ハルユキの長い一日
『父を匿って下さった事、感謝してもしきれません』
『あー、いや、まあ……』
まだ涙の跡が残っていながら、すぐにタツミは立ち直ると強い瞳で深々と頭を下げた。
まさかロウの娘だとは思っていなかった。恨みがましい目をロウに向けた後、ハルユキはため息を吐いた。
『水を差すようで悪いですが、私共としましては貴女方の感動の再会などに花を添えたかったわけではございません』
『と、申されますと……?』
またしても強い──と言うよりもまっすぐな目を向けられてハルユキはたじろいだ。
言葉に詰まってまたロウを睨むが、まだあいつは蹲ったままえずいている。とりあえずその頭を引っ叩いた。
『いつまで泣いてんだ、大の男が……! やる事やれ、先に進まんだろうが……!』
『……だって、お前』
ずびりと鼻をすする思い切り拳骨を落とした。
がつん、と、ロウの頭が床に減り込んだ。
しかしそこは流石霊龍か、一瞬だけ硬直した後、何事もなかったかのようにがばりと起き上がった。
『手前、誰の頭はたいてんだ、クソガキァ!!』
『やかましい! さっさとやれ!』
胸倉をつかみ上げてきたが、とりあえず殴らない。
ちょいちょいとタツミの方を指さすと、きょとんとしているタツミをロウも見つけた。
『……分かったよ』
ロウは手を離すと、タツミに寄った。
『タツミ』
静かに手を伸ばす。
それを、タツミは一瞬だけ見て理解もしていないだろうに、目を瞑って身をゆだねた。
とん、とその指先がタツミの額に触れて、離れた。
『終わりだ』
『早いな。ホントに分かったのか?』
『ああ』
そう言うと、ロウはこっちを向いて小さく笑った。
『タツミは大丈夫だ。こいつにはそもそも龍の強制力なんて効かなかった』
『……強制力とは何でしょうか』
『今の龍達は、強いられているだけだって事だよ』
ロウは一瞬頭を撫でようとして、しかし一瞬迷った後タツミの肩を軽く叩いた。
瞬間、俄かにタツミの顔色が変わった。
『それでは……!』
『ああ、まだ事態は最悪じゃない」
『ただし良くもねぇよ』
言うと、ハルユキはさっさと仮面と外套を取り払って適当に消した。
『面倒だから敬語は止める。顔を見せたのを信頼だと思ってくれると助かる』
『……はい』
『あと、俺は神じゃない』
『存じております。確かな人の技を私は間違えません』
『嬉しいね』
何せ時間が無い。
ありがたい事に足早に言葉を並べるハルユキに、タツミは混乱することもなく平然と付いてくる。
思ったより彼女を引き込むのは大きいのかもしれない。
『目的が同じであろうアンタとユキネ──スノウ第一皇女と手を組み、戦争の回避、及びスノウが匿っている竜から情報を絞って敵を殲滅。これが当初プランの概要だった訳だが──』
『……敵は、それほどに強大なのですか』
『ん?』
顔を険しくするタツミの勘違いに気づくのに一瞬だけ要した。
『違う違う。アンタ達に頼みたかったのは世界会議でエルゼンが孤立しない様にって事だ。戦力は俺だけで十分だ』
『……?』
タツミは困惑した顔を見せるが、まあその辺は後でロウが説明するだろう。
『……では、当初プランと表した意味は』
『その計画は頓挫した。このままじゃエルゼンが議会から弾きだされる』
『どういう意味でしょうか?』
ハルユキはかいつまんで先程ジョージ・ノヴェルツェゲンに突き付けられた条件を話した。
『それは、ですが……』
言ってしまえばエルゼンの救済は直接的に龍谷に得はない。
顔を顰めたタツミに焦って、しかしあくまで冷静にハルユキは用意していた言葉を捲し立てた。
『いや、長期的に龍谷の復興に協力することは約束できると思う。それに地理的にも状況的にも似通っている点が多いはずだ。協力し合える部分も多い』
『……いえ、シン殿』
『特産品だって幾つも用意してる。何だったら実際に来て見て欲しい。本当に土地が──』
流石に銃や電化製品は影響を考えて伝授出来なかったが、技術的に可能な文化を幾つもエルゼンで再現させている。
実現化はそう遠くない筈だ。
『シン殿。勘違いをしています』
タツミはそう言って、ハルユキの言葉を遮った。
はっと言葉を止めて彼女の顔を見た。小さく綻んだ口元とまだかすかに残った涙の跡に危うく見惚れそうになる。
