朝焼け空
「ぬ……」
目を覚まして、ゆっくり瞼を三分の二ほど開けた。
ぼりぼりと頭を掻きながら上体を起こして、ベッドの傍らに置いてある水差しの瓶に手を伸ばす。
コップは使わずに、と言っても瓶からは少し口を離して水を喉の中に流し込んで眠気を飛ばし、やっと完全に開いた瞼を窓の外に向けた。
「……朝か」
日もまだ昇ってはいないが、山の向こうを見る限りあと十数分で太陽が頭の先を見せるだろう。
窓をほんの少しだけ押し開けると冷えた空気が顔に当たった。
気温的には夏間近なのだろうだが、ここの土地質なのかそれとも早朝だからか、適度に乾いた涼しい風は心地良いものだった。
少し離れたベッドに意外と大人しい格好で寝ているジェミニを横目に、窓から離れ扉に向かった。
昨日は結構飲んで騒いだつもりだったが、当然のように酔いも疲れも残ってはいない。
扉を開けると先程の風は無い。
当たり前だ、ここはまだ室内。昨日の部屋のように中庭に続いているというわけでもない。
先程の風が恋しくなり、外に出てみようと少し歩いてまわることにした。
途中で何人かの使用人たちとすれ違った。
何れも昨日の酒の席で見た顔ばかり。
お疲れ様です、と慰労の念をこめてすれ違う度に会釈を交わした。
こうして何気なく歩くだけでも楽しいものだな、一人で感じ入りながら歩き続ける。
どれ位歩いただろうか。
もう目的は外に出たいではなく、完全に散歩を楽しむことにすり替わっていて、まだ通っていない通路を片っ端から練り歩いていた。
それでもまだこの巨大な城の十分の一も踏破できてはいないだろうが。
新たに見つけた階段を上り更に廊下を進んでいく。
結構な歩数に至っているとは思うが、同じ所をグルグルと回っていた訳ではないので、大して疲れもしないし退屈でもない。
そんなことを考えていると、右手に続く通路の奥に比較的大きな片開きの扉を見つけた。
位置的に誰かの部屋と言うのは考えにくいし、ほんの僅かに空気の揺れを感じる。進行方向を折り曲げ扉に続く通路に入り、はやる足をそのままに扉に近づく。
辿り着きざま、その扉を押し開いた。
瞬間扉の隙間から、朝特有の涼やかな風が全身を通り抜けた。
目に入ってきた陽光に目を細める。
しかしその夜明けのほんの少しだけ茜色が混じったその光は強い、というより美しいと形容する方が正しくて、決して嫌なものではなかった。
いつの間にか城の一番上にまで着てしまっていたらしい。
前には壁がなく、上には天井がなく、暫く歩けば床もなくなった。
どうやら眠らない町も仮眠は取るらしく、今は町中に沈黙がどっしり腰を据えている。
足を中空に投げ出す格好で 地面が終わるその縁に座り込んだ。
別に何をするでもなく、太陽がその想い身体を起き上がらせて行くのを眺める。
……ほんの少しだけ、懐かしさを覚えた。
星も大地も大海も変わっていく中で、太陽だけは毅然と欠片も変わることなく今日も何回目とも知れぬ起床を繰り返していたことに。
どれくらいそうやっていただろうか。
大体太陽が全て出終えるくらいなので、まあおおよそ三十分ほどだろう。
相も変わらず朝焼け色の空と町を見比べていると、不意に後ろからガチャっと扉が開く音が聞こえた。
「………ハルユキ」
とてとてと短い間隔の足音と、自分の名前を呼ぶ消えてしまいそうな小声には覚えがあり、振り向かなくても誰がそこにいるかは分かった。
「早いな、フェン」
そう挨拶すると、ゆっくりと近付いてきて拳三つ分ほど間を開けて俺の横に座り込んだ。
「……っと」
ぐらっと前につんのめりそうになるフェンの首根っこを捕まえて身体を支える。
「…デリカシー…」
「はいはい」
心なしか半眼で恨めしそうに俺を睨むフェンから手を離した。
再び目の前に広がる絶景に視線を戻す。
フェンとの間に基本会話は少ない。
2人だけのときは2人してボーっとしていることがほとんどだ。
別に苦しい沈黙ではない。むしろこれはとてもお穏やかな空間で、この状態が一番自然なのだと思う。
フェンは性格上話が得意なほうではないし、俺もボケッとする事に関しては一億年の時間の中で死ぬほど経験した。
だから何時も通り2人とも何をするでもなく、宙に投げ出した足をプラプラさせながら景色を楽しんでいた。
「……ん? 何でこんなことに来たんだ?」
「…外の風に当たろうとして、迷った」
だから、こういった会話が発生するのはどちらかが何気なく発した言葉が何気なく続くだけ。
「お前酔ってすぐ寝てたしな」
そう言えば。
前の晩、城中に広がった大規模な宴でレイや王女達にユキネもろとも酒を飲まされ、たちどころに潰れてしまっていた。
「まだ、頭痛い…」
大方風に当たろうと思って俺と同じように城の中を彷徨った挙句、ここに行き着いたのだろう。
「でも、楽しかっただろ?」
「…うん」
そう言ったフェンは未だ楽しそうに足をぷらぷらと揺らしている。
フェンは口調にも、表情にも感情が少なく、初めて見ただけでは感じ取れない程だ。
しかし、感情がないわけではない。
その分、確かに感情が何処かに現れるのだ。
それを見つけると少しだけ得意な気分になってしまう。
「……イサンと、レイとか、イシルとダイノジみたい、だった。…家族、かな」
「ああ、ああ言うのも家族って言うんだろうな」
部下、隊長、従者、上司、使用人。
