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ハイイロ ノ カナタ  作者: mild
第一部
87/281

影の夜

 ズン、と重々しい音を最後に嵐のような拳の乱打が収まった。


 辺りの地面は引責でも降り注いだのではないかという程に荒れ狂って陥没している。



「ごッ……ギッ…ぁ」

「…よう生きとるな」



 何か言おうと男が肩を震わせるが、出てくるのは単語にすらなれていないただの擦れた音だけ。仮面は粉々に砕け素顔が明らかになっていた。



「またごっつい顔しとるのお……」



 一言で表すのならばまさに奇怪の一言。


 鼻は削ぎ落とされ鼻孔が顔の中心に空いているだけ、唇は焼き潰された後切り取られたのか歯を覆っているものはない。耳も当然穴があるだけで目だけがギョロギョロと動き回っている。


 しかし、関係はない。この男の過去に何があったのかなど知る由もない。



「…その服、竜のドラゴンスケイルか? またゴッツイな。そんなもん何処で手に入れられるんや? ああ…」



 そこで一端言葉を切り、冷たく男を見据えた。



「ゾディアックなら手に入れるんも簡単か」



 唯一人間らしい部分を残している目が驚愕に見開かれた。その驚きは一体どれほどのものだったのか、その間は体中の痛みを忘れているようにさえ見えた。



「…殺すつもりまではなかったけど、ワレを殺す理由が増えた。幸いシアちゃんも気絶しとるから、――往生せぇ」



 生理的に嫌悪感を感じざるを得ない程の男の顔面を、何の躊躇いもなく鷲掴みにした。



「……待、…て」



 少しは回復したのか、それでもまだボコボコに腫れ上がった口元で勝ち誇ったようにそう言った。


 止めるつもりは更々無かった、が、それでも手を止めてしまったのは不吉なものを感じたからかもしれない。



「…そこ、の…ッぁ…奴隷の、烙印ッ、は、…僕っちしか、消せない、…ぞ」



――烙印。


 奴隷の烙印。それ程有名ではないのかもしれないが恐らく土地の有力者や貴族、それに情報に通じている人物は知っているはずだ。


 そうすると、普通に生活をするにおいて重大な障害になる事は間違いない。



「そうか。でも死ね」

「ッな、げァッ!?」



 グッと首を握り締めながら男を睨み付ける。


 殺せ殺せ殺せ殺せ、と例の引っ掻き音が形を変えて脳髄へと訴えてくる。


 その主張に今や本能も理性も反対はしない。


 殺す。


 コイツラは一厘も残さずに殺し尽くす。



「確かに烙印は消した方がええやろうけど、どう考えてもお前を生かしとく方が危険で不快や」

「待……、や、め…」

「考えの浅い脅し、終いには懇願か? 最期やぞ。ほら――笑え」



 握り締められている手から、冷たく見据えている眼から、ジェミニの殺意が男に流れ込む。


 嗤う。


 しかし、男の仮面は既にたかが暴力で粉々になり地面に散らばっていて、笑う事など出来るはずもなかった。



「――結局お前は、強がってただけの弱者だよ」

「ヒッ…ぁ…!」



 男の小さな黒目がぐるんと裏返って口元から泡が吹き出した。


 あとほんの少しだけ力を強めれば、終わる。


 しかし、そこで静かに手を離した。


 男からはまだ微かに息をする音が聞こえてくる。



「…これで良いんか? シアちゃん」



 いつの間にか意識を取り戻し、いつの間にかこちらに這ってきて、そして泣きそうな顔でジェミニの裾をしっかりと掴んでいたシアにそう声をかけた。





◆ ◆ ◆





 目を覚まして初めに感じたのは、部屋中に充満している殺意だった。


 濃厚すぎて常人なら吐き気を催す程の毒性。


 しかしシアは、それが知っている人の雰囲気に似過ぎていて、そして余りに危うすぎて、吐きそうどころか泣きそうになった。


 ぐらつく視界で前を見ればあの人が人の命に手をかけている。


 ――やめて。


 必死に喉を震わせるが、声は出ない。

 

 ――やめて!!