『我等と同盟を結んでくださると言うのなら。形式上に一考はあれど、まず間違いなく歓迎する事になるでしょう』
『そ、そうなのか……?』
『まず、エルゼンの議会の残留に利益が無いと言うのも間違いです。同一の利益があるのなら議会での発言権は無くしがたい』
それにしても。
それにしても、ユキネがいるのだ。戦争したくないと言うのなら既に十分すぎるほどの影響力を持った人間がいる。
『……母の言葉ですが』
小さく区切って、タツミはまっすぐこちらに向き直った。
『信頼関係とはとは、互いの立場が同等でなければならず、与えすぎても贈られ過ぎてもいけない、と』
『……?』
『彼女は──"鬼姫"はきっと、我等を必要とはしないでしょう。……そして残念ながら彼女の善意を今私達は信じきれる状況にない』
タツミは手に持っていた棍を腰布に差し直すと、拳と手を合わせて深く頭を垂れた。踏み汚された床に銀色の髪が落ちている。
『……それでも、慈悲でも、同情でも、施しでも。飼い殺しになろうと、構わないと思っておりました。僅かに残った家族を助けてくれるのならと。この国に参りました』
タツミは頭を上げない。彼女の真摯な人柄がよく分かる。
『対等な立場として迎えてくれるのならば、願ってもない』
その姿から、立ち上るほどの力を感じた。
彼女はずっと弱っていたのだと、ハルユキは気づいた。龍に襲われた二年前から、恐らくロウに会う直前まで。
『では、加えて敵と味方の線引きを出来た事。そして何より』
支えは無くなり、敵が誰かも分からず、何を守っていいのかもわからずに。ただ一人、彷徨っていた。
『こんなどうしようもない我等を必要としてくれた事に、深い、心からの感謝を』
そして、タツミは顔上げてしっかりと地に足を付いて、全身から静かに闘志を揺るがせながら。
『これで私達は、家族を守るために戦える』
強く、ぶれず、凛々しく。本来の姿に戻った彼女は、挑戦的に薄く笑った。
『悪意を弾く龍の鱗を、敵を挫く龍の爪を。貴方に預けます』
──それが昨日の晩。およそ5時間前の出来事だった。
「……む」
静かにハルユキは目を覚ましてベットから身を起こした。
夢で見たせいかあまり寝れた気がしない。
太陽はまだ半分も顔を見せていなかった。暁色の街並みを見ながら、ハルユキはベッドからのぞりと起き上った。
歯磨きと歯磨き粉を精製。
ついでに水分を集めて球場にすると、それに歯ブラシを突っ込んで濡らしてからシャカシャカやる。
分解させてもいいが、吐くときはなぜか台所まで移動する。
奥歯を掃除しながら廊下を渡っていると、隣の部屋から気配がした。
「サヤ、まだやってたのか」
「まだ、と申されましても」
扉を開けながら言うと、まるでぢ続きで会話していたかのように返事が返ってきた。
「私には疲労も睡魔も、空腹すらないので」
「……だったな」
「まだ五時過ぎですが……」
「あいつらが早起きだからさぁ……」
エルゼンでは畑の世話があったせいか、クイーン達はやけに早起きだ。
リィラは言わずもがな。おそらく前庭の辺りで軽く体を動かしているだろう。
「おや、お早うございます」
「この時間で俺が一番寝坊とか……」
コドラクが両手にコーヒーを持って立っていた。
「適当に飯つくるけど、どうする?」
「では、このコドラクめにはサンドイッチなどを」
「僕も朝はコーヒーとパンだけでいいかなぁ」
いつの間にか窓から、リィラが上半身だけを見せていた。ここ三階だけど。
「野菜も食え」
「えー……」
すると、窓の下の方から、"俺は肉"と叫ぶ声が聞こえた。"僕も"。"にくー!"と声が続く。
どうやら一緒に鍛錬していたらしい。
「手前らは手伝うんだよ!」
「ふざけろ」
「はげ」
サヤとコドラクは働いているからともかく。
しかし階下から返事はない。というか気配ごと消えた。リィラもややあってフェードアウトしていった。
さて、捕まえてしばき倒す。
「サヤ、お前は」
「もちろん、いただきます」
「何が良い」
「主様と同じものを」
ハルユキが何を嫌がるのかも知っていて、それでも負担を掛けない様に彼女は言った。
それを言及するのは、気が引ける。
