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ハイイロ ノ カナタ  作者: mild
第三部
225/281

金の鬼

二話目です。


 その奇妙な戦場に"戦猛"ヴァスデロス・ロイ・サウバチェスは足を踏み入れた。

 辺りにもうもうと立ち込めている土煙は周囲の景色を見えづらくしているが、その惨憺たる状況は隠しようがない。


 抉れた地面が、水没した一帯が、未だ燃え続ける焦土が、先程まで繰り広げられていた戦闘の激しさを物語る。


「なんだ、これは……」


 隣でそう零したのはヴァスデロスの文官であるコニー。

 僅か十四で今の地位に就く優秀ではあるが、ヴァスデロスが治める"石国アスタロト"の国民だ。戦場を見たのは初めてではない。

 だからこそ、だからこそこの戦場の異常さが誰よりも分かるのだ。


 焦げた匂い、血の臭い、恐怖の匂い、狂気の匂い。

 どれもが戦場を彩る物であり、戦場を作る物であり、戦場そのものである。


 なのにそれらと同様に必ず存在するはずのそれがない。

 死の匂いだけが、欠落しているのだ。


「がはは、言っただろコニー。お前は見るのが初めてだろうがな。この国は、いつもこんなもんだ」

「本当、だったのか……?」


 "この国に巣くった鬼は、何者も殺さない"。

 そう教えてやると、コニーは明らかに動揺して瞳を揺らした。


「どうして……」

「さあなぁ。何か企んでるのかもしれぬし、裏切り者なのかもしれぬし」

「お前は嫌いだろうな……」

「いや、虫酸が走るだけだ」


 野太い声が殺意を含んでコニーの頭の上から降ってきた。

 顔を上げれば髭面で厳つい体をしたヴァスデロスが恐ろしい物でも見るように眉根を寄せている。


「ああしかし、気持ち悪ぃなぁ」


 コニーはそれを本気で言っているのか測りかねて、結局逸らすように視線を前方に広がる戦場に戻した。

 平坦で広い土地だ、元は畑が広がっていたのだろう。

 しかし巨大な龍達に踏み荒らされ、戦いの地となってしまった今ではかつてあったはずの長閑さは既にどこにもない。


 転がっているのは、龍の体。

 見上げるほどのヴァスデロスの体より更に大きな体の龍達がそこら中に倒れ伏している。

 羽を裂かれ、鱗を割られ、爪と牙を砕かれて。

 しかし、生きていた。当然だが、ただ殺すよりよっぽど難しい所業である。



 粉塵の中をいくらかき分けて進んでも、同じ光景が続いていた。

 小山のような巨躯を持つ古龍達が横たわって荒く息を吐いている。

 傍を通る度に睨め付けてくる眼光が鋭く、そしてそれ以上にその奥にいるはずの何かを際立たせる。


――瞬間。目の前の粉塵がたち消えた。



〈――――ッッァオオオ!!!〉



 現れたのは、周りの龍達より一回り大きい古龍。

 苔むしたような深緑の体。何より特徴的なのはその前頭部に構えた太く長い一本角。


 しかしその勇壮な姿は壊れかけていた。

 ボタボタと口の端からは血が混じった涎を垂らし、綺麗に体を覆っていた鱗は所々で剥がれ落ち、ボタボタとそこから流れる血が地面を汚す。


 その体は前足だけでヴァスデロスより優に大きい。


「ああ、気持ちが悪い」


 ずん、とヴァスデロスは地面を踏み砕く。

 一瞬遅れて、古龍も急かされたかのように地面を踏み抜いた。ヴァスデロスの頭上から、その一撃は周囲一帯の大地を大きく揺らす。


 しかしその一撃は己の十分の一もない小さな体に受け止められた。


「気持ちが悪い――」


