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ハイイロ ノ カナタ  作者: mild
第三部
263/281

閑話 七十二

すいません、遅れました。


『私の初恋の人? 変な事聞くのね』


 だって、となりのおじいちゃんが言ってたんだもん。

 お母さんは、可愛そうな人だって。ヒレンの人だって。


『うーん、あのジジイめ……』


(私は、母さんの茶目っ気によくけらけらと笑っていた気がする)


 ね、どんな人なの? 王子様みたいな人? かっこいい人?


『うーん、そうね、幼馴染なんだけど。普通の人よ』


 えー。


(口ほどに不満だったわけじゃなかった。お母さんはお父さんによく怒鳴られていたけど、でも、私と話すと元気になってくれるのが分かったから。嬉しかった)


 普通の人は嫌い。強い人が好きだわ。

 本当よ? こないだムーイくんをふってやったの。泣き虫は嫌い。


『どうかな。ホントにスミレはお母さんに似てるから』


 じゃ、もうちょっと教えて。


『えー』


 えー。


『ふふ』


 あははっ。


『もう、しょうがないな。……そうね、弱いのか強いのかよく分からない人だったわ』


 ……よく分かんない。


『でもね、本当は弱くて、でも強い人だったの。素敵でしょ』


 ぜんぜーん。


『あら、生意気ね。じゃあもう少しだけ話してあげようかな』


 えへへ。


(母さんは楽しそうに話しはじめた。楽しそうに、私は後悔する事になるとも知らずに、お母さんの表情を見て喜んでいた)