「主様。早く仮面をつけてくださらないと。ご飯時に主様の顔は衛生的にちょっと……」
「……この野郎」
時々アホな行動に出ていなければ尊敬してしまいそうになる。
によによと笑ってやがる。今のやり取りの何がそんなに楽しいのか全く理解が出来ず、ため息を吐く。
「居候!」
ばん、と扉を開けて小柄な影が入ってきた。
ハルユキの膝ほどに小柄なのも、ハルユキの事をそう呼ぶのも一人しかないが。
「……お前、俺のこと大好きだなぁ。そぉら人質にしてやろう。エースは釣れるかな」
「ひぎゃっ」
半眼でロープ片手ににじり寄るハルユキに、クイーンはわたわたしながら自分の体中をまさぐって何かを盾にするように取り出した。
「こ、これがどうなっても……!」
「隙だらけだ馬鹿めっ」
「ああっ」
ひょいとそれを奪って、眺めてみる。
クイーンは取り返そうと飛び跳ねるが、哀れ身長一メートル足らず三歳児。その手は届かない。
弄ぶのは可哀想だったので、とりあえず頭を適当にごしごしと撫でて黙らせた。
「手紙……? ……んげっ」
それは薄い青色の封筒だった。
それ自体は良い。問題なのはその背に描いてある名前だ。
何とか一通りは読めるようになったハルユキの読解力が間違っていないなら、そこには"サイザキ"の名があった。
よく見れば、封をしてあるのは覚えさせられた蝋印の一つ。
コインが回っている印。ギルドの物だ。
「して、中身は?」
「時間と場所がしていしてある。って今日の昼、ってか五時間後じゃねぇか、あの野郎舐めやがって……!」
「足元を見られていますねぇ……」
未だ手紙を取り返そうとするクイーンを押さえつけながらため息を吐いていると、また扉が開く音がした。
「おいシキノ・ハルユキ。居るか」
「……ロウ、なんだお前その呼び方」
「俺お前の名前呼んだの初めてだったわ」
「上でも下でもいいから、短くしろ」
「じゃあシキノで」
「……何かそれしっくりこないな」
他愛のない会話の間に、ロウが懐から紙を取り出してこちらに寄こした。
「タツミ達が使っている屋敷の場所だ。昼食を一緒したいとさ」
「コドラクの爺さん。調停まで話を詰める。アンタも来れるか」
「ええ。調整いたしましょう」
俄かに忙しくなってきた。
頭の中で今日の予定を簡単に組み立てていると、ふと右手の中から抵抗が消えている事に気づいた。
見れば、クイーンがこちらを見上げて不敵な笑みをこちらに向けていた。
「ふふふ……。そんな事をしていていいのか。後悔するぞ」
「はいはい」
「ホントだぞ! 絶対後悔するからな!」
「なんなんだよ」
「詳しく知りたければ、ここだ! 夕刻に待つ!」
そう言ってクイーンはポケットの中からくしゃくしゃに丸められた紙をこちらに押し付けてきた。
どんどん増える。と言うかもう持ちきれん。
だからそれをひょいと避けて。すると紙がポロリとこぼれた。こつん、とそれをつま先で蹴る。
「ゴミじゃねぇか。と言うか俺忙し──……」
「あ……」
「え゛……」
地面に放り捨てた紙を見て、クイーンが表情を落っことした。
まん丸にした目で捨てられた紙を見つめて、じわりとその目に──。
「……えぅ」
「はい嘘ぴょーんっ! 嘘でしたぁ!」
素早くナノマシンで紙を手の中に戻し広げて中を確認する。
分かりづらい地図だが、たぶん指定されてるのはこの屋敷の地下だ。昨日何かしていた事と関係あるのだろう。
これならまあ、なんとかなる。
じろりとクイーンがこちらを睨む。
全く三歳児とは思えないほど大人びているかと思いきや、面倒くさい。
「行くから。待ってろよ?」
「……ぜ、絶対だぞ」
「ああ」
「……き、来たくないなら、べ、別に……」
「楽しみだなあ!」
もう一度じっとこちらを観察した後、ふん、と満足げに笑う。
「ならば準備だ! エース、ビィト! どこだ!」
言うが早いか、クイーンは慌ただしく部屋を出ていった。
「ハルユキ殿。ではタツミ殿の件は正午にここを出るという事で構いませんかぴょん?」
「お前何で女子供にはああなんだぴょん?」
「愉快な語尾だなお前等キャラ付け甘いぞ死ねいや殺す」
女でも子供でもない爺二人に青筋浮かべて歩み寄る。
「主様」
ぴしゃりと、サヤの声がそんなやり取りを遮った。
