その優しさは
『やっぱりお前は、俺の息子だな』
初めて、自由に買わせてもらったそれを見て、父は息子にそう言った。
父親は極めて無表情だったが、息子はちいさく笑った。ぱんぱんと大仰に拍手をしながら、でっぷりとした来客が声を上げる。調子外れで、不快な声だ。
『流石はサイザキ家の御曹司! この年にして奴隷を購入してくるとは驚きだ!』
『ふむ、まだ10にもなっていないというのに』
続いて細い客も、中くらいの背の客も話を聞きつけてやって来た。
そうだった。確かこの日は父が近縁の人間を集めてささやかなホームパーティを開いていた。
『しかしまたどうして奴隷を? それも──』
その奴隷は、ここにいる人間の八割ほどが結託して没落させた商家貴族の生き残りだった。
息子は返答を用意していた訳ではなかったが、しかし頭の回転が速い子供だった。
速やかに答える。自分なら彼を救ってやれると言った。そうすると拍手が巻き起こった。
その時子供はどう思ったのか、子供自身も覚えていない。
困惑していたのか、素直に受け止めたのか、恥を知らない大人の底浅さに辟易していたかもしれない。
『評価を上げたな』
憶えているのは、父のその言葉と、それを隣で聞いていた奴隷の表情。
なぜ子供は奴隷を買ったのだろう。
なぜわざわざこの広間に連れてきたのだろう。
自分の事なのに、表情も心も、影が落ちたかのようによく見えない。
◆
「よろしければご案内しますが……」
「それより、シンもいるのか」
「はい。その、少し諸国対応について話があると」
シアはミコトを部屋に通して、紅茶を淹れていた。客人がいるならそうして待ってもらうように言われているらしい。
カップにお茶が注がれると同時に、瑞々しい林檎の匂いが部屋中に広がった。
ミコトはふらりと外を見た。
すっかり夜は更け、もう少しで日付も変わろうかと言う所だ。手持無沙汰で、ぼーっと揺れる街の光を眺めていた。
「────……!」
不意に重くなった瞼に驚いて、がばりとソファから背を離す。
「どうかなされましたか?」
「……あ、ああ」
自分は常に眠たいぐらいだが、流石に意識を手放しそうになったのは初めてだ。シアがトレイにティーカップとポットを乗せて盛った体勢で目を丸くしている。
「……その、なんだ、そう言えば、名前を言い当てられて驚かなかったな」
「ギルドの盟主たるミコト様ほどの方です。スノウ様の近辺程度は調べているかと愚考しました」
「……ああ、アンタが元奴隷だという事も知ってる」
びくんとシアは肩を揺らした。驚いた様子はなく、シアは机にトレイを置くのを躊躇ってしばし立ち尽くした。
「……俺は気にしなくていい。眠いんだ。熱いうちに頼む」
「はい」
「君は随分聡いが、気が付きすぎるのも考え物だな……」
奴隷の手で淹れたお茶など飲めないなどと言う人間もいる。そんな事実に彼女は動きを止めたのだろう。
「友人の間なんかでは気を遣いすぎて失礼に当たる事もあるだろう」
「友人、ですか……」
シアは淀みない動きでカップに紅茶を注いでいく。その横顔が少し笑っているのを見て、ミコトは察した。
「……おい。俺を数に入れるなよ。外野からの意見だ」
「はい。承知しております」
「……ただ、あんた畏まりすぎた。いつも通りでいい」
「あの、では……」
「あ?」
「何とお呼びすればいいでしょう……?」
「……ミコトでいいよ」
「ではミコトさん、と」
シアはやはり同じような表情で少しだけ微笑んで見せた。溜息を吐く。ソファに背をもたれかけはしない。差し出された紅茶を口に運んだ。
温かい。もう一度ため息が漏れた。シアは立ったまま、しばし時間が流れた。
カップの紅茶が半分ほど減った頃。バタバタと扉の前を何人かの気配が走り抜けていった。兵士だろう。またどこかで問題が起こったのだ。
「……アンタはこの街に残るのか」
「そのつもりです」
今生活している場所を捨てると言うのは難儀な物だ。
生まれ育った町や村を離れたくないと言う理由で都市部の難民キャンプに避難しなかった連中は多い。無論、この二年でそのほとんどが龍の腹の中に納まったが。
「こんな街に、命を懸ける事はないと思うが」
「……それは、そうですね。少なくとも私にとっても、そうです」
「なら」
