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ハイイロ ノ カナタ  作者: mild
第三部
265/281

閑話 九十九

お久しぶりです。恥ずかしながら戻ってまいりました。




「街を出るんだろ? 早くしよ──」

「──待て、待ってくれ……」


ロランドは空回りしそうな思考を必死に形にする為、九十九の言葉を手で制した。

俺達を追っている何かがいる。見当は付かないが、とりあえずそれは飲み込もう。


では、町や集落を滅ぼしながらこちらに迫る"何か"は、俺達をも殺す気なのか。


(つまり町長はスミレを浚って、俺達をその得体の知れない怪物の矢面に立たせるつもりだったのか。怪物が俺達を追っている事には気づいていなかったんだろうが……)


では何故町長は死んでいるのか。既に暴動は始まっているのか。いや、それにしても殺され方が尋常ではない。

ならば既に、"それ"はこの街に入り込んでいる可能性あるのではないのか。


「大丈夫だよ」

「……九十九」

「俺がいるならな。事実としてそいつが脅威になる事はないだろ」


安心させるような言い方ですらない。

気怠そうに、子供のダダをあしらうようない言い方だった。いいから飯食いに行こうとでも言いだしそうだ。


「いいから飯食いに行こうぜ」


本当に言いやがった。


「……こんな場所で言うんじゃねぇよ」


何しろ部屋中死体で血みどろである。

とりあえず二人して部屋から出た。スミレと合流すべく、階段を下りていく。


「しかしボロボロだなお前。どしたの」

「こっちは死にかけたんだよ。畜生め……」


あの死線を潜り抜けて、僅かでも達成感を得ていたのがバカみたいだ。


「んん? 匂う匂うぞ、これはチーズとラム肉の匂いじゃ……」


言ってから、こちらを見て、そして恐らくそのチーズ肉のある方を見て、もう一回こっちを見た。じゅるりとわざとらしく涎を拭いて見せる。


「いや、いいよ、行ってきて……」

「全部食っていいか?」

「俺の物じゃないし、自己責任で盗め」

「うおっしゃ」

「ただ、敵が現れたら助けて貰えると助かる。俺はもう限界だ……」

「分かった分かった」


ひらひらと手を振りながら九十九は一番近くの扉を開けた。


「じゃ、お前はあっちな」

「あっち?」


こちらの問いかけには答えずに九十九はさっさと部屋の中に入っていった。

なんなんだと九十九が指差した方を見ると、階段の下にそれを見つけた。


「あ、あの、上がっていいですか?」


救急箱を持ったスミレだった。

一階で待っていろと言うのを律儀に守って、階段の一番下でこちらを見上げている。その手にある救急箱は、じっとしていろという言いつけを破った証であるが。


「ああ、おいで」


ぱあ、と表情に花を咲かせたスミレがぱたぱたと階段を上がってくる。

それを確認して、先に九十九が待つ部屋へと向かう。全て人の物で申し訳ないが、食事と手当を済ませよう。


すぐにスミレはロランドの背後に追い付いてほぼ同時に部屋に入った。

どうも従業員の休憩室のようで、机とポットと小さな戸棚とソファがある。


「九十九?」

『おー』


姿が見えないので呼んでみると、いやに遠くから声が聞こえた。

どこにいるんだと聞くと、どうも屋根の上らしい。


窓から顔を出し屋根を見ようとするが見えない。

この屋敷は先細りになっている岩窟の最奥にあるので、岩壁を背にしており、天井も近い。


見えるのは岩肌ばかり。諦めて顔を引っ込める。


全く、相変わらず常識外れな奴だ。

そして机の上にはパンが二切れと干し肉ー切れ、ワインが少し。残りは根こそぎ持っていきやがった。


「今日は、随分残してくれましたね」

「ホントにな」


しかしパンと肉の切れ端と驚くなかれ。

これはとてつもなく多い方。奴の食い意地は次元が違うのだ。

とりあえず人数分あるパンの方に手を伸ばすと、じっと恨めしそうな視線が頬に当たった。


「……二つとも食べたいのか?」

「怒りますよ」


冗談を言ったつもりだったが笑わせる事は出来ず、先にこちらだろうと言わんばかりに救急箱をこちらに突きだす。

その仕草が可愛らしくて思わず笑みがこぼれた。


「じゃあ、お願いできるか?」

「っはい!」

「元気が良いな」


九十九がいる安心感からだろう。

ここだけは町や世界の喧騒から関係が無くなったかのように穏やかだった。


しかし、いつまでもそうであるはずもない。


街は混乱しているし、上の階では人が死んでいるし、街を滅ぼす何かは既に近い。

そして、最終目標だったアスタロトへの到達は無意味な物となった。


もう近い。きっと今日は長い一日になる。だからこれは最後の息継ぎだ。



    ◆




『ロン』


 母の声だった。

 またかよ、とすぐに村を出てすぐ見た夢と同じなのだと気が付いた。


 母は相変わらず険しい顔だったが、仕方ないかとばかりに鼻を鳴らしている。


『ローン』


 父。また全力で手を振っていた。

 酒でも飲んだのか表情は満面の笑みだ。


『ロランドー』


 兄さん。

 いつもと違い、拳で俺の方を軽く殴ってきた。

 いつもと違い、追い抜いてはいかず、隣に立っている。対等に慣れた気がして、俺も兄さんの肩を拳で叩いた。


