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ハイイロ ノ カナタ  作者: mild
第三部
267/281

一界軍遊祭




"一界軍遊祭ウォーライ"は市街にて行われる。

その告知はわざわざ言われる事もなく、毎度の事として決まっていた。


「これが、事前に渡された見取り図です。何度かここでご覧になったと思いますが」

「ちなみにヴァスデロスさんを筆頭とした紅組、スノウさんを筆頭とした白組に分かれます。エルゼンとオウズガルは白組、ビッグフットと猟奇屋なんかは紅組ですね」


ばさりと机の上に広げられた地形図を、都合8つの瞳が覗き込んだ。

特に変わった地形がある訳でもなく、戦場としては珍しくもない場所だった。いや、と、いうよりは──。


「そして、そっちのがこの街の地図かの?」

「はい」


レイの言葉に、リィラがそれを引き寄せてサヤが広げた地図の上に重ねた。


「ほう、瓜二つですな」

「はい。"ウォーライ"は市街戦を想定して行われます。その全てはこの街をそのまま投影した贋作だそうです」

「街の裏に、この広大な街がもう一つあると……? いやはや……」


コドラクは苦笑しながら額を抑えた。


「ナミネさんが前あの城を初めとしてこの街は、未開の秘境みたいなものだって言ってましたけど」

「儂もそう聞く。ふと廊下が出来ている事もあれば、使われん部屋が部屋ごと消えている事もしばしばだとか」

「この偽の街も、戦いの間はその光景が実際の町にも見えるとか何とか」

「ホログラムですか」

「ほろぐ、え……? 何です?」

「説明いたしますと──」


ホログラムの説明を始めたサヤとリィラを置いて、コドラクとレイはふぅむとまだ地図を睨んでいる。やがて面倒だとばかりにレイが倒れ込むように椅子に座った。


「どちらにしろ儂には関係ないし、貴様等も大して地図など確認する必要などないのだろう?」

「主様にお聞きになられましたか?」

「ああ。酒の席じゃったから冗談かと思ったが」


そのまま寝るつもりなのかと思うほどに椅子にもたれ掛って、レイは小さく息を吐いた。


「貴様等で小僧の奴を止めるだろうと思っておった」


それはとても小さい声だった。

それでも部屋に深く響いたのはひどく真剣みを帯びていたからだ。言葉の後、しん、と音が消え去った。ただサヤだけがその静けさを楽しむように笑った。


「レイ様のような方に気にかけて貰えて、主様は幸せでございます」

「馬鹿も休み休み言え。先程は吹っかけてやったわ」


レイは目を伏せて、続けた。


「あれの身が危険だとは思わんさ。出来ぬ事をやっているともな。ただ、……世界がどうなるかだ。なにせ──」


サヤの笑みを見据えて、レイは冷淡に言った。


「それは、世界を征服するに等しいぞ」

「慣れたものですとも」


サヤは返す刀で言葉を返した。レイは僅かに驚き、視線を上げる。


「……それに、当初の予定通りです」


レイは数秒だけ沈黙を保ったまま、サヤを見据える。そして根負けしたように肩を竦めて笑った。


「……まあ、アレもお前も周りの事など気にしておらぬかの」

「はい」

「むしろそれでようやく本領か。はた迷惑な奴らめが。もうよい」


まるで見当違いな事を言ったとばかりに、虫を払うような仕草でレイは手で払った。少しだけ軽さを取り戻した空気の中で、リィラがすかさず笑った。レイももう少しだけ頬を緩める。