「でも、私の命の使い方は決めています」
静かにしっかりとシアは言った。その声に、不思議と寒気を覚える。
死に方を決めていると言っているのと同義だ。なのに、その言葉の意味とは裏腹に、声には安堵が含まれている。
「……少し遅いですね。何かあったのでしょうか」
しばし呆気に取られていると、シアはいつまでも開かない扉を見て言った。
「どうでしょう。やはりシン様のいらっしゃるお部屋までご案内しましょうか」
「……いや、それはもういい」
ミコトは時計を見た。時間がない。とは言え、思考と模索は隅々まで浚っていて、空回りを繰り返しているように思えて仕方がない。
「少し、話さないか? あんたの事を聞きたい」
彼女にそんな事を聞いたのは自分でも少し意外だった。
助けを求めるような声色にならぬよう、気を遣った。
◆
それはまあ、少し顔を歪めてしまうほどには酷い話だった。
「……そうか、すまなかったな。辛い事を聞いた」
「いえ、誰かに自慢したかったぐらいです」
だけど彼女の話し方はまるで悲壮感を感じさせず、騎士物語か何かを聞かされたようにも思った。
ヒルに聞かせるには酷だっただろう。外に出して正解だった。そして確かになるほど、彼女はスノウ殿下にもその仲間にも恩を感じている事だろう。
茶髪の男には救出して貰って、着物の女には烙印を消して貰って、チームを作りそれを牽引したのがスノウ殿下。
「たんぽぽ団か」
「たんぽぽ団です」
妙な縁に小さく笑い合う。知っているとも。何しろあの"神の血"が所属していたギルドチームだ。そんな生い立ちの団体だとは、流石に知らなかったが。
「やはりシキノハルユキが中核にあったんだな」
「そう、ですね。少なくとも無くてはならない人だったと思います。人間離れしてるほどに強くて、でも人間の匂いのする人でした」
「……想像に難いな」
聞いた話ではそれから別人のように豹変して、姿を眩ましたのだとか。以来その最強の名を聞きつけた輩は、その存在を探そうと躍起になった。ミコトもまた探させたのだ、間違いない。
「……それで恩を感じて、って事か」
出て来そうだった溜息を噛み殺した。どこにでもありそうな話だ。
いや、当たり前の事ではある。彼女はどこにでもいる人間だからだ。世界を変える力も無い、ただ穏やかで優しいだけの少女だ。
そんな事は分かっていた。むしろ自分の心が分からない、何を期待していた、何かが変わるんじゃないかと予感していた自分に呆れる。
手持無沙汰で、紅茶をすすると彼女の表情が視界に端に見えて、思わず手が止まる。
彼女はどう話していいのか自分でも分からないのか、困ったように笑っていた。
「……違うのか?」
「命を捧げろというのなら喜んで捧げますけど、そんな事望んでくれませんから」
傾けたカップの中身が無くなっていた。察したシアが傍により、紅茶を注ぎながら続ける。
「私は、そんな優しい人達に憧れました」
その柔らかくて温かい声色に彼女の憧憬が目いっぱいに詰め込まれていて、聞き惚れそうになる。
「君は、十分優しい部類の人間だと思うが」
「……いいえ。自己嫌悪に陥る事ばっかりで。出来ない事ばかりで」
小さく、少しだけ悲しそうに彼女は微笑みながら続けた。
「憧れた人の一人が仰られました。自分達は優しいフリをしているだけだと」
「照れ隠しだろ……?」
「ええ。きっと」
優しさなんてものは曖昧だ。大概は大きなお世話で、誇り高い人間には刃となる事すらある。所詮は自己満足でしかないと言われれば反論できない。
「でも、確かにそれは私を救ってくれたもので、憧れたものでした。だから私も優しい振りをする事にしたんです。本物じゃなくても良かったんです」
似合わぬ拳を小さく握って、それを胸に置くと深く息を吐いた。
「……偽物の真似事か」
「はい。私の大好きな偽物の真似事です」
その真っ直ぐな性根に本当にこれが元奴隷なのかと疑った。職業病かそんな様子はまるで表情に表れないが。まるで落胆するかのようについた溜息は、我ながら良い出来で嫌になる。
「止めとけ。そんな事は続かない。人は変われない」
「変わらなくてもいいんです」
驚いていた、動揺もしていた。だが、落ち着いていた。