『おい』


 そうしてあのクソ野郎は、やはりそうやって俺を呼ぶ。

 振り向いても、やはり奴はこちらを向いてすらいない。

 ただきっとあいつも、俺があいつを見ていない時、俺の背を見ていたのだと思う。


『────……』


 ああ、夢だ。

 もしかすると少しだけ神秘的かもしれない夢。死んでいった人たちと離別する為の夢。


 でもまあきっと、色々あった時に心を整理させようと脳が作った世界。

 耳を塞ぐ事はしなかった。だから振り向くのも怖くなかった。


『──ロランド』


サクラがいた。

それはサクラだった。丁度俺が村を出た頃、スミレほどの歳の頃。


こうして改めて見てみると、思ってたよりは似てなかった。そう言うと、サクラは可笑しそうに笑う。


性格だって全然違う。スミレの方が背が大きいし、髪も黒い。

サクラの姿を忘れていた訳はないが、スミレの中にサクラを見つけたかったのかもしれない。スミレを守る事で、お前に罪滅ぼしをしたいと思っていたから。


『────……』


しかし最近は、サクラと似ていると思う事は少なくなった。

ああ、もう、スミレと旅をして三か月になる。

ちょっとうるさい奴もいるが、それもスミレとも仲良くやってる。俺なんかよりもよっぽどな。楽しいよ。


『────……』


だからかは知らないけど、お前の顔を思い出しづらくなってきた。

そうしようとすると、スミレの顔の方が浮かんでくる。でも別に悲しいとは思わなかったんだ。お前が、悲しみはしないだろうから。


『────……』


あの娘は俺の事が好きだという。男の趣味まで似てしまうとは、最悪だな。


『────……』


サクラは遠くで微笑むだけで、何もしゃべらない。それがむしろ都合が良かった。


所詮は夢の中。自分に都合の良い返事ばかりがあっても興ざめだ。だがここが心の中だというのならば、丁度良い。

どうか、心に突き立てる誓いを聞いていて欲しい。


「あの子の好意に、応えるべきなのかは分からない」


しっかりと声を出す。あちらの声は聞こえずとも、どこにいても聞いてもらえるように。


「でも、嫌われていても守ると決めていたから、好かれていたとしても守るよ。何か、変な言い方だけど」


彼女はまだ17才。熱に浮かれているだけならば、俺はやがて鎖となるだろう。

だからもう少し時間がいる。自分にも、スミレにも。


「お前の事を思い出す事が少なくなったよ」


この三か月を迎える前の二十年は、一度たりとも忘れた事はなかったのに。


「あの娘を守る時にもだ。お前の顔は出てこない」


いつの間にかそうなっていた。仲良く話したわけでも、特別何かが起こった訳でもない。


「だから、俺は俺の誓いでスミレを守るよ」


いつの間にかサクラの姿は消えていた。

少しだけ泣きそうになったが、でも不思議と自然に笑えていた。


「さよならだ」





   ◆





目を覚ますと、顔を真っ赤にしたスミレと目が合った。

しばしお互いに硬直し、んばっとお互いに顔を逸らした。


「な、何も聞いてません……っ」


待て、と言うか膝枕かこれは。

いや待て、と言うかここはどこだ。ああそうか、手当の途中で寝てしまったのか。

いやいや待て待て、スミレ。それは聞いている奴の常套句だ。


「な、何を喋ったんだ、俺は……?」

「えっと、な、何も、何も。……聞いていないので」


むくりと起き上がってじろりと睨む。さっとスミレは顔を逸らした。

ふと、自分の体に丁寧に施された応急処置に気付く。その頬をつねって引っ張り上げてやろうと思ったが、怒りが収まってしまった。


「まあ、いいか。手当てありがとうな」

「は、はいっ」

「それで、少し真面目な話なんだが」


はっとこちらを向いて、恐縮したようにスミレは縮こまった。


「アスタロトへの避難は、絶望的になった」

「……はい」


スミレも覚悟していたのか、静かにうなずいた。

その後、上の階で人が死んでいる事。恐らく多くの街を滅ぼしてきた何かがそれをやったのだという事。

そしてどうにもそれが、自分達を追っているという事。


「危険だけど、戦った方が良いと思う。この街の人間を見殺しにするのも寝覚めが悪いし、九十九がいるなら何とかなる。まあこの後相談するんだがな」


それに、いつまでも背後をつけ狙われているのは気味が悪い。


「今日は多分大変な一日になるが、頑張ろうな」

「……もう既に大事です」


ぎゅっとスミレは包帯の上からロランドの手を握った。


「……お願いですから、無理はしないで下さい。逃げるというならその、どこにでも付いて行きます」


そしてスミレはじっとこちらを見上げた。考えてみれば凄い台詞だ。


「……明日が、楽しみになりました。世界は変わって故郷は滅んでしまったけど」


続けるらしい。どうにも恥ずかしかったが、嬉しそうにはにかむスミレを止めるのは難しい。


「九十九さんがいて楽しそうにはしゃいで、ロランドさんが相手をして、私もそれに混ざって、ね、きっと、楽しいです」

「ん」

「一緒に買い物して、少ないお金で必要な物を話し合って、宿を探したり、地図を広げて次の目的地を決めたり、旅の途中で釣りをしたり、テントを張ったり、星を見たり。憧れです」

