奇跡の子
すいません遅れました
「ああ? "最強"? ウチの大将が?」
「だ、だって、"戦猛"なんて大仰な名前付いてるし……」
「そりゃあ、力比べなら負けんし、個人でも強いがな。人間の範疇だろ」
言いながら、"戦猛"ヴァスデロス・ロイ・サウバチェスの配下である武官は酒を煽った。
「ま、また……」
「薄めた酒だよ、良いだろコニー」
「元老の爺達から小言を受けるのは俺だ……」
ヴァスデロスが納める鉄国アスタロトは深刻ではないにしろ、慢性的な財政難が続いている。
だからこそ唯一誇れる屈強な戦士で稼がなければならない。
「でも、それが……」
「まあ、ウチの大将の話は置いといて。個人の強さかぁ……」
言って男は立て掛けてあった黒槍をおもむろに振る。
その刃先は妖しく光り、通った軌跡が血の色に染まった錯覚さえ起こした。
「ビビるなよ。コニーは臆病だな」
「……慣れてないだけだ」
"黒刃戦士団"。
数年前までアスタロトが誇っていたのは"戦猛"の名ではなく、この64名からなる戦士団の名だった。
その長であるこの男もコニーから見れば十分人間の範疇を越えている。
「まずは"聖猊"──いや、"魔女"ウィーネ。最強と言う名がこれ程似合う人間もいないな」
「最強が、女なのか?」
「何故か総じてな。続いて候補に挙がるのが"紅蓮の姫"だし。お前も見ただろ?」
「確かに、ヴァスデロスをけっ飛ばしてた」
「蹴っ飛ばされたのか? だはは、よくやる」
言って、戦士長は酒を煽るとあろう事かコニーにも笑顔で勧めてきた。
睨んでやると、肩をすくめて笑う。
「しかしな、実際闘ってみなくちゃわからないし、それに未知数で、しかし明らかに異様な奴らもいるんだ」
「……例えば?」
「"魔法使い"アラン・クラフト。こいつが実在するってんなら、俺は本当に怖い」
確かに、それはコニーにも理解できた。
絵本や寓話に登場する人物だ。他の物と比べて、こう──何か得体の知れない異質さを感じる。
ごくり、とコニーは喉を鳴らしたが、それを戦士も馬鹿にしない。
「あと不気味と言うなら"国食み"。しかしこれは死んだらしいからな」
「じゃあ、殺したっていう……」
「いやあそいつは実際に見てもいないから分からんけども」
楽しそうにくつくつと戦士長は笑った。
「んで、龍谷人」
「龍谷人?」
意外な名前が出て、コニーは首を傾げた。
"世界会議"の浮きっぷりから、その名前は想像できなかった。
「強えよ。龍の血が入ってんだぞ? 魔法も使えて龍の能力も使えて、体も頑丈。化物だ」
「でも」
「それに、生き残ったんだ。四方を龍に囲まれた状態で。怪我一つ、してなかったそうだ」
その辺りで、コニーは真面目に聞くのをあきらめた。
この戦士の顔が、子供に怖い話を聞かせる大人の顔になっていたからだ。それに気付いたのか、悪い悪いと笑いながら、話を戻す。
「あとまあ、最近出てきて分からんがこの国の"鬼子"、"虹色"、流星"。あと古参の"唯剣"なんかも強い」
「"聖猊"と"魔法使い"に加えて、その戦力か……」
「"薬師"とか"比翼の赤子"なんてのもいるらしいぜ」
ひっきりなしだ。と、コニーは呆れた。
とにかく天下一を決める戦闘大会でもおっぱじめなければそんな物は分からないという事は分かった。
意味がない。
あるとすれば戦場で会いまみえることくらいだろう。
しかしその場合、個人の力以外の要素が間違いなく入り込む。故に、意味はない。
「ああ、あと」
立ち去ろうとしたコニーの背中に、戦士長が語り掛ける。
「いるぜ。絶対最強だって言い張られる奴」
「……? どういう?」
「そいつを知ってる奴はな。絶対そいつ以外の名前は挙げないんだと」
「今のアンタのように迷って名前をいくつか挙げるようなことはしない、と?」
「らしいぜ。"鬼子"の姫の名が売れる前には名前があったが、それでも最近なんで特徴は不明だ」
鬼よりも、龍よりも、魔法使いよりも、魔女よりもな。と戦士は言った。