「私に無理するなと仰りましたが……。残念ながらこんな具合で」
そう言ってから、サヤは書類から目線を外してこちらを見て、そして左手に持ったものをこちらに見せた。
「一緒に無理しましょうぴょん」
「んげ……」
楽しげにニマニマと笑うサヤの手に握られているのは。
ハルユキが抱えた手紙達とは別の、もう一通追加のお手紙。
◆
地を蹴る度に、景色が青と白色の線になって背後に吹き飛んでいく。
その蹴った"地面"は足が離れた途端霧散して、空の中に散った。
ここは世界の中心の空の上。
あの馬鹿でかい城の上にいると言うのに、街の端はまだよく見えない。どんな広さだ。
ここから見た限りでも、他に小さな城や宮殿のようなものも見える。
そこに足を運んでみたい衝動を何とか抑えて、ハルユキは手元の手紙を見た。
まずは、サヤに渡された手紙だ。
この国のお姫様からの手紙。時間の指定は午後三時ごろ。
龍谷のタツミと話を詰めた後で、クイーン達の約束のほんの少し前だ。
「お……」
クイーンの方は間に合わんかもしれないと思いながら、ハルユキは目的の建物を見つけた。
この街であれだけ目立つと言うのも難しいだろうに、それは厳然とそこに建っていた。
元・ギルド会館。
そうだ、事あの男に限って言えば、世界中に自分の拠点を持っているに等しい。
ハルユキ達や他大勢の人間達のように、住居を提供してもらう必要などないのだ。
(ああ……)
そうすると、他に建っていた城や何かは大使館かそれに似た何かだろう。
まあとにかく。
約束の時間の十五分前だ。
ハルユキは一度空中に立ち止まって、懐中時計で時刻を確認した後に足場を消した。
ふわりと自由落下の中に身を投げる。
十秒ほどののち、ギルド会館の屋根の上に音もなく着地し、そのまま横の路地に滑り降りる。
「シン殿ですね」
そしてその先に、待ち構えていたかのように一人の黒尽くめと粗末な扉があった。
「……どうも」
かなりショッキングな登場の仕方だと思ったのだが、男はさして気にした風もなく扉を開けて頭を軽く下げ動きを止めた。
存在感と言うより、現実感すら薄い男だった。
こんな人間に扉番とは。流石は世界を席巻するギルド商会。人材の宝庫と言う訳だ。
舌を巻きながらハルユキはギルドの中に入った。入って、そして──。
「誰だァ! この銀貨両替したのはァ!!」
途轍もない熱気がハルユキの体を吹き抜けていった。
「混ぜられてんぞォ! 外周の奴らに警戒するように言っとけ!」
「新人どこ行ったァ!」
「一昨日逃げたよ、溜まった仕事そこに積んであるから手前でやっとけよ!」
「ああ!?」
「よぉし! 武具の追加発注決まりだ! ミネア鋼の相場調べてくれ!」
その怒号の連続に思わず足を止めたが、ハルユキの目の前に広がっているのは人の気配などまるでない木の廊下だ。
声がするのは壁の向こう。
際立って、いや不自然なほどこちらの廊下は静寂が沈殿している。
「どうぞ。奥に」
ぱたん、と背後で扉が閉まった。
仕方ないので、ハルユキはそのまま廊下を進んだ。
曲がり角を曲がって。
更に階段を上って。
廊下を進んで。
そんな事を三回ずつほど繰り返した後だ。
また、同じように黒尽くめの現実感の薄い男が扉の前に控えていた。
相変わらず怒号交じりの熱気は聞こえ続けているが、ここまで歩いてきた中でその声の主を見た事はない。
それどころか、目の前の忍びもどき以外に人を見ていない。
いやそもそも、窓も扉もない廊下を歩いてきただけなのだ。
隔絶された静かな廊下。
そこに用意された扉の向こうにもまた、驚くほど静かな気配が一つだけ。
こんこん、ノックをする。
「入ってくれ」
「失礼します」
扉を開けて、これで三度目。
ハルユキはギルドの王、ミコト・サイザキと対峙した。
◆
質素な部屋だった。
しかし同時になんやかんやと書類や物が散乱していて、雑然としてもいる。
その中に小さい身体を埋まらせるようにして、王はペンを走らせていた。
声を上げようとして、閉じた。
まだ約束した時間の七分前。とは言え立って待つのも酌なので、どかりと手近なソファに腰を下ろす。
これだけ雑然としてるのだ。格式ばっても仕方がない。
部屋の中を見渡してみると本当に色々なものが転がっている。