「んー? 随分当たり前の事ばかりだ」

「わくわくしませんか?」

「どうだろうなぁ……」

「私はするんです」

「謙虚だねぇ」

「そ、そうですか? なら、もう少しだけ欲張りな願い事を考えます」

「んー? んん、うん」

「……ロランドさん」

「あー、まあ、はいはい。分かった分かった」


何と答える事も出来ず、ぽんと子供をあやすように頭に手を置いた。それが気に喰わないのか、むぅとスミレは怒ってみせるが見ないふりをする。

さて、と立ち上がる。


「何か、来たな……」


九十九が開け放した窓際から外の物音が聞こえてきた。

寄って顔だけで外を覗き見る。


すると、この街の兵士達が大慌てで門から入ってくるところだった。


まあ不思議ではない。こちらとの連絡が途絶えて混乱したのだろう。

突然、丁度上から何か降ってきた。


九十九だった。

まだもしゃもしゃと干し肉を頬張りながら、突然の事に混乱する兵士達を叩き伏せていく。


十人ほどいた兵士達が片手間で倒されていく訳だが、あまりに適当なせいで何か兵士が叫ぶ余地があった。


──お前等、あの兵団の仲間か、と。確かにそう言っていた。


「スミレ、ここで待っててくれ」


窓からひょいと飛び降りた。少し足が痺れるが大した事はない。俺も随分タフになったものだ。


「九十九」


転ばせた最後の兵士の頭を蹴飛ばそうとしている九十九の肩を握ってそれを制す。


「待ってくれ」

「ロランド、それよりお前なぁ──」


何か言いたげに九十九が口を尖らせているが、とりあえずは後だ。


「待ってくれ。この人に聞きたい事がある。見た所この部隊の頭だな」


その兵士は他の兵士より一回り年上で、右手の黄色の腕章を付けている。

返事はなかったが、そう仮定して言葉を続けた。


「街の外壁の方で何かあったのか?」

「うるさい! 町長はどこだ! 報告せねば──……」

「死んだよ。もう全身バラバラびちゃびちゃだ」

「──っ貴様等」

「待て、俺達じゃない。もしかするとこの街が危険だ。話してくれると助かる」

「……貴様等は、確か古龍を倒したとか言う旅人か」

「そうだ、と言ってもやったのはこっちだけどな」


まだもぐもぐやってる九十九を指さすと、兵士は少し考えたあと悔しそうに言った。


「よく分からん兵士団が無理やり街に入って来た。どうもアスタロトの正規兵のようだが、どうも、なんというか、嫌な感じだった」

「いやな感じ……?」

「多分、品定めしてる。奴等――」

「龍のせいで国に戻れず、盗賊に身を落としたか……」

「……ロランド」

「しかし正規兵なら実力は確かだ。襲われればひとたまりもない」

「ロランド、おい。ちょっと待て……」

「人数は?」

「……100人はいる」


少し思い悩んでから、兵士は目を伏せるようにして頭を下げた。


「ロランド――!」


真横を雷でも横切ったかと思った。

驚き振り向いて、それが九十九の怒声だと気付いてまた驚いた。大声を出した自分を嫌悪するような顔で九十九は続ける。


「……止めとけ止めとけ、逃げようぜ」

「な――」

「九十九……?」

「戦うなんて選択肢はないからな。兵士とも、怪物とやらとも」

「……聞こえていたのか」


肩を竦めて、九十九は笑った。


「アスタロトってのに行けねぇんだろ? だったらお前はスミレをどこに連れてくか考えなきゃいけねェ。だろ?」

「九十九、お前……」

「でけえ街なんて幾らでもあんだからよ」

「九十九」

「……何だよ」

「本当に、勝てる相手なのか……?」

「はあ……?」


じっとこちらを見ていた九十九が、面倒そうに目を逸らした。


「正直に言ってくれ。無理なんて似合わない」


横目でこちらを一瞥して、ふー、と長く息を吐いた。そして目を瞑る。耳に意識を集中しているのだと気付いて、声を潜める。


「……たぶんまさに今、その戦士団とやらは殺されてるな」

「な……!」

「それだけじゃねぇな。住民も手当たり次第だ。……そうだな、俺も勝てるかどうかわからん」

「間違いないのか……?」

「……ああ」

「どんな奴だ」

「さあ、そこまではな。ただ言葉は喋ってねぇ、そこまででかい、動きは鈍い」

「……そうか、分かった」


ロランドは立ち上がった。迷いのない目が九十九を向いて、そして目の前に蹲る兵士を見下ろした。


「悪いが、俺達は今すぐこの街を出る」

「な、ま、待て、待ってくれ、今は少しでも戦力が……」

「諦めてくれ。それと本当に悪いと思うが、正面の門以外の街の出口を教えてくれ。こんな造りの街なら必ず用意しているはずだ」

「ふ、ふざけ──っ!」

「すまないな」


す、とロランドは兵士の首に引き抜いた刀の刃を当てた。"け"、の形で口を開けたまま、兵士の顔は硬直する。


「先程、この街の人間が自分達の仲間の少女を浚おうとした。町長の指示だったらしい」