曖昧な話に、コニーは思わず顔を顰める。
「どこの国だ?」
「知らん」
「また女か?」
「知らん」
「名は?」
「知らん」
びきり、と額に血管を浮かび上がらせて、コニーは口を開こうとして──止めた。
「ただ"神の血"って呼ばれてるんだと」
戦士長の顔から笑みが消えていた。
◆
──ほぼ同時に、俺達は踏み込んだ。
どん、と互いの足が交差するまで軸足を捩じり込む。
初手、こちらの右拳打ち上げ。
同じく初手、敵方、亜型の揚炮──すなわ左拳の打ち上げ。奇しくも同型の技。
──否。敵の拳は手刀に変わり、腕に絡みつく様に脇腹を狙う。
二手、それを打ち払う。手ごたえは軽い。
敵方二手、軸足を右足に転換。下から抉り込むように肘を突き上げる。
三手、その肘を上から拳で叩き落とす。そのまま腕を畳み、逆に相手の米神を肘で打つ。
敵は体勢を崩している。避けきれない。
──あろうことか。肘を肩で受け、彼女はぐるりと縦に回った。連動して左上より右の浴びせ蹴りが降ってくる。
三手、寸でそれを避け拳を握る。
敵方三手、遅れて左の踵も側頭を狙う、──否、先ほどの右足が膝蹴りとなって跳ね返った。その様は大きく広げられた咢のよう。
四手、回避は最小限。彼女の股を軽く押す。自然両者の距離が開き、目の前で踵と膝が交差し、空気が唸る。
五手、目の前の無防備に浮いた体に拳を添える。密着した状態より貫通力のみを放出する。所謂寸勁。亜型"裏当て"
転じて、拳が降られる直前、腰出会ったその場所に拳が添えられる。
驚く間に込められる力にさらに驚嘆。
また奇しくも、同種の技。
──否、敵は地に足が付いていない筈。──また否、左手からいつの間にか伸びた棍が申し訳程度に地面に触れている。
有り得ない。
棍はただ地面に触れているだけだ。加えて、敵の窮屈な姿勢。
しかし、その気配が敵の攻撃の危険度を確信させる。
一瞬ののち、衝突。
空気が微かに波打ち、肉が軋み、骨が軋み、地面が軋む。
──驚いている暇はない。
彼女はふわりと空に逃げ、対してハルユキは力任せにその場に留まった。
優劣はない。ただ、なぞった技術の違いが浮き彫りになっただけ。
一秒の半分で、第一局が終了。結果は分けられた。
そして一呼吸ののち、第二局。彼女がまだ宙に浮いている中、二人の視線が交じった。
「────……」
彼女にとって空は隙ではない。
故に脱力して機を待つ。
厭らしくも、着け狙うは。
彼女が、着地する──その瞬間に、筋肉を巡らせる──のとほぼ同時に変調した呼吸の、その間。
速さはない。ただ、影が滑るように音もなく何気なく。
潜り込む。
「────ッ!」
するりとハルユキの体は着地する寸前の彼女の懐の中。
ぱしん、と地面に着く寸前の足を払った。
歩法は"影踏み"。その発展"水影憑き"。
ぐるりと水面蹴り。もう一方の足も強く払う。
完全に宙に浮いた相手の手を取り、腕を極めながら流れのまま地面へ振る。相手を俯せに。片膝を相手の重心に叩きおろし自由を奪う。
そう決まる技だったが──。
彼女を投げた瞬間、その手応えの軽さに驚く。
「ち──」
また棍だ。
ぐん、と棍で地を蹴って彼女は自ら宙を飛び、空中で反転したのか極まった腕を解きながら──。
しかしさせない。
こちらも体を回転。腕を極めに掛か──。
──目の前。眼前、顎の下。
既に棍が迫っている。
「ちィ──ッ!」
すんで、いや、薄皮一枚を持っていかれる。
たたらを踏むように後ろに下がると、敵もまた顔を歪めながら後ろに跳んでいた。
そして、一呼吸。
再び対峙し視線が交錯する。
(お、おいおいおい……)
強い。
強過ぎると言ってもいい。
ラカンには劣るが、立ち上る気焔は、油断も恐怖もないその雰囲気は、聖人かと見紛ってしまうほど。
底が見えない。
恐らく本気で戦えば、ここ等一帯が更地になるだろう。
しかしふと、緩んだ空気が満ち、緊張が解けた。