 当然、ヴァスデロスのその"小さな体"は途端に悲鳴を上げた。

 人間の体はそもそも龍と渡り合えるように作られていない。そもそも、"腕力"だけで龍の攻撃を受け止められるのはヴァスデロス以外には存在しない。


 しかし、ぐん、と龍の体が持ち上がる。

 途轍もない力で投げ飛ばされたと龍が気付いた時には、既に無様に腹を空に向けていて、その視線の先には振り上げられた巨大な剣があった。


「――だから疾く、死に去ね」


 片手で持ち上げられたその巨剣は、切り裂くと言うよりも切り潰すことに特化していて、切っ先さえない長方形の形をしていた。

 すり切れた柄から、ぬらぬらと光る刀身から、血の臭いを撒き散らして。


 その剛剣が振り下ろされる。

 空気を引き裂き、鋼鉄を拉げさせる一撃が――。



「ぬ――」



――突如、横合いから放たれた一閃に、はじき飛ばされた。


 乗せられたエネルギーなどまるで無視するかのように、ヴァスデロスの剣ははね除けられる。

 ビキビキと腕が悲鳴を上げるが、それでも顔色一つ変えずにヴァスデロスは剣を掴んだまま、ゆっくりとその攻撃がやってきた方を見た。


 敵の姿はない。

 遠く離れた場所からの、距離を無視した一撃。ヴァスデロスには覚えがある。


「ヴァスデロス・ロイ・サウバチェス、直ちに武力行為を停止しろ」

 

 その一撃は蔓延していた砂塵を切り払い、ゆっくりとその声の主の姿を露わにしていく。

 淡い朱眼。長い金糸の髪。


 そして両の手にそれぞれ握られた、その端正な顔には不似合いな厳つい"大剣クレイモア"


「そりゃあ、この俺様に命令してるわけか?」

「そうだ」

「従わなければ、どうする? 罰がなけりゃ強制力なんぞないぞ」

「貴様を国家間条例法二十二項に基づき、拘束・監禁する」

「……へぇ」

 

 コニーは思わず息をのんだ。

 その言葉にではない。ヴァスデロスの攻撃をはね除けたその力にではない。



――それを為した女が、血まみれで立っている事にだ。



 がしゃん、と振られた剣がそのまま力無く地面に落ちる。


 それなのに女の手は剣を離さない。

 それなのに女は歩を進める力もない。よく見れば、その片方の足が折れ曲がり紫色に腫れ上がっているのが見える。

 それなのにその顔には焦りがない。迷いすらもない。ただ凛然と己が目的に邁進している。


 あまりに自分と違うそのあり方に、コニーはすぐに気付いた。

 自分とは真逆、自分が正しいと信じていなければ、こんな目は出来るはずがない。


 正しいものなど世界にない事を、知らない目。


「言ってくれるな、小娘」


 ヴァスデロスが剣を握った腕に再び力を込めた。

 ゆっくりと、女がそれを見てヴァスデロスに焦点を合わせ。


 そして、ぽつりとコニーが零した。



「……気持ち、悪い」



 ぴたり、と二人の動きが止まった。

 コニーの顔には驚きが浮かんでいるわけではない。悪意すら微塵もなく。ただ、嫌悪感と気色の悪い汚物でも見るような顔を女に向けていた。


「コニー」


 ヴァスデロスは怒りを収めて、参ったかのように頭を振り、対して女は――。

 少しだけ、誰にも分からないように少しだけ、瞳を揺らした。


「……悪く思うな。俺たちはもう仲間を殺されて、敵を殺した」


 砂塵が完全に晴れていく。

 晴れ渡った茜色の空の下、龍の巨大な体がそこら中に転がされている光景はあまりに異様で、しかし、ヴァスデロスは気にもせず横切っていく。


 一度だけ立ち止まったそこは、うずくまった女の目の前。

 