「……そんな事は我等には関係がない」

「本当に? 例え真実でも嘘だと俺が判断したなら部下もろとも命はないぞ。もう一度、言ってみろ」

「そ、それは……だが、確かに君達を操るため連れの女性を浚うように仄めかされたが突っ撥ねたんだ。それで諦めたと思っていた、本当だ!」

「そうかもしれないな。しかし、もう信用は出来ない」

「……っ」

「もはや義理も負い目もないだけさ。君は自分と部下の命と引き換えに旅人を三人逃がすだけ」


頼む、とロランドは尻餅をついた格好の兵士に屈みこんで視線を合わせてから頭を下げた。


「っ岩窟の大洞窟が外に繋がっているはずだ! 言っておくが案内など──」

「ありがとう」


ロランドはあっさりと刀を鞘に戻すと、町長邸へと踵を返した。


「九十九」

「いいのかあれ、そのままで」

「いい、気絶している間に殺されたらあまりに悔やみきれんだろう。それよりその敵の事だ」


ロランドは玄関の扉を開けた。


「っと」

「きゃっ──」


どん、と丁度玄関から出てきたスミレとぶつかった。転びそうになった彼女を咄嗟に抱き留めた。


「あ」

「だ、大丈夫か」


密着した状態から、ばっとスミレは離れると唇をわななかせながら顔を真っ赤にして、そして思い出したように目を吊り上げた。


「け、怪我しているんですから、無理はしないで下さい……!」

「無理?」


何の事を言っているのか分からず、九十九を見る。


「二階から飛び降りたやつじゃねぇの? 知らんけど」

「ああ」

「ああ、じゃないでしょう!」

「あららら、おーおー、一日で随分遠慮なくなったなスミレェ」


けたけたと笑いながら九十九がスミレの頭をぐりぐりとやる。


「あ、その、ごめんなさ……」

「いいよいいよ、どうせ"もう少し時間置けば他の男に気ぃやるだろ"とか思ってるから。お前が引っ張らなきゃ駄目よ」

「おい、あまり勝手なことを──」


言うな、と続けるつもりだったがよく考えたら当たってる。

いや、少し違うだろ。違わないか? 違わないか。違わないな。


「な?」

「……は、はい」

「納得するなよ……」

「はい。じゃあ試しにさん付けなしで呼んでみましょう」

「え? い、いやそれは……」


ちらりと、スミレが上目づかいでこちらを見る。


「まあ、別にそれは構わんが。後でな。今は急ごう」

「は、はい」


屋敷に入ったのはスミレと合流する為だ。立ち話になるが、手早く打ち合わせる事にする。


「宿まで荷物を取りに行っている暇はない。必要な分だけこの家の物を貰っていく。食料と水、それに服だ」


代わりに金貨を数枚玄関先の棚に置いた。


「それと、九十九」

「あん?」

「俺はいったん街の様子を見に戻る。お前とスミレは荷物を纏めて兵士が言ってた裏口の洞窟を探してくれ」

「……なーに言ってんだ、お前」

「その"何か"は間違いなく俺達を追って来てる。最低でも姿形は把握しておきたい。なに、逃げるだけならお前より得意だよ」

「それは──」


言い掛けて、九十九は舌打ちした。がしがしと頭を掻いて、やがて深く溜息を吐いた。


「それは俺が行く」

「いや、しかし……」

「お前が来ても来んでも俺は行くからな。スミレ一人にしたいなら来い」


それ以上何か言う前に、九十九は踵を返して玄関から外に出た。


「九十九!」


追って扉を開けて外に出るが、既にその姿はない。

何か言葉にしようがない違和感が体を突き動かした。


しかし、九十九が言ったようにスミレを一人にする訳にはいかない。


「ロランドさん……」

「大丈夫だ、行こう」


扉を閉めて、室内に戻る。後ろ髪を引く違和感は、どうしても拭えなかった。




    ◆




「な、なにを……!」

「黙れ! アスタロト国領民ならば、贅を手放し龍と戦う王軍の助勢とするが当然だろう!」


馬上から大斧槍ハルバードを突き付けて、店頭に並んでいた果物を拾い上げると男は躊躇いなく口に運んだ。


「旅団長。この街の長は街の最奥にいるようです」

「この俺に出向かせるか。まあいい、案内しろ」

「兵はいかがいたしましょう」

「まずは、十名を門に残し入り口を封鎖。他はとりあえず俺に続け」


ぱしん、と馬の首を男が振るった手綱が叩いた。


主人と同じ真紅の馬鎧をまとった馬は駆け出した。

そして一瞬も遅れずその後ろを百名からなる連隊が追随する。


男は貴族社会であるアスタロトにおいての侯爵だった。

ここまで敗走してしまったのは、あの"山岳龍"の登場により完全に退路を失ったからだ。


ついに始まったこの龍との戦にも逸っていた。十分な数と練度の兵と、そして男自身の実力も一流と断じて間違いはない。

ただ、己に流れるのは選りすぐられた高貴で勇猛な血だと信じて疑う事も知らない。そんな男だった。


「では更に十名。この街の酒と食料を全て町長邸に運べ」


