無礼講
上へ、下へ、右へ左へ。
桜の花びらが視界を埋め尽くすんじゃないかというほどに咲き乱れる。
風が木々の間を通り抜ける音が、桜たちの歓喜の声にさえ聞こえてくる。
森の薄らと生えた草の上。
花びらが降り積もるのはまるで雪のように、空中で輝くのはまるで星のように。
────幻想的。
その言葉が陳腐に感じるほどに荘厳な光景だった。
「ぅわぁ・・・」
「・・・・・・・・・綺麗」
「こりゃ、また・・・・・・」
一旦話すのも、食べるのも、飲むのも、もしかしたら息すらも忘れて、ほぼ全員の目が桜に釘付けになる。
しかし、その中でレイだけが未だに力なく、ただなんとなく桜を眺めていた。
レイの視界の中には酒瓶を胸に抱きとめて桜をじっと見つめているイサンがいる。
この瞬間、一目でも視界からイサンがいなくなるのが不安だった。
でも直視するのはもっと怖くて。
だから最後の最後で足が止まってしまっていた。
「…行かないのか」
隣でちびちびと甘ったるいジュースを飲みながら、目線は桜に向けたまま、ハルユキがレイに声をかけた。
レイもそれに倣うようにコップを口に運ぶ。
「・・・・・・やることはやったからの。後は待つだけじゃ。"イサン"なら多分此方に来るじゃろうし、の」
そんなことは、建前だ。
待っているんじゃない。ただ、行けないだけ。
そんなことは二人ともわかっていて、お互いがわかっていることもわかっていた。
しかし、ハルユキは思う。
家族なんて、俺は血が繋がっているだけの兄貴しかいなかったからよくはわからないが。
きっと、歩み寄って、支え合うものであるはずだ。
なら。
二人が家族だっていうんなら。
偶には片方に片方が頼ってしまってもいいだろう、と。
レイは家族が戻ってくるのをただ待ち続ける。
◆ ◆ ◆
桜を肴に晩酌を楽しみ続ける。
「やっぱ、酒が欲しいよなぁ・・・・・・」
美味いとはいってもやはりジュース。桜を肴にするには少し物足りないのだ。
ハルユキは空になったコップにこれ以上、甘汁を注ぐ気になれずテーブルの上に突っ伏す。
「やはり、少し酒を持ってくるか。ちょっと待っておれ」
そう言って、レイは珍しく自分から雑用を請け負い、席を立とうとして。
トン、と目の前に酒の瓶が置かれた。
瓶の首には、ほんの少しだけしわがれてしまった、女性の手。
「折角の桜月夜です。硬い事はもう言いません、飲みましょう。無礼講です」
イサンがいつの間にか、ハルユキ達の後ろに立っていた。
そのまま、ハルユキとレイの間を無理やり空けて、そこに座り込んだ。
自分のコップを何処からか取り出して、机の上に置くと同じく机の上で空になっている二人のコップもろとも酒を注ぎだした。
真っ先にそれに口をつけると、ゆっくりと口を開いた。
「・・・・・・わかりません」
脈絡もなく、イサンがそんなことを言った。
「・・・わからない?」
「・・・・・・・・・はい」
その声はどこか、ハルユキ達に向けて話しているというより、自分に言い聞かせているような印象だった。
「綺麗な桜ですよね」
何を言っていいのかわからない二人をおいて更に続ける。
「とても綺麗です。見ているだけで心が躍ります。…でもなぜか、同じところが痛い気も、します」
「イサン・・・・・・」
レイが漸く声を出した。
その声は悲しくも、どこか乾いていた。
「レイ"さん"」
すっと、体ごとレイのほうを向いてつぶやくように名を呼んだ。
その言葉で確信に至る。
レイの30年は思うような結果を出してくれなかったことに。
それでも、レイは表情を崩さない。
しかしハルユキには、「レイ"さん"」と、そう呼ばれたときから、レイの瞳の奥が辛そうに揺らぎ続けているのが見えていた。
イサンも顔をゆがめながら、叩きつけるように言葉を紡ぐ。
「でも、でもそれ以上に、こうしてレイさんと桜を見ていると……」
イサンの頬を伝う涙が、そこで言葉を遮った。
「あ、れ……? おかしいですね。こんないい日に涙なん、て……」
無理に笑おうとするが笑えない。
涙を救っても止め処ない。
「・・・・・・すみません。少し、一人に・・・させて下さい」
そう言って、頬を服の袖で拭いながら、小走りで家のほうに走り去った。
30年という時が乗っかったその背中は、歳をそれなりに重ねているせいか希薄な印象を受けた。
その背中にも、レイの肩の上にも、俺の足元にも、注がれた酒の上にも、桜は等しく花を散りばめる。
家のそばに屹立する、ただ一本この森で完全に枯れている大木がイサンの姿を隠して消した。
