虫
遅れました
ハルユキは例の"龍対策本部"で腕を組んで唸っていた。
「ふーむ」
龍との開戦問題。存在するであろう敵への内通者。神の血を騙る者。灰色の部屋。加速度的に上がっていく魔力。改善する気配もないユキネの態度。etc、etc。
割と頑張って働いているはずなのに、問題が増えていくのは何故だろう。
差し当たってはあと三日と迫った次の世界会議。このままではあと三日で龍と人との完全な決裂が為されるわけだ。
開戦派の主要人物は、ヴァスデロス、サイザキ、ヒドラにオーガー。
さて切り崩すとしたらどこだ。
ヴァスデロスは無理だ。あれは損得勘定なしに戦好きなだけ。
なら狙うは他三つ。もちろん一番都合が良いのはギルドのサイザキ・ミコトだ。ある程度の関係はあるし、内通者である可能性は低いだろう。
ただ問題は彼が戦争に向けて投資している額である。
もちろん破産しないよう計算しての物だろうが、ちょっとやそっとの利益でこちら側に転がるとは思えない。
しかもこれ、当然だがどっちつかずの"巨人"と"オウズガル"が開戦派に回ってしまえばおしまい。
であるのであと少なくとも三つ取り込む必要がある。この世界の根本である"四雄"のうち三角を落とす。
「ふーむ」
こんなん無理ゲーやと思っていたが、案外悪くないのではないか。
ビッグフットは多分裏切りなどなくこちらについてくれるだろう。
あいつら傭兵集団の割に平和主義だ。
"宿り木"の植物成長促進で長らく悩まされていた土地痩せを解消できるとあれば、出来上がる繋がりは固いはずだ。
そして残る一角はあのノインである。
「……う、うーん?」
どうしてもあれを説得できるイメージが浮かばなかった。
"神の血"の事を聞いた時を思い出せば、シンがハルユキである事には気づいていないようだが。
オウズガルが欲しがるようなものが分からない。
交易都市であるので流通の第一手は彼女が握っているし、驚くほどの速度で復興は終わりつつあるらしい。
「何を唸っているんですか」
「考え事」
「神の血の事ですか」
「うんにゃ」
部屋の中にはリィラだけだ。
こいつもまた脳筋であり、主な活動が国の象徴としての働きなので平時には役立たず。よってハルユキと共に行動する事が増えたのだ。
「ハルユキさん、結局何するんですか。何も聞いてないんですけど」
「待て待て、もう一人。……お、来たか」
ギミックの作動する気配。彼女が入ると、同時に風が吹き込んでその蒼い髪が涼しげに揺れた。
「ハルユキ殿」
「呼び立てたみたいで悪いな、タツミさん」
「いえ。いつでもご用立てください」
静かに微笑んで、タツミ・コウリュウは祈るような恰好で一礼した。
その一連の動きは独特ではあるがとても洗練されている。育ちがよくないリィラが思わず背筋を伸ばすほどだ。
彼女の本来は、こうなのだろう。
最初は折れて枯れ逝く枝葉のようだった彼女は、今や大地に根差して天向く若木だ。嫋やかで、それでいてしなやかで、色気がある。
彼女はこちらの視線に気づくと、ふわりと笑った。
小走りを我慢するような歩き方で机に進むと、そっとそれを机に置いた。
「ハルユキ殿。これ、以前約束した」
「おお!」
「……へ?」
何やら上等そうな刺しゅう入りの包みが解かれるとそこには破籠──いわゆる重箱のようなものが入っていた。
そして、その時に漏れた匂いにハルユキは椅子を跳ね飛ばして立ち上がった。
「まさか」
「母の故郷の料理ですが今はもう龍谷の味です。お口に合えばよろしいのですが」
瞳を震わせ近寄るハルユキに、タツミは重箱のフタを開けて中を見せた。
筑前煮。魚卵。伊達巻。鮭。煮卵。お稲荷。枇杷。金柑。
「ってこんなとこに残ってたのか!」
「え……?」
「俺の故郷の料理だ。流れ流れて行き着いたんだろうが……」
「母と同郷なのですか……? 驚きました、凄い偶然ですね」
弁当の近くで息をするだけで、鰯出汁と醤油と味噌の香りが鼻を抜けた。
「待て待てタツミさん。こっちが新式日本弁当だ。そっちは古き良きって奴」
言ってハルユキは自前の弁当を取り出した。中身は、唐揚げハンバーグエビフライ卵焼ポテトサラダお結び。
ナノマシンで調味料の類は再現できるようになっていたが、どこか薬臭い。
市場を回ってもあるのは魚醤に似たものばかりでやはり微妙に思い出とは食い違っていた。もう一度重箱の匂いをかぐと、迷いようもなくこれが本物だと思い知った。