『名前はね、ロランドって言うの──』





    ◆




「着いたぞ、起きろ」


 目を覚ますと、馬車の揺れはいつの間にか止まっていた。

 目の前には巨大な影。びくりと体を跳ねさせるが、それは荷物を抱えた九十九だった。


「寝ぼけてんのかスミレ」

「……あ、いえ」


 何となく、スミレは"その姿"を探した。

 丁度馬車から降りる所で、顔は見えなかった。多分、健康かどうかだけを一瞥だけしたのだと思う。


「しかし、今度は随分個性的な街だなぁおい」


 馬車から降りると、暗がりの中にぼんやりとした灯りがあった。

 街の物よりは頼りない代わりに、温かそうなオレンジ色の光だ。


 馬車の傍ら──、この村の入口には古龍の首が転がっていた。


 閉鎖的になっている町や村は多い。そう言う時にこれを見せると便利だと気付いたのは1か月にわたる旅によって得た知識だ。


 戦力になる人間は多少身元が分からずとも受け入れてくれる。もちろんそうでない時もあるが。

 この村は幸いにも前者であるらしい。


 巨大な岩山に、これまた巨大な窪み。それによって出来た天然の天蓋にすっぽり嵌まるように街はある。

 そびえ立つ真新しい丸太の外壁が外敵はおろか、陽光や風をも弾いてしまうだろう。


 でも、広大だ。


 きっと掘り進んだのだろう。

 岩を削って広げた街並みは、だだっ広い岩窟のようで奥の方にはきっと、ほんの少ししか風も光も届かない。


 しっとりと苔むしたような、仄暗い街並みだった。


「宿は潰れてるそうだ。だが、持ち主に金を払えば家を使って良いと」

「家っつうか山小屋だな」

「ベッドも灯りもある。十分だ。今日はもう休もう。話は明日だ」


 羽休めの枝として選んだのは、村の外れの今は住居人のいない古ぼけた小屋。

 スミレは荷物を抱える二人に続いて、小屋に向かった。

 きっと今晩見るであろう、あの夢の続きを思い憂鬱に浸りながら。




    ◆



「あと2つだ」


 大分、空気が冷たくなってきていた。

 季節が移ろったのではない。北の大国アスタロトに近付いてきたのだ。


 とは言え時間もかかった。

 本来のルートを何度も迂回したし、何日か足止めを食らう事もあった。


 しかし、もう後もう一つ街を経由して、それで終わる。

 あと一週間も経てば、アスタロトに到着している事だろう。


「今まで通った街は全部で16か」

「迂回もしたからな」


 とんとん、と余計に立ち寄る事になった町々を指で示した。


「んで、いつ出発すんの?」

「そうだな。食糧と日用品を買い揃えて、明日には出よう」

「じゃあ、遊んできていい?」

「ああ。せっかくの大きい街だ。ゆっくりしてくれ」


 聞くが早いか、九十九は文字通り窓から飛び出していった。


「……私、食事の用意をしてきます」


 いつもの様に。

 九十九が気紛れに姿を消すと同時に、スミレが席を立った。


 ロランドは二人きりになるのを避けてきた。

 だからだろう。いつの間にか、スミレも自らそうするようになったのだ。


「済まない、待ってくれ。話がある」


 しかし、今日は呼び止めた。

 スミレは弾かれるように振り向いた。その時の表情を見るのを避けるように、ロランドの視線は用もない地図に向きっぱなしだった。


「アスタロトに着いてからの事だ」


 出来るだけ簡潔に、言葉を選ぶ。


「アスタロトに着いたら、命の屋根の工房という工房に行ってくれ。俺の名前を出せば面倒を見てくれる」


 それから、と机の上に金貨の入った巾着袋と、そして工房に向けた手紙を置いた。


「これは当分の金と、紹介状だ」


 アスタロトでこの集団は解散する事は分かっているはずだ。

 直接言った訳ではないが、九十九との会話を隠しもしなかったから察しているだろう。


 用意したしばらくの沈黙は、質問か何かがあるかもしれないと言う配慮の時間。


「あの、ロランドさんは──」

「俺の事はどうでもいい」

「ど、どうでもいいって……」

「俺は村に戻る。今は居心地も悪くないだろう」


 とにかく、忘れていい。

 そう言って、また少し待つ。

 予想通り、それはただの気まずい沈黙として過ぎ去った。よし、とロランドは顔を上げた。


「食事は買ってくる。君も疲れただろう。今日はゆっくり休んで──」


 いつものように、彼女の様子を一瞥だけして部屋を去ろうとした。

 そして、丁度彼女の頬を涙が伝う瞬間を見た。


 目を見開いて立ち尽くすロランドを見て、スミレは初めて自分の涙に気付いたようだった。


「あ、あれ」


 涙を拭いて、目を擦って、でもそうする度に涙は次々と床に零れるほど溢れる。


「ご、ごめんなさい。いえその、違くて……」


 やがて、一瞬だけ取り繕うように笑おうとしてから、くしゃりと表情が崩れた。


「ぁ──っ」

「な……」

「ごめ、ごめんなさ──……っ」


 止める間もなかった。

 気付けば目の前からスミレの姿は消えていて、玄関を開けて外に走っていく足音を聞いていた。


「あー、あー、泣ーかした」

「……うるさいな、仕方ないだろ」