命令に従い分隊する十名の動きは見事に律されていて、乱れなど感じさせない。


「では更に十名。街の男共を直ちに武装させ上下関係を叩き込め」


これ程大きい街だ。人口は一万人ほど。単純に計算すれば男は五千。戦えるのはその内の三千と言ったところ。

三千人。

事実今使い走りとして切り離された十名は、それ等を同時に相手にしても圧倒できる実力を持っている。


──"朱鎧戦士団"。


特徴的なのは赤を基調とした鎧と、そして各人が持つ大振りのハルバード世に名高い"黒刃戦士団"と双璧を成すと呼ばれる、化物の集団である。


「そして、更に十名。若い女をかき集めろ。明日に悔恨を残さぬよう食い散らかせ」


男は平民を鑑みる事こそしないが、戦士の士気の上げ方は心得ていた。

明確に龍と戦争になる前に、古龍の巣を破壊する時。大規模な盗賊集落を壊滅させた時。

古龍退治を依頼した村と、その盗賊の集落は目を背けたくなるような強奪の跡を残していたという。


全112名。

112の戦士であり、刃であり、英雄であり、悪魔で怪物で獣で──。


──しかし時には、彼等も路傍の石で、食われる側で、餌である。その事に男は最期まで気付かなかった。


「ぬ」


進行方向上80メートル先。


こちらを塞ぐように何かが壁を作っていた。

男の視線は、その手前に立つ何か。

ボロボロの黒衣に、今まさに外されたフード、そしてその下から現れたのは鬼の面。

ぞぞ、と足元から寒気が全身に這い上がった。


「止ま──ッ!」


号令は途中で止まる。

眼前にあったはずの姿が消えた。瞬きすらしていないのに。


そして、見た。

最初道を塞いでいたバリケードが、別れた40名の部下を初めとした町民たちの死体だった。


早贄のように木の棒で、灰かき棒で、ピッチフォークで、或いは誇り高き真紅のハルバードで、串刺しにされた死体の森。



「──旅団長! 後ろです!」


驚いている暇はない。

部下の声に、何かを考えるより早く振り向いた。そこに先程の鬼がいた。今まさに走っている馬のケツの上に立っている。


「ぬぅ──ッ!」


既に手にしていたハルバードを振り抜いた。

しかし、鬼はするりとそれを下に避けた。


──いや、そうではない。落ちたのか、もしくは降りたのだ。

──いや、それも違う。


鬼の足が地面に着いた。

一階の窓を乗り越えて庭に出る時の様な気軽さで、しかしその瞬間。


──轟音が耳を劈き、爆風が全てを吹き飛ばした。


床石の破片、家の壁、自らの所持品。

それ等が強く体を打つ。


巨体が宙を舞っていた。


その中でしかと見る。


同じように馬も部下も吹き飛ばされる中、その鬼だけは爆心地の中心に何事もなく立っていて──。


「間が悪い」


何事かを呟いて、そしていつの間にか我等から掠め取った大量の真紅の槍を投擲した。

嫌に時間が遅く感じた。


吹き飛ばされているのは10メートルほど。

地面に着くまでは何も行動できない。


鬼はゴミを放るような仕草で次々と槍を投擲した。

爆風すらゆらりとしか進めないような圧縮された時間の中で、奴だけが悠々と動いている。


いや、放たれた槍もそうだ。


ゴミを捨てる様な適当さで、しかしその速度は優に音を超えている。

人形のようにぐるぐる回りながら吹き飛ぶ部下の額に、それは吸い込まれるように飛んでいく。


突き刺さり、吹き飛ばし、岩壁に縫い付ける。


その行為は誰に邪魔される事なく続き、やがて男の番が来た。


「く──ぉ」


恨み言さえ追い付かない。


気が付けば、自分が串刺しにされた死体の森の何の変哲もない一部になっている事に気が付いて、ぐるりと瞳が裏返った。

何も聞こえない。声も出ない。体も動かない。


ただ、目の前を通り過ぎた鬼がこちらを見た。

命の灯が消える瞬間を興味深そうに眺めているのだ。


じーっと、目の前に仮面の目の穴。黒く深くて、どこかどろりとした暗闇。


世界に空いたウロのような暗闇の中で、ふと男は死んだ。




     ◆




洞窟の入口は目立つように出来ているらしく、すぐにその場所は分かった。

建物に近く、影になっているせいで少しだけわかり辛いが、大体の場所が分かれば発見は難しくない。


しかしそこに辿り着いてから、既に20分ほど二人は行動できずにいた。


「くそ……」


イライラと焦りから歩き回っていたロランドはもう一度街の方を見た。


「遅い、ですね」

「……もう20分だぞ、何してる」


一週間分ほどの食糧とその他生活用品を拝借して、街の外へと続く洞窟に着いて20分。

ロランドやスミレならともかく、九十九ならば街を10往復は出来るほどの時間だ。


「────……」


違和感が消えない。

恐怖なのか焦燥感なのか、とにかくこの場に居ても立っても居られないほど何かがロランドを内側からせっつくのだ。


(……行くか? 様子を見に)