見れば、彼女は少し腕を庇っている。対してこっちは薄皮に触れられただけ。第二局はこちらの勝ち。
「驚きました」
続いて第二局、とハルユキは構えようとするが、突然彼女──タツミ・コウリュウは口を開いた。
見れば興奮したように頬が上気している。
いや、程度の差はあるがそれはこちらも同じだった。短い間に恐ろしいほどの集中力を使った。
「武技でのみならば、随一だろうと自負していましたが。世界は広うございます」
痛めた右手を軽く振りながら、彼女は苦笑した。
空気が弛緩してしまったのを、ハルユキも感じた。
名残惜しいが、体から力を抜く。
「こっちの台詞だよ」
見れば左手に持った棍が三つに分かれている。三節棍にもなるのか。頑丈さも損なわれていない。思わず掠らされた顎をさする。
「"龍顕流武闘術"師範、タツミ・コウリュウです」
「……龍顕流」
「ちなみに今ご覧じたのは『咢の相』、『爪の相』、『靱尾の相』と言われるもので」
「ああ、なるほど……」
彼女は身体能力も高い。
ならどうしてこんな技術を身に着けたのかと思ったが、なるほど。
──象形拳。あの龍のように雄々しく戦いたいと、誰かが願い作り上げたのだ。
じっとこちらを見る、彼女の視線に気づく。
「あ、ああ。俺は我流だよ。名前は──」
思わず名乗りそうになって口を噤む。
「構いません。しかし我流ですか、一代でここまでとは……」
「俺長生きだから」
「看板は立ち上げないのですか。その技を後世に伝えないのはあまり惜しく感じます」
「……そ、そう?」
長い時間だ。
一つ技を完成させた後に、ふと流派を立ち上げることになったらどうしよう。やばい、だったら技名だと奮起したのも無駄ではなかったという事か。
「……もう少し、技比べに浸っていたい気持ちではありますが」
そう言って、またタツミ・コウリュウは苦笑した。
「不幸にも、我等の立場は無垢に遊びに興じれるものではなくなってしまいました」
「……力もな」
そう言うと、少しだけ彼女は驚いた顔をして、また苦笑した。
彼女の本来は"世界会議"で垣間見せた、龍の強靭な肉体と魔力で辺り一帯を尽く殲滅する広域攻撃であるはずだ。
一対一で光る技などいらず、ハルユキもまた倒そうと本気で考えるならば技など必要としない。
つまり所詮、遊びでしかなかった。
「しかし、それで伝わる物もあります」
そう言うと彼女は棍を腰帯に差して、拳と手の平を合わせ膝を付いた。
「その実力。失礼ながら、我が祖を退けるに足りると見定めさせていただきました。地上の神よ」
「……つまり?」
「突然の無礼です、同盟とは申しません。ただ私共は信じられない。あの気高き龍獣達があのような愚行に出るなど」
概ね、狙い通りの展開だった。
はっきりと行ったわけではないが、彼女に向けて放った言葉があったのだ。むしろ来てもらわなければ困る。
「"本当の敵"。その言葉を私に向けた真意を教えて頂きたい」
「……ええ、待っていました」
膝を付いた彼女にとりあえず、手を差し伸べる。
「会わせたい人がいます。どうぞ、中へ」
手を取り立ち上がったタツミ・コウリュウに背を向けて歩き出す。
「裏口からでも?」
「構いません」
ふと見ると、入口の手前にサヤが佇んでいた。
目を伏せ、ハルユキが近づくと黙って扉を開け、また目を伏せる。ぼそりとハルユキはその耳元で呟いた。
「予定にはないが、敵陣にまで踏み込んでくる誠意を買いたい。あいつに会わせようと思う。応接間に行く」
「承りました。ロウ殿は今出掛けておりますが」
「丁度いい。とりあえず戻ってくるように連絡を入れてくれ。リィラとコドラクに異存が無ければそのまま会わせる」
「は」
タツミ・コウリュウが目を伏せたサヤの前を通り過ぎると同時、するりと彼女はどこかに消えた。
そしてまたその瞬間、音もなく設置された監視カメラがこちらを向く。
魔法技術での監視技術もあるどうだが、だからこそ機械技術が活きるだろう。
ふと妙な気配を感じて、振り返るとタツミ・コウリュウが不思議そうな顔で辺りを見渡していた。
