終着、続行
2話いきます
「……っ」
もつれた足に躓いて、スノウはバランスを崩した。
運悪くそこは屋根の上。
死に体のまま空中に放り出された。疲弊がとっさの判断を狂わせそのまま背中を強打し、地面を跳ねた。
地面に水が張ってはいるが、衝撃が肺から空気を押し出して言葉にならない声を漏らさせた。
「────ッ!」
がちん、と無様に開いた口を歯が割れんばかりに噛み締めて、跳ねる体を、地面を掴んで無理矢理静止させる。
その姿はもはや少女どころか人間味すらなく、四足で唸る獣のようだ。
ここも駄目だ。既に破壊の嵐が蹂躙しきった後である。悔しげな彼女の呻き声は嗚咽にも近かった。
「くそ……」
まるで間に合わない。誰にも届かない。先回りでもされているのか、もはや意識を保った人間にすら会う事が出来ない。
メロディアの軍は目の前でうねる地面に飲み込まれた。
ビッグフットは磔にされて晒し上げられていた。
ヴァスデロス達アスタロトは辺り一帯の区画ごと吹き飛ばされていた。
もはや充満していた恐怖や悲鳴すらない。街は血に沈み、恐ろしいほど何の気配もしなくなってしまった。
ふと──。
スノウはそれを見つけた。
倒壊した城に半分以上巻き込まれながら、半壊しているコロシアムだ。
何故か直感があった。飛ぶようにしてそこに向かう。
地面を蹴り、二歩目で空を蹴ると、重力に縛られないスノウの体は矢のように進む。コロシアムの入口は倒壊している。客席の上からコロシアムの中に飛び込んだ。
「────……」
彼女はそこにいた。
なぜ供も連れずにこんな所に立っているのかは分からない。
ようやく見つけた生存者に、スノウは一瞬駆け寄るのを躊躇った。
黄昏色が見えた気がした。彼女の炎と同じ色。つい昨日、自分が背を向けて彼女を置き去りにした夕焼けの景色が一瞬だけ重なっていた。
唇をきつく結んだ。そのまま客席を下りて行って、闘技場に飛び降りた。
「ノイン」
「……ユキネ?」
「無事か」
「なによ、ずいぶん深刻な顔してるわね」
彼女は可笑しそうに小さく笑った。
「────……」
そんな顔を見る度、スノウは彼女に劣等感を抱いてしまう。いつかは、負けじと奮起できていたはずなのに。ノインの真直ぐな目から自然と視線を逸らした。
「私もね、どこまで進んでいるのかは知らないのよ」
「……なに?」
「ああ、私ね。昨日シンの計画の事聞いていたから」
あっけからんと、ノインはそう言った。
「それで、ここに──?」
「ああ、違うわよ。別に私とあの男が組んでる訳じゃないわ」
聞きたい事は他にもあった。しかし、どうやらその時間はないらしい。
「ほら、来た」
それは息がつまるような存在感だった。自然と言葉は消え、視線は崩れかけた出入口に向く。ぬらりと、白い能面が影から姿を表した。
「こんにちは、ノイン様」
「こんにちは」
気軽に言葉を返すノインに対して、スノウはシンの存在感を押し返さんばかりの敵意で応えた。
「それに、スノウ様も」
そう言って、影になっている場所から更にシンはこちらに近づく。その際に、右手に掴んでいた何かを通路に放り捨てた。
「────……!」
それが"瀕死の人間"だと気付いた瞬間、スノウは背後の空を蹴りつけ、地面と平行に跳躍した。
しかし打ち付けるつもりだった剣は途中でその目標を見失った。
忽然と消えたシンの気配は、いつの間にか背後に移動している。
地面に足を突き立てるようにして、スノウは突進の勢いを乱暴に殺し背後を向いた。
「ヒドラか……?」
肩越しに小さく痙攣しているそれがボロボロにされたヒドラだと気付いた。
かろうじて生きてはいる。もはやほぼ挽肉のようではあるが、意識すら保ち未だシンに殺意を込めた目で睨んでいた。凄まじい生命力だ。
「……やはり、殺してはいないのか」
「当たり前です。あれは、ああ言わないとあなた方は言葉を交わして解決しようとするから」
「……それを、否定するのか」
「しませんよ。むしろ喜んで受け入れたいところです。だけど、最初にその道を断ったのは彼等だ」
スノウとて、一応はシンと同調関係を結んでいる。彼が幾度も開戦派の国主たちの元に足を運び、そしてすげなく門前払いにあっている事も知っている。
「嘘吐き」
「はて」
ノインはそう言って笑った。スノウも同感だった。それは言い訳だ。言い訳を用意する為に足しげくかよったのだ。いつかその顔凹ませると、顔を眺めに。
「ここまでは、歩いてきたのね」
「ええ。ゆっくりと」
ノインは少し早くそれに気付いた。スノウも遅れてその言葉の意味に気づく。
「小賢しい真似を……」
誰もいない訳ではなかった。
いる。この鏡の都にはいなくとも、現実の世界にこちらの様子は投影される。
