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ハイイロ ノ カナタ  作者: mild
第二部
211/281

前兆



 化物は地面を擦りながら塔の奥に消えたラカンに目もくれずに背を向けぽつりと一言だけ言い残し、心配そうな顔で近付いてきた少女を抱えて、夜の"街"へ消えた。


 本当に殺す気はなかったらしい。

 ただ殴りたかったからわざわざやってきて、そして満足して帰っただけか。


 ──ふざけた話だ、本当に。


「私、アンタがこの世界で一番化物だと思ってたわ」


 大の字に転がったラカンに近づいたのは、ハリアだ。

 その手にはナイフが握られている。目にはまぎれもない殺意。


 しかし、少し考えてからハリアはそれを地面に捨てて、膝を抱えて座りこんだ。それで殺す事は出来ないと悟ったのは、正しい。


「……俺もだ」


 反射的に後ろに跳んだものの、体がまるで動かない。

 頬骨と、あと頸椎の辺りが致命的だ。


 切り傷を治すのは簡単だが、粉砕されたとなると時間がかかる。


 ラカンはその場で転がったまま体から力を抜いた。

 男が去って脱力したのはラカンだけではない。ハリアの緊張が抜けてしまった顔を見た。


「やっぱりお前、リィラにそっくりだ……」

「双子だもの。瞳の色が少し違うけど」

「ふーん」


 嵐のような時間だった。

 立っていられなかった人間は、それだけで根こそぎ吹き飛ばされた。


「──ひひひ」


 そう言えば、神がいると言う。

 間違いない、あれだ。よしんば違ったとしたならば、なおよし。


「負けたぁ」


 全身の細胞がぐつぐつと煮だっている。


「きひっ、ひひひ、ひ──……!」


 殺せない男も、神も、もしかしたら恋してしまった奴もいる。

 興奮が冷めない。痙攣する身体で身を捩ると痛みが走ったので、大の字に転がりなおす。


「殺そう」


 嬲って千切って晒して鳴かせて殺そう。

 惨めに淫らなに無様に気ままに殺そう。


 苦悶の表情も、強情な態度も、哀れな媚びも、卑しい声も、全て漏れなく味わって、殺してやろう。


「──ッはッはァッ!!!!」


 そして最後に。

 恐らく頼り切っているであろうあの化物を、目の前で惨めに引き裂いてやったら。



 リィラはどんな表情をするだろうと、考えた。




    ◆




 中々にモダンな扉を開けて中に入ると、サヤがちょうどこちらを向いていて目が合った。

 ハルユキは、そのまま視線をベッドで眠るリィラに向ける。


「どうだ、具合は?」

「ええ。少々熱が出ていますが、大した怪我はないようです」


 そうか、と短く答えて、ハルユキはサヤの隣に置かれていた椅子に腰を下ろす。

 するとサヤが椅子ごとこちらを振り返った。何事かと、少し驚くハルユキに向かってサヤは深く腰を折って頭を下げた。


「申し訳ありませんでした。注意が足らず、このような事態に」

「気にするな。子供を全員家に積めておくなとも言ったし、対応は早かったしな。助かった。俺の指示のミスだ」

「ですが……」

「お前のお蔭で無茶なプランも比較的滞りない。胸張れ」


 頭を下げたままのサヤの頭をポンと撫でてやると、渋々と言った顔でサヤは顔を上げた。