「ま、何とかなりますよ」

「そうじゃの。何時も楽しくやれよ。若人」

「はい」


一通り話し終えてレイがくあ、と欠伸をした。よっこらせと立ち上がる。


「腹減ったの」

「そういう時はお腹鳴らすんじゃないですか」

「眠くもある」

「本能に忠実ですなぁ」

「馬鹿者。老人は寝て食ってじっとしているのが仕事。じゃろう? コドラク坊」

「おおそうでしたそうでした。サヤさんや。ご飯はまだですかいな」

「確かエース様とビィト様が当番して頂けたのですが……」

「みんなー、夕飯だよー」

「おお丁度」

「あ、サヤさん。僕も片付け──」

「いえ。私は今夜は食しませんので、お構いなく」

「リィラ、冷めちゃう」

「ああはいはい」


がやがやと決戦前夜とは思えない雰囲気で、部屋から気配が減っていった。

残ったのは片付けを続けるサヤと、その目の前に立つレイの二人だけ。


「それで、肝心の小僧は今どこにいるんじゃ?」

「龍の襲撃で晩餐会が中止になりましたので。先程までフェン様の傍に付かれていましたが、今は──」

「……なるほど」


サヤが視線をやった方向にある建物を思い返して、レイは言った。

未だ熱気が残ったあの場所で、きっとあの女が燃焼不良でくすぶっているはずだ。



   ◆



ノインは闘技場の壁際にもたれ掛って座っていた。

少し冷えるが、彼女は脇に小さい焚火を作っている。燃えているのは石、便利な魔法だ。何の気なしにその背中に近付く。


「この街、許可なく火ぃ焚くとしょっ引かれるらしいぞ」

「うっさい」


横に立ってもぼーっと空を眺めるノインの頬に、熱い紅茶を淹れた水筒を当てた。


「ほれ。ホントに待ってんじゃねぇよ馬鹿たれ」

「当て付けだもの」


受け取ったはいいが水筒の使い方に苦闘するノインの隣に腰を下ろした。

人一人空いたスペースにハルユキは食べ物を置いていく。


「ちょっと、幾つあるのこれ」

「ふふふ、俺の食べ歩き漫遊記が完成しつつあるぞ」

「ちょっとなにそれ、後で見せなさい。……って言うか何これ飲み物じゃないの?」

「飲みもんだけど」


何とかフタを開ける事には成功していたノインの手から水筒を奪って、コップに注ぐ。ついでに自分の分も注いで、一口飲んだ。


「外でミスラが待ってたぞ」

「うん。もう少しだけ」


ノインは音を立てないように紅茶に口を付けた。その温かさに少し表情が和らぎ、ほぅと息を漏らした。


「フェンは?」

「寝てるよ。今はクイーンが看てる」

「嫌われちゃったかしらね」

「クイーンはもうぶち切れ。関係修復不可能だな」

「あらら」

「フェンは恨みやしないよ。分かってるだろ」


そう言ってノインを見ると、彼女は心苦しそうに。それでいて少しだけくすぐったそうに笑った。


「それにしても、女から女に梯子なんてとんでもないクズね。死ねばいいのに」

「言い方気を付けてくんないかね、ノインさん」


スコーンを取り出してジャムを挟んで齧った。野苺のジャムは少し酸味が強い。ノインも嬉しそうにそれに手を伸ばす。


「それでさ」


さくさくと音が続く中で、ハルユキは言った。


「明日、お前参加できるのか?」

「"ウォーライ"?」

「ああ」

「そうね。大丈夫よ、私も反省したから」


そう言うノインを横目で見た。

二年前は力を出し切った後は数日魔法を使えなくなると言っていたが、ノインはそれが原因で酷い目に会った事がある。そのままにはしておく事を許す人間ではない。


「ほら」


太腿と二の腕の包帯をノインは取って見せた。目を見開いた。火傷も打ち身も切創もあったはずだが、綺麗に消えている。


「悩殺シーンなんだけど」

「バカ野郎。乳ぐらい見せてから言え」

「ばーか」


今は見えない"魂"の魔法文字。

あれを見た時、何よりもまず寒気を感じた。天才だとは知っていた。正味の話、ハルユキですら勝つのはフェンだろうと予想していたのだ。

底知れない。ラストよりもオフィウクスよりもラカンよりもレオよりも、彼女は恐ろしい。──きっと彼女はこの世界で唯一、ハルユキにさえ届く刃を持っている。


「なに? ひょっとして口説きに来たのかしら?」

「……ちげぇよ」


自然とノインをじっと見つめていた。挑戦的に笑う彼女を改めて一瞥して、立ち上がる。


「……明日は」