◆ ◆ ◆
「駄目じゃった、か・・・・・・」
イサンの姿を枯れ木が隠してしまってから。
レイがどこかすっきりした声でそう言った。
「・・・・・・そうだな」
同情も寂寥も、悲壮も不安も憐憫も怒りも、慰めでさえも。この場にはふさわしくなかった。
だから、一緒に酒飲んで、愚痴ぐらいは聞いてやろうと。
ただ、そう思った。
「この30年。思えば儂のエゴだったのかもしれんと、さっきそう思ったよ」
ポツリ、と零れるようにレイの口から音が出た。
「・・・・・・エゴ?」
予想していなかった言葉に、意味を把握しかねた。
「あの症状はな、別に自白剤の副作用ではなく、心因性のものだそうじゃ。つまり、思い出したくないから、何も考えたくないからああなってしまった、と考え始めていた」
「・・・・・・」
「それに30年じゃ。人間にはちと、時間が掛かりすぎたんじゃ・・・」
椅子に座ったまま夜空を仰ぎ、そう呟いた。
俺もなんとなく空を見上げる。
近くで桜が、遠くで星が踊っている。
「…後悔がないなら、それでもいいんじゃないか?」
少し間を空けて、レイが短く笑った。
「なかったら、楽なんじゃがのう・・・」
俺が見たその笑顔は、悲しく寂しく。
下唇をほんの少しだけかみ締めて。
────辛い時には、泣く奴がいるし怒る奴もいる。
でも一番見ていて辛いのは・・・無理して笑っている奴だ。
それが、800年生きた吸血鬼にも言えるかはわからないけれど。
多分、吸血鬼も人間も感じるところは同じだと思う。
「めんどくさいの、家族というのは・・・」
「・・・・・・そう、なんだろうな」
めんどくさいし、弱っちぃし、おまけに温かい。
「人間なんて、アホばっかりじゃ…!」
少しだけ湿った、そして少しだけ悔しそうな声でレイが全人類に喧嘩を売るような発言をする。
ま、いいか。だって今夜は無礼講だ。
今この場では、吸血鬼でも人間でも、例え神様でも皆等しく平等だ。
俯いてしまったレイを視界に入れないように、俺は机に残った3つのコップの一番右の、なみなみと酒が注がれたそれを手にとった。
「飲もうぜ、せっかくの酒だ」
レイも俺に倣って左側のコップを持ち上げる。
俺もレイも、コップを掲げた。
イサンが残していったコップの上で、お互い目も合わせないまま、カチン、と無言でコップをかち合わせた。
そして、それを合図に花見は終わりを迎えた。
一瞬で風が止んだ。
同時に不穏な気配が周りを包みこんでいく。
未だ目に見えた変化はないが、不吉な雰囲気に飲み込まれてしまいそうになる錯覚に襲われる。
そう思ったのも束の間、いきなりすっと夜の闇が戻った。
つまりは、桜が、死んだ。
「なッ・・・!!」
声を上げた次の瞬間には、桜の光が戻った。
しかし、明らかに最初より光の勢いは死んでいる。
桜は苦しむように身を揺らしながら明滅を繰り返す。
「これは・・・・・・!」
レイがコップを取り落とし、声を荒げた。
地面に落ちたコップはドッと草の上で鈍い音を立てる。
「おい、もしかして」
この現象。見たことは無いが心あたりならある。
搾取。
魔力を搾り取れている。
「どういうことじゃ・・・!?」
一度消える度に、光の勢いが目に見えて弱っていく。
そこで、辺りを見渡していた俺の目に明らかに異常な光景が入り込んだ。
「あれ・・・、何だ?」
俺が声をあげる前にこちらに走ってきていたユキネが叫んだ。
小さな家の脇に生えた大きな枯れ木の根元に、ひっそりと存在していたはずの井戸。
そこから、うっすらと光が噴出していた。
「灯台下暗しという訳か・・・!」
「・・・どうする?」
この問いかけには二つの意味をこめたつもりだ。
様子を見るのか、それと、そもそも止める必要があるのか。
レイの試みは失敗だったものの完遂はしたのだ。もう桜が必要なわけでもない。
「・・・・・・あそこが儂の家なら森は庭じゃ。土足で荒らすやつは叩き潰す」
意味はどうやら伝わったらしく、レイは怒りに燃えた目で言葉を搾り出した。
「ま、俺も花見を邪魔されたのは気分が悪いしな」
そう言いながら井戸に近寄り、中を覗き込む。
漏れている光もほんの少し明滅を繰り返しているようだ。
「ここが魔力点というわけではなさそうじゃな。おそらく、この下に・・・」
レイが言い終わる前に井戸のふちに足をかける。
「先に行く。合図したら下りて来い」
そう言って、躊躇いなく井戸の中に飛び降りた。
ゴッと目の前が光に包まれる。
薄く明るい光の中を加速しながら落ちていく。