「……因みに言っておくと、私は撫でられるより撫でたいキャラです」

「知るか」

「ですが、撫でられるのも吝かではございませんので」

「知らんって」

「胸を張れっていうのはセクハラにも取れます。訴えます」

「話を戻すぞ」


 サヤは調子を取り戻したのかけらけらと笑い、こちらを覗く。

 反応してやるのも悔しく、ハルユキはさっさと話を切り出した。


「ルグル達の密会に参加して、紹介された。顔ぶれと頭数から大体の戦力は知れたよ」


 言って、ハルユキはナノマシンをった。

 精製したのは紙とインク。

 先に精製した紙の上で手を一度横切らせると、適宜インクが割り振られ疑似写真と文字が紙に描かれていく。


「……ついにデジタルカメラとプリンタ機能も付きましたか」

「……まあ、やってる事はそう難しくないがな」


 やっている事は紙の上にインクを振っているだけだ。砂に文字を彫るよりはずっと簡単である。

 その滅茶苦茶っぷりに何だか思う所もあったが、便利ならまあいいかと二人は考えるのをやめた。


「お身体の方は、如何でしょう?」

「ああ、もう治ったよ」

「それは、また……」


 サヤが驚いたのはハルユキの体の治癒力についてだろうが、ハルユキは違う。

 ラカンに殴られたあの箇所。骨も折れてはいなかったが、"数十分、紫色に腫れ上がっていた"。


 そして、どことなくあの男は本気を出していないようにも思えた。 

 大した男だ。

 実力を隠している事を鑑みると、今まで出会った中で三指に入るほどの戦闘力。


「殺せますか」

「俺なら問題ないな。手段を選んでやる義理もない。だが──、」


 夕方に見たルグルの集まりを思い出す。


「正直ルグル達じゃ相手にならんな」


 それをルグルも分かっている所が、更に致命的だ。ふむ、と僅かばかり難しい顔になった。


「我々としては、もう少し善戦してほしい所ですが」

「手ぇ出すのもな……」

「ええ。ある程度の戦力は、我々無しで保持していて貰わないと」


 とは言っても他国の戦力の程度も詳しく分からないのですが。とサヤは続けた。


「問題は山積みです」

「……ごもっとも」


 そもそもルグル達がラカンに勝てるビジョンが見えないと言うのもそうだし。

 倒せたとしても、この地形でより良い生活を求めるのも難しい。

 土地柄的にも決して富んでいる場所ではないし、龍の動向も放っては置けない。

 そう言えば、泥炭層のどうやらと言う問題もあったような。


 ハルユキはそこまで考えて溜息を吐いた。


「結局、どこかで介入するしかない訳か」

「はい、予定通り」


 かといって、過剰な肩入れはルグルが許さないだろう。

 しかし別に、ルグルとしか約定を交わす事が出来ない訳ではない。


 ルグルが何らかの事態で死んだ後、別に台頭する誰かに話を持ち込めば介入は容易い。

 だからと言って、ルグルが死ぬとなればそれは相当に逼迫した状況。立て直す事が出来ない事も考えられる。


 ならば、ルグルをさっさと処理するか。



 ──否。

 当初の予定ではそうだったが、今は無理だ。

 もう正直に言ってしまえば、ハルユキはわりとルグルの事が気に入っている。それはしたくない。



(やれやれ……)