頭を過るその考えを、しかし首を振って頭から追い出した。

こんな街の状態で、スミレを一人にできる訳がない。


「……ロランドさん」

「あ、ああ、すまんな」

「私の事は、気にしないで下さい」


少しだけ驚いたが、スミレが勘付かない訳もなく誤魔化すための言葉を吐こうとしていた口を閉じた。


「だって、九十九さんが命を賭けて戦ってくれています」

「……ああ」

「ロランドさんがその助けに行かれたら、それもまた命がけになる事は分かっています」


たどたどしく、いや、恐る恐ると言った風にスミレは続けた。


「守って貰ってばかりの私がこんな事を言うのはお門違いなのはわかっています。でも、戦ってもいない私が危険だからと言う理由で、その……」

「……ああ、いいよ。よく分かった」


スミレの頭に手を置いて、言葉を切った。


「大丈夫だよ」

「え……」

「あいつを心配する事ほど意味のない事はないさ」


改めて考えてもみろ。あの九十九だ。

あれをどうにかできる存在などそうはいるものか。九十九も勝てないとは言っていたが、自分より強いと言っているようには見えなかった。

どちらかと言えば、何か理由があって戦えないとでもいうような──。


「……気になる癖に」

「うるさいな」


確かに、気にはなる。と言うよりはやはり違和感を感じるのだ。


まるで分厚い空気の壁が音を遮断しているのかと言うほどに、街は静かだ。

思えば見てはいないのだ。

今まで滞在した街が壊滅している光景も、盗賊に成り下がった戦士団も、自分達を狙う何かも。


"慌てふためいて街に降りれば、のんびりとした街の人たちが何事かとこちらを見やる。そして、なんだ、何でもなかったのかと安どの溜息を吐く。"


それが真実なのではないかとさえ思った。


(……まあ、本気じゃあないが)


世界が一瞬で崩れる事を知っている。

誰が死のうが、実は世界は揺るがない事を思い知らされた。


幾度か感じた悪寒が、今だ背中に残っている。


(思えば、ずっと感じていた)


街を離れる度に、何故か何度も悪寒を感じたのだ。あの商業団ごと襲われた最初の街から──。



「────最初……?」



これだ。

違和感の正体に思考が触れた。


何だ、何だ。

そうだ、あれが最初ではない。もっと前に、あの悪寒を感じていたはずだ。


「ロランドさん──ッ!」


スミレの金切り声に、はっと顔を上げた瞬間。足元に表れた影と、そして頭上から降ってくる気配に気が付いた。


一も二もなくスミレを突き飛ばし、その場から飛び退く。

瞬間、先程までいた場所に振り下ろされたサーベルが突き刺さった。


刃が届かなかった事に舌打ちして、サーベルを持つそいつはスミレとロランドの間で立ち上がった。


「……見つけたぞ」

「お前、何で……!」


ありえない姿があった。

とは言っても、件の街を壊滅させる化物ではない。

知り合いではあるが、名前も知らない。そこにあったのは先程、死んていたはずの顔。


町長の用心棒である女だ。

先程、体をぐにゃぐにゃに折りたたまれて死んだはずの女である。


「──貴様等、よくも」

「……な、なぜ、生きてる。確かに、死んでいたはずだ」

「黙れ、厄災共が」


どうも会話をするつもりも、生きている理由も教えてくれるつもりもないらしい。

しかし解せないのはもう一つ。この女がこちらに向ける目だ。


──ちらりと、女は背後のスミレを見た。


「スミレ! 先に行け──!」

「でも──!」

「足手纏いだ、さっさと消えろッ!」


スミレに賭ける言葉を気遣っている暇すらない。

刀を抜き放ち、女へと切りかかった。


女もまたもう一振りのサーベルを抜き放ち、それに応じた。するりと"九十九別つ"はサーベルを両断する。


「な──っ」


どんな分厚い鉄の塊でも両断する"九十九別つ"は分厚い大剣を持った相手にはほぼ一撃必殺だ。

正面から受け止められればそのまま脳天から掻っ捌ける。


「ち……」

「……成程。道理で素人がそれなりに戦える訳だ。その刀の力か」


しかしサーベルなどで相手の攻撃をいなすような武器だと、必殺には届かない。


「ならば、正面からでは分が悪いな」


しかしそれでも、敵の武器を破壊できるのは大きい。

女は舌打ち混じりに半分の長さになった剣を捨て、地面に突き立てた方の一振りを手に持った。


しかしふと気づく。

彼女から戦意と言うものをまるで感じないのだ。その証拠とばかりに、彼女は肩越しに背後を見やった。スミレが先に向かった岩窟を。


「逃げる気か──!」

「私は狩りが得意でな。怪我をした獣の牙の鋭さも、子を守る獣の獰猛さよく知っている。それにあっちの方が人質としては都合がいい」


女の視線はロランドの腹、足、肩を見ている。少し動いただけなのに、包帯の上からじわりと血が滲んでいる。


意識をすると、じくりじくりと痛みが戻ってきているのが分かった。


女が背を向けて洞窟に入った。

何か考えるより早くそれを追って走るが、右足は引き摺っている。どんどんとその背中が闇に薄れていく。


「っぐ、ぁ……ッ!」


ぐちゅり、と脇腹の辺りで嫌な音がした。

鋭い痛みと、吐き気、じわりと口の中に血がの味が広がる。

あのチンピラの一人に金づちで思い切り殴られたところだ。

腹の中の状態を想像して、眩暈が始まる。


「……くっそ」


しかし、ロランドは止まれなかった。

足をもたつかせながら、肩で息をしながら、ひた走りながら、懇願するように叫ぶ。


「くそ、くそ、くそおッ! 何やってんだ俺はァ……!」


スミレを行かせるべきではなかった。あの女がスミレを狙うとは思わなかったのだ。


(落ち着け、落ち着け……!)