「あの、では故きを温ねて新しきを知るという事で」
「いいねー」
「リィラ様の分も用意しております。よろしければ」
「あ、はい。い、いただきます」
そうして広い机のスペースを大量に余らせて、顔を突き合わせるように三人は座った。
「で、では」
「何でタツミさんが緊張してるんです?」
「実は、料理など作ったのは初めてで。いただきます」
「んん? 美味いぞ?」
「……もう食べてるし」
「実は主にいつも家事をお願いしている子供達が作ったもので、恥ずかしながら私は具材を切り揃える真似をしただけで」
「十分十分」
ぱくぱくと律儀に三角食いで弁当を攻めていくハルユキに呆れて息を吐いて、リィラもフォークを取った。タツミは箸だ。やはり日本文化が濃いらしい。
「いつこんなの頼んでたんですか……」
「時々一緒にトレーニングするしな。そん時に龍谷の文化を知ってほしいって言われてな」
「……へぇ」
リィラが話している間、タツミはじっとハルユキの進む箸を見ていた。
「む」
そして一層形の悪い伊達巻を口に入れた時、ハルユキの箸が止まった。
しばし固まった後、ものすごい勢いで咀嚼した。そして何故か、バリンボリンと音が鳴る。
「……とんでもない量の卵の殻が」
「あああ、す、すみません……! ちゃんと切ったのですが……!」
「……卵の殻切っちゃったの?」
リィラは呆れながらも箸を進めるハルユキと、たどたどしく料理の説明をするタツミを交互に見て何やら悪い予感めいたものを感じた。
ふと視線を落とすと、タツミが無意識に手の指をさすっているのが見えた。その指には何枚か絆創膏が張られている。
「じゃあ今度は一緒に作ろうか。クイーンとかも連れてったら、そっちのチビ達と仲良くなれるかもしれんし」
「──は、はい!」
人見知りのリィラから聞けばギョッとするような内容の会話を聞いた。
何だこの男、当たり前のように次に会う約束を取り付けた、それも身内の面子も一緒に囲むと言う周到さ。計算か、いや天然だ。恐ろしい。
リィラはこの空気の中に入っていくのが面倒になり、目の前の弁当に視線を投げようとして──もう一度。
一瞬だけ、ハルユキの箸が止まったのをリィラは見た。
しかし今度は何事もなかったかのように食事を再開する。しかしその目から笑みが消えているのにリィラは気付いて、その直後だった。
扉が開いた。スノウ第一殿下だった。
タツミもリィラも驚き振り向いたが、ハルユキは変わらず箸を進めている。
「……昼食会のお誘いとは聞いていなかったが」
ハルユキは箸をおいて立ち上がった。振り返った顔には既に白面が覆っている。
「そうですね。しかしよろしければどうでしょう」
「気持ちはありがたいが、口に出来るものは慎重に選ばなければならない。何か服ませているとは思っていないが」
「お察しします」
ハルユキは額面こそ普段通りの話し方だったが、どこかに違和感を残していた。
スノウもそれに気づいたのか、笑みを作ってハルユキに歩み寄った。
「話しは変わりますが、先日"龍の防衛協力に対するスノウ様の申し出。少し考えさせていただく事となりました」
「……ふむ」
彼女は驚いていた事だろう。
そもそも事の起こりははこちらから申し立てた事だ。むしろあちらに妥協させた点すらある。
ただ彼女は歩みを止める事もしなかった。むしろ足を速め、ハルユキの後ろに立った。
さぞ、彼女は驚いていた事だろう。
なにしろ、リィラでさえ現状を捉えられず呆気に取られているほどだ。
ただ彼女は表情を変える事もしなかった。語調を荒げる事もしなかった。がたりと椅子を乱暴に引いて、ハルユキの隣に腰を下ろす。
「私が提供できるものも多いと思うが」
「承知しております。ただ、貴女も私達の目的については知っているはずです」
「戦力は、足りていると?」
「足りていないとでも?」
スノウは素早くリィラとタツミの顔を見た。そして小さく溜息を吐いた。
「……証明しろと」
「いえ。きっと彼等も信用できると思いますので」
「貴方は出場しないのか?」
「私は既に信用を得ている。そうでしょう?」
「……腹芸は好きじゃない。が。確かに」
スノウは席を立つと同時、ハルユキの方に手を伸ばすとわざわざ取り皿に乗っていた食べかけの伊達巻を手に取る。
放る様に口の中に入れると、"バリンボリン"と噛み砕いて飲み下した。
「信心はあるよ、神」
「あっはっは」
スノウは結局一度も表情筋を動かすことなく、扉に向かった。