「お前は、気付いていないわけではないだろう」


 平和呆けした世界は、血塗られていく自分達の足下に気付いてもいない。

 自分達の世界が欠け始めていることに鈍感だ。


 死を目前に、隣人の屍肉が挟まった龍の黄ばんだ牙を目前にするまで、きっと馬鹿共は気付かない。


「それでも、まだ続けるのか」


 立ち止まって、ヴァスデロスは俯いた女を見下ろす。

 ヴァスデロスは静かに女を見下ろし、女は視界に入っているであろうヴァスデロスの足下を見つめたまま。


「諦めろ。敵を殺して、家族を抱け。二本しかない人の手に出来るのはそれだけだ、他にはない」


 ヴァスデロスが立ち止まったのは一瞬で、それでも蹲った女と巨人のようなヴァスデロスの違いは印象的。

 大きさだとか、覚悟だとか、迷いのなさだとか。そう言ったものが。


「遺恨もあろう。憎しみも溢れているだろう。もう戻れん。だから、お前は"毒"だ。誰にとっても死を振りまくだけの」

「黙れ」


 ようやく応えた女の言葉にヴァスデロスは小さく息を付いた。

 そこでヴァズデロスは顔をあげ、辺りの惨状をぐるりとその太い首で見渡した。


「二百体を一人で、か」


 かかか、とヴァスデロスは笑う。

 ただ下がった目尻の下で、確かに侮蔑と畏怖と、そして憐憫のような色を隠さない。


「狂ってやがる」


 駆け寄ってきたコニーを引き連れて、ヴァスデロスは女の隣を横切っていった。

 するとふと、目前に知った顔が並んでいることに気付く。


 その、目の下に深い隈を抱えた不健康そうな顔のチビの方が億劫そうに口を開いた。


「よう、ヴァスデロス……」

「ん? ああ、豆。なにやってる」

「そんな安易な名前で俺を呼ぶんじゃねぇ筋肉達磨。輸出止めんぞ」

「よぉ、ヒル! お前まだこんなチビの下にいんのか! さっさと捨ててうちに来い!」

「ゴリラめ……」

「貴様の国は飯が糞の味がする」


 やれやれと頭を振ってチビがでかいヴァスデロスの体から頭を出して、まだ座り込んだままの女――いや、少女を見た。

 打ちのめされているのか、ただ次の行動の為に機械的な安息を取っているのかは、その背中からは読み取れない。


「……いいのか、あれ」

「ああ」


 ばさばさと大仰な黒い外套を揺らして、ヴァスデロスはもう振り返らない。止まることも決してしない。

 ヴァスデロス・ロイ・サウバチェスは、どうしてもそういう男だった。


「どちらにしろ、もう時間切れだ」

「ああ」


 コニーがヴァスデロスの背を追い、そして程なく残った二人もその場を後にした。

 残ったのは、呻き声に怨嗟を交えて唸る龍達と、それはそれは綺麗な少女が一人きり。




     ◆




 高い城壁の上はいつも強い風が吹いている。

 今日もまた、ここに居るのは間違っているとばかりにフェンの小さな体を砂混じりの風が横殴りにする。


 空は晴天。

 濃くなってきた夕闇の中でも、まだ地平線が見えた。

 そしてまた、そこら中に散らばった龍達の体も、それを一人で引き摺っている少女もだ。


 いくら精霊獣任せと言っても、一人であの数を内々に収容するのは時間が掛かるだろう。


 今まで襲撃してくる龍の数は多くても精々20体~30体ほどだったから、隠しきれた。


 だがもう噂では済まされない。

 鬼姫が龍を殺さずに地下で監禁している事実は、公衆の元に晒されてしまうだろう。


(最低だ……)