 頭が痛くなり、椅子の背に体重を預けた時。ぱん、と小さくサヤが手を打ち鳴らした。

 何か思いついたのかと思ったが違う。嬉しそうにこちらを見ているだけだ。



「主様。おめでとうございます」

「は?」

「たった今、4月30日を迎えました」

「……ああ」

「忘れていましたか?」

「いや、日にちなんて分からなかったしな……」


 そう言えば、この町に来てからも丁度一か月ほど。

 当時はまだ肌寒かった気温も、今は夜でも大分暖かくなってきた。当然、季節外れの雪が降る事もない。


「時期が時期ですので忍ばれましたが、ささやかになら、と」


 そう言って、サヤは本当にささやかに小さな酒瓶とグラスを一つ取り出した。


「いずれ、この国を奪還できたなら。その時にはもう一度、子供達も誘って」

「嫌だよ、恥ずかしい」


 くすくすと笑いながら、サヤはハルユキの手にグラスを握らせて少しだけ割高な酒を注いだ。


「……まさか、これ用意してて目を離したんじゃないだろうな」

「やはり、怒る事にしますか?」

「……いいよ、もう」


 この町ではとてもじゃないが調達に苦労しそうな酒だった。

 ハルユキは少しその酒をグラスの中で回した後サヤの手から酒瓶を奪い、代わりに精製したグラスを手渡した。


「私は酔えませんよ」

「ほう、主が注ぐ酒が飲めないと?」

「……いえ、頂きます」


 トポトポと琥珀色の酒が注がれる。瓶の底には、残りはお互いのグラス一杯分だけ残っているようだ。


「では、我が主の生誕に」


 そう言って、サヤが小さくグラスを掲げた。

 ハルユキもそこにグラスを合わせようとして、一瞬戸惑いを見せた後にグラスを合わせて、言った。


「……再会に」


 一瞬目を見開いて驚き、直ぐにニヨニヨと笑って小馬鹿にし始めたサヤを放って、ハルユキは一口で酒を飲みほした。



「──サヤ」



 グラスを置いて、ハルユキは従者の名を呼んだ。

 真剣な声にサヤもおちゃらけた表情を静かにしまって、はい、と厳かに返事をする。


「俺の我が侭でこの先の予定全部狂ったら、怒るか?」


 考えるのはもう飽きた。あまり時間もない。 


 ハルユキは、泣き腫らした顔で眠ったままの男だか女だか分からない剣士に目を向けた。

 そしてハルユキのその顔を、サヤは横目で覗き見て小さく笑う。


「いつもの事です」






    ◆






「今日は夕飯。持っていかなくてもよろしいのですか?」

「あ……」


 何だかやたら便利で広い厨房で、野菜を丁寧に刻んでいたシータの手が止まった。

 最初の頃は慣れなかったが、サヤの指導のおかげで今は使いこなせるようになっている。


「その……」


 思わず言いよどんで、シータは優しく微笑むサヤを見上げた。


(……何者なんだろう?)


 その作られたような綺麗な顔を見て、シータは疑問を覚えずにいられなかった。

 万能なこの人もそうだが、"神様"もそうだ。

 こんな家を一瞬で作り出し、石をパンに変え、様々な未知の技術を操る。


 極めつけに、昨晩に見せた理不尽なまでのあの強さ。


 シータは十三年前の記憶はほとんどないが、それでもあの坊主達がどれだけの脅威を持っていて、どれだけこの国の人間にとって高い壁だったかを知っている。


 それを、文字通り一蹴した。

 諸悪の根源であるラカンを殴り飛ばし、悠々とシータを奪還する。

 とても、街中で行き倒れていた人だとは信じられない。


 誰でも救えて、誰でも倒せる。

 一体それはどんな気分なのだろう。


「大丈夫ですか?」

「あ、はいっ」


 呆けていた顔を引き戻し、シータは手元の食材に意識を戻す。


 サヤがどこからか持ってくる見た事もない食材を調理しているせいか、家計は苦しくない。

 どうやら、この辺りで食材になりやすい物を探しているみたいで、その調理法まで教えてくれる。

 だから、と言うわけではないが、リィラの食事もずっと作っていた。


 当然、今も用意してはいる。

 後は持っていくだけ。

 それも今日は教会ではなく、上の階に持っていくだけだ。



"──お前、さっきこいつ等の事を売るつもりだったのに?"



 あの時の言葉が、丸一日経っても棘のようにシータのどこかに食い込んでいる。

 恨んでいる訳では決してない。

 育ててもらった事に恩義を感じていたし、リィラが自分の為に我慢しているのも嫌だった。

 だから、リィラの為に犠牲になれるのなら、それでもいいと。そう思っていたはずなのに、そんなのは口先だけで。


「……っ」

 