走りながらもなんとか呼吸を整え、ゆだった頭を洞窟内の冷たい空気で冷やす。


「おかしい、何か……!」


あの女の目的は、俺達の助勢。

ならばなぜ街が今にも滅びそうなこの状況でスミレを追うのか。


どこかにスミレの身柄を隠せるのなら、交渉材料にも使えるだろうがアスタロトの兵が攻めてきた今はもう無理だ。


いや、それはいい。

全く別の企みがあるのかもしれないし、錯乱している可能性もある。


違和感はそれじゃない。


『この、厄災共め』


──一瞬、呼吸が止まった。


そうだ何故、あの女は、知っているのだ。




    ◆




"それ"は、山と積み上がった死体の傍らで、くあ、と欠伸をした。


街は滅んでいた。

人々は血と臓物を撒き散らし、苦悶の表情で死んでいた。


街の外れに空き家を持つ男は死んでいた。

息子夫婦を失くしたギルド会館所有の老婆は死んでいた。

アスタロトより来た戦士団の長は死んでいた。


いつも通り、何の障害もない。


殴れば拉げて死んだ。

蹴れば潰れて死んだ。

爪を立てれば裂けて死んだ。

吹けば飛んで死んだ。

触れれば弾けて死んだ。


理不尽で、相容れず、暴力で、静寂で、純然で、必然だ。

嵐と死を足して足して重ねて重ねて、人の形に押し込めて命を吹き込めばこの怪物が生まれるだろう。


それが通った後に残るのは、静寂と、死肉と、街並みだけ。


もしかすれば、それは純然とした光景ですらあったかもしれない。

パシャパシャと朱い水溜りを跳ねさせる様は、泥遊びに夢中になる子供のそれだ。


ぱしゃぱしゃぱしゃ。

とんとん。


偶に血を跳ねさせ、偶に跳んで避けながら、"それ"は進んだ。


さっさと街を滅ぼしてから、町長邸へとたどり着く。

手には何か持ち、くるくると回したり投げて取ったりして弄んでいる。


ただの手帳である。更に言うならば、ロランドが旅をするにおいて残した手記だ。


それは手記をしまい、扉を開いた。


「ん……?」


男が一人いた。ロランドと話していたあの兵士だった。


「なんだ、お前まだ──」


三の句を継ぐ前に、男は"それ"に触れられた。首が四回ほど回転し、小さく無い図体は茂みに突っ込んだ。


ぴくりぴくりと滑稽にひくつく足が茂みから突き出している。

それを蹴やるように足で茂みに押し込む。足先で骨と肉の拉げる感覚。


茂みから自分の足を抜いて、汚れを確かめて、"それ"はまた歩き出した。


迷う事はない。

ただここで、一瞬"それ"は表情を変えた。


とん、と軽く地面を蹴ると、たやすくその体は屋敷を超えてその裏手へと着地した。


些細な戦闘の跡、地面に捨てられたサーベル。


そして、点々と続く血の跡が洞窟に続いているのを、"それ"は見た。



   ◆




スミレは一心不乱に駆けていた。


置いてきてしまったロランドはどうなったのか。

街に行った九十九は無事なのか。

幾多にも道別れしているこの洞穴。果たして今、正しい方に進んでいるのか。


どれか一つでも考え込んでしまえば、足を止めて、更には戻ろうとしてしまいそうだった。


戻ってもしょうがないし、それにもう戻れはしない。

今できる事は、敵の手中に落ちない事。

分かっている。分かっているがきっと、考えてしまえばあの人達の元に駆け付けたい衝動に駆られてしまう。


「……っは、は」


しかし、それももう体力の方が限界だ。


「水の匂い……」


どれぐらい来たのだろう。

奥に進むたびに道は険しくなっていった。


もうこの辺りは随分鍾乳洞の様な景色を呈し、道幅も狭くなっている。


だから、何となくふらつく足が向かったのは水のある方向。

ひり付くように乾く喉が、酷く疼いた。


「地底湖……?」


ここまでの道は苔すらまともに生えていないつるつるとした岩肌だったが、ここは少し違う。

湖の上の方に少しだけ苔が生えていて、上の方に光を飲み込むような洞穴があった。

恐らく、外に繋がっているのだろう。


水をすくって、一口だけ飲み下した。

体中に水分が行き渡る。


「実を言うと、この洞窟はさして迷宮染みている訳ではないらしい」

「────ッ!」


弾かれるように、振り向いた。

隠れる風でもなくそこに用心棒の女がいた。それどころか警戒している風もなく、湖を眺めながらこちらに歩み寄ってきていた。


「君に危害を加えるつもりはない。人質としての価値がないからな」

「どうして、こんな、私達は──……!」


ひやりとした女の視線に、スミレは言葉をつっかえさせた。

見定める様な目だった。しかし同時にうんざりするような嫌悪感も滲ませている。


「では、何故だと思う」


故に、その口から出てきた声は酷く剣呑な物だった。怯みかけるが、スミレも強く声を出す。


「それは、街の防衛に九十九さんやロランドさんの力を貸させるために──……ッ」

「は、はは。哀れだな君達は。崩落しかけている世界の中で、君達だけが楽観的で哀れで、場違いだ」

「っ──?」


彼女は一瞬だけ同情の念を滲ませた後、視線を逸らした。


「……私はたとえ殺されても一定時間たつと蘇る、そう言う魔法だ。祖父が同じ能力だったから恐らく頭部を損傷すれば死ぬがな」

「え……?」

「そして私は死に、私を殺したそいつは私が息を引き取る直前、暑苦しそうに嵌めていた仮面を取った」