手の平の上に乗るような精緻な絡繰り細工もあれば、入り口の両脇に設置されている、よく分からない見上げるほど大きな柱みたいなのもある。
……本当に、何だあれ。
「対象に直接触れずに魔力を測定する代物だよ」
「なんと」
「しかしでかすぎだ。実用化はもっとコンパクトにまとめた後だな……」
まじまじとそれを見つめていると、反対側から声がした。
「……ああ、やめやめ。死にたくなるわ」
五分前まであと数秒と言うところで、サイザキがペンを机に放りだした。
「昨日ぶりですか。よくお会いしますね」
「お前らが忠告を聞かないからだろうが……」
「忠告?」
「会食に行くなと言った……」
ぎしりと背中を椅子に預けて、ミコトは天井を仰ぎ見た。
「さて、私共が警告を無視したのはその通りですが、それで貴公が被った損害と言うものが想像できませんね」
「龍谷と手を結んだそうだな」
この野郎。まるでこちらに話の主導権を渡すつもりはないらしい。
「……相変わらず、耳が早い」
「あの女にもうちょっと国の要人としての自覚を持てと言っておけ」
まだ正式な調停もまだだと言うのに、本当にその耳の早さには舌を巻く。
「……それが要件でしょうか?」
「いいや」
「……では本題は、私共の世界会議における進退の件ですか」
「ああ、面倒な事になったなあ、お前等」
皮肉気にミコトは一笑した。
「これからどうする気か話してくれるか?」
「構いませんが──」
「話せる分でいい。あの糞虫に何を言われたのか、出来るだけ具体的な方が良いが」
ハルユキはしばらく考えた後、昨晩の出来事を差し当たりのない部分だけ説明した。
伏せたのは主に、龍との関係やロウとタツミの事。それ以外は特に秘匿するべき事はないはずだ。
こんな何でもない事でも話すにはリスクがいるが、それは"少ない可能性"に掛けるに値する程度。
その可能性は、ぶっきら棒ながら協力的なミコトを鑑みれば決してありえないものではない。
──話し終えると、静寂が辺りを包んだ。
とん。とん。とん。とミコトの指の先がゆっくり机をたたく。
「……馬鹿め」
「耳が痛いですねぇ……」
「人の話を聞かないからだ」
「たとえ行かなかったとしてもさほど状況が変わったとも思えませんが……」
「しかし猶予はできただろう」
「……ええまったく。本当に、耳が痛い」
「……お前等の選択肢を増やしてやると言ったら、どうする」
抑揚のない声で、唐突にミコトは言った。
「……それは、協力を願えるという事ですか」
いつのまにか先程までの静寂な雰囲気が途端に張りつめて、重さを増していた。
ハルユキの言葉にミコトは応えない。ただ指で机をたたきながら熟考に耽っている。
本当に小さな可能性──、ギルドの後ろ盾を得られるのなら。もちろんそれもあまりいい選択肢ではないが。
「今考えているのはせいぜい……、多くの龍の情報を提供してって所だろうが、効果が薄い事も分かってるはずだ」
「……それは」
「しかし、問題ない。要は。最も肝要な事は大多数の意見さえ握っている事だ。お前らが潔白を証明する事ではない」
「意味がよく……」
彼の目に力はない。爛々と光る輝きもない。
ただ淡々とその信じられない言葉をつづけた。
「奴等が稟議書を提出するのに合わせて、即座にその稟議書を棄却するための嘆願書を用意する。各国要人の署名もだ」
何を言っているのか、しばらく理解できずにハルユキは固まった。
しかしすぐに頭が現実に追いついて、しかし次々に疑問が浮かんでくる。
つまり、この窮地を救ってやろうと言うのだ。
目の前の男が、世界でも頭一つ抜けた支配力と権力を使って。──しかし。
──『信頼関係とは、互いの立場が同等でなければならず、与えすぎても贈られ過ぎてもいけない、と』
脳裏によみがえった昨夜のタツミの言葉が、ハルユキを落ち着けた。
「……何故、そこまで我等に肩入れを?」
「期待しているからって言ったら信じてくれるのか?」
ミコトは鼻で笑うと、もう一度天井を仰いでから、羽ペンを手に取った。
そのまま手を動かしながら、更に言葉を続けた。ハルユキの返答を期待していた訳ではないらしい。
「何が必要だか、分かるか?」
「……それは」