 本当に切り捨てられる予感がチラつくだけで、駄目だった。

 顔を見てしまえば、そんな気持ちが隠せるとも思えなくて、会いに行くのはやはり躊躇われた。


「おあああ、ああああぁ……! もう無理ぃ……」


 その時、バタンとモダンな扉が開いて、エースが転がり込んできた。


「エースさん、夕飯です」

「良かった……。神様! 飯だって、鍛錬終わりぃ!」

「ち……」


 のびているビィトを肩に抱えてハルユキも部屋に入って来た。


「毎回思うけどさ。普通に死ぬんだけど、あの特訓」

「一億年続ければもれなく人間やめれるぞ、やったな」


 はぁ、とエースが溜息を吐きながらぺしぺしとビィトの頬を叩いて起こす。


「人間向けのが良いなぁ……」

「……化物向けでもいいが、馬鹿が考えたってのが一番厄介だ」

「よし、もうちょっと一緒に汗流すぞ。そうしよう」

「ちょ──! 嘘、嘘だって!」

「お、お、おい。飯だろうが。食べ物を粗末にするのは、ちょっと、あれだからなあっておい待て止めろ死ぬ!」

「どうせまだ風呂空いてないだろ? 大丈夫ストレッチだ」

「ス、ストレッチ……?」

「それならそうと先に……」

「その名もアクロバティック・オン・ザ・ヘヴン」

「死んでんじゃねぇか!」

「嫌だぁああああ!!」


 ずるずると首根っこを捕まえられて引きずられていく二人を見て、サヤは苦笑した。


 この世界は"水"と"火"を使える人間が多いせいか、どれだけ貧しくても信頼できる人間がいれば風呂には事欠く事がない。

 とは言っても、子供達の中で水を使える人間が三人しかいないので、ある程度一緒に浴びる事になる。


「上がったよー。今エフリムが水役やってくれてるから」

「後で行く。こいつ等の水は俺が出すから」

「はーい」


 静かな足音が遠ざかり、代わりに賑やかな足音が食卓に集まりだした。

 チビ達の足音はどこか浮き足立っている。

 昨日の夜ルグルに担ぎ込まれてからまだ目を覚ましてはいないが、三階の部屋にリィラが寝ている事は皆が知っているからだ。


 そんな中、表情を暗くしているのはジャックと、クイーンと、そしてシータ。


 ジャックは正義感が強い。

 だからまだ、クイーンを見捨てた事を許せないでいるだけ。

 一方、クイーンの心境は今のシータの心境とよく似ているだろう。


「シータさん。出過ぎた発言をよろしいでしょうか」

「えっ、あ、は、はい!」


 ボーっとしていたせいかびくんと体が跳ねた。

 落ちそうになった皿を横から掬われて、シータは改めてサヤに向き直った。


「出会いも人も星の数ほど在りますが、忘れる事も代わりを立てる事も、そしてその逆も辛いものだと、私はよく存じているつもりです」


 かちゃん、かちゃんとつつがなく家事を行いながら、サヤは囁くように言う。


「だからどうか、後悔だけはなさらぬように」

「あ……」


 サヤとハルユキの関係については聞いていた。

 もの凄く長い時間を空けて再会する事が出来たのだとか、その事を言っているのかはシータには分からないが。


「……ならちょっと、話してこようか、な」

「その意気です」


 計ったように、サヤが夕飯の支度と後片付けを終えた。

 シータは早速やわらかい小麦のパンとミルクスープを持って厨房を出た。


 たんたんとやたら安心感のある階段を上る。

 正直まだ起きている可能性は低いが、とにかく枕元でも居たかった。


 扉の前。

 一旦食事が乗った盆を置き、小さく扉をノックするが返事はない。


 残念ながら寝ているようだ。

 とにかく食事を置いて、体でも拭いてあげようと、そっと扉を開けた。



 瞬間。強く風が吹き抜けた。



「え?」



 ベッドには誰の姿もない。

 ただ開け放たれた窓から、エルゼンの据えた空気が流れ込んできていた。






    ◆






 ──エルゼンから南に数キロほど離れた水源地。


 そこに静かな大軍が集まって来ていた。

 人ではない。欲にまみれた鬼でもない。爛々と夜闇に光る紅色の眼、翼に牙、そして鱗。


 それぞれが生きてきた年月相応の巨躯と強靭さを誇る集団である。

 練度はともかく、その野生から来る絶対的な強度はいかなる人間の軍であろう敵う事はないだろう。


 嘆き、猛り、滾り、怒り、咆える。

 同胞の血をこの場から嗅ぎ取った戦士達が、目を見開き牙を剥き出して殺気立つ。


 昨日の夜より集まった龍共は、森中に撒かれた同胞の死の匂いを一つ一つ確かめ、静かに弔っていた。


 人間に荒くれの不良がいるように、この場で死んだ龍達は決して良き存在ではなかった。

 それにもかかわらず龍は啼き、悔恨に目と牙を剥く。


 それは酒より濃い血の仕業か、それとも──。



「落ち着いて」

 