「既に参加を表明されているのは──」
「ノイン王女、アイン殿、ヴァスデロス閣下。こちらリィラどのとタツミ殿、だろう」
「それに、かの"虹色"フェン・ラーヴェルも」
そこでやはり初めて彼女の表情は揺れた。
「悪い。だしに使った」
「ついででしょ、ついで」
「いつも済まないねぇリィラさんや」
「それは言わない約束でしょうハルさん」
ハルユキが悪びれないような顔で笑うと、リィラも不敵に笑う。
正直男か女か分からないリィラだが、正直それに助けられる場面が多い気がする。何というか一緒に居て落ち着く。
どちらとも扱えないのではなく、どちらでも。彼女のあるいは彼の優しさで強さだ
「でも、殺気の伊達巻のアピールは意味わからないですね」
「毒、盛られた事あるらしいぞ」
「うぇ……」
リィラがあからさまに顔を顰めて警戒するように周りを見渡した。
辺りに散りばめられた細かな装飾や荘厳な空気がそう言った政争の果てに作られたものだと思い、その狂気に気づいたのだろう。
まあ気持ちはわかる。
「でも、そうしたらあの人何食べてるんですか?」
「そりゃ大丈夫だろ。優秀なメイドが付いてる」
「昔の知り合いですか?」
「ああ。正体はまだ言えてないが、そうだな。お前と気が合うかもな」
その出生からか、彼女もまた価値観を一度まっさらにされた人間だ。そう言った点で、リィラとは似ているかもしれない。
「彼女は信頼してるって事ですか?」
「そら知らんが、たぶんそう言う感じじゃないんだろうな。それが出来てるんなら俺のとこまで話が来たりしねぇ」
「どんな人なんですか?」
「どんな……、そうだな。何だろうな。こう、主張はしなくて、でも」
ぴんときた単語を、ハルユキは口にした。シアはとても物事や気持ちに聡い人だと。
◆
やっぱり、片手で食べられる物が良いかな。
昔の癖で、シアは声を出さずに口だけを小さく動かしてひとり言とした。
雑踏をすいすいと逆らって歩きながら、しかしその目は手元のメモに向いている。
目当ての店まで一直線。
城勤めになってから給金は増えていたが、なぜか節約癖が治らず小金がこつこつと溜まっている。
ただ"流石シアだ"。と五人に褒められる妄想をよくする。
少女趣味で、夢想的だ。馬鹿らしい。
人は変わるし、いつまでも一緒に入られない。そんな事は分かっていると思っていた。
ここ、かな。
目当ての店を見つけて店に入った。
その瞬間ひやりと冷気が肌を撫でた。食材鮮度を保つために店内の気温を調節しているのだとか。
試験店だとかで、安く食材も買えるらしい。未来的なのにその内装は至って質素な木造だ。
卸し店なのに雰囲気がある店だな、とシアは思った。
最初は特別に頼むべきかと思っていたが、そうじゃない。
同じ店を選ばない事だ。その日の気分で店を決めるのが一番安全だとは笑ってしまう。
レタス、トマト、卵、スライスブレッドに、グルムニの乳腐と。あと。さて、そうだ。家の方にも食材がない。
「あ、こんにちは」
「ああ、あんたか……」
魚の鮮度を比べていると、同じように陳列棚を覗き込んでいた男の人を見つけた。
何だかこの所よく会う。とは言ってもこれで五回目か。
時期を考えると、たぶん他の国の人。最初は珍しいのに目に焼き付いているような黒の髪につい目を取られて。
「買い物か。何を買う」
ふと目が合って、その時も彼はこう言った。
「ヒルさんはまた林檎ですか?」
「ああ、生憎と偏食でな」
いつもだ。店中を眠たげな半眼で回って、そして結局林檎を一つ買って帰る。
そしてやっぱり今も、手に血が詰まったように赤いリンゴを無造作に持っている。
「アンタの主もやたら偏食らしいな。またサンドイッチか」
「忙しい人なので……」
「そうか」
そう言うと、ヒルは視線をシアの籠の中に落とした。身長が同じほどなので、黒髪のつむじが見えた。
「……なあいつも聞きたかったんだが、グルムニを何に使うんだ。サンドイッチには要らないだろう」
「昔料理を教わった人が、これをパンに塗ると良いと。その人が使ってたのはグルムニではないのですが」
「すると、どうなる」
「食材の水分がブレッドに染みないんです。食感が綯交ぜにならないと」
「……珍しい手法だな」
言うと、彼はぼりぼりと頭を掻いた。今の知識を埋め込んだ場所を手で確認するようなしぐさだった。
「ヒルさん。今日はお一人ですか」
「大体は一人だ。あれがいる方が珍しい」
