桜月夜
───一歩一歩足を進める。
歩くたびに体のどこかが軋みを上げ、致死量並みの血液が零れ落ちる。
この世に生を受けて、早八百余年。
そんじょそこらの存在には後れを取らないほどには強くなっていた。
熟練の兵士が束になっても勝てる。
かすり傷すら負わない自信もあった
しかし、代わりに慢心が生まれていたようだった。
何でもない所で出会った魔法使い。
いつもの様に吸血鬼である儂を狙った人間だった。
今まで出会った中では強い部類に入るものの、苦戦はしないレベルだった。
止めを刺す寸前の油断した隙に、それと同じレベルの術者が15人ほど乱入してこなければ、だが。
それがなければ、血だらけでこんな所で身体を引きずっていることもなかっただろう。
何とか軽くない手傷をほぼ全員に負わせたので、追ってくる事はないと言える。
血も魔力となって霧散するので後を追われることもない。
「・・・・・・ま、ぁ、このまま生き延びたらの話、じゃがの」
言葉と一緒に力が抜けたかのように、ほんのちょっとした段差に足を引っ掛け倒れこむ。
ゴボッと口からも血が吹き出る。内蔵も相当やられているようだ。
吸血鬼は人間と比べるとかなりの身体的な開きがある。自然治癒力もまた然り、だが。
「こ・・・れは、もう無理、かの」
しかし、心に恐怖もないし、顔には自嘲の笑みしかない。
不思議なことではない。・・・・・・長く生き過ぎた、それだけだ。
日常とは凶器だ。
少しずつ少しずつ、自分のどこかを削っていく。
自分はもう削れる所など残っていないのだろう。
ならもう出てくるのは笑いしかない。
くくっと笑いをこぼしてずりずりと身体を引きずらせて近くにあった木に背中をもたれさせ、後頭部も木に預ける。
雲で隠れていた月が姿を現し始めたのが目に入り。
そこではじめて気付いた。
木が乱立したこの森の無数にあるうちの変わらない木の内のただ一本。
それに、目を奪われた。
周りを見渡すと更に立て続けに目を奪われる。
「これは・・・・・・」
月の光を吸収して薄ぼんやりと光っている。
・・・・・・神と言われるものがいるのならば。
なんとも、粋なことをしてくれるものだ。
死ぬには、いい夜だと、そう思った────・・・
・・・・・・ガザッ
しかし、無粋に草を掻き分ける音。
「・・・・・・やっぱり儂は神が嫌いじゃのう・・・」
現れたのは、黒ずんだ茶色の熊のような獣。
身の丈は3メートルはあるだろうか。
僅かに残った血の匂いをかいでここまでたどり着いたのだろう。
ぐるぐると喉を鳴らしながらこちらに近寄ってくる。
こちらがもう瀕死なのが分かっているのか、その歩みに淀みはない。
まっすぐとすぐ近くまで来ると、獲物を見定めるように見下してきた。
「・・・・・・・・最期は、獣の餌、か。神もよほど儂のことが嫌いなのか・・・」
獣は最初そのまま牙を剥こうとした様だが、獲物がまだ生きていることに気付いたのか、牙を引っ込め爪を振り上げる。
最期まで笑っていよう。
儂に冷たかった世界へのせめてもの反抗。
死が迫る。
笑ったまま目を閉じる。
ザン、と獣の爪が何かを引き裂いた音が耳に響いた。
不思議と痛みはない。
それどころか、どうにも温かい。
目を開けて気付いた。
儂が感じていたのは人の体温だったことに。
「・・・・・・大、丈夫・・・?」
儂を抱きしめ、庇ってくれているようだ。
目の前では血が吹き上がっている。
しかし、儂の血ではない。
目の前が一枚一枚切り替わっていくように、変化していく。
獣がまた爪を振り上げている。
二人まとめてやるつもりのようだ。
「・・・・・・死に切れん、だろう、が・・・!」
なけなしの血を使って小さい槍を作って、闇雲に獣に向かって放った。
しかし、血がとうとう足りなくなったのか、その槍がどうなったか見る前に目の前が真っ暗になった。
その後で覚えているのは、風が運んでくる月の光を纏った桜の花びらが、頬を撫でた感触だけ。
◆ ◆ ◆
痛みを感じて、
目を覚まして、
そして自分が昨日から明日を迎えたことを知った。
頭を上げようとすると、グワンと頭が痛み枕に倒れこむ。
そこで今度は自分がベッドに寝かされていることを知る。
目だけを動かして部屋の様子を探った。
普通の木でできた部屋。
部屋の真ん中に用意してあるベッド、そこに横たわっていた。
怪我の場所には全て治療が施されているようだ。
そこで、正面のドアからとが開く音が聞こえた。
「あ、目を覚ましましたか」
そう言って近寄ってきて、ベッドに座った。
「勝手に座るな」
「・・・・・・私のベッドなのですが・・・」
そう言いつつ、トレイに乗った皿をこちらに突き出してきた。
何とか上半身だけ起き上がり、皿を受け取る。
「食べてください。栄養をつけたほうがいいです」
そう言いながら、自分の分も膝に乗せた。
色とりどりの野菜。所々に一口サイズの肉。疲弊した身体には我慢できないほどのご馳走だった。
スプーンですくって口に運ぶ。
「・・・・・・美味い・・・」
思わず言ってしまったその言葉を聞いて女はきょとんとした後、ニコッと子供のように笑った。
「ありがとうございます。母からの直伝で。これが不味いといわれたらもう出す料理がありませんでした」
その言葉を最後に、部屋にはスプーンが皿の底を引っかく音しかしなくなった。
先に全て食べてしまった所で、まだ少しずつスープを口に運んでいる女に目をやる。
肩の洋服から包帯が見えている事に気付いた。
「・・・・・・助かった。礼を言う。人間」
庇ってもらった、運んで治療して、食の用意もしてもらったその全てに対する謝意だった。
しかしそれを聞いた女は、スプーンを口に運んだ体勢のまま、不思議そうにこちらを見て固まっている。
「・・・・・・お互い様じゃないですか。私も、あのままじゃ食べられてましたし」
お互い様?
「ああ、あの後ですね。あなたの攻撃が魔物の目に当たって逃げてったんですよ。
だからお互い様です。どっこいどっこいですね」
そんなもの、お前が助けに入らなきゃそもそも命の危険もなかっただろう、とそう言おうとした。
が、目の前の何の屈託もない笑顔を見ていたら、自然と違う言葉が出た。
「・・・・・・アホめ」
「・・・アホじゃありません。ちゃんとイサンって言う名前があります」
イサンと名乗った少女はむっとした顔で、残りのスープを飲み干した。
そのまま、儂の食器も奪って扉に向かう。
「じゃ、回復魔法で治療しましたが、まだ傷が開くかもしれませんので安静にしといてくださいね、人形さん」
振り返った顔は、既に笑顔に戻っていた。
「・・・・・・人形?」
「だって、人形みたいに綺麗なんだもの。最初見た時にそう思ったんです。
だから、あなたは人形さんなんです」
「・・・・・・アホめ」
「・・・・・・そうやって、笑ったほうがいいですよ? その方が元気にもなります」
そう言っていそいそと部屋を出て行った。
鏡はないようなのですぐ横にあった窓で自分の顔を確認すると、そこに慣れない顔で笑っている奴がいる。
こんな顔で笑ったのは・・・久しぶりかもしれない。
儂の顔が映った窓の向こうでは、桜の花がそこら中で舞い踊っていた。