 いくら口を開こうが、奇跡は起きない。


 どうしてあの人が手を汚さないといけないのか。あの人はあんなに頑張っていたのに。前がどっちかも分からないのに必死に進もうとしていたのに。


 こんな汚れた私の為なんかに、手を汚す必要なんかない。


 だから手を伸ばす。でも届かない。


 なら近づけ。しかし立てない。


 それなら這ってでも近づいて、手を伸ばして捕まえろ。


 いつの間にか俯せになっていた体がゆっくりと前進する。地面がボコボコで進みづらい。腕にも満足に力が入らない。


 それでも地面を掴んで体を前に引っ張る。


 それをどれくらい繰り返したのか、不意に指先が確かに何かに引っかかった。確信してそれを渾身の力で握る。


 力を入れれば入れるほど充満していた殺意が薄らいでいく。



「…これで良いんか、シアちゃん」



 その手を反射的に離してしまったのは、多分腕が限界だったわけではなく、聞こえた声があまりに優しかったから。離れてしまった手をあの人の手がそっと捕まえた。


 その手を振り払ってしまったのも多分反射的。




 助けて貰っておいてなんだけど、望んでおいてなんだけど。


 本当に助けてくれなくても良かったのに。


 ──嘘だ。


 また嘘。本用は死ぬほど来て欲しかった。助けに来てくれて死んでもいいほど嬉しかった。


 でも自分が汚れているのを思い出して。それを知られて、そういう風に見られるのが耐えられないということに気づいてしまった。


 折角、優しい人たちが今はいてくれるのに。


 もしも自分が汚れていなかったらと考えずにいられなかった。


 そうすれば目の前に差し伸べられた手を握ることができただろうか。


 そうすればまた言葉を交わす事が出来ただろうか。


 わからない。けれど今話す事が出来たのなら、多分、いやきっと間違いなく終わりを欲してしまう。



 奴隷の娘として生まれてから何年も何年も繰り返し繰り返し欲望と暴力に汚されてきた過去が事実として体と心にこびり付いているのだ。


 手も髪も口も体も、余すことなく穢れている。


 多分、深い所まで染み付いてしまったその穢れは消えるどころか薄まることすらないだろう。


 殺してくれるならそれがいい。放ってくれるならそれでもいい。


 少しだけ、少しだけ悲しんでくれて、少しだけ惜しんでくれたなら、もう死んでも良かった。


 しかし意に反して焦れた様に差し伸べられた手がこちらに伸びた。



「ワイの手は血で汚れてるかもしれへんけど、ごめんね、我侭さしてもらうわ」



 ひょいと事も無げに私の体が持ち上がった。



「お姫様抱っこ~、…ってあたたたたたッ…!」



 軽くはない怪我をした足が力を失い、私を抱いたまま尻餅を付いて、突き窪んで角度のついた地面にもたれ掛かった。


 そこで思い出したようにじたばた…しようとはした。しかしもうそんな力は残ってなく、腕の横にあった胸を押しのけようとするのが精一杯だった。



「汚くなんかないよ」



 分かっていたのだ。おこがましいとは思うけど、この人はきっとそう言ってくれる。優しいこの人は自分は我慢してそう言ってくれる。


 自分が汚くない、などということがありえないことも知っていた。


 その言葉を期待していた自分に吐き気がした。どこまで浅ましいのだと辟易した。


 でも、耐え切れないとばかりに涙が出た。



 最初は、多分悔しくて。


 次は辛くて。苦しくて。怖くて。嬉しくて。温かくて。



「……っ…ぅ……っひ…」



 寂しくて。もどかしくて。思い起こして。満たされなくて。寒くて。──切なくて。



「…ぁ…あぁ……!」

「我慢せんでええ」



 いつの間にか声も出ていた。



「っぁ、あああああっぁああぁああああああぁあああああ!!」


「…ごめんな」



 混ざり合った感情が、巨大な渦のように勢いを増し濁流となってせき止めることも出来ずに外に零れていく。



「うぁあああああッ!! あああああん! ひッ、っく、ぁああッ、ああああぁぁああああああ!!」



 差し伸べられた手を両手で握り締めて。傍にあった胸に顔を埋めて。


 心の底から、泣いた。




「な゛んでッ! わだじ、がッ…ぁ! なにも゛…っ、わ゛るいごどしでないのに゛!!」

「…そうやな」

づらかった! ぐるしかったッ! にたかった、よぉ…!! でも……ッ! 怖くて…!!」

「大丈夫。もう、大丈夫」

「ごめんなさい…ッ、ごめ゛んなざい…!!」

「シアちゃんはなんも悪くない。謝らんでええんや」



 何故泣いているのか、何故謝っているのか。よくはわからない、が、まるで今までの15年間が蘇ってくるようで。抱きしめられている胸まで汚してしまっているようで。たまらなかった、のかもしれない。