「見せびらかして、練り歩いてきたわけだ……」
「そうなります」
無人に見える観客席には、いやもしかしたらすぐ傍にもこちらを見る目がある事をスノウは感じた。
ゆっくりと街を回ったといった。
ならばおそらく何人もの人間がそれを追い、何十人が加わり、何百人もの人が今ここにいるはずだ。一様に怒りと、困惑と、そして恐怖に駆られながら。
「しかし彼等は言葉もこちらに届けられぬ方々だ。気にする必要もない」
神は、そう言ってゴキゴキと首を鳴らした。
「実際には、この世界に立っているのはもうこの三人だけ」
神のその声に、一層際立った静けさが耳を打った。
地平の果てまで広がるこの街のどこにも、意識を保っている人間がいない。その事を悟って、ぞ、と背筋が寒くなる。
「……なぜ、こんな事をする」
「? 言ったでしょう。対話をしないのなら──」
「そうじゃない。これをやって、何を為したい」
「無論、戦争の回避を──」
「そして、それを為して、その先に見据えているものは何かと聞いているんだ、シン」
思わずスノウは声を荒げていた。今まで走り回っていたせいもあって、再び荒く肩が揺れる。それを鎮めようとしているうち、スノウは奇妙な沈黙に気が付いた。
「……ふむ」
神はすこし虚を付かれたように押し黙っていたようだ。今は考え込むように顎に手を当てて、そしてわざとらしくぽんと手を打った。
「何か、いろいろ面倒になっちゃって?」
──脳天から真っ二つにせんばかりの唐竹割り。ただし竹刀のように軽くなく、その重さは竹刀のように鈍くはない。
重さは破城槌、速度は雷鳴。
しかし神の指は、ふわりとそれを柔らかく受け止めた。
何の音すらしない。
その静けさは、まるで雪を受け止めただけかのよう。何の仕掛けもない。ただ、剣に合わせて指を僅かに引き、受け止めたのだ。
「────」
スノウは驚きを放棄していた。そのまま刃を滑らせ引いて、刺突。
また音すら無く受け止められる。残っているのは岩でも付いたかのような手の痺れ。
「────ふッ」
魔力を巡らせ、スノウは剣を振った。
理が歪む。そこから可能である剣撃おおよそ85通りが全て同時に走る。
──また。
風を切り裂く音があって、手には感触が残っていて、しかし剣戟の音がしない。受け止めたのは、右手の人差指。
にぃ、と仮面の下で笑う気配。その表情に気を取られた瞬間、頬に触れようと言うところまで、神の指が伸びていた。
「────……っ」
呼吸、いや意識の間にでも潜り込まれたのか、まるで見えない。
時間が切り刻まれたように遅いのはきっと、こちらに伸びるそれが致死を含んでいるからに他ならない。
その必然の死に割り込むように、左手を動かした。
「へぇ。二刀」
神が驚いている間に、過剰なほど距離を取った。
びりびりと脊髄に電圧がかかっている。脳幹が痺れ、手足が冷たい。抑え込んだはずの驚きが恐怖を含んで返ってきた。
──化物だ。
「流石ですねぇ、今日一です」
「……ほざくな」
「本当なのに」
瞬間、神の背後で金色の炎が立ち昇った。
思わず神は振り向いて、その炎が天蓋を炙っている様を見ただろう。
そして、スノウは辛うじて捉えていた。目が眩まんばかりの光が作った影に潜り込み、既に刃を走らせているノインの姿を。
神はすぐに振り向いた。
稼げた時間一瞬と言ってもまだ悠長。神速にして正確無比な刃を神は手で弾く。がん、と岩を叩いたような音がした。
次いで、剣の軌跡を追うように金色の炎が神に迫る。ちり、と神の纏ったシーツに炎の端が当たる。
「……っ」
それを嫌うように、神はそこから飛び退いた。
「──"加護付加。重塊・万灰"」
そして、待ち兼ねたように背後で燃え続けていた炎の間欠泉が一瞬で宙を跨ぐ巨大な炎の獣に変わった。大きく開けられた顎の中に神は自ら飛び込む事になる。
「"加護付加・明炎"」
間髪入れずにノインは炎に命を下す。炎はもはや彼女の従僕。命じられるままに、形も由来も変化する。
生まれ変わった炎の力は、ただ高温。しかしまるで規模が違う。一瞬で膨張した空気と熱、光はもはや爆発そのものだ。
「────……」
スノウはほとんど反射的に"白"の魔法で防壁を張った。持ち上がり宙を飛ぶ床石や瓦礫を剣で弾きながら、濃い光の中心を睨む。
──と。
突如、炎が消える。そこに居たのは神だ。しかしまるでその出で立ちが違う。
「────……」
まず違うのは恰好。
燕尾服に似ているが背広の丈は短く、蝶ネクタイの代わりに長いタイを下げている。変わらないのは白い能面と、おそらく付け毛であろう腰まで伸びる白い髪。
「私の炎は消えないのが売りなんだけど」
「……」
そして、何より違うのはその寡黙さ。
──いや。