 いくらなんでも急すぎたか。

 誰も知り合いがいない街で、見た事もない国で一人で生きていくのが辛い事は分かっている。


 元々いたのか、それとも偶々戻っていたのか。

 窓からひょいと部屋に入って来た九十九は、躊躇いなく言った。


「お前がスミレの初恋の人なんだとさ」

「……は?」


 また馬鹿がバカな事を口にしている。最初はそんな風に思った。


「何言ってんだ、お前……」

「いやマジだって」


 しかしいざ九十九の顔を見てみると、いつもの茶化すような雰囲気はまるで見えなかった。

 だから、真面目に溜息を吐く。


「この一か月でそんな事を思う暇はなかっただろ。それにあの娘も17だ。色恋の一つや二つあったはずだ」

「いやだから、昔の話だろ?」

「俺は二十年以上村には帰ってなかったよ……」

「え、そうなの?」

「何が言いたいんだよ、お前は……」

「ま、とにかくそうらしいぜ」

「……だから、なんなんだよ」


 少し言葉に苛立ちが混じった。

 不快だった。色恋だと? この時代にこの状況に、そんな物に囚われるのは見当違いだ。


「見当違いか?」

「……ああ。おまけに不謹慎で、幼稚だよ」

「そんなもんか」


 九十九に苛立ちをぶつける無意味さを思い出して、肩の力を無理矢理抜く。


「でもな、人には歴史があるもんだ」

「……?」

「ゴミみたいなもんを、宝物みたいに握りしめてる奴もいるって話さ。そう聞いた」

「……それは──」


 とんとんと、控えめなノックの音がロランドの言葉を止めた。

 九十九に視線を送るが、何も知らないらしく肩を竦ませる。


「どうぞ。開いています」

「失礼します」


 敷居を跨ぐ前に一礼して、部屋に入って来たのは二人。

 随分小奇麗な格好をした壮齢の男に、それに追従する女の従者。女は軍刀を差していて、その身のこなしからも護衛だろう。


「ここ岩窟街マルドゥークの統括をしています。ミルドルドと申します。本日は少しお聞きしたい事がありまして参りました」

「聞きたい事?」

「はい。聞けば、この時代この世界を未だ旅してこちらに参られたのだとか」

「……ああ、外の様子ですか」


 柔和な笑みが張り付いたような男だった。

 もはや胡散臭さを隠そうともしないのは、彼にとっても今は予断を許さない状況なのだろう。


「もはやこの街も孤立無援です。旅人や行商人の足も遠のき、近くの畑は盗賊が荒し、龍の姿も目撃されています」

「それで」

「備蓄はまだございます。ですが孤立無援故に後に続く物がございません。そこで先日、アスタロトからの保護勧告を受け入れる事に致しました」


──聞けば、街からの保護となるとほとんどの財産と物資、食料を徴収されるそうだが、それでもいつ龍に滅ぼされるか状況よりはマシという事か。


「話は分かりました。それで、私達に何を求めていらっしゃるのでしょう」

「貴方方が同じくアスタロトを目指しているという事。そして五千年級の古龍の首級をお持ちだという事を耳にしました」

「……はい。確かに」

「私たちの出発は4日後です。どうかご同行の上、道中そのお力を貸していただけないかと、馳せ参じました」


 言い終わると、深々と頭を下げてそのまま頭を上げようとしない。


 とは言え、ほとんど戦うのは九十九に任せきりだ。

 どうする、と九十九を見ると"いんじゃね"とばかりに肩を竦めた。スミレは恐らく何も言わない。こちらに任せるだろう。


「……分かりました。少し食糧を分けて頂けるのなら」


 そう言うと、男はもう一度深々と頭を下げて礼を言い、去っていった。


 しばし、考えを巡らせる。


「どうした?」

「いや……」


 胡散臭い所はあったが、特段おかしい所があるようにも聞こえなかった。しかし、一つ引っかかる。


「何で今更避難するんだろうな」

「そりゃお前、でかい街だしな。意見がまとまらなかったんじゃねぇの?」

「何でまとまったんだ?」

「……きっかけがあったはずだな」


 ポリポリと頭を掻く。やがて、よし、とロランドは外套を取って玄関に向かった。


「少し街で話を聞いてくる」

「スミレはどうする?」

「まだ朝だし、ここはそう治安も悪くないし……。見かけたら一緒に行動してくるか?」

「えー」

「頼むよ」

「分かったよ。俺がやるんだからお前もそうしろよな」

「あ、ああ」

「まあ美人だから、一緒に歩いて損はねぇな」

「そうだな……」


 財布の中身を確認して、家を出た。

 何となく何十年も変わる事のない空の青さを見たかったが、岩の天蓋が邪魔して見えなかった。





    ◆




「もう旅人も行商人もいないからなぁ」


 買い物をしながら街を歩き回って話を聞いてみても、先ほど聞いた話以上のものは出てこなかった。


 必要なものは全て揃えてしまっている。理由もなく街をぶらつく様な気分にはまだなれない。


「ん?」


 そうすると、ふとある建物が目に入った。


「ギルドか……」


 入り口から中を覗いてみるが、まるで人の気配がしない。

 この冒険者ギルドは、龍の襲撃に伴って閉鎖された。

 