誰に対してか、と聞こうとしてハルユキは口を噤んだ。
ハルユキにか、エルゼンにか、ギルドにか、それら全部にか。はたまた敵にか。いや、たぶんこれはもっと大きな括りだ。
「人に、だ」
「さあ、何でしょうね」
「暴力だよ」
その声には初めて人間らしい感情が交じっていた気がする。
本当につまらなそうに、ミコトは続けた。
「力だ。一定の水準以上の暴力が一つでも多く欲しい。聞いたぜ、"虹色"と流星"を手玉に取ったそうだな」
一呼吸おいて続ける。
「俺は戦争を起こしたいが、勿論勝たなければ意味はない。そして人ではどうあがいても龍には勝てない」
「ですね」
「数こそ勝っちゃいるが、奴等の鱗に掠り傷付けられる人間がどれだけいる。百人に一人もいない。倒せるものと言うのならいわんや、だ」
「ええ」
「"翼天の日"に確認できた数だけでも絶望的だ。なあどうもな、人類は滅ぶようだ」
それを今度は楽しげに笑って言った。よく分からない奴だ。ただそんな時にも書類の文字を追う目はどこか濁っている。
それを見ていると、ぞくり、と何かが背中を這い上がった。
「──期待しているよ、シン」
ミコトが、こちらを見据える。やはりその目に体が冷えるようだった。
「……どうした?」
ふと、ミコトが訝しげな声を出した。
その声は聞こえていたが、ハルユキは黙ってミコトを見据えていた。
まだこいつは若い。
名前からしてアジア人の血が濃いのだろうが、それにしてもまだ三十路を迎えたか否かと言ったところ。
何に驚いていたかはよく分からない。
ただ、その仄暗い雰囲気が、この男のこれまでの人生の風景を映している気がした。
「……返事は、今すぐ必要ですか?」
「いや、ただ時間があまりないって事は言うまでもないよな?」
「ええ」
「話ってのはそれだけだ。もうこちらから呼ぶことは無いが用があればこの店を訪ねろ」
メモを渡してから"他に何かあるか"、と事務的な声で尋ねたミコトの声にハルユキは首を振った。
あまり時間が無いのはハルユキもだが、この男に至っては秒刻みのスケジュールだろう。
「ああ、そうだ……」
一礼して部屋を出ようとしたハルユキの背中にミコトが声を掛けた。
「お前、"神の血"って知ってるか?」
「……いえ。聞き覚えはないですね」
「ならいい」
ハルユキの返事を聞いて直ぐに手元の書類に視線を戻したミコトを、もう一度だけ見てからハルユキは部屋を出た。
扉の前に立っていた先程の男の先導に従っていると、いつの間にか外の景色の中にいた。
「ふむ」
色々と考えた。
この話のメリットとデメリット。
こちらだけが気付いているメリットもあるだろう。あちらがひた隠すデメリットもあるだろう。
こんがらがってきた。
「ええい」
肩が凝ってきてハルユキはすぐ真上に飛び上った。
一息でハルユキの体は街の喧騒も届かないほどの高さまで到達する。
「さて……」
一瞬だけ感覚神経を鋭敏化し、辺りに尾行者の類がいない事を確認して、再び落下した。
着地したのは、大通りのど真ん中。
外套がはためき、辺りの人間は何事かとハルユキの方を見る。
その後直ぐに地面を蹴り、丁度屋根の間の辺り──地上から五メートルほどの場所を滑空するように進んでいく。
一般人でも何かが通ったと分かるほどの速度。
風も抑えているため、ハルユキがすれ違った人間達は皆振り向いて目を丸くし、ある者は感心したように口笛を鳴らした。
ハルユキは──と言うよりこの白面の格好は象徴だ。目立ってナンボ。
跳ねて、回って、踊るように町中を疾駆する。
「はっは──!」
何のかんのと言っても、こんな速さで走り回るのは楽しい。
吹き飛んでいく景色は色とりどりで鮮やかでいつまでも見ていられるようだ。
だから、いつの間にか到着していた。
急停止する。
地面は割れない、風が吹く事もない。ナノマシン駆動異常なし。空は快晴、事も無し。
「よし、テンション上がった」
ハルユキが突如現れたようにしか見えなかったのか、ギョッとしている周りの人間の間をすり抜けてそのオープンカフェのテラスに腰を下ろした。
「それは何より。さて、次ですな」
そこに待ち構えていたコドラクが、紅茶のカップから口を離す。
置かれたカップがかちゃんと鳴った。