するとすぐにこちらの視線に気づいたのか、また拳を合わせて礼の姿勢を取る。
「あ、いえ。人の気配が余りにしなかったので」
「ああ、私達は8人しかいないので」
「は、8人……?」
ハルユキ達を除くと、一番少ない手勢がこのタツミ・コウリュウだが、それでも20人前後は居たはずだ。
その他、例えばビッグフットやヴァスデロス達になると、壁内だけで五千以上の手勢を従え、更に壁外に一万相当の兵が野営している。
最も、戦闘行為はユキネの奴に禁止されているが。
小国で、ミコトの手を借りてやっと出席してる国名でも数百人程度の兵は用意しているだろう。
それを考えると8人などと言う人数は確かに馬鹿げている。
(しかもその内三人は子供っていう……)
それもあのチビ共、さっきから何か足元で不穏な事をやってやがる。爆発音が混じっているのは気のせいか。
それは後で問い詰める。
こちらに影響がなければいい。
せっかくサヤが掃除を終えたのだ。異常な速さで。
いくら休息を必要としないとはいえ、サヤの働きは全く人智を超えている。ハルユキも馬車馬のように働かされてはいるが、どうにも文句も言えない。
「こちらへ。少し手狭ですが」
「いえ」
一階に備え付けてあった応接間に、彼女を誘導した。
実はハルユキはこの部屋に一度も入っていなかったので、中もまた慎ましい程度に調度品が置かれているのを見て、サヤの働きに舌を巻く。
「飲み物を用意しましょう。何分人が足りないので私が淹れたものですが」
「ああいえ、どうかお構いな──」
扉を開けて、彼女を中に誘導しながら話していた。
その会話が不意に彼女の側から断ち切られた。
何事かと彼女を見れば、言葉を途切らせて開いた口はそのまま、大きく目が見開かれる。
ハルユキもすぐに気付いた。
耳を澄ませるまでもなく、隠そうともしない荒い声が背後にあって。
振り返るまでもなく、報を受けてただ全力で駆け付けた男が立っている。
「タツミ──」
「ッ止まれぇ──ッ!!!」
流石と言うべきか、驚きにも彼女の硬直は一瞬のことで、それが一歩踏み出すやいなや弾かれるように距離を取り、棍の切っ先を突きつけた。
◆
"最初の子"タツミ・コウリュウは切望されていた子供だった。
龍と人の友和を目指した架け橋は、何よりその子供だと皆が考えていたからだ。
とは言っても、それが可能だと思われてはいなかったので切望されていたのは夢物語の中でだけ。
必要に応じて作られたわけではなかった。
だからこそ、その誕生は驚きと喜びに満ちていた。
問題は、大して切望はしていなかった霊龍が勢いだけで子を為した事だった。
そして救いは、その母親が非常に温厚で、しかし頑固だった事だった。
そして、明らかに異端である彼女の為に"龍の谷"は作られた。
母親に振り回されるようにして、父が作ったのだ。
父は霊格だった。
結局、最期まで父は母に愛を伝えなかったらしい。
理解していないだけよ、と母は笑って言っていた。
貴女を初めて抱き上げた時も、ただ目を丸くしていたのと、自慢げに言った。
自分に向いている愛を確信できるのは傲慢に思えて、でも不思議と羨んだのをタツミは覚えている。
数十年に一人程の頻度で同じような人が現れた。
タツミに友人が出来る度、妹や弟のような存在が出来る度、彼は喜ぶと言うより困惑していたようだった。
人も龍も、同じ場所にいたからだ。
季節は移ろい、彼女は成長した。
彼女はの人生が30年目を刻んだ時、彼女は父親から里を預かった。
彼女の体は人間のように成長が早く、龍のように衰えを知らなかった。
母が死んだ。
殺された。
某国に人間に巨大化する龍谷を恐れられてのことだった。
人質に取られ、死んだ。
その死体を見て、ただ父は目を丸くしていた。
国は滅んだ。
半日で属国も隣国も、まとめて消し炭にされた。
それでも父も傷を負って、でも、タツミ達を恐れるようにしてどこかに去った。
