
ボサボサの髪で傷と泥だらけの肌。口の端から水を垂れ流し頭を振るだけでふけが散っている。
途端に、顔から笑みが消えうせた。
代わりに奥歯が割れそうなほど歯が擦れる音が空しく響く。
「く…っそォオオ!!」
逃げるときに兵士から奪った指輪の魔装具が光を放ち、手に集約した魔力が"雷"に変換され、傍にあった木箱を吹き飛ばした。
殺してやる。
驚くほど滑らかにその結論まで行き着いた。
あの親子も、黒髪の男も、王女も、この町に惰性で生き続けている馬鹿な住民共も全て悉く殺害する。
溢れるほどの殺意に息をさらに荒くしながらも、空腹はやって来る。
そして、ふと顔を上げた先の倉庫の一つから、言われなければ気づかないほど微細の光が漏れていることに気づいた。
人がいる。
そこから、その人間を殺して金銭や食料を奪うと言う結論に至るのに、長い時間も、躊躇いも、良心の呵責も、必要なかった。
歪に唇を吊り上げた表情のまま、その倉庫の周りをゆっくりと回る。
すると上手い具合に半開きになっている扉を見つけた。
益々その笑みを深くしながらその扉から体を倉庫内に滑り込ませる。
入って直ぐに積み上げられた木箱が幸いにもサルドの体を隠してくれている。
そして馬鹿のように光を発し続ける標的はその向こうだ。
これなら気付かれる前に奇襲することも出来るだろう。どうやら今夜は神が背中を押してくれているらしい。
口から笑い声が漏れてしまいそうになるのを堪えながら、木箱の壁が切れているところから顔を半分だけ出し、向こう側の様子を伺って。
先ず、笑顔が凍った。
次に滝のように背中に汗が流れ、眼がまばたきを忘れて乾ききっていく。
そして頭がその光景に追い付いた時、大量の疑問が津波のように押し寄せてきた。
しかし明確な回答など得られるわけも無い。未だかつてこのような光景に出会ったことは無いのだ。
およそ、百数十人。
これでもかと言うほどに密集した人間達が。
地面に、いや、そこで口を開けている常闇に。
飲み込まれていた。
異様なのはその非現実的な現象だけではない。
まるでそれを至上の喜びだとでも言うほどに誰一人悲鳴を上げず、それどころか恍惚とした表情を浮かべている。
中には、取り憑かれたかのように周りの人間の服を剥ぎ取っていたり、手当たり次第に歯を立てる者、酷い者には大声で笑いながら自分の喉を中の肉が見えるまで掻き毟っている人間まで存在している。そんな事をしている間に自分の体は闇に飲まれているというのに、だ。
「ぅッ…あ」
その余りに歪な光景に先程飲んだ水が込み上げてきていた。数秒も我慢できずにその場にぶちまけた。
ビシャビシャと品の無い音が倉庫の中に木霊した。
「あら、いらっしゃい」
地獄をそのまま絵図にしたような光景の中で、一人黒尽くめの女が木箱の一つに腰掛けていた。
その姿はまるで影絵のようで、人間味を感じさせてくれない。
繰り広げられる地獄より、深く暗い印象が脳髄に刻み込まれ目を離す事すらできない。
「あ……ぁ…」
そこで一つ異な事に気づいた。
その女の目がこちらを見ていない。いやそもそも先程の言葉が自分に向けられたものではない。
「どうだった? 予選は」
漸く、自分の後ろの存在に気付いた。
「……歯応えが無さ過ぎる。食えねェし殺れねぇェし? 心労が溜まる一方だ」
「まぁ決行まで我慢しなさいな。そこまでいったら好きなだけどうぞ」
「…手前に指図されるまでもねェよ」
「ふん、どうせここに来るまでに腹は満たしてきたのでしょう?」
黒尽くめの女の言葉に、後の男もつまらなそうに倉庫内を見渡しながら、同じように鼻を鳴らした
「一寸、物足りないがな。…ここで調達してるって事はまた計画に変更か?」
「最初は元同士の様子見だったんだけどねぇ。まぁうちの組織は首領の気分次第だから」
「……気にいらねェな。今度は何だ」
「また今度も無理な注文よ。現場は大変だわ」
触れそうな位置関係から聞こえて来る、擦れきった男の声がサルドの精神をひどく磨耗させていく。
先程の全力疾走の後よりも呼吸は荒げてしまっている筈なのに、まるで自分が存在していないような錯覚を起こさせていた。
その方が良い。
今、自分はここに存在していない方が間違いなく幸せだ、と倉庫内に充満した不吉の気配が、サルドの思考をそう強制させる。
「──ところでェ?」
ひょっとしたら、このまま生きてここを出れるのではないかと頭のホンの片隅で思い始めた頃、何か重々しいものがサルドの肩に圧し掛かった。
「"これ"はお前からの御夜食か?」
その重みが、ただ後ろの男が自分に意識を移しただけだと気付いた時には、もう後に全力で飛び右手に大量の魔力を集めていた。
「あぁぁあ、あぁぁあぁああぁ!!!!」
言葉にならぬ声を喚き散らし、不気味に破顔する男に全力で右手を振り下ろした。
技でもなんでもない。
ただ雷の魔力をぶつけるだけ。しかしそれでも人一人を殺しきるには十分すぎる手段だ。
その手から放たれた魔力は雷音を轟かせながら、男を黒焦げにする。
はずだった。
──ブン。
聞こえたのは轟音などではなく、ただ自分の腕が空気を切った音だけ。
「"それ"はただの迷い込んだ鴨よ。流石に葱は背負っていないようだけど」
「ああ。──だが中々に良い味してるぜェ?」
何だ?
何を言ってる…?
しかし、それ以前に。
この俺を前に、談笑だと?
笑わせるな。殺してやる。
冷えたサルドの思考がそこまで一気に込み上がり、戦闘意思を沸きあがらせる。
再び、右手に魔力を集中させる。
「え…ぁ?」
そこで初めて、妙に頭が冷えていた原因。頭から血が抜けた原因に気が付いた。
"喰い千切られている"。
自分の、右腕の肘から先が。
「ギッ、! ──ッがァァアああァ亜ァアああ!!!」
掠れて傷ついて裏返って、ごちゃごちゃに感情が混ざり合った絶叫が、サルドの口から暴れながら飛び出した。
「何? 雷魔法? 良いわね、私も半分貰うわ」
痛みに意識を奪われている隙に、蠢く影が逃げ場を潰しながら接近してきている。
「い、あ…ッ、やめ…」
「上半分は俺が貰うぞ」
「嫌よ。下なんて汚いだけじゃない。左右に分けましょ。当然腕なしの右が貴方よ」
蠢く影と、虚空の顎がサルドに迫る。
サルドが最期に聞いたのは何かが縦に引き裂かれる悍ましい音。
そして余りに凄惨に、余りに残酷に。
サルドは、胃袋と常闇にばらばらになって収まった。