 静かな声が高鳴り合っていた唸り声を収束させた。

 現れたのは、その集団の中ではあまりに浮いてしまうほどか細い一人の少女。


 夜はまだ肌寒い、などとは冗談でも言えないほど空気は冷たい。

 いや、もしかしたら、その少女がこの空気を生み出しているのか。


 そう思ってしまうほどに、その在り様は冷たく、気高く、そして脆い。



「大丈夫。貴方達は死なせません」



 小さく喉を鳴らして、龍の一体が少女に寄り添った。

 少女がそんな事をいう意味が分からないのだ。龍は人を恨んでいないと不自然だと、そう信じている。


 ごめんなさい、と少女は小さく零した。


 同時、凍てつくような冷気にざわざわと悲鳴を上げるように木々が震えた。



 少女は、本来の姿ではない。

 本来の姿など、顕してしまえば腕一本でも目立ち過ぎる。

 しかし、今回の襲撃に合わせてのみ、顕現する事が許された。それはつまり、人間達に勝ち目がない事とほぼ等しい。


 事実、同じ規模の国を一時間足らずで沈黙させたのは一度や二度ではない。


 どの国にも、様々なドラマがあるのだろう。色々な命があるのだろう。



 だが、それも今宵まで。

 身を摺り寄せてくる古龍のたてがみを白魚の指で梳きながら、もう一度誰に向けてでもなく少女は謝罪の言葉をつぶやいた。



 それを皮切りに、少女が纏う空気が変わった。



「去る気がないのならば、顔を見せなさい」



 冷然とした声は比喩ではなく、辺りの空気を凍てつかせる。

 言われて周りの龍達もその存在に気づき、一斉に立ち上がった。


 匂いで、気配で、直感でその存在を感じ取りながらも、闖入者の姿は見えない。

 それはそうだ。

 草の陰でも、樹の上でもない。


 その男は落ちてきた。

 目にも止まらぬ速さだったのは、恐らくはるか上空から見下ろしていたからだ。



 しかしその筈なのに、着地は軽やかに、音もなく、空気が震える事もほとんどない。


 するすると龍の警戒を間をすり抜けるように、男は立った。

 よって、瞬時に反応できた者はいない。しかし、だからと言って気を引かせる者も、下がろうとする者すらいない。


 恐怖も、思考すらもほとんど存在せず。

 本能と野生のみが、純粋に牙を剥く。



「待って」



 それを止められるとするならば、王の声をおいて他にはない。

 びたり、と一斉に辺りから音が消えた。そのまま一歩下がって待って、と続く声に逆らう者はいなかった。


「……凄いな」


 男は落ち着き払った顔で自分を取り囲んだ神獣達を見渡した。

 数が多いとは言え、一体一体が弱い訳ではない。一体で小さな街一つを潰せる強靭さを、一体も漏れる事なく有しているのだ。


 三メートル。

 男と周りを取り囲んだ龍との距離は、十分に離れた距離だ。


 しかし、龍のあまりの大きさからか、八方を天高い鱗の壁に囲まれているよう。


「これ、結界か?」

「そういう能力に長けた子達もいます」

「へぇ」


 少女が簡単に手の内の一つを明かした事に、男は内心で驚いた。


 無知なわけではない。ただその程度で覆る戦力差ではないと判っているのか、それとも。

 男を、生きて帰す気がないのか。


「こういうの気付くの得意な奴がいてな。それでも違和感ぐらいしか判らなかったらしいが」


 男は舌を巻いた。

 あの巫女の能力は随一で、更にまだまだ強くなっている。それを町の外とはいえ、これほど隠すとは大したものだ、と。


 同時に少女も警戒を増した。

 防御が得意な龍を何体かが作った結界を、違和感だけとはいえ、感じ取るとは、と。


「それで、まあ。戦いに来たんだろうね、アンタ達は」

「ええ、戦争に」


 少女の言葉に男は考え深い表情で頭を掻いた。


「そりゃいい!」


 だから、その表情に続いた言葉も突然の笑みも少女には理解できない。


「だがなぁ、今ゴタゴタしてて、アンタ等みたいな火薬をこれ以上放り込むのは、あんまりよろしくない」

「そう」


 少女は慎重に言葉を返した。

 男は今死地にいる。