 国によって兵力が徴用されることを見越してのことだろう。

 よくもこうきっぱりと判断を下せるものだ。

 どれだけの人間が職を失い、どれだけの金貨が費やされたのか想像もつかない。


「ここはね、これで良かったのさ」

「……っ」

「驚かせたかい。すまないね」


 ギルドに入ってすぐの場所に老婆が座っていた。


「さて、何か用かね。茶も出やしないが」

「貴方はこの町に長いんですか」

「そうさね。人に勝っているのはそれぐらいだよ」

「では、この町で何か大きな出来事はあるませんでしたか」


 ふむ、と老婆は唸った。


「大きい出来事ばっかりさ。ギルドの解体もそう、街を捨てる選択もそう」

「その、街を捨てる選択に至った理由が知りたいのです」

「何でだろうね、私も知りたいよ。でもね、やはり人の不安がそうさせたものなのは、きっと間違いないよ」


 ふ、と老婆は寂しそうに笑った。


「育った街も、記憶が染み付いた家も、価値観ごと壊されてしまったよ。おまけに息子夫婦も食い殺されちまった」


 私はもう、なんのために生きてきたのか分からなくなってしまった。

 そう老婆は言って、泣きそうな表情で笑った。


「すまないね、本当は私が話を聞いて欲しかっただけみたいだ」


 見ていられなくて、室内を見渡した。

 散乱した食器、外れかけたカーテン、机や壁の落書き。


 この老婆がギルドの何なのかは知らない。

 でも、この人は長く生きてこれら全てに触れていて、一つ一つに誰かとの記憶があるのだと思うと、こちらまで泣きそうになった。


「……いえ、ありがとうございました」


 老婆に礼を言ってから、外に出た。


 生きてきた意味。

 そんな物はない。

 でも、今生きている意味。その言葉を思うと同時にスミレの顔が浮かんだ。


 自覚していたので驚きはしなかった。

 10年以上過ごしたアスタロトにも愛着はない、故郷も家族も死に絶えた。


──たった、たった一つだけ。最後に、残ってくれたものだから。





「うおっ」



 目の前にまた、いきなり食べ物が詰まった袋が二つ現れた。

 そしてその間からにかっと笑った顔がこちらを覗いている。

 意味が分からない、いきなり出てくんなよ。びっくりするから。


「スミレ見た?」

「見てないよ」

「ホントかよ?」

「ほんと──……」


 びくん、と。視線の先に目をぐしぐしと擦りながら歩いているスミレを見つけて肩を揺らしてしまった。


「んん?」


 九十九は振り向いて、は、と楽しそうに笑う。


「……手前」

「いや知らんし。マジで偶然だ。丁度良いじゃねぇか」

「何がだよ」

「空気悪ぃだろうが。さっさと打ち解けろよコミュ障が」

「何言ってるんだ、お前に空気が読める訳ないだろ……?」

「なんてこと言うのお前……」


 これは背中か何かを押しているつもりなのだろうか。

 ああいや、あれだろう。人の恋路やらを見て煽りたくなるあれ。本当に、このクソガキめ。


「……俺も最近気づいたが、問題は俺の方じゃない」


 滅茶苦茶切れのある動きで全く意味の分からない動きで不思議なほど苛つく動きをしている九十九を押し退けた。


「つまり?」

「あの娘が問題を抱えてるなら、解決してやりたいとは思うよ。多分色恋なんかじゃないしな」

「だからぁ、人には歴史がだなぁ……」

「分かった分かった」


 スミレから目を逸らさないまま、小さく息を吐く。

 彼女を守るという事は、きっと自分を助ける事に繋がる事だ。

 それがただ自分を、自分の罪悪感を慰める行為になってしまうようで、恥ずかして悔しかった。


 だから、深入りは避けた。

 でもなんとなく、今はそれもどうでもいい。きっと明日にはまた恥ずかしくなってしまうから、今日の内に。