ゆっくりと神が白い仮面を少しだけ上にずらした。そこには楽し気に歪んだ笑みと、そしてその端からチロリと覗く"金色の炎"。
"重く質量を持つ塊"となり、"万物を灰"にするべく空気や魔力にも着火し延焼する、"余りの高温に透明となった"、その炎。
ぐんと、仰け反るように神は大きく息を吸って、そして、口の中に貯めていた"その炎"を噴出した。
「────……」
「おや、残念」
しかしそれはノイン自身の炎だ。再び爆発の様な風と熱が吹き荒れたが、ノイン自身の手によってすぐに消されて宙に溶ける。
「なに、そのふざけた恰好」
「いやぁ、炎の王相手にあの恰好は邪魔で。フォーマルでしょう?」
「ふぉーまる?」
神はおちょくるような態度を崩さない。服装もタイは緩め、シャツのボタンは空け、背広も腕を通しているだけ。随分と印象が変わる。
「お蔭で、だいぶ動き易くなった」
──違う。変わったのは恰好ではない、表情などではない。こちらを害そうと意識を向けられた。それだけで危機感が勝手に体を動かした。
「──"救世主"!」
「──"火ノ鳥"」
ず、と今は意思無き白銀の騎士が立ち上がり、対面では巨大な不死鳥が翼を広げた。
心なしか白銀の騎士は警戒心を漲らせ、不死鳥は威嚇するように鳴いている。
「……ま、楽しみたい気持ちもあるんですがね。残念ながら最後なので」
動けない。魔法か、いや。手が小刻みに震えている。体を縛るのは恐怖のみだ。
「──本気を」
かつん、と履き替えた革靴の音が聞こえた。ほんのそれだけしか知覚できなかった。次の瞬間闘技場から熱が掻き消える。不死鳥が消えている事に遅れて気付いた。
本能的にノインを見る。ノインの体はゆっくりと傾きはじめていて、ぼそりと間際に彼女は何かを言った。
「……ええ。今日一番でしたよ。ノインさん」
そんな優しく語り掛けるような声が聞こえた。そちらに視線をやると、意識を失ったノインを抱きかかえるシンを見つける。
シンがこちらを向いた。相変わらずの白い能面に、傷が走っている。
(反撃、したのか──!)
あの一瞬で、あの動きを見切り、ノインは確かに攻撃を届かせた。恐ろしい力だ。ノインは才能の宝庫で、──しかし、それでも敵わない高みに奴はいる。
「実はね。ここ、と言うか本当の闘技場の方に人は集まっていないんです。封鎖させているので」
ノインを恭しく地面に寝かせながらシンは言った。立ち上がって、ぐ、と腰を伸ばしてからこちらに向き直る。
「実に、静かになりました」
閉鎖されたここには風も吹かない。この広大な街から一切の人の気配が消えている。静けさと孤独感が、こちらを苛むようだった。
「メロディア軍は弱かった」
「なにを……」
意味が分からなかった。
こいつは何がしたいのだろう。こんな事を起こしてどんな腹積もりなのだ。こちらに近づくのは何が目的だ。いつでも倒せたはずの自分をわざわざ残した理由は何だ。
「何なんだ、お前は……」
「カレッド・オベルゲンは弱かった。弱かった。イル・アレも弱かった。ルネ・アスカリドも弱かった。クリスト・フェル・ルーセンベリも弱かった。コリン・リーコックも弱かった。パーシャ・ゼンレンコフも弱かった」
「何なんだ──っ」
「ヴァスデロス・ロイ・サウバチェスも。ミコト・サイザキも。ヒルも。アイン・ビッグフッドも。ツヴァイ・ビッグフットも。ヒドラ・クレブスも。口ほどにもない雑魚でした。彼等は力が足りず、理想半ばで死ぬでしょう」
「何なんだ、お前はッ!」
「私に勝てたのならば答えましょう」
こちらが一息で攻撃できる間合いの一歩外で、神は歩を止めた。ゆっくりと、ノインが付けた面の傷を指でなぞる。
「ああ本当に彼女以外、ここにいたのは唾棄すべき雑魚ばかり」
白い能面で表情を隠したまま、彼は言う。
「あなたはどうでしょう?」
「私は、強いさ」
かつん、と背後で革靴の底が鳴る。
「残念。不正解」
やはり反応できず、スノウの意識は闇に呑まれた。
◆
遠い。遠い。
ここまで随分歩いてきたつもりだが、まだ光明すら見えない。
意識が浮上し、目を開けた。数回目を瞬かせて、ガバリとはね起きる。目に映るのは赤い絨毯、白い壁に天井、格式ばった調度品。
(な──……)
途端、津波のように記憶が流れ込んできた。
神の乱心。敵対。圧倒的な蹂躙に、叩き伏せられ静寂に呑まれていく街並み。暗転する視界。
やられたのだ、為す術もなく。
(ここは……)
イデアルの会議場。席は全て埋まっているが、誰も彼もが口と目を閉ざして眠っている。
ありえない光景に背筋が冷たく、ここはまだ惨劇の続きなのだと思い知らされる
太平の国の一番高い場所で厳格で荘厳であるはずの場所は、神の掌の上と化している。