 男を取り囲んでいるのはどれも五千年以上の時を生きる壮齢の古龍ばかりなのだ。



「ただ、こっちにも退っ引きならない事情が現れてね──」



 しかし、男に焦りの色はない。

 それなのに、ひどく分かり易い。思いもよらず手に入った玩具を、どうやって遊ぶのか模索している。


 周りを見て、空を仰いで、取り囲んでいる龍達を舐めるように観察して。

 そしてジトリと男の目が少女を覗き込んだ。



「……っ」



 凄い目をしている。

 遠い昔に見覚えがあった。


 生まれながらに狂っていて、それにも関わらず神が徒に力を与えた愚劣。

 手の施しようがない。あの時のあれは、国を幾つ滅ぼしたのか定かにはならなかった記憶がある。

 端的に言えば。突発的に生まれた、怪物だ。



「あんた、義に厚い──いや、身内に対しての責任感が強そうだ」



 少女は答えない。

 ただしこの場合の沈黙は肯定を表している。


「そこでだ!」


 ぱん、と男は開手を打った。


「俺も、あの町で事を起こすつもりでな」

「協力しろと?」

「まさか」


 歌うように楽しげに男は言う。


「アンタが事を起こせば俺は乗じる。それは、アンタにも都合がいいはずだ」

「何を──」

「アンタ達がこの国を攻めあぐねている理由も、こんな辺境で孤立した国を龍が襲ってこない理由も、はぐれた龍もここ以上にエルゼンに侵攻しない理由も。俺は知ってる」


 ぴくり、と少女の眉が揺れる。

 そうなのだ。

 何故龍のことごとくが町に攻め入る事も出来ず、ここで殺されたのか、疑問はあった。


「龍と戦ってたのは一人だけ。食い止めるのは無理だ。まあ、そいつも気付いていないだろうがね」


 そして、ここに来てその理由も知った。

 あの町のどこかに何かがある。龍を退ける力を持ったその何かが、この場所にまで影響を及ぼしている。


 近付くならともかく、中で戦闘を出来るのはせいぜい少女ぐらいだった。


 まず少女が単騎でその原因を解明、取り除き、それから総力戦を行う計画だった。


「疑う気持ちも分かる。だが、少なくとも」


 それを見透かしているのか、男は大仰に両手を空に仰ぎ、芝居がかった仕草で歌い上げる。


「ここにいる龍が、肉塊に変わる数は減るはずだ」


 ぴくりと、再び少女の眉が揺れた。

 男は少女を一身に見つめるだけ。少女もまた真偽を探るべくその顔を覗き込む。


 男の、その視線は毒の棘、垂れる言葉は汚泥、魂は恐らく糞尿より汚らしく、そして純粋だった。


「……そうですね。そういう事もあるかもしれません」

「それでは?」

「いいえ。それでも貴方が我等に乗じる事はない」

「む……?」


 訝しむ男に少女は静かに目を瞑り、そしてやはり静かに呟いた。


「私が、貴方が事を起こす時を聞く。それだけです」

「十分だ」


 男は嗤う。

 その目には死体が糞が毒が欲が映っているのだろう。



「それで、一体何時──」



 そして嗤ったまま男が告げた言葉は、少女の目を見開かせた。




   ◆




 バラバラに崩れ落ちた教会の前にハルユキはいた。

 話に聞いただけだったが、なるほど、柱も折れ壁も破れ、見事に倒壊している。


 しかし、元々敷地だけは広かったせいか、唯一の建物がなくなった今、空が少しだけ広がって息苦しさは消えていた。


 瓦礫に変わった教会をゆっくりと踏み締めて、その姿を見つけたのは大きな瓦礫の山を三つ越えた時。

 奇跡的にほとんど残っていた女神像に、寄りかかるように座っている。


 こちらには気づいているだろう。

 しかし、その空虚な双眸は少しだけ広がった夜空の奥を見つめたままだ。


「飯だ。リィラ」


 すい、とナノマシンが皿を操ってリィラの飛び、パンも同じようにリィラの膝まで飛んで行った。

 それを確認した後、ハルユキは手ごろな瓦礫に座る。


「帰らないんですか?」


 空虚な目が初めてこちらを向いた。


「皿持って帰れって言われてんだよ」

「嘘だ」

「本当だよ」