どうやらいつも一緒にいる背の高い友達の方は、今日はいない。
黙ったまま背後に立つだけの人だったが、この人が背後に人がいる事を意識しないのはその人だけだった。
「あ、いけない」
「なんだ?」
「店員さんが睨んでます」
エプロンを着けた強面の男性がこちらに引き攣った笑みを向けていた。
「いや、あれは……」
「長話しすぎましたね。これで失礼します」
「……ああ」
ぺこりと一礼してから、先程から重さを訴えていた籠を両手で握り直す。シアは笑顔を引き攣らせる店員に近寄った。
何故かさらに笑みを強張らせる店員さんに会釈をしてから、早足で出口に向かう。
「ヒルさん?」
最後にもう一度、りんごの彼に会釈をしようとして会計の所で言い争っている彼を見つけた。
「どうしました?」
「……財布を忘れた。籠に戻しておいてもらおうかと思ったんだが」
「い、いえ。だからそういう事ではなくて……」
「家はすぐそこだから、今から持ってこさせてもいいが」
「で、ですから……」
「……あの、良ければお貸ししましょうか」
喉を詰まらせるように店員は黙った。そして何とも表現しがたい顔になる。
対して彼はしばらく考えた後、えもいわれぬ表情の店員を見る。
そして意を決したようにこちらを向いたあと、ややあって諦めた様に小さく息を吐いた。
「悪い。そうして貰えると助かる」
「大丈夫です。ここだけの話、私ちょっと今お金持ちなんです」
「そりゃあ、あやかりたいね……」
結局、最後まで複雑な感情の入り混じった表情の店員の、なぜか感極まった熱烈な感謝の声を背に受けて二人は並んで退店した。
眠たげな眼で彼は往来と太陽の位置を確認すると、それからこちらを向く。
「アンタの予定を狂わせちまうのは悪いから、今度会ったときに返そうと思うんだが、それでいいか」
「はい。私も、そちらの方が」
「そうか。なら、またな」
そう言って、小柄でぶかぶかの服を着た黒髪の彼はあっさりと街の風景に混ざった。
経済運動はよく巨大な生物に例えられる。
商人や国は良いところその垢すりだ、と金貸しだった父は言った。
言葉の意味が分かったのはいつごろだったかは覚えていない。ただそれが正しいとも思わなかった。
こちらを省みもしない意思のない化物を導き、気紛れに顔見知りが踏み潰されて、その化物を脅かそうとする人間は身を挺して排除し、そして地面に撒かれた垢を啜るように舐めとる。
その生き方は垢すりなどよりなお低俗だ。と、そんな事を思い始めた頃からだ。
奴隷と言う人種を見て、何となく目で追うようになったのは。
──その林檎を無造作に齧った時、視界の端で一人の男が壁から背を離した。
「次は」
「西だ。居住区221-9」
そのやり取りは会話をしているようでそうではない。彼等は目を合わせる事すらなく、ただ同じ方向に歩く。
「あの女か」
「ああ」
「お前に施しとはな」
「財布を忘れたら店員が持っていって構わないと言い出してな」
「お前の店の末端だ。お前の物のようなものだろう」
「ああ」
もう一齧り、味や食感を楽しむ事もなくただ無味乾燥にミコトはリンゴを歯で削る。
「たぶん、奴隷だなあれは。元、かもしれんが」
立ち止まって振り向いた。彼女の蒼い髪は雑踏に囲まれてもなお、毅然と存在感を誇っているように見えた。
しゃくりとリンゴを齧る。
ヒルが立ち止まってこちらを見ていた。その目は驚いたように見開かれている。
「奴隷には二種類いると思ってる」
ヒルの眼がこちらを見た。
見たと言うより視線に乗せて感情を差したと言った方が正しい。憎悪と殺意だ。長い間蓄積して底冷えした感情である。
しかし二十年以上ぶつけられ続ければ、流石に飽きる。
「まずそこら中でこそこそ飼われてる──」
俺や──。
「──お前みたいなタイプ。んで、あれはもう一方だ。珍しく、幸運で、恵まれている」
「次は?」
「んぁあ?」
「次はどこに行くんだったか」
「……ああ、西だよ。居住区。221-9合区だ。さっきも言ったろ。脳がねぇのか?」
そう言うと、ヒルは抑揚のない声で"申し訳ありません"と口にした。これを思えば、いつもの反抗的な口ぶりもかわいいものだ。
人通りが多い。
ごそごそと蠢く民衆はまるで街に寄生した群虫のようだ。
「あー、死にてェ……」
世界に愛はないらしい。世界に悪はないらしい。何にでも替えは利くらしい。生きる事に意味なんかないらしい。
奴隷と虫と化物とで世界は出来ている。