 ここは、強風で立っていられない。

 だからフェンは頭からすっぽりとフードを被り、膝を抱え込んで座ったままずっと外を見つめていた。


 そう、"ずっと"だ。

 龍の襲撃が通告されて、そして、ここまで走ってきて、今まで。


 "ユキネが血に塗れながら戦っている光景を"。"ずっと"。


 浅ましい。本当に浅ましい考えだった。

 古龍を500体。

 今までの様子見の襲撃とは違う。本気でこのメロディアに打撃を与えるべく放たれた古の軍勢。

 勝てるはずがなかったのだ。たかだが弱い女の身一つで。


 すぐに加勢しようと飛び出したジェミニを止めたのは、自分だ。


 本当に、浅ましい。

 勝てるはずがないと思ったのだ。たかだか弱い、女の身一つで。


 一年前から加勢も許して貰えていない。怪我の治療さえさせてくれなくなった。


 だからもし。もし、窮地に陥った時、助けに入れば。

 いや、もし少しでも助けを求めてこちらに目を向けてくれれば。

 それだけで。

 助けに入って。

 そして叶うのならば以前のように。

 そう、思った。


「……ごめん」


 そして、結果はこれだ。


 彼女は一人で戦い、必要ならばと更なる力を見せつけた。

 新たに手に入れたあの力は、まるで鬼神のような。しかし、どこまでも神々しく、泥臭い。


 清も濁も混じり合って、一人で完成しているかのような、そんな姿に見えた。


 取り残された自分に残ったのは、自分に対する嫌悪感と、友人が遠くに離れてしまった喪失感だけ。


 ジェミニもまた、そうだったのだろうか。

 最後の龍が倒れた後静かに姿を消した彼も、今は少し距離が遠い。


 何が駄目だったのだろう。

 ユキネの母に聞かされた話のせいなのか、それともそもそもが勘違いの関係だったのか。


「……うそつき」


 フェンは、ゆっくりと視線を逸らして自分の膝の中に顔を伏せた。


 風が強く吹いている。

 フェンは口に出した言葉を自分の耳で聞いて、自分でいやになった。


 2年前、誰が"あの人"をああしてしまったのか知っている。

 "あの人"が誰よりも強い事を知っている。

 一緒にいてくれると、そう言ってくれた事を忘れはしない。


 でも、"あの人"に頼りっぱなしは嫌だと、自分は昔そうも言っていた。


「どうして……」


 だから、助け求める自分を知っていながら、そんな自分が嫌になる。









    ◆






「っつ……」



 傷がしみる。

 回復が出来る魔法を使える人間に骨折と縫合が必要なほどの傷は治して貰ったが、細かいものまで頼むと時間が掛かりすぎて、駄目だ。


 いつも体は包帯だらけだが、おおよその時間を戦衣で過ごしているので、服の下に隠れてくれる。 


 痛みはある。

 痛みはあるが、人間の体は便利なものだ。


 2年間、毎日のように同じように過ごしていると、次第に邪魔にならなくなってきた。

 無くなる訳じゃない。ただ、どこか遠い所でそれを知覚するだけになって、その意味が消える。


 服の上から傷を握って、鈍く走った痛みにユキネは笑った。

 痛みすら感じなくなったら、いよいよ化け物だ。

 広すぎるほどのベッドの上に広がった治療道具を片付けて、ベッドの下に隠すようにそれをしまうと少しだけ目を瞑る。


 流石に今日の襲撃は危うい場面が連続した。

 

