自分の色
必死に体を動かし拳を打ち出す。ユキネが居なくなってからというもの、ひたすらに体を動かす時間が増えた。
「……くっそ、っくそくそくそくそぁあああああああ!!!!」
じくじくじくじくと、頭の中で何かが這っているようだ。
灰色の壁が、ぼんやりと光る電灯が、顔にかかる髪が、触れる空気が何もかもが狂ってしまえとハルユキを促している。
だから、逃げるように足を動かし、振り払うために拳をふるう。
「煩い、あああああああああ!!!! 消えろコラあああああおおおあ!!」
思っていたよりもずっとユキネに助けられていたのかと実感する。ベッドの脇にはまだ不格好な花の冠が置いてあった。
これを見ていると、外の世界を、ユキネがいる世界を想像してしまうようになった。
それはここにいる今において、決して良い意味ではない。
外に出たい、外に出たいと、世界を渇望する感情が狂気と結託して心を苛めてくる。しかし花の冠もその気持ちも捨てることなどできなかった。
捨てる場所もないし、何よりどれだけ苦しくても、捨てたいと思わなかった。
直にそれの近くでないと眠れなくなった。これが狂気を助長しているのに不思議だった。ホントに宝物だといっていい。何度も助けられた。
埋める様にしてそれに顔を近づけ、色彩と、ほのかに香る蜜の匂いに一時だけの安らぎを得る。
◆
「ああ、ああ、ああ、ああ、ああああああああああ……」
もう何十回目かの一週間徹夜だ。
もう、アレのそばでも一睡もできなくなっていた。
仕方ないので、何日も何日も意識を失うまで徹夜で体を動かす。
そうやって、強制的に睡眠をとると、今度は時間の感覚も完全になくなった。
起きた瞬間から体を虐めて、長い眠りに就く。
もう何回繰り返しただろうか。
ひょっとするともう狂ってしまっているのかもしれない。ここまでやるのは気が触れているからかもしれないと考えると体から力が抜けていく。
(……もう疲れた)
倒れる。疲れからか、同時に意識もなくなり、狂気が部屋を包んでいく。
関係ない。どうせいずれ狂い飽きて我に返る。初めての事ではない。
何百年後かもわからないが。
その時、何の記憶が欠落するのかもわからないが。
「ああ……」
最後の最後、妙な色の花の冠が視界の端に映った。
◆ ◆ ◆
「おい」
何か聞こえる。
「起きろ」
何だ。
目を開けると闇が広がっていた。
「うおっ……!」
飛び退く。
「そんな警戒しないでくれよ」
そう言ったそいつは、俺から1メートルほど離れたところに胡座をかいて座り込む。
先ほどの闇はそいつの体だったらしい。真っ黒な影のようだ。
(ここは……)
ハルユキは目の前の影を警戒しつつ、周りを見渡す。真っ白。それ故にさっきの影がより異質に見える。
ここには、ハルユキと、黒と白しかなかった。
「落ち着いたか?」
「……お前は何だ。ここはどこだ。俺をどうするつもりだ」
「いっぺんに聞くな」
「……俺をどうするつもりだ」
黒い影がいう事ももっともだったので、一番優先すべき質問を定め警戒しながら言葉にした。
「そう、それなんだよ!」
予想外の大きな声にびくっと体が反応する。
「お前をあの部屋から出してやろうかと思ってな」
その言葉の意味を。
と言うより、先程までの灰色の部屋とそれに連なる記憶と狂気が一瞬で頭を占拠して、溢れだした。
「出せ!!!」
可能性を提示されただけで外を渇望する心が暴れ出しそうになる。
「まぁ待て。俺は質問されたんでな。答える義務があるだろう?」
「……っさっさと話せ」
「まずは何だったかな…そう。俺が誰かだったな。 俺は、あれだ。…お前の分身みたいなもんだ。厳密には違うがな。ま、一心同体ってやつだ。ずっとお前の中にいたんだぜ」
「………そう、みたいだな」
何故か俺がここでこいつと対話していることに微塵も不思議がない。
会ったばかりなのに親の顔でも見ているようだ。違和感が違和感を塗りつぶしている、そんな感覚。
「……なぜこのタイミングで出てきた」
「出てこなかったんじゃなくて、出てこれなかったんだよ。だから俺に恨み言なんて言うんじゃねぇ」
「どういうことだ……?」
「ここまで成長したからこんなことができたんだ。つまり栄養のあるものを食って成長したってこと」
「ああ……?」
「わかんねぇかなぁ。お前から供給されるモンで大量に有り余ったモンがあっただろうが。それをおいしく頂きました」
何だ?どういうことだ?