「言っておくけど、ちゃんとこの後探す気だったからな」

「知ってるよ」


 だるそうに頭を掻きながら、スミレに近寄っていった。

 肩を叩く。


 びくりと震えて、こちらを振り返って。


「っ……」


 もう一度、びくりと震えて後ずさった。

 僅かな痛みと寂しさが胸を刺すが、俺ももう35。まあ、慣れたものだ。


「待ってくれ。そう警戒されても困る。何もしないから」


 そのまま走り去ろうとするスミレの腕を取って、引き留めた。


「泣かせて済まなかった」


 スミレはまた、怯えるように驚いて肩を震わせた。

 目を見開いて、こちらを見て、涙を滲ませて──。

 そして、奥歯を噛んで、涙を堪えようと眉根を寄せて、顔を逸らした。


 苦しそうな顔だった。

 優しく言葉をかける度に、彼女は苦しそうに顔を歪ませた。


「怒ってるのか」

「ち、ちがっ……」

「じゃあ話をしたいんだが、いいかな」

「それは、でもっ……」

「何でもいい。俺の態度への愚痴でも、九十九の悪口でも、今日食べたい物でも、九十九の悪口でも、九十九の悪口でも」

「おい」


 しっしと横槍入れる九十九を手で払う。


「それに、サクラの話でも」


 もう一度、最後にスミレは驚いて顔を上げ、そしてやはりすぐ悔しそうな恥ずかしそうな感情で表情を歪ませた。


(ああ──……)


 知っている。その顔はよく知っている。

 罪悪感と自責と自己嫌悪にさいなまれた顔だ。自分が嫌いで嫌いで優しささえ息苦しい感情だ。


「──ご、ごめん、なさい」


 いやそれは多分、自分など比較にならない。

 もしかしたら別物だと言えるほど、重くて暗くてそして日常のように傍にあり続けた絶望だ。


「ごめ、んなさい、ごめんなさい、ごめんなさい──……!」


 彼女は懺悔するように話した。

 サクラの事。その夫でありスミレの父である男の事。


 そして、その自己嫌悪を止められず、吐き出した。




   ◆




『また?』

『うん』

『スミレ、あのね』

『早く』

『うーん……』


 私が初めて好きになったのは、よく分からない人だった。


 絵本の英雄ではないし、父などありえなかったし、近所の子供達でもない。

 だから、よく分からない。本当はまだよく分かっていないのかもしれない。


 ただ、原因は明らかだった。


『その時ね、ロランドが言ったの。お前が勝てない男に俺がケンカで勝てる訳ないだろって。酷いでしょう? 私が涙目で頬を赤く腫らしてるのによ?』

『うん』


 何となく、話のオチは分かった。


『で、次の日全身ボコボコにされたロランドがアイエさんの診療所に担ぎ込まれたの』

『うん』

『それでね、それはまあ良いんだけど。いや良くはないんだけど、その時は取り乱したし、でも結局大事には至らなかったからね。とは言ってもね──』

『お母さんを殴った人は、次の日も普通に出歩いてた』

『あら、もう話したかしらこれ?』

『ううん。何となく』


 でも、母を殴ったその男は母のよりもほんの少しだけ大きい痣を顔の真ん中にこしらえていたらしい。


『相変わらず、ロランドさんは格好つけれないね』

『ウソ。そんな事思ってないくせに』


 立ち上がると座った母の頭が胸の辺りに来る。

 でも母が手を伸ばすと、簡単に頭を撫でられるぐらい。それぐらい私は成長していた。


『ほら、行ってきなさい。今日はお裁縫習うんでしょう?』

『うん。帰ってきたら、また聞かせてね』


 そう言うと、母は苦々しそうに笑った。


 でも知っているのだ。

 母は最初こそ恥ずかしそうに言い渋るが、一度話し出すと彼の悪口も褒め言葉も止まらなくなる。


 普段見ないぐらい楽しそうに笑ってくれる。

 