色々な立場こそあれど、あれ程幸せを分かち合える奴等を家族以外のなんと言うのか。
そこでフェンのせわしなく上下していた足の勢いが、心なしか弱くなっていることに気付いた。
「…………」
「…お前、親は?」
「………いない。と言うより、十歳までの記憶がなくて、倒れてた所をモガルに助けられたらしいから、分からない、と言ったほうが正しい」
いつもの様に話し終わった後、フェンはふうと息をついた。吐いた息にはどこか不安な色が混じっていたかもしれない。
対して俺は、少しだけ驚いた。
沈黙は苦痛ではない。だから会話は少なかった。でもそれはつまり、言葉が足らないということ。
つまり、お互いのことを知らないということ。
互いに距離が開きすぎている、ということかもしれない。
考えてみると、俺は目の前の女の子の事を驚くほど何も知らなかった。
「………嫌いに、なった?」
何でだよ、と心の中で突っ込みながら苦笑をこぼした。
それでもフェンは俺が黙っていたのを曲解したのか、不安そうに揺れる瞳で俺を見上げていることに気付いた。訳のわからない質問に思わず笑ってしまったが、不安そうな色がそこかしこに浮かんでいたのでしっかりと返答したほうがいいか。
「ならねぇよ。俺はお前を嫌いになんか絶対ならない」
「……うん…」
もぞもぞとくすぐったそうにフェンが少しだけ体を揺らした。
「…ただ俺と一緒だと思ってな。俺も親はいなかったんだ。俺の場合は俺を産んですぐ死んじまっただけだけどな」
親父は誰かも分からないし。まぁ、母親のほうは確実に俺が殺したって言った方がいいんだろうが。
「……嫌いになって、ない?」
「だから、なってねぇって」
「……………好き?」
「それは、まぁ……そこそこだ」
「私は、好き、だよ……?」
「そりゃ光栄だ」
ぐりぐりとこれでもかと言うほどに頭を撫でる。
顔は少し不満そうだが、楽しそうにフェンの足が再び揺れだした。
いつの間にか俺とフェンの間はちょうど拳二つ分に。ほんの少し。たった拳一つ分。
でも確実に近付いていた。
◆ ◆ ◆
此方で御座います、と恭しく頭を下げ先を促す老年の執事の前を通り過ぎた。
そこから数歩、歩みを進めれば眼前に室内にも拘らず巨大な扉、と言うより門が大きな顔して鎮座していた。
その下には更に兵士が数人配置されていて、客として呼び出された俺にも警戒心を滲み出させている。
その中の2人が厳つい顔のまま、門の内側にある別の小さな門に手を掛けゆっくりと開いた。
「此方です。お入りください」
流石に何でもない時にこの巨大な扉を開け閉めはしないのだろう。
小さく見えがちで近付いてみると普通の大きさだった扉をくぐり、続く空間へと身を晒した。
門の前から続く赤い絨毯。
部屋の奥には天井まで背凭れが続いた巨大な椅子。
つまりは、玉座。
「ようこそ。歓迎するわ」
しかし玉座に人影はなく、その一段低い両脇に設置されたそれでも豪奢な椅子にそれぞれやんごとない格好の人間が座っていた。
片方はもう見慣れた王女様。
そしてもう一人は不機嫌そうに此方を見下ろす年の頃60程の男。見定めるかのように此方を見下ろしている
それだけでも居辛いのだが、さらに荘厳な装飾が施された部屋に、こんなラフな格好でいつまでも居座るのは気まずい事この上ない。
ポケットに手を突っ込み重い空気に虚勢を張りながら、早口に言葉を発した。
「…んで、話ってなんだよ。俺も忙しいんだぞ」
「そんなもの私のほうが忙しいに決まってるでしょ。王女なのよ私」
「仕事熱心には見えないぞ」
「色々あるわよ。最近は危ない薬とか回ってるし、その他にも無法者が後から後から湧いてくるし、どう? 代わってみる?」
「…遠慮しとく」
「賢明ね。なら本題にうつるけどいいわね? というかうつるから黙って聞いてなさい」
片方に座っている男とは逆に王女はいい暇潰しでも見つけたかのようにいい笑顔で話を続ける。
「そこにいるのは、チェルストエって言ってこの国の大老っていうか摂政みたいなものなんだけど…」
「王女。そこから先は私が…」
王女の言葉を切って男が口を開いた。
余程上機嫌なのかその事に怒りもせず椅子の背にもたれ掛かると、どうぞと手を振って先を促した。
男は小さく返事をすると、俺を軽く睨みつけた。
「ハルユキ殿。お主はあの"憑物"を担当してもらう事になった人間で間違いないな?」
「ああ、そうみたい、だな」
見ればいつの間にか、部屋の隅に用意された台座の上に例の角が居座っていた。
視線を戻すと、更にイライラした顔で男が俺を睨んでいた、が、俺と目が合うと少しだけその表情を緩和すると咳払いを一つして続けた。
「お主の実力は王女より聞いた。……しかし"憑物"に関わる行事は誕国祭でも重要な位置を占めている。もちろんお主の実力が足らないと言っているわけではない。ただ…」
「知名度がね、足らないの」
先程のお返しとでも言うように王女が大老の言葉を追い越して、事実を述べた。
「左様。私どもが認知する分には構いませんが、何しろ重要な役柄である分、国民にもそれなりに盛り上がってもらわねばならないのだ」
「そして、この誕国祭のイベントの一つとして来月武道大会があるんだけど。……後は言わなくても大丈夫よね?」
そう言って、愉快ここに極まれりとばかりに王女がせせら笑う。
俺の唇もそれに対抗するようにひくっと独りでにその形を歪ませた。