こんな小さな体に、奴隷の生まれで弱者の宿命の中で、それでも見えた気高い魂は、きっと最初からミコトの目を釘付けにしている。
「最期まで優しくなりたいと願って、そう行動できたのなら、それはきっと優しい人間でしょう?」
「……何故」
彼女は穏やかに言葉を紡ぐ。
言っている内容はもはや狂気さえ垣間見えた。それでも驚くほど彼女は穏やかで柔らかい。彼女の信念は、当たり前のように彼女の中に根を下ろしている。
「何故、そこまで?」
彼女は強くなどない。腕力はもちろん恐らく心もそうだ。だから諦めも知っているし、何もかも成功する訳じゃない事も。限界も知っている。
優しくあるために命を使うなど正気の沙汰ではないし、似合わない。
すると、彼女は少しだけ困ったように笑って、少しだけ考えて、少しだけ怯えて、少しの勇気を出して、彼女は口を開く。
「……そうすれば、少しは自分の事を好きになれる気がして」
その答えは驚くほどすんなりと、ミコトの違和感を解かしてしまった。
(……ああ)
ゆっくりと彼女の言葉を反芻すると、彼女らしいと思うようになった。
たしかにちっぽけで、でも捨てられない。くだらないが、どうしても大切なものだ。
否定はできない。自分の、そのずっとずっと奥の方にも。彼女のそれに似た感情が眠っている事に気が付いた。
「そうか」
「はい」
「わかるよ、と言ったら不躾かな」
「いえ。きっと共感してもらえるのではないかと思い、話しました」
不躾でした、と彼女は悪戯っぽく笑った。つられて思わずこちらの頬も緩む。
「……君もそうか。羨ましいな」
躊躇いながらも、自然と口にしていた。
それはどうしようもない理由で、きっと、子供の頃に見て見ぬ振りをして、通り過ぎていなければならない物だ。
「俺にはないな。命を賭ける物なんて。好きな物すら、思い当たらない」
人の価値を勝手に決めて物事を処理していく商人の父が好きではなかった。
経験と先入観を取り違えて虚栄に胸を張っている母が好きではなかった。
己の失敗を忘れて成功を心に刻み、誰かの失敗を叱咤する叔父が嫌いだった。
でも、この世界ではそれが正しかったりもした。
ただ、世界が身動ぎするとその正しさは間違いに変わり、母と叔父はその怪物につぶされて死んだ。
「確かな物など、ない。そう思い知らされる度に、分からなくなった」
ずっと、ずーっと。一寸先すら闇に呑まれた中行う綱渡りだ。
風は吹くし、足元は揺れているし、目は凝らさないといけないし、綱を咥えた怪物のご機嫌取りも必要だった。
更に陰鬱な事に世界が嫌いな自分には、渡りきった先に何があるかも分からなかった。
いつからか、身を投げて楽になりたいと、そう頭の中で誰かが囁くようになった。
「ヴァスデロスに会った」
衝撃的だった。一瞬で分かった。こいつは、ロープの先にあるのが何か見えている。
ノインと再会した。
ともすれば共感しあえそうな顔をした女だったのに、いつの間にか、彼女も先を見つめていた。
それと渡り合うフェン・ラーヴェルがいた。
スノウがいた、シンがいた。皆が皆いろんな方向を向いていて、しかし、誰も俯いてなどいなかった。
「こんな不確かな世界で、自分の命の使い方を決めている奴等だった」
それに気づいた時、いても立ってもいられないほど羨ましさが込み上げた。
「羨ましかった。憧れたよ。死んでも奴等には言わないが」
自分も、と探してみたがなにもない。あるはずがない。
「比べて、俺は奴隷のようだと思った」
自分の中のあるものが正義や信念だと信じられなくなったのはいつ頃からだっただろうか。
化せられた義務に忙殺されて、その鎖を引き摺りながら生きて死んでいく。いつからか、道に飛び出したネコを助けて、馬車に引かれて死ぬ幸福を思うようになった。
「……すまない。本当に虐げられてきた君達に不幸自慢をするようで、情けないんだが」
「そう、でしょうか」
「腹も減っていない人間が、不幸を語るなど世界中から笑われるよ」
困ったように彼女は目を泳がせて、何事かを考えると、少し自信が無さそうに口を開いた。
「世界で一番不幸じゃなきゃ、泣いちゃ駄目な訳じゃないですよ。きっと」
「────……っ」
声が震えた。何かを言おうとする衝動と、止めようとする何かがせめぎ合って、喉が震えた。
「……君は、優しさを刃のように刺すな」