 だから、あまり気兼ねせず、話す事が無くなるとすぐねだって話して貰った。

 何度も何度も。



──だからこそだ。

 "気付いた"時に、絶望してしまったのは。



 ロランドさんは不器用で不愛想だったけど、母が好きになるのも分かる人だ。

 母は明るくて強くて綺麗で、誰からも好かれる人だ。

 その二人から出来上がるストーリーに、いつからか自分を投影してしまったのだろう。


 いつのまにか私はロランドに恋をして、だから、あんな父と結婚してしまった母が信じられなかったのだ。

 こんな村に縛られている意味が、理解できなかった。


 だから言ってしまった。

 母がまた、顔を腫らして、でも、笑っている時に。


 ロランドさんの所に行って、と。

 母は少しだけ驚いて、少しだけ悲しそうな顔で、少しだけ笑って、ごめんね、とつぶやいた。



 それきり、母はロランドの話をしなくなった。





──そしてそれからすぐだった。

 ロランドと母の、結末を耳にしたのは。


 酔っぱらった父が、家に仲間を集めて酔っぱらいながら大声で暴露していた。

 己の武勇伝を恥ずかしげもなく。

 母を無理やり襲って、それに激昂したロランドを雇った人間集団でリンチにかけて、襲われたと理由をつけ、村から放逐したこと。


 視界が真っ赤になった。

 殺してやるとナイフを持ち、扉を開け放とうとして、そして、聞いた。



──そういえば、結婚する前に奥さんお腹膨らんでましたね。

──ああ、そん時にな。まあ、前から狙ってたからいいんだよ。



『───……?』



 がん、と意識にカナヅチを叩きつけられでもしたような衝撃を感じた。

 ぐるんと視界が回り、ナイフが手を離れて地面を転がっていく。


 なぜ衝撃を受けたか分からなかった。

 直感が悟ったけれど、理解がまだ追い付いていなかった。


 ゆっくりと、嫌が応にも、私の頭は物事を整理して行って──。



『ぁ────……』



 気付いた。

 だって、お母さんはロランドを愛していた。

 ロランドも母を愛していたし、別の男に汚されたからと母を見切るような人には思えなかった。


 別の原因。

 ロランドの心を踏み潰す理不尽で、母をここに繋ぎとめる楔で、二人を引き裂いた刃で、汚くて、悍ましくて、憎くて、穢らわしい何か。


 母は酒を買いに夜の中を走らされていた。

 父は、先程の話など忘れて、街で若い女を買った話をしていた。


 糞にも劣る汚らしい娘は、表情を無くしてその場にへたり込んで泣いていた。





    