じ、と背中に当たるノインの視線を感じた。いかん。彼女の目はどうやら何か特別なようなのだ。恐らく何かを見抜かれる。


「まあいいや。帰るか。送る」

「……ねぇ、ハル。覚えてる?」


背中から弱々しい声が聞こえた。

それがハルユキが知っている彼女の物とはあまりに違って、思わず振り向いた。ノインはじっと、焚火の中を見つめている。


「ギィって居たでしょ。私が拾った竜の」

「ああ、あのやたら俺の頭齧ってた……」


──瞬間、色々な事を一息に思い出した。


先ずはもちろんギィの事。

とてもノインに懐いていた事。

今は龍が正気を失っている時代だという事。

何より、ノインの表情が、声が、いつかギィとハルユキとノインが三人で焚火を囲っている時に聞いた声を思い起こさせる。


「貴方がオウズガルを出てた頃。ギィは場内で暴れたらしいの。私は龍が上空を覆った件で街に居たわ」

「……まさか」

「ううん。死んではいないの。でもやっぱり突然の事で周りの兵士達に抑えられた時、片方の翼が折れてしまった」


もう二度と飛べないと診断された、とノインは滔々と続けた。


「……今は?」

「人が近づくと暴れるから、地下に」


ややあって"ハル"、とノインは名を呼んだ。


「ホントはね。少しだけ、堪えてるわ」


ごめんね、とノインは弱々しい声で言った。

焚火で温度は足りている。身を縮めているのは寒さのせいではない。

ハルユキはそっと腰を下ろしなおした。手を握る事も腕を回す事もしなかったが、拳一個分だけ身を寄せる。

とん、とノインがハルユキの肩に頭を乗せて口を開いた。


「……ウチは龍による人的被害はそう多くはないわ。でも日々経済は痩せていくし、難民にまで食料が行き届かない時もある」

「十分よくやってると思うが」

「うん」


自嘲じみた笑みは、ノインの顔に既に馴染んでいる。


「辛かったのか」

「……秘密よ?」

「ああ」

「ホントは、ユキネがつっけんどんなのも、フェンと戦ったのも。少しずつ、ホントは」


内緒だけどね、とノインは言って寂しげに笑う。どう声を掛けるか少し迷った。しかしすぐに考えるのを止めた。

自分はノイン程誰かの心情に鋭くない。だからきっと、考えた言葉では届かない。言いたい事だけ言えばいいはずだ。


「……ラストが言ってたよ」


本当は胸に秘めているつもりだったが、自然とその言葉が口に出た。


「へ?」

「俺の大切な物をすべて守って見せるって、お前よくそんな恥ずかしい事言うな」

「……あの男、言うなって言ったのに」

「その台詞さ、今日のお前の奮闘に、何か関係あるのか?」


一瞬ノインはびっくりしたような顔をして、んー、と考える仕草を見せた。


「その為に覚悟を決めて、剣を取って戦った……って言うのなら、嘘ね」

「そうか」

「でも、その言葉が常に胸にあったのは、ほんと」


ふふ、と楽しそうにノインは言った。


「フェンはね。とっても強かったわ。今まででダントツ。二年前のユキネより断然強かったし」

「ああ」

「……貴方よりもね、強かったように思ったの」

「お前ら如きにゃまだ敗けね」

「そうね……」


私が勝ったのにね、とノインは柔らかく笑みを変化させた。


「フェンの魔法はとっても痛かった。圧倒されたし、負けたかと思う事もあった。でも、最後は拍子抜けで、少し余波に当てられただけで、フェンは吹き飛んで気を失った」


それに一番驚いたのだと、ノインは言った。


「魂がね。見えるようになったの」

「は?」

「見えるのよ。色と大きさと動き。誰に教えられた訳でもないけど、それが魂なんだって何となくわかった。一年ぐらい前からね」


突拍子の無い話にしばし呆然とした。ああ、しかし。確かにそう考えれば腑に落ちる場面が幾つかあった。


「何を考えているかは分からないけど、どんな感情をどれ程持っているのかは分かる。生まれつき決まっている訳じゃないわ。一晩でどす黒く染まった人もいたし、見違えるほど大きく透き通る人もいた」

「……フェンは?」

「透き通ってて果てが見えなくて、空を見ているのかと」


だから、とノインは困ったように自嘲した。


「地面に横たわるフェンを見てね、こんなに小さいのかと思った。こんなに細くて、か弱い事を私は忘れてた。ううん、忘れさせられてた。それぐらい凄かったの。星を脈々と操る心臓と戦ってると思っていたもの」