 先日、自分に発現したあの力。

 おおよそ、人間の物とは思えぬほど大きな強い力だった。


「……っ」


 もう一度先程よりもずっと強く傷口を握った。


 痛みがある、人間だ。化け物なんかじゃない。

 思わず出そうになった声を喉奥でとどめて、そんな事に執着する自分に小さくユキネは笑う。


 そして、なにをか振り切るように唐突にユキネは立ち上がった。今は動いていたい。


 もう春の終わり。

 それなのにユキネは無造作に椅子に掛けてあったコートを手にとって部屋から顔を出し外の様子をうかがった。


 もう日付はとっくに変わっている。

 だだっ広い廊下には静寂と少し冷えた夜の空気が漂っていた。


 それを確認して、ユキネは部屋に戻った。

 向かうのは再びベッドの下。備え付けてあったレバーを引くと静かにベッドの横に長方形の入り口が現れた。


 何の反応も見せずユキネはコートを羽織りながら、その申し訳程度に隠された入り口を潜った。

 僅かに曲がり続けているその狭い通路は、下に下にと階段が続く。


 そこにはやはり夜の冷気が充満していて、明かりと温度は手に持った燭台だけ。



 どれぐらい歩いたか。

 幾つかの分かれ道と隠し扉を通過して、やがてユキネはだだっ広い空間に出た。

 地下深くだからと盛大に作られたその空間は、面白半分に作ったのではないかと言うほどに大きい。


 上を仰いでみても、途中で暗闇に遮られて見えないし、途中途中で多く建てられている大きな柱はこの空間の広さも如実に物語っている。



『――――ァッ!!!』



 唐突に、獣の叫び声が聞こえた。

 いや、込められた怨嗟の思いを聞き取れば、それは罵声にも聞こえる。


 その声の源は、夜闇に消えている壁際から。

 何十、何百という数の声が両側から響き、暗闇に古龍特有の紅い眼が浮かんでいた。


 その声は雑音で済まされるレベルではない。

 下手をすれば耳が壊れてしまうほどの轟音となって部屋中に響いている。



 その悪意と怨嗟の中を、ユキネは前以外は見ないように進んでいく。

 吐く息は白い。この部屋は常に氷点下を保っているので当然の話だが。


 龍は基本的に寒さに弱い。

 当然、氷の鱗を持っているような希少種はその限りではないが、ほとんどが冷血動物として生態を残しているらしい、と。

 そう判明したのはここ一、二年の事だ。


 だから、いつもこの部屋は冬の温度。

 龍の活動を抑制し、眠りに促す工夫を取っているので静かなものなのだが、今日はそうじゃない。


 ただでさえ今日は新たに200体の龍を収容した。

 激しい戦いはこの地下の世界にも影響を与えたのだろう。




『また、来たのか』




 唐突に頭の上からそんな重々しい声が聞こえた。

 途端、周りの龍達の声がかき消える。その統率に、いや序列の絶対に少し背中が寒くなる。


 しかし、その声にユキネは少しだけ視線を上に上げ、その声に向かって再び歩き出した。



『愚かな事。実に愚かな事だ。我等の長命でさえ無聊な時は無いというのに』



 くつくつとその声は笑った。

 その声は高い天井の付近から、重々しく落ちてくる。ユキネはその言葉に返答するでもなく、ただただ歩を進めた。


 そしてやがて見えてきたその姿に、初めてユキネは顔を上げる。



『昨日ぶりだ、愚かな娘』

「ああ。まだ壁に張り付いてくれていて、安心した」



 見下ろしているのは、金箔混じる紅色の眼。

 鎮座するその巨大な体は銀色の鱗を携えて、その威風は捕らえられている事をまるで感じさせない。


 四肢に首に体に爪と牙の一つ一つに雁字搦めにされた鎖がなければ、誰もその事実に気づけないだろう。



 この龍だけは特別だ。

 特別に作らせた拘束具に、古の誰かが作ったのであろう力を常時奪い続ける牢に入れて、ようやく拘束に成功している。


 ユキネは冷たくなった牢の扉に手を掛けると、一歩だけ牢の中に入って後ろ手に扉を閉めた。



『ふん、人間にしては大層な鎖と牢だ。手を焼いている』



 九千年龍。

 ここに来るまでにいた龍が長くても三,四千年級だと考えれば、格の違いは嫌でも分かる。


 人の言葉を容易く操り、表情も遥かに豊か。

 しかしそれより何より、牢という防壁が無くなったユキネに掛かる得体の知れない大きな力が内包したその力を物語る。



「そう威圧しないでくれ。今日は疲れてる」



 しかし、それを打ち倒して囚われの身に落としたのは他ならぬユキネである。

 さして緊張もなく、押し潰されそうな威圧感も事も無げに受け流して、ユキネはその場に座り込んだ。


 冷たい牢の壁に背を付けて深く息を吐くと、白く霧となって空気に溶けた。



『貴様、また居座る気か』

「拘禁の条件に聴取と情報提供を確約した。1時間はここにいなければならんのさ」



 とは言った所で、もうこの龍と話す事など何もない。

 散々尋問は行ったし、頑なに話さないこの龍にはもう何も期待していない。


 なぜ龍が突然人間に戦争を仕掛けたのか、それすらもまだ分かっていないのだ。