「それは違うな」



──だから、まずロランドは第一声で否定した。



 ほとんど話を遮るような否定だった。


 場所は、先程の老婆に借りた元ギルド会館の中。

 驚いて目をまん丸にする彼女を傍目に、老婆が作ってくれた果実茶をすする。



 吐き出した彼女の懺悔は、本当に吐瀉物の様だった。

 吐いている間は苦しくて、汚いのは分かっているのに止められなくて、でも吐き出してしまえば、とりあえず涙は止まる。


「で、でも、もし私がいなかったら」

「まあ俺とサクラが結婚してたかもしれないが。仮定の話をしても意味ない事は言わなくても分かるよな」


 サクラが隣にいて、都合の良い事にその間にスミレもいて、家があって、そこには両親も兄もいて。

 そんな情景が少しだけ浮かんだが、微笑ましいだけで現実的ではない。

 現実にならなかった原因なのは、スミレではない。


「間違ってるのは君の感情だ。自己嫌悪する意味が分からない」

「え、え……? でも、だって……」


 スミレは興奮気味に困惑していた。まだせっかくのお茶に手を付けてもいない。


「俺は感謝している。君がサクラの中に生まれてくれた事も、こうして生きていてくれる事も。絶対に嘘じゃない。一欠けらも嘘はないんだ」

「っ……」

「もちろんあの野郎の方に生き写しだったら叩っ斬ってたけどな」


 場を和ませるつもりの発言は、ちょっと不謹慎だったかもしれない。

 話をはぐらかさないでくれと、大きなくりくりとした目が訴えている。次に行こう。


「話を聞く限りだと、君はサクラを愛してくれていたんだと思う」

「はい。大好きでした、大好きだったから──」

「そしてサクラも。ひょっとしたら君以上に君の事を愛していた。これも絶対だ」


 愛する人がいて、愛してくれる人がいて、それで幸せじゃない訳がない。


「サクラは叩かれても気になんかしないよ。ただ、一人になるのが怖い奴だったから。だから、本当に感謝してる」

「そ、んな……、そんなの……」

「サクラを愛してくれてありがとう」


 ぎゅう、とスミレの表情に力がこもった。

 泣くのを我慢したいのだろうが、一度できた涙の跡を伝って既にポロポロと頬を伝っている。


「でも」


 この場で最も大事なのはきっと傷つけない事ではない。


 傷付け会うための場だと言ってもいい。

 だから、大事なのは嘘を混ぜない事。

 だから、言わなければならない。


「俺が逃げ出したのは、サクラが子を授かったからだ。それはきっと間違いない」

「……っ」


 さっと、スミレの顔が青くなった。

 でも気丈に顔を上げて、こちらを見つめ返した。


 どんな罰でも受け入れますとばかりの顔が分かりやすい。

 予想は出来ていたので、ぽんと頭を叩くように二回ぐらい撫でて、離した。


「本当にすまない。俺が受け止めきれなかったせいで、君を苦しめた」

「──っ何で、そうなるんですかっ」

「……なるよ。そりゃあ、なるよ」


 その事実さえ俺が受け止めていたならば、きっとサクラもスミレも隣に居た。

 現実的じゃないほどの幸せが、きっとあったのだから。


 それは、自分が望む幸福の形だ。

 自分が彼女達を幸せにしてやれたかは分からない。だから口にはしないけれど。


「君がサクラの事を思うなら。すべき事は苦しむ事じゃない。謝らなくていいし、自己嫌悪なんて見当違いだ。君はただ──」


 サクラを愛してくれて。愛されてくれて。幸せにしてくれて。だからもう、後は──。


「君自身が幸せになる事を考えてくれるだけでいいんだよ」





       ◆




「君自身が幸せになる事を考えてくれるだけでいいんだよ」


 言葉を失って、ただ驚いて、目を瞠るしかなかった。

 すぐさま反論する事はできなかった。探せばきっと私の罪などいくらでも転がっているのかもしれない。

 ただ、お母さんが私を愛してくれていたのは疑う事も失礼なほど本当だ。


 だからもしかしたら、そうなのかと思ってしまう。

 気持ちが軽くなって、安堵して、ぼろぼろと涙が零れてしまう。


「……ずるい」

「は?」

「お母さんが私をどう思ってるのかなんて、本当は知らないのに……」

「いやいや、分かるよ」


 純粋に何故だろうと顔を上げた。


 実際には見ていないのだ。十年以上時間が経っているのだ。

 それなのに彼は私と同じほどに、お母さんの気持ちを確信しているように思う。


「それは、まあ……」

「それは……?」

「……あいつはさ、俺のこと随分色々言ってくれたみたいだけどな」

「……?」

「俺はあいつの十倍あいつの悪口言って、あいつの百倍あいつのいいところ言って、たぶん、あいつの一億倍ぐらいあいつの事、長く話せるだろうから」


 ぼそりと何となく口にしてしまってから、はっと気づいて彼は頬を少しだけ朱に染めた。

 本当に、母さんから聞いた通りだと。

 そう思った。


「……違います」


 そうすると、ふと、彼の言い分に不満を見つけた。

 私が幸せになるだけでいいなどという言い分に。


 脈絡の悪さのせいで、彼は混乱していた。かわいいな、ときっと母も思うのだろう。


「私の初恋、ロランドさんなんですよ」

「あ、ああ。聞いたよ。実際に会うと、こんなおじさんでがっかりしただろ」


 言いながら、彼は果実茶を口に運ぶ。

 聞いた通り。

 ごまかす時とか、焦っている時には手近な物を使おうとする。


 カップとの間に手を入れて邪魔をした。

 驚いて反射的に彼はこちらを見たので、無防備な唇に触れる程度のキスをした。


 一瞬の硬直の後、彼は椅子ごと引っくり返った。

 がばりと顔だけが起き上がってこちらを向く。


「な」

「お母さんの為に苦しむぐらいなら、幸せになった方がお母さんも幸せだ、って事ですよね」

「な、え?」

「さっきの話です」

「……あ、あ? ああ、あ?」

「でも、それじゃあだめです」

「ダメって何が……」

「ロランドさんが、入ってないです。ロランドさんの話は、ロランドさんだけ、のけ者です」

「ん、ん? えーっと、あー……。ちょ、ちょっと待ってくれ、混乱してるから──」


 混乱から覚まさせる気は無かった。

 引っくり返った彼の傍にそっと座る。

 