「……ああ」

「だからね。フェンとユキネに仲直りさせてやるっていうのはあったけど。でも、それだけじゃとても敵わなった」


ノインにしては、脈絡のない話し方で、弱々しく。

頼りない方に触れる事はしない。ただ、ハルユキはより静かに耳を澄ませた。やがてうまく回らない自分の口に呆れるようにして、ノインは笑う。


「だからね、さっきの言葉が助けてくれたのは、ほんと」


結局、ユキネに逃げられちゃったからここにこうしているんだけどね、とノインはまた少しだけ笑みの種類を変えた。


「私は嫌いよ。今の淀んだ世界が」

「ん?」

「話が戻ったの。察しなさい」

「はいはい」

「嫌いなのね。私は」

「うん」


ぽつぽつと、ノインは語った。

初めての友人が変わらなければならなかった世界が。

仲良くなった竜を地下に閉じ込めなければならない世界が。

人の命を選ばなければいけない世界が。

何もかも仕方のない事なんだと、諦めに沈んでいく世界が。どうしても。


「本当は、受け入れて毅然とするのが正解なのだろうけれど」


ね、ハル。先程とはまるで違う声色で、ノインはそう言って、立ち上がって剣を抜いた。


「私の事なんて気にしないでいいわ」


弱々しさなど欠片もない挑戦的な声。妖艶な笑み。もう一つの、そしてそちらもまた紛れもなくノインである態度で言い放った。


「思うままに、全部、ぶっ壊すのを許してあげる」

「ああ。分かった」


即答したハルユキを、じっとノインは見つめる。何を見ているのか、その赤い目の奥に黄昏色が揺れている気がした。

やがて剣の切っ先は下がり、ふ、とノインは柔らかく笑った。

その表情で少しだけ緊迫していた場の空気が緩んだ。ふ、とハルユキも安堵の息を吐く。


「じゃ、ほら」


ノインはぐい、とハルユキの腕を掴んで立ち上がらせた。そのまま腕を絡ませて体を密着させる。

わざとらしい上目遣いが意図を、と言うか求めている言葉を押し付けのように悟らせた。


「……送るよ。王女様」

「あら。悪いわね」


そのまま、上機嫌なノインを引き摺るようにしてハルユキは出口に向かった。


「ね、それはそれとして、ハル?」

「何?」

「何じゃないわ。貴方ね──」


──それから。

何やら色々と恥ずかしい事を言わされたり、過剰に密着してきたり、自分で言って顔を赤くしたりもしていた。

大した返しをした覚えもないが、ノインは楽しそうに笑っていた。その笑顔にこちらの口角も自然と上がって、それを見てノインもまた調子づいて。


しかしやがて、最後の角を曲がり、闘技場の出口が見えた。


ミスラが壁にもたれるように立っていた。


す、とノインの腕がハルユキから離れた。同時にハルユキもまた白能の面を付ける。

ミスラはこちらに気づき、姿勢を正す。


「ではまた明日お会いしましょう」

「……ね、今日来てくれたのは、本当に明日の話をするためだけ?」


ハルユキはそこで足を止める。ノインの視線がしたからハルユキを向く。少し考えて、はっきりとハルユキは口にした。


「お前の事が心配だったからだよ。あんまり無茶するな」

「流石、キープ男は口先が回るわ」

「ぐ……」

「ま、いいわ。及第点ね」


対して彼女は早足で前に進んで、それから、くるりと舞うようにこちらを向いた。


「なら待ってるから。忘れちゃ嫌よ、ハル」

「別に明日は、お前はお前で動いてもらっても──」

「そうじゃないわよ。鈍いわね。色々、待っているつもりなのだけれど?」


彼女の顔は背後からの町の光に照らされて、良く見えなかった。


「……ああ。待たせてばかりで悪い」

「ホントよ」


ただ、彼女は何事も隠さない人だから、どのような顔なのかも、どのような心なのかも全てわかって。だからきっとこの時の返答に間違いはなかったと思う。

ミスラと一言二言交わして、ミスらはこちらに一礼してその少し後ろで、またノインはこっそりこちらに笑みを見せた。


「──ちゃんと待ってるからね。約束よ?」


その姿が暗い時代に浮くような眩い街並みに消えて、ハルユキは一人取り残された。






「──あ」


ふと、ハルユキはそれに気が付いた。


視界が広がったようだった。世界に光が満ちたようだった。そう感じる程に、奥深い所が変化した。