『不遇な事だ。貴様とて王族の身、休む時間も惜しかろうに』

「……いや、そうでもない」



 そう言って、ユキネは石の壁に後頭部を預けて二度目の深い息を吐いた。

 代わりに冷たい空気が体の中に入ってきて、壁と接している部分からも体が冷たく冷えていく。



「今となっては、気を置かずに話せるのは此処だけだ……」



 ぽつりとユキネはそう零した。

 それは耳元で聞いていなければ聞こえないような声で、ユキネも無意識で零してしまったそれを後悔した。



『くっ──』



 しかしそんな虫の鳴くような声も、"この龍の耳に届かないはずがない"。

 くつくつとやはり龍は気どった仕草で笑う。しかし次第に口元がつり上がり、耐えきれぬと大声で笑った。



『愚か。聞こえていたぞ、貴様、己が周りからどう言われているか知っているか?』



 歌うように楽しげに龍は言う。



『友を遠ざけ、守ったはずの人間には忌み嫌われ、敵の目前か、火中にしか居場所もない。それでもまだ、敵も味方も守ってみせると?』

「そうだよ」

『愚か! 真に愚かだ。馬鹿な小娘!』



 龍は笑う。

 楽しくて仕方がないからだ。

 平静を装っているように見えて、ユキネの心に傷が入っていく音が龍には聞こえるようで。



『貴様は、殺された事を忘れろと言っているんだぞ?』

「そうだよ」

『貴様は、恋人を、家族を、あるいは自己を失った者に、悲しむなと言っているんだぞ?』

「ああ、そうだ」

『理解できぬ。理解もされぬ。だから貴様は畏怖され、忌避される。分かっているだろうに』

「ああ」



 ぐ、と龍はユキネに顔を近づけた。

 鎖がぎしぎしと悲鳴を上げる。もしかすれば、ここに囚われているのは酔狂ではないのかという程、事もなげに。



『我らのような理由も定かではなく襲ってくる者どもと、自分たちが死なない為に敵を殺せと叫ぶ亡者ども。貴様が守っているものはそんなものだ。美化するな』

「私は彼らが作ったパンを食べる。そこに文句はない」

『そうさ。麦を摘み取り、豚や馬は殺して食む。言葉を交わせるからと、選り分けるか?』

「……私は、龍は食べないよ」



 小さく笑ってみせたユキネに、龍はますます楽しげに口の端をあげた。



『娘よ娘。一人で狂い続ける哀れな娘。真実を教えてやろう』



 抱えた膝の中に視線を落としたユキネに構わずに、ただただ龍は言葉を投げかける。



『人はお前を倦み、世界はお前を疎み、嫌悪する』



 龍は細々と語る。

 その口から洩れる大量の白い息が、内包したその力を表しているかのようで。

 逆に、ユキネから洩れる息はか細く小さく、今にも息絶えそうな。



『哀れな狂った小娘の最期は我等の牙に引き裂かれるか、救った者どもに後ろから刺されるか』



 龍は大きい。その鼻先だけで、ユキネの顔よりずっと大きい。

 ユキネは小さい。その顔は、龍の鼻先ほどしかない。



『そんな小さな体で、我等まで守れるなどおこがましい』



 もう少しだけ龍の顔がユキネに近づいた。

 見下ろすわけでもなく、ついに同じ視線の高さまで。



『聞こえている。聞こえているとも。貴様は、間に合わなかった』



 静かに、その巨体から発せられているとは思えないほど、静かに慎ましい声で龍は続けた。



『戦争が始まるぞ。愚かな娘。生きるべき者が死に、守るべき者が血に濡れる時代になる』



 しかし、ユキネは膝の中に顔をうずめたまま。

 構うことなく、龍は無愛想に向けられたその頭のつむじに向けて、また少し近づいた。



『友も、家族もいるのなら』



 ぼそりと、最後に龍は言った。



『賢く生きろ、人間の子』



 それに返答する声は、小さく、どこにも聞こえない。






     ◆





 女は、ただ慇懃無礼にその豪華な装飾の扉を叩いた。

 ここは城の中腹にひっそりと構えられたある要人の個室。



 城門を抜けてここに来るまでにもう少しは礼儀を通そうという危害は無くなってしまった。疲れるからだ。 


 はしたなくも廊下の真ん中を歩き、化粧をしてそばかすを隠す事もせずに、ここまで来た。


「入れ」


 厳粛な男の声に、一瞬身を引いたが女はそのまま扉を開いた。


 白く畏まった礼服に身を包んだ礼服の男が、こちらに視線も向けずに書類の上に視線とペン先を走らせる。


 言ってしまえばこの国の国教の司教である。


 司教、ブラッド・オーガー。


 齢五十を超える壮麗の男。

 その辛辣で、時に残酷な手腕は国外にまで知れ渡っている。


 とは言っても、この国に限らず世界の宗教に対する関心はもうあまり高くない。

 現在は執政長官としての肩書きも兼ねているそうだが。


「失礼します。明日よりスノウ第一殿下の近衛一兵となります――」

「自己紹介はいい。保安局長より君の事は聞いている」

「……は」


 保安局に入った初日に一日中練習させられた敬礼には自信があったが、この人の心には響かなかったらしい。


「さて、私が何故君をここに呼んだのか、分かっているか」