「え?」
皮肉気な言葉を絞り出す。
いつもそうだ。何故か彼女と話すと、心が深い所からかき混ぜられて、長年沈んでいた感情が空気に触れる。
「君は奴隷なんかじゃあないよ。きっと最初からな」
「ミコトさん……?」
「奴隷として生まれた奴は、奴隷として死ぬもんだ」
息を呑む声が聞こえた。視線を上げると、シアが目を見開いて驚いている。
「どうし──」
「──違います」
「いや……」
「違います」
頑なにシアは言い張った。何事かとポカンと見つめていると、彼女の目が潤んできた。それは零れる前に拭われたが、すぐ零れそうになるのか、彼女の顎は少し上を向いている。
「……すみません」
「別に構わないが……」
話によると、以前同じことを言われて、その時彼女は答える事が出来なかったらしかった。
嫌な事を思い出させたかと思ったが、彼女は何とか笑って、はっきりと礼を口にした。
「私は、奴隷でしたよ。きっとあらゆる意味で」
「信じられんな、本当に」
ミコトがため息交じりにそう言うと、シアは嬉しそうに笑った。
「そう思ってくれるのなら、それが証明ですよ。ミコトさん」
「ああ? ……ああ」
小賢しくも言葉を誘導したらしい。反論してやろうと思ったが、面倒なので止めた。見苦しい水掛け論になりそうだ。
ずるずると背もたれに体重を預けて、阿呆みたいに口を開けて天井を仰ぐ。
「……優しい振り、か。面白いなそれ」
「ミコトさんもやりますか?」
「そうすりゃあ、優しくなれるって? はっは。バカか、地獄の道に誘うんじゃねぇ」
「なれますよ、きっと」
「……何かを、命を懸けていいほど、愛せたりするのか?」
「きっと」
「自分を、少しぐらい好きになれるかな」
「たぶん」
「……はっきりしねぇなぁ」
「わ、私だって、まだ人生の途中ですから」
「何だよ、そりゃ」
ふい、と気まずそうに視線を逸らした彼女が意外で、鼻で笑う。まったく締まらない。そりゃあそうだ。自分の半分の歳の少女に何を聞いているんだか。
「では、競争しましょう。ね?」
「は?」
焦りからか訳の分からない事を言いだした。じ、と彼女の顔を見る。
「いやだよ」
「え……」
ソファから立ち上がると、シアとすれ違うようにして扉に向かった。
扉を開けると脇の壁にヒルが立っている。じ、とこちらを見つめている。何の意思を示したいのか、相変わらずよく分からない。
「二人でやるなら、別に競わなくても良いだろ。ちゃんと言い負かしてやりたいしな」
「え……?」
「今度夕食に誘う。そうだな、4日後がいい。返事を聞きに来る」
「え、え、あの……?」
「あと、ありがとう。良い気分転換になった」
え、え、え、とあたふたと目を泳がせるシアを笑いながら扉を閉めた。
「ヒル。スノウとシンの居場所は?」
「……掴んでいる」
「案内しろ」
ミコトは急かすようにしてヒルより先に歩き出した。主と離れるように躾けてはいない。背後について来るヒルは口とは裏腹に従順だ。
「ヒル。お前も来るか」
「は……?」
「食事」
そのヒルが、唐突に足を止めた。
予想は出来ていた事だったので、ミコトも足を止めて振り返る。ここは廊下だ。先程の事で慌ただしく人間が行き来している。
「お前は、優しい人間になどなれないぞ」
「当たり前だ。立場も、役割もある。もう生き方変えられるほど若くもない」
嫌悪感が滲む言葉と表情。それをしっかりと一瞥してからミコトは正面に向き直った。
「ただ、あの時、お前を奴隷として買い取った理由は、きっとな──」
息を呑む声。お互い、暗黙の了解として20年以上その時の話をしていなかった。
「黙ってろ」
冷たく言い放って、ヒルは会話を止めた。これ以上はどうにも話が通じそうにない。
「自分の中にある物を正義や優しさだと信じられなくなるよな。大人は、いつからか。俺も、とても信じられねぇよ」
丁度、件の部屋の前に来た。何やらそばかす面の女が扉の前に陣取っていて、一瞬足を止める。
「だから今回は、女の気を引くために優しい振りをする事にした」
部屋の中から神の声。
女を押し退けて、部屋に入った。
「世界を救う、手を貸せ。お前ら」
部屋の中の時間が止まったのか錯覚するほど、並んだアホ面が固まっている。
それが少し愉快で、笑ってしまう。