「がっかりなんてするわけないじゃないですか」

「ちょっと待ってくれ。わざとやってるだろ……!」


 龍が襲ってきて、父が死んで、母が私を家に押し込めて出て行って、でも帰って来なくて、怖くて、どんどん辺りが静かになって。

 獣の匂いが充満してきて、喉の鳴る声がして、窓に血がこびりついてて、怖くて、泣きそうで。


 そんな時に、颯爽と助けに来てくれたのに。

 ずっと何かある度に、傍で守ってくれているのに。


「がっかりなんてするわけ、ないじゃないですか」

「っ……」


 ごくりと、彼が目の前で息をのんだ。

 何故だろう──?

 ふと、自分の顔が上気している事に気付いた。私は今、どんな顔をしているのだろう。


「だから」


 何となくで口にしたくなくて、ゆっくりとつづけた。

 燃えるように恥ずかしくて、何度か言葉が詰まる。


「……だから、私はロランドさんと」


 彼は鈍い人ではない。

 何を言おうとしているか察したのだろう。表情をかちんこちんにして、顔を真っ赤にしていた。


「私は、一緒に幸せになりたいです」









      ◆







「……そんなっ、そんな馬鹿な!」


 岩窟街マルドゥークの長であるミルドルドはその書簡に記された一文目を目にして、早々にそれを床に叩きつけた。

 護衛の女が何となくそれを手にして拾い上げる。


 そして同じように限界まで目を見開いた。


「これ、は……」

「真偽がはっきりするまでは動けんぞ……っ。くそ、何でこんな事に……ッ!」


 ぐしゃぐしゃと固められた髪を掻きむしって、貼り付けた笑みなどどこへそので焦燥感を露わにする。


「……どうする」

「どうするもこうするもないだろう! 即刻出入口を封鎖しろ! アスタロトへの避難は一旦中止、当分は壁の外に出る事を禁止する!」

「分かった」

「クソ、くそ……ッ」


 爪をがりがりと噛みながら、ミルドルドは部屋の中をぐるぐると歩き始めた。


「ミルドルド」

「何だ……っ!」

「──こっちは、どうする」


 とん、と女は机の上に指を立てて示した。

 机の上に広がっているのは地図。世界の半分ほどを記した広い地図だ。

 幾つか手書きで何かが書き込まれていて、特に印象的なのは16個の大きな赤の×。


「────っ」


 親の敵のように爪を噛み千切り、ぎょろぎょろと目玉を動かしながらミルドルドは思考を巡らせる。


「あいつ等は──」


 ぎょろんと、ミルドルドの目が女に向いた。


「あいつら?」

「あの昨日の夜にこの街に来ていた三人組。あれはどうなんだ」

「古龍を狩っていた。ざっと4000年齢の龍だろう」

「はっきり言え!」

「……私がいたギルドチームは飛竜二体に壊滅させられた。4000年級の古龍だと、ざっとその100頭分の脅威だと言っていい」

「それを三人で狩るなど、化物だな」

「ああ。だが、こちらが避難を中止したとなれば、約束は無効だろう」


 そうだな、と、最初叫び散らすように聞いた割にはあっさりと爪を齧る作業に戻った。


 がりがり。

 がりがり。

 がりがりがりがりがり。


 歯軋りと爪を噛む音だけが続いて、やがて、ヒヒッとミルドルド破顔した。


「女がいたな」

「ああ」


 ひっ、としゃっくりの様な笑いを喉から漏らして、言った。

 たった一言、浚え、と。



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