「これ、まさか……」


──右手の文字は、まだ黒く煤けたまま。だが確信がある。

これは魔法の目覚め。

血のように熱い何かが、血管ではない何かを通って体を満たす。筋肉ではない何かが、体に力を生き渡せる。


「────……」


そして、それは淀みなく発動した。

右手の黒ずみが深く濃く暗さを増す。手の平の上に闇が広がる。ぽっかりと開いた穴の様なそれは、いつの間にか球体となって浮いている。


そして──。

──べろん、と。それは力なく垂れ下がった。


「……ん?」


ぶらん、と手の平からぶら下がって、それだけ。汚く黒いボロ切れが垂れ下がっている。それだけだ。


「……う、うん?」


ぶんぶんと上下に振ってみる。ふらふらと宙を舞う。ボロ切れである。

触ってみる。ガサガサしている。ボロ切れである。引っ張る。ボロ切れ。いやボロ切れと言うか溶けた腹筋マットみたいな。


「……」


ぷらんぷらんと、手首の所からぶら下がって揺れている。


「何っだよもおおおおおおお! 期待させといてよおおおおお!」


ハルユキの激昂を他所に、ボロ切れは──。


『何だよ。やけにうるせぇな……』


──喋って、顔を上げた。この時この場にこの現状を把握している者はいない。ただ、お互いを見つめているだけの沈黙が数秒間続いた。


『──やっべ』

「待てや」


手の中に引っ込もうとしたそのボロ切れを、ハルユキが素早く捕まえた。ぎり、と鋼鉄を握り潰す握力がそいつを締め上げる。


「あれぇ? もしかしなくても、九十九君ですか?」

『え? つく……、何? つくね?』

「九十九君だよねぇ」

『俺の名前はジョージ。ジョージ・ワシントンだ。NY生まれのヒップホップ育ちだ』

「九十九君だぁ!」

『離せコラぁ!!』

「痛みのある世界へようこそ!」

『いやぁ、俺はホラ。内気なとこあるじゃん? 外はまだ早いって言うかぁ……っ痛ぇな糞が!』

「え? 痛いの? だよね良かった」


結果として、ハルユキはその魔法を喜びとともに受け入れた。


「……?」


ふと、口を噤んで九十九を離し出口の方を向いた。

誰かがいる。気付かなかったのは、気配が薄い──いや、あまりにちっぽけで害がなかったからか。


「……よう」


出口を抜けた所で、地面に座り込んでいた男が、ぬらりと陰鬱な声で話し掛けてきた。

驚きがあった。そこに居たのは塩の王。紛れもない世界の頂点の一人だ。


「誰と喋ってたんだ? ノインは先に帰っていたようだが」

「独り言です。いや、本当に」

「……まあいい」


不思議な男だ。その体躯と人並み魔力の薄さからか、存在感と言うものが薄い癖に、話し出すと目が離せなくなる。


「ノインの奴は、随分、表情が変わったな。二年前か、前は俺と面影を重ねるような部分もあったが」

「は……?」

「フェン・ラーヴェルも、リィラ・リーカーも、スノウや、少し色は違うがヴァスデロスは昔からそうだ」


その黒髪は夜の闇と影に埋まって、その境界を曖昧に濁らせている。ぞあ、と背筋に冷たい物が走った。


「なあ、なんでお前等は、死にたくならないんだ?」


その問いは純粋で無垢だった。ただただ疑問で、しかし答えは見つからなくて、いつからか沈んで淀んで腐って黒ずんだ何かだった。ミコトは答えを聞く前に腰を上げた。


「悪かったな、忘れてくれ」


そのままミコトは外套を翻して廊下の奥に消えた。




    ◆




「ここですね」

「はー……。何か歴史を感じさせますね。嫌味だなぁ」

「だねぇ。エルゼンとは大違いだ。感じ悪いなぁ」

「この数年で何回も叩き壊されたからだろうが」

「うむ。ビィトの言う通り」

「クイーン殿はこちらですぞ」

「ああ、くそっ。何でエースとビィトだけ!」

「もう時間がありませんね。皆様、少々急ぎましょう」


コドラクに捕まって入口から離されたクイーンは、怨嗟の声を上げた。残るのはそこに欠伸交じりのレイを加えた三人だけ。

対してエース、ビィト、サヤ、リィラは揃ってその建造物を見上げた。


水の流れていない噴水だった。罅の走った床や壁は苔むして、それがある広場には人気がない。


それはそうだろう。街の端の工業区、その入り組んだ路地の中にある僻地だ。しかしどことなく流れる神聖な空気が人を寄せ付けないのかとも思わせる。