子を為せるのは人の姿を持つ霊龍か、野生に疲れた高齢の古龍のみ。
皆は父と違って愛情をもう少し理解していたが、足りなかったのかもしれない。
村は荒れた。
龍が人を、人が龍を恐れるようになった
人を纏めていた母と、龍を纏めていた父がいなくなったのは大きかった。
けれどその二人がいなくなった影響が大きかったのは、タツミの方だった。
次第に村が分かれていった。
しかしそれでも頑なに一緒に居ようとする龍と人達もいた。
タツミは事あるごとに母の言葉を思い出すようになっていた。
仕方ないと、彼女は言っていた。
恐れる人がいるのは仕方ないと、避けてしまうのも仕方ないと。でもそんな物は話してしまうと意外とどうにかなるものだと言っていた。
でもまた、それでもできない事があるとも言っていた。
タツミは父の姿を思い出した。
幼子であった時の自分よりも人としての感情を理解できなかった父の姿。
言葉少なに、しかし言葉などいらない程に雄々しく龍達を纏めていた。
そしてふと、その二人の血が自分の中にだけ息づいている事にタツミは気づいて、立ち上がった。
父の背中を思い出す事は、まるでそこに至るまでの道標に思えた。
母の言葉を思い出す事は、体に蓄えた栄養をゆっくりと消化していくようだった。
そして、龍の谷は奇跡の国として、繁栄した。
◆
「──どうしてッ!!」
娘のその言葉は父にに暴力的なまでに響いた。
傷だらけの格好で世界を彷徨って、とある国で見つけた桜の森はとても自分と波長が合った。
しかしもっと珍しい人種である人に出会って、でもその時はよく分からなくて眠りについた。
その間ずっと考えていた。
そして、今は少し分かったつもりだった。
ロウは一歩前に出る。
「すまなかった」
謝って許してもらおうとする事が身勝手だと思った。
虫のいい話だと思ったし、許してもらえるとも思ってなかった。それでも第一声はこれしか思い浮かばなかった。
タツミは少しだけ目を丸くした後、それでも棍を構え直した。
「……説明をしたい。お前には俺から言わせてもらえるよう頼んだんだ。どうかもう一度だけ信用してほしい」
あくまで理性的にあろうとロウは務めた。
その言葉に彼女は打ちのめされたかのように、表情を変えた。
しかしそれは断じて、好意的な感情からではない。
ゆらりと部屋の景色が揺れた。
漏れ出した彼女の力は、陽炎に囲まれたかのように四方の景色を歪ませる。
「……アズマを覚えていますか?」
「……ああ」
「言葉を交わそうとして、引き裂かれました」
憶えている。
タツミの一番初めの友人だ。ロウが憶えているのは十歳下の男の子の姿。
ロウは目を丸くした。
「アカツキは、知らぬうちに半身だけ広場に転がっていて」
女の子だ。
タツミが妹のように思っていて、それ以上にタツミの事を姉として慕っていた事だけ覚えている。
「ミタマとクラマは、いつも一緒に遊んでいた幼竜の胃腑に収まりました……!」
何だったか。ああ、初めて龍の里で生まれた双子だ。赤子の姿しか、憶えていない。
「……何人、残った」
「人間が15名。竜人は私だけです。その数名で谷を逃げ出しました」
「なっ……」
ロウが居た時点で百名足らずは居たはずだ。
その後の数百年で栄華を誇っていたはずだ。二年前遠目に見た時も、一国として相応しいほどの規模になっていたはずだった。
ふと、ロウはタツミの視線に気づく。
皮肉気に自嘲するその表情が、瞠目するだけの自分に呆れているかのように見えた。
「龍谷は、既に滅んでいるのです」
昏い目を、タツミはしていた。危機感がぞわりと背中に走る。
「違ッ──、タツミ、聞いてくれ……!」
「言われました。逃げ込んだ街で。お前等正気なのかと」
「────ッ!」
「龍の国が滅んだ事を妄言と思われたからではありません。竜が家族などと正気かと、聞かれました……」
彼女は傷だらけだった。
その強靭な体に傷はなくとも、彼女にとって最も大切な部分が駄目になっていた。