スミレはこっそりと辺りを盗み見た。そうすると天井と女とスミレが入って来た穴の他に、もう一つ抜け穴を見つけた。


「──貴様等が今まで通ってきた町や村を当ててやろうか!」


女は狂人のように上擦った口調で、街や村の名前を歌い上げた。

それは確かにスミレ達が通ってきた街と一致している。


「そしてまた、それ等は全て壊滅している」

「だ、だから、私達は──……!」


──あれ、と。

ふと、スミレは違和感に気が付いた。


「だから? 私達は? まさか、何故か村や町を滅ぼしながら自分達を追ってくる怪物から逃げている、か?」


その事自体がおかしい訳ではない。そういう事もあるだろうしかし、それ以前にそもそもとして考えなければならない可能性があった。


「……その怪物は、大きな町を襲い、短時間で、それも一人も逃さずに隠れさせずに殺し尽す別次元の化物だ」


スミレの視線はいつの間にか女へと釘付けにされていた。

目を離せない。考えも廻らない。ただ呆然と女の言葉を待っている。


「なあ、最後だ。最後の質問。──もし、仮にだ」


女はすらりと剣を抜いた。

そして口の端を曲げるようにして無理矢理に笑みを作りながら、こちらへと歩み寄ってくる。


「もし仮に一人。古龍を何十頭も一瞬で殺せて、どんな盗賊団も兵士も腕の一振りで薙ぎ倒す。そんな化物がいたとして」

「────……っ」

「もしそいつが仮に。……さっきの怪物と同じ時期に、同じ道順で、同じ街を通っていたとして、だ」


目の前で、女は立ち止まった。

刃物が首下に宛がわれる。しかし、それでもスミレの目は女から離せなかった。


「その怪物達が、本当に、二人だと思うのか?」


何故ならば──。

どんな剣より兵器より、彼女が言わんとしている事は危険で鋭利で恐ろしい物だと無意識に気付いていたからだ。


「──別人なわけが、ないだろうに」

「え、ぁ、え……?」


その言葉は耳に入って来た。ただ誰かが頭の中で必死にその意味を否定する。


「この街を呑み込もうとしている怪物は──」


──瞬間だった。


女の顔が潰れて拉げて、吹き飛ばされた。



「ぇ」



"顔だけ"だ。

残った胴体は洞窟の岩壁の染みとなった顔を探すようにぎこちなく動いた後、力を失って倒れ込んだ。


地底湖に落ち、沈んでいく。


呆然としたまま、スミレは頬に飛んできた何かを手の甲で拭った。

血だ。どろりと、それはスミレの顔と手を余計に汚す。


真赤になった手の平を見て、ようやく、目の前で人が死んだのだと理解した。


「大丈夫か、スミレ」


悲鳴を上げようとしていた。

しかし背後から聞こえた声に、喉は、体は、震えさえ忘れて凍り付いた。


「九十九、さん……」

「いや焦った焦った。こいつ死んでたはずなんだけどな、魔法ってのは本当に常識外れで面倒だよ」


いつもと同じ開けっぴろげな口調に、砕けた態度。

ただ、それに今はなぜか恐怖を覚えてしまう。


「ロランドの奴は?」

「その、はぐれてしまって」

「そっか。まあ近くにいるだろ。探しに行こうぜ」


そう言って、九十九は一歩スミレに近寄ったが、スミレは一歩も動く事が出来ない。

九十九の顔に釘付けになっていた。


「……なあ、スミレ」


スミレにとって九十九はとても正直な人だった。


本当の事ばかり言うという事ではない。


「もしかして──」


嬉しい時には笑って、不満な時には口を尖らせて、眠い時には言葉より先に大欠伸。

これが本当に"表情"というものなんだろうと、いつも思っていた。


「──なにか、聞いたか?」


だから、思った。

──ああ、これが、この表情が、"目が笑っていない"と言うのだと。


言葉が詰まって、声が出ない。

ゆっくりと、九十九はこちらに近寄って、またゆっくりとこちらに手を伸ばした。


「どうして」


ぽつりと、そんな言葉が独りでに口から零れた。

ぴたりとこちらの喉元に伸びていた手が止まる。


二人の視線はしばし交錯して、そしてやがて九十九が表情を変えた。


「そうか」


じわりと涙で視界が滲んで、九十九の表情は見れなかった。

ただ、止まっていた手が動いてスミレの首に触れる。


龍の鱗すら綿毛のように押し潰す万力の指。

少し力を込めるだけで、何の抵抗もないほどに、スミレの首は千切れてしまうだろう。


逃げられない。

散々九十九の力を信じて頼って来て、それなのに立場が変わった時だけ都合よく過小評価するのは不誠実に思った。

逃げられはしない。

蟻と巨像よりも、二人の身体能力には開きがある。


だから、出来たのはもう一言を発するだけ。


「どうして……?」


ぴくりと、もう一度、九十九の腕が止まって──。


──同時、もう一人の気配が九十九の背後から飛び込んできた。


「九十九ォオオオオオ──!!」


それは、おおよそ人の動きではなかった。

15メートルほどある距離を一息で跳躍し、それも天井に着地した後、再び跳躍し雷のごとく九十九の頭上に下ったのだ。


九十九はそれを後ろに飛んで避け、その誰かはスミレと九十九の間に着地した。


「よう、ロランド」


その名を、九十九はただ口にした。

仄暗い、世界に開いたウロの様な黒い瞳が、ロランドを見据えている。



お休みしていた理由などは活動報告の方に書かせていただきます

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