「いえ、何も聞かされておりません。何でもそうある必要があると」

「そう。機密性こそが、君の利用価値だ」


 そう言うと、ゆっくりとブラッドは顔を上げた。

 その目は暗い海の色。短く切り揃えられた髪は白髪交じりの灰色だ。


「よくぞ、そんな物を今まで隠してこれたものだ」

「……」


 予感はしていた。

 これ以外の理由で、わざわざ仕官させる理由が見つからない。


 この街ではない小さな村に生まれて。お婆ちゃんっ子で、親とケンカして上京して、上手くいかなくてやさぐれて、とある人に影響されて警官になる。

 そんなありふれた人生の中に、一点だけ。底の見えぬ闇が浮いている。


 ――そう。



「見せろ」



 これは女の人生の中で考え得る限り、最悪の事態だった。



「……ここでですか」

「命令だ」

「了解、しました」



 そう言うと、女は身に付けていた服を脱いだ。

 上も下も、下着も、靴下も全て。


 生まれたままの状態の女を眺めて、ブラッドは肘を突き口元を隠しながら、しかし確かに卑しく口の端を上げた。


「君はいくつだったか」

「二十四になります」

「君ほどの美貌なら、男に言い寄られる事も多かっただろう」

「それは……」

「正直に答えろ」

「……強気な性格と、偶に見せる笑みが好印象で、毎日花を貰います」

「面白い女だ」

「そう思います」

「しかし、未だ生娘だろう? そんな物を、抱えていては。肌を晒す事さえ無かったはずだ」

「……」

「答えろ」

「……はい」


 流石に、女の気丈な表情に罅が入った。

 小さく腕が震え、頬に朱が指す女を見て、ブラッドは好色な笑みを浮かべた。


「そう考えれば、悪くない眺めだ」


 女の適度に引き締まった綺麗な体の、左胸から右の腰にかけて広がる巨大な"一文字"。

 それは見た物を威圧し、空気に触れれば端からそれを毒していて、時折小さく動いているようにさえ見える。


「さて、それを使った事は」

「……三度。飼い犬と、魔物と」

「それと」

「……古龍に」


 小さくブラッドの瞳が動いた。


「結果は」

「過去の二度と同じものでした」

「どうすれば発動する」

「指先ででも、触れていればおそらく」

「……なるほど。怖いな」


 だが、必要な手順を一手間減らす事が出来た。とブラッドは言った。


「服を着ろ」

「は」


 女は手早く服を拾い上げると、それを身につけた。すぐにブラッドに向き直り、敬礼の姿勢に戻る。


「君は友人を作るのは得意かね」

「は……?」

「質問の続きだ。答えろ」

「……周りの人間には恵まれたと思っています」

「昼間は何をしていた」

「割高な昼食を摂った後、街をうろついていました」

「素晴らしい。合格だ」


 そう言うと、ブラッドは椅子から立ち上がり隣にあったソファに掛け直した。

 机を挟んで向かいのソファに座るように指示され、それに女は従う。


「さて、君に何を頼みたいかは分かっていると思う」

「は」

「残念だが、断る選択肢は用意していない」


 女は返答に困った。明け透けな言葉に、裏を感じるが読み切れない。


「力の差だ。私は誰にも気付かれる事なく明日の朝までにこの机に君の家族の首を並べる事が出来る」

「……」

「この事実が、おそらく権力というのだろう」


 言うと、ブラッドは立ち上がった。

 向かったのは椅子の後ろにある古い給湯器。


 お茶を自分で用意するのは、おそらく誰も信用していない証だろう。


「しかし、もし――」


 そう、女が言葉を発した。


「もし、かね」


 男は悠長に女に背を向けてお茶を入れ続ける。

 対して、女は言葉を続けない。


 コポコポとのんきな音が続いて、終わって、ティーカップにソーサーを用意して、男はゆっくりとソファに戻った。


「もし、君の力を今私に使ったらどうなるのかという質問なら、答える必要はない」


 女の首筋に、刃があった。


「ムスビは結ぶの」


 左側と、右側に一つずつ。

 女の華奢な首を、いつでも両側から切って絨毯の上に転がせるように。


「クズシは崩すの」


 いつから居たのか。

 足音さえ聞こえない。振り返る事も出来ない。


 ただ分かるのは、同じ様な声が二つ。おそらく、十にも満たない小さな子供の声。


「言ったぞ、君の価値はその機密性。知られてしまえば、君自身に大した戦闘力はない」


 瞬間、首筋にあった刃が消えた。

 慌てて振り返るが、そこにあったのは高価な装飾品と、入ってきた扉だけ。


「つまり、何をやらせたい……」

「おや、澄ました顔は消えてしまったね。まあ、そんな顔も良い」


 小さく笑った後、ブラッドは小さく失礼をわびた。

 形式上の物だ。いや、女の神経を更に逆撫でするのが目的の可能性もある。


「一言で言えばな、私は戦争がやりたいのだ」

「戦争……?」

「言葉ならば誰でも知っているだろうが、今の時代にその実態と生態を把握している者はいないのだ。どうしても把握しているつもりの者どまり。私とてそうだ。戦争というものを又聞きした五十の若造に過ぎん」