"最初の子"として、"奇跡"の体現者として必要だったものが。
もうどうしようもないほどに、ぐしゃぐしゃに壊れてしまっている。
「あれは獣だと! 敵だと! 気持ちが悪いと! せいぜい主従を争う事しかできないと! 私達はそう言われて──!」
がくんと、彼女は膝から落ちた。
膝にも力が入らないのか、そのままぺたりと尻もちをつきへたり込んだ。
もうだいぶ前から彼女の顔は涙と鼻水でぐちゃぐちゃだった。
「そう言われて、私達は反論もできませんでした。……理解をしたからです。理解を、してしまったから」
ロウの足元も覚束なかった。
タツミから溢れていた力は既に消え去っているのに、足元がぐらぐらと揺れる。
取り返しがつかないと口では言いながら、本当は自覚していなかったのかもしれない。
妻と一緒に作った集落は滅びた。
娘も、その絶対的な支柱が完全に壊れている。
あまりに全てが手遅れなのに、今更、自分は、この恥知らずは未練がましく何をしているのだろう。
(いつも……)
いつもそうだ。
何もかもが間に合わない。
時間は誰よりもあると言うのに、必要な時に必要な言葉も出てこない。
自分よりはるかに幼い古龍達がやっている事が、自分にだけできなかった。
妻を亡くして理解はしたつもりだったのに、やっぱりここに至ってもまだ、必要な言葉は出てこない。
「家族では、なかったからですか……?」
「え……」
「家族でなかったから、龍は人を襲ったのですか?」
違う、言うべきだったのだろうが、この時は困惑していて、喉は小さく震えるだけでその震えは声にもならなかった。
「家族でないから、姿が違うのですか……?」
掠れて、鼻水で詰まっていて、その言葉は子供のもののようだった。
切実に、迷子の子供のように不安で満ちている。
「家族でないから、食い散らかした後、龍達はさっさと集落を離れたのですか……?」
あやす言葉も、諭す言葉も出てこない。
自分は屑だ、そんな羨ましいものを持っていない。だから情けなくて、体が震えた。
「家族でないから、父様は母様に愛していると言ってくれなかったのですか……?」
頭が沸騰した。
沸騰して、何かが何かを許すなと叫んでいた。何かは分からない。言葉も出ない。
「家族でないから、父様は私の傍にいてくれなかったのですか……っ?」
揺らぎ続ける足元に、かすかな感触。
「私は……?」
タツミの手が伸びて、ロウの足を掴んでいた。
「……"禁忌の子"である私は、もう、誰の家族にもなれないのですか?」
────。
─────。
─────気付けば。
ロウはタツミの頬を挟むように両手を添えていた。
「……そんな事を言うな。お前はな、どっちの家族にもなれないんじゃないんだ。どっちの家族にもなれるんだよ」
この期に及んで、タツミの顔を見れなかった。
だから体温を伝えるために、そのまま抱きしめる。
「……守れなかったと、責任感を感じていないか?」
体に触れると、流れ込んでくるように色んなものが分かった
彼女は決して人側ではない。竜側でもなく、等しく中立。
「抱え込みすぎてないか?」
伝わってくる感触は暖かく柔らかく、そして随分と大きくなっていた。
控えめに背中に回された腕からも伝わる。
やっぱり分かっていなかった。
タツミに責められなければならないと思っていた。
しかし違う。責められるのは、こちらが彼女に謝る事ができるのは、妻に気持ちを伝えられなかった事と傍にいてやれなかった事だけだ。
「……わたし、何も出来なかったのに、償うべきなのに」
「うん」
「父様が現れて、生きていてくれて、嬉しくて……っ」
「ああ、俺も一緒だ」
信用してくれなんて言葉は邪魔だ。
彼女の家族は、自分だけ。
「全部終わったら、また一緒に家を作るぞ。タツミ」
この子は、この愛おしい娘は。
敵ではなく味方ではなく龍ではなく人ではなく禁忌の子でも奇跡の子でもなく。
自分の可愛い一人娘だと、そんな事に。
ロウは今更気が付いた。