ひっそりと、黒子のような恰好をした兵が四隅に立っている。


「証明書をお願いします」

「どうぞ」

「お預かりします」


サヤが渡した封書を速やかに受け取ると、同時に他の兵が動いた。遠くから手をかざす。いつの間にか噴水の底に水が張っていた。


「申し訳ありません。その──」


その水の底を覗き込もうとすると、傍らに居た兵が口を開いた。


「失礼に当たるかもしれませんが、他に兵は──」

「ああいえ。僕達はこれだけで十分です」


そう聞いて兵は一層訝しげな色を瞳に浮かべたが、これ以上の詮索は止めたようで、無感情な表情を顔に戻した。


「水ではありません。どうぞ」

「へぇ……」


リィラが覗き込むと確かにそれは水ではない。

薄いガラスの膜が張っているようだ。その向こうには地面が見える。そう高くもない。


「お先ぃ」


ひょい、とエースとビィトが飛び込んで、リィラもそれに続いた。幕を潜り抜ける。水ではないと言い聞かせて、呼吸に気を払い──。


しかし、がらりと変わった景色に呼吸を忘れた。


地面につくと同時、水溜りを叩いた様な音。

同じように立ち尽くして景色を見渡す二人がいる。少しして背後で同じように水溜りを踏む音がした。


「"水鏡郷みかがみきょう"と。そう聞いてはいましたが、なるほど。言い得て妙でございますね」

「そうですね……」


この街はメロディアの街の焼き直しだ。同じ町並み。同じ空模様。同じ風景。しかし鏡なのはそう言った意味からではない。

薄く、町中の床に水が張っていた。流れはないのに驚くほど綺麗な水は街並みをもう一つ水面に作り出している。

鏡写しの街に、リィラはほぅ、と感嘆の息が漏れた。


『ああくそ、ここ湿度高ぇな気持ち悪い……』

「……ちょっとハルユキさん」

『あ?』

「何でこれ見て出てくる感想がそれなんですか」

『うーん、何か似たようなの見た事あるし、何だっけサヤ』

「ウユニ塩湖でしょうか。一度訪れました」

『とにかくお前、朝からずっと居てみろ。嫌んなるから」


耳に嵌めた魔石から聞こえてくる緊張感のない声に、肩から力が抜けた。


『んで、まあ大体地形は掴めた。まあ地上とまるで一緒なんだが』

「出入り口ですよね」

『お前等が入って来たのは一方通行の穴みたいなもんだ。常時行き来できるのは三か所。サヤ、リィラ、エースとビィトで三手に別れろ』

「兵の数は?」

『一番少ないとこでも500はいるな。斥候っぽい奴はそこらにも居ると思うが』

「そうですね」


ちらほらと建物の影から人の気配を感じる。静寂でいてこの街は人の気配で充満している。

どこか奇妙で肌寒いそれは、街のどこかに嵐が息を潜めているかのようだ。


(……あながち、比喩でもないけど)


特大の嵐が吹く。きっと弱い人間は地に伏せてやり過ごすしかできないほどの強く、激しい嵐。


『じゃ、そういう訳で。20分後に』


人の形をして、神を騙る大嵐だ。




   ◆




「んー、ここじゃ手狭だな」


リィラとの通信の後、速やかに行動を開始したハルユキは事を終えて辺りを見渡した。

地面にはピクリとも動かない人間が数人いたが、目を止める事もなく、あろう事か大股でそれを跨いで、目的のものだけを手に取った。


「出るか」


天井まである窓を開けてテラスに出ると、跳ぶ。

縁を掴んで、体を屋根の上に引き上げると、もう頭上には雲と空しかない。よく見ると、それを映し出しているだけの土の壁だ。


そう思うと、改めて湿っていて陰気な場所だと感じさせられる。


そのまま不快気に街を見渡した。

端の方は霞んで星の丸みさえ感じれるほど街は広いが、ハルユキの目は全てを捉えている。


虫の様だった。

岩を動かした下に蠢く虫の群れを思わせる。多様で、無数で、忠実で、少しばかり気が立っているせいか踏み潰したくなりさえする。

集まった兵は総勢15万。

だだっ広い街の至る所に、彼等は蠢いている。神秘的などと思える訳がない。実に景観を損ねている。


ハルユキの顔に嗜虐的な笑みが浮かぶ。そして、先程手に取ったそれを口元まで運んだ。




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