 静かに男は、ティーカップを口に運んだ。ずず、と汚らしい音が耳に響く。


「しかしな、金になる」

「金……?」

「戦争とはな、実の所巨大な経済運動だ。大量の需要と供給が発生し、また金を使って相手の金を削る。これは間違いない」

「なにを……」

「つまり、だ」


 突如、ブラッドはカップを傾けビチャビチャと絨毯の上に紅茶を零し始めた。

 それによって汚れていく高価な絨毯をじっと見つめながら、口を開く。



「戦争に反対する者が、邪魔だ」



 どくり、と女に刻まれた"文字"が脈動する。



「近づき、友となり、安心させて、その後に」



 同時に、取り返しが付かないほど染みが広がった絨毯をブラッドは土足で踏みつけた。



「あの愚かな娘、スノウ第一殿下を殺せ。ルス・タナトス」



 どくりと、もう一度。

 女――ルス・タナトスの服の下で"殺"の文字が嬉しそうに脈動した。




























「エース、ビィト。それになんでクイーンまで居るんですか」


 ガタンガタンと、舗装されていない道を馬車は進んでいる。

 何年も誰も通っていない道も手伝って、少し大きめの馬車は揺れが大きい。


 当然だ。

 その馬車が来た場所からまともにこの道を通ったのは、この馬車で約十年ぶり。

 また、その馬車が来た場所へ行く馬車も、十年以上ほとんどあり得なかった。


 だから、申し訳程度に草木を分けた轍が残っているばかりで、進んでいる場所は青々と草木が生い茂り、木々は屋根かトンネルのように覆い被さっている。


「本当に、この面子で良いんですかね……」

「よろしいではありませんか。賑やかで」

「全くその通り」

「コドラクまで……」


 馬車の中には、隻腕隻眼の男だか女か分からない剣士が一人。

 あと、荷台に隠れていたらしい、今は正座した青年が二人と、少女と呼ぶにも幼い子供が一人。


 現在説教を受けて要るにも関わらず、彼らの目は幌の隙間から漏れる外の景色をちらちらと伺っている。

 街の外に出るのは生まれて初めてなのだ。無理はない。


「神様、気付いてたでしょう」


 剣士は幌の天井を仰ぎ、その拍子に左右の腰に差した四本の剣をかしゃんと鳴らした。


「ああ。まあ、別に連れてっても問題ないだろ。クイーンは知らんが」

「と言うか、何やってるんですかそんなところで。ロウさんも」

「将棋、だそうですよ」

「しょうぎ……? また妙な物を」


 御者台に座ったメイドと神父が楽しそうに笑う。

 二人の間にもマグネットのチェス盤が広げられていて、長閑な激戦が行われている。


「いや、しかしお前がそこまで強かったとはな。最初から全部押しつければ良かったわ」

「くたばれ。大体お前が奴らの根城ぐらい突き止めときゃ、半日で終わったんだぞ」

「何にしろなぁ、龍族はもう抵抗すらできねぇから。はい詰み」

「……待て。実はこの歩兵は王の隠し子でな。その有り余る才を疎まれた飛車と角から」

「ほう。ところで実は俺の国は金と銀が長年の確執を解消してな。これによりコンビネーション外交殺を発動できる」

「絶対遊び方違う……」


 溜息一つ、疲れた様子で剣士はその場に座り込んだ。


「肩肘張ってるのは、僕だけですか……」

「何をお前はそんなに緊張してんの?」

「行くのが"世界の中心"ですからね。田舎者の僕にはとても……。旅も初めてだし」


 本当に思い悩んだ様子で、剣士は膝を抱えた。


「まあ、楽しめよ」


 幌の上で、マグネット将棋を畳みながら男は言った。

 灰色の髪を緩やかな風になびかせて、灰色の瞳を遠く、僅かに見える地平線に向けて。


「人生に疲れるなんざ、一億年早ぇよ」


 いざ世界の中心へ。


 誰よりも遅刻して、誰よりも楽しげに。


 剣士と青年と子供とメイドと神父と龍と神が行く。





すみません、どうにも自分の今の状況を考えると一週間更新は無理っぽいです。

一ヶ月に一度、書けた分だけを一度に更新する事にします。

今回大変待たせてしまった事と同時にお詫びさせて頂きます。すみませんでした。



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