慌てて焦ってひどく心臓が高鳴る中、ハルユキの頭の中が疑問符で埋め尽くされる。
「狂気さ」
「狂気……?」
「そう、良い味出してたぜ。コクがあった。何せ何世紀分のフルヴィンテージだ」
何世紀──。
やはりそれだけの時間が経っていたか。とハルユキは僅かに目を見開いた。
「……どれくらい経ったんだ?」
「あぁん?」
「俺はどれくらいあそこにいたんだ」
「一億年」
また、頭が驚きで塗りつぶされて、思考が吹き飛んだ。
「い、一億年……?」
うそだろ、と。思わず目が泳いで、苦笑が漏れた。
ずいぶんと陳腐な数字だ。数字がでかすぎてとてもじゃないが実感できない。
「へぇ、思ったより気にしないのな」
影はいやな笑みを顔に貼り付けて聞いてくる。
「……俺が知ってるものが何もなくなる位の時間は経ってると思ってた」
千年も一億年もかわりはしない。どっちにしろ、俺の知ってる国、いや世界ではなくなっているはずだ。
あまり反応が大きくなかったのがつまらなかったのか、黒い影は淡々と話を続ける。
「あとここがどこかだが、……まぁ、お前の心の中だ」
「恥ずかしい台詞だ……」
こいつの話を丸呑みするのは気が引けるが、それでも一億年には納得してしまった。もう、何も残っていない事を確信した事がハルユキの体から緊張を殺してしまった。
「……で、何が望みなんだ?」
「オイオイ、そんな疑うなって。裏なんてねぇよ。お前にはメリットしかないんだぜ? ここから出れるし、ハッピーな脳内友達もできるし、……強くなれる」
あからさまに含みがあるだろうが。とは口に出さず、鼻で笑って見せる。
「俺はもう十分強いんだ」
「確かにな。確かにお前の拳術はたいしたモンだ。閉じこめられてる時もやってきたせいか、史上最高の錬度といってもいい。けどな、それでも速さも強さも、拳銃一丁にも届いてないし。……剣はもう握らないんだろ?」
「……っ」
「なに驚いてんだ?いったろ。俺とお前は一心同体だって言ったろ。お前のことなら何でも知ってる。もっともそのときは自意識もなかったがな」
「ストーカー野郎が……」
「そんな趣味はねぇよ。見えてるんだよ全部。お前は確かに秀でていたし、優れてた。でもなそれじゃ駄目なんだ。今更誰かがたどり着けるところに意味はないだろ。なあなあ、本格的に外れちまおうぜ。人からよ」
ここら一帯を包む雰囲気からは、まるで悪魔と契約しているかのようだ。
唾を飲み込み、更に慎重に対話を重ねる。
「……お前には何のメリットがある。」
「ボランティアだ。……ていうのは建前でな、俺もお前の兄貴の被害者なのさ」
「兄貴? 兄貴と話したことがあるのか? どうやって?」
「たまたまな。ともかくもういい加減退屈なんだよ。寝心地はいいし、"飯"も旨いんだが、そろそろ外に出たい」
嘘は…ついてるか?
表情がないからわからん。結局兄貴とどんな繋がりがあるかは分からないが、それよりも早く、早く外に出たい。
よどんでいない空気を肺いっぱいに吸い込みたい。
「よしわかった。どうすればいい?」
「……」
「どうした」
「自分で言うのも何だが、信用していいのか俺を?」
「信用してるわけないだろ」
「……」
「考え得るデメリットをすべて足しても、外に出たい気持ちの方が強い。それに考えてばかりなんて考えてみりゃ俺のキャラでもない」
「……はっは! そりゃそうだぁ!」
「お前は考えれば考えるほど、生理的に信用できないしな」
くっく、と含む様な笑い声を本来口がある場所から漏らす。
「そうかい。じゃ、さっさといくぜ。……そぉら誓え。お前が世界を切に望むことを」
「誓う」
「そんなら、これは契約だ」
その言葉をきっかけに、周りの白が目の前の黒と混じり合い、変色していく。何の意味も、意義も、善悪もない灰色に。
その色は、どこか俺によく似ている気がした。