 それから長い間。


 謝り続ける声と、それを許し続ける声が部屋の中で木霊し続けた。





◆ ◆ ◆





 謝り続ける寝言も止んで、安らかそうに寝息だけをたてるようになったシアの頭の下にシャツで枕を作ってから、ゆっくりと離れた。


 そして、これまたゆっくりとラィブラの近くに歩み寄った。


 かなりの重症だったうえ、追い討ちまでかけたので死んでいてもおかしくはなかったが、近付くと剣呑な雰囲気と短く擦れた呼気音が息があることを知らせてくれた。



「こ、…ろす…ぅ…!」

「…意識まであるんか」



 ゾディアックである以上多少の肉体強化はされているはずだ。


 それを鑑みれば、こうして話が出来るまでに回復したのも頷ける。



「……忘れ、るな…! ま、た…」

「おい」



 しかし会話するつもりなどなく、もっと言えば発言を許す気すらなかった。



「お礼参りするんは勝手やがな。お前、それが出来るほど五体満足で帰れると思うてんのか」

「……あ…?」

「そうやな。今日は右足や。次に来た時は左足と右腕。その次は左腕と両目。その次は…」

「……お、い。何を…?」



 言葉を遮ったラィブラの言葉に耳を貸さず、右足を太股から思い切り鷲掴んだ。



「ヒッ…!? ぁああッ…、や、めッ…!」



 先程とは打って変わった怯えた様子を見せるラィブラを見て止めの一言。



「まずは右足」



 異変に気づいたのはその時。


 正直ただ恐怖を刻むための脅しのつもりだったので、それほど神経を集中していなかったのが功を奏した。


 ラィブラの下に当然存在する影がほんの少しざわめいて。


 次の瞬間、ズブン、と体重を乗せていたラィブラの下半身が沈んだ。


 床に、ではない。そもそも地面すらそこには存在しない。


 暗い暗い闇。深い深い影。



「……な、にッ!?」



 自分の腕がそこに吞み込まれる前に身をかわせたのは僥倖だった。当然手遅れだったラィブラは恐怖に歪んだ顔のまま影に吞み込まれていく。


 しかし最後の最後。納得したように勝ち誇ったように、ぼこぼこの顔のせいで笑顔ともいえない表情を見せたのが印象に残った。





◆ ◆ ◆




 そこから数百メートル離れたなんでもない普通の民家の屋根の上。


 月の光に濡れ、漆黒の外套を着た二人組みが、睦め合う訳でもなくただ憮然とそこに立っていた。



「おいおい、聞きしに勝る不細工っぷりだな、ラィブラ」

「何時もはここまで酷くはないわよ流石に。ボコボコだったものね、同情するわ」

「う……あ………」



 そしてその二人の間から三人目が"生えてきた"。


 正確には屋根からではなく、夜の闇より一層深い影の中からゆっくりと浮き上がってくる。



「あれ? 喋れないの? さっきまで普通に話してたのに、もう。タウロス何とかして」

「ァあ?」

「しょうがないでしょ。やらないと仕事楽にならないわよ」

「大体何で今更別の仕事が入るんだよ。俺は今すぐあの茶髪を……」

「首領命令。従いたくないなら直接言いなさいよ」



 チッ、と小さく舌打ちするとラィブラに向けて手を翳した。



「雑魚一人分だ。後は自分で何とかしろや」



 ボウッとラィブラの体が光ったかと思うと、その光が体の中に吸収されるように光を失っていき、同時に傷も塞がっていく。


 光が完全に消えた時、ある程度の傷は跡形もなく消えていた。



「……助かったよ。借り、が出来、た」

「まあそれは仕事を手伝ってもらうから別にいいわ」

「………殺す」



 脈絡も何もなかった。ただ思い出したかのように小さく震える口でそう呟いた。


 ただそうしないと駄目だ、と頑として譲らない目だった。やる場のない殺気と屈辱が充満していく。



「あ、あ、ああああの野郎…! 僕を、僕っちを、弱い…! 殺す!!」

「おい」



 そしてそれを押し戻すかのような無骨な殺気がもう一つ。


 低く重く響くような声はその重厚な殺気をうまく体現しているかのようだ。



「それは何か? 俺に喧嘩売ってんのかァおい」



 この場では明確な方向性を持っていなかった殺気が意思を持ったかのように無骨な殺気とぶつかる。


 なんでもない屋根の上が戦場にでも変わるのかと思った矢先。



「面倒かけないでくれるかしら? イライラするわ」



 濃度でいえば比較にならないほどの殺気。しかし妙に落ち着きを持ったそれが声に乗って他の二つを相殺した。



「タウロスは戦えればいいんでしょ?」

「一番歯応えのいい奴がいいんだよ…!喰い応えのない奴等はもういらねぇんだよ!!」



 その言葉を待ち構えていたかのようにヴァーゴが苦笑いしながら言葉を続けた。



「だったら彼の仲間に黒髪の男がいるわ。──そいつからレオは逃げ帰ったそうよ」



 しん、とその場が凍った。


 殺気も時間も恨みも忘れて、ただ時間だけが流れた。



「……本当か」



 その静寂を破ってタウロスが真偽を問う。



「何時もの"嘘"じゃなければね」

「──っは!」



 面白い、とさぞ嬉しそうな声で腹を抱える。


 体が震えているのは驚喜からか恐怖からか、それとも武者震いと呼ばれるものなのか。


 打ち震える体、三日月型に歪んだ口蓋。それが示すのは限りない不吉だった。



「決行は本祭が始まってから。それまでは目立つ行動はとらないでよ」

「分かってる…! こういうのは待つ事もしっかり楽しまねぇとなァ…!」

「…バラバラにして…裂いて、潰す…! ひ、ひはッ…!」



 夜の闇に飽和するほどの不吉を孕んだまま、夜が更けていく。



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