「聞きたい事があるんでしょう?」


 リィラが少しだけ強い目でこちらを見た。

 聞いて欲しい事があるんじゃないのか、とは言わない。


「……じゃあ、まあ一つだけ」


 リィラが小さく息を吸って、ぐ、と留めた音さえ、ハルユキの鼓膜は感じ取る。

 何ですか、とそのすぐ後に、強張った声でリィラは言った。


「お前ってさぁ、結局のところ女なの、男なの?」


しん、と嫌な感じの沈黙が辺りを支配した。

だから言いたくなかったのに、とハルユキは小さく鼻を鳴らす。


「……は?」

「いや、気になって」

「……冗談を聞く気分じゃないんです」


 腹立たしげに、リィラが視線を逸らした。


 シータが探しに行こうと躍起になって、サヤが落ち着かせている間に一人で動けるハルユキが探しに行く事になった。それだけの事だ。

 リィラに個人的な用がある訳ではない。


 むしろ、聞きたい事があるのは、リィラの方だろう。そっぽを向いた顔にその答えを投げかけてみる。


「シータなら、家にいるよ。怪我もない」

「……っ」


 目に見えてリィラの表情が震えた。

 空虚な表情に、様々な感情が宿る。安堵だったり、驚きだったり、後ろめたさだったり。僅かに波打った怒りだったり。


「……はは」


 しかしそれは、直ぐに自嘲に流されて消えていった。

 疲れたかのように、リィラは両膝を抱えて頭をそこに置いた。自然と、顔が膝の中に隠れる。


「一体、どうやって……?」

「別に工夫はしてないな。単純に奪還した」

「……すごいや」


 自嘲。嘲笑。失笑。

 うつらうつらと、またリィラの表情が虚ろなそれに戻る。

 そして不細工に笑みを作った口が、器用に動いたのが、膝と腕の隙間から見えた。


「神様は強いですね。とても真似できないです」


 ねぇ、神様。

 リィラは、そう言ってハルユキを呼ぶ。

 抱いた膝に、顔をうずめたままポツリと言った。



「……この国を、救ってくれませんか?」



 その声はひどく平坦に辺りに広がって、響く事もなく消えた。

 壁も満足にないこの場所は酷く寒い。まるで冷えた水に浸かっているように重くもある。


 沈黙が続いた。

 ハルユキの返答もなく、リィラもただそれを待つだけ。


 ハルユキが返答をしたのは、リィラがひょっとして口に出していなかったかもしれないと疑い出した頃。



「ルグルは、お前を頭に据える気だったそうだ」



 リィラの顔が力なくハルユキの方を向き、目が合うとリィラはすぐに逸らされた。口だけが小さく動く。


「……知ってますよ」

「アイツは俺も信用してない。俺も、仲間の誰も信用していない。ただお前はどういう訳か信頼されてるみたいだな」


 乾いた笑いがリィラの口から洩れた。


「それは、嘘です」

「どうして」

「僕とあいつは、昔からそりが合わなかった。ギドやハリアならともかく、僕は違いますよ」


 二人がいなくなってからは会う事すらほとんどなかったし、街中ですれ違っても目も合わせないのだ。

 その事をハルユキに説明すると、ハルユキはさして驚きもせずに相槌を返した。


「確信してるんだろ。お前が嫌いだろうとなんだろうと」


 言いながら、は、とハルユキは愉快気に失笑した。


「自分がその二人を愛していた程度には、お前もそうだって。それだけは」


 一瞬だけ思考が真っ白になって、リィラが返すつもりだった言葉は喉の奥に引っ込んだ。


「俺は別に一端の信念だとかは持ってない。だから気紛れに助けもするし、そうしない時もある。今回は後者だ」


 ハルユキが言わんとしている事は、リィラにも既に解っていた。

 言葉を遮る事も、逃げ出す事も、否定する事も出来なかったのはきっと何もかもが怖かったからだ。


「ハリアって奴は、お前が頑張ってくれてるかもしれないからと、俺が助けるのを拒んだよ」


 どうかやめてほしい。

 しかし声は決して出ない。ただ意味もなく力が入った指が皮膚に強く食い込んだ。


「ルグルは俺が手を出したら殺すと言った」


 肘に食い込んだ爪と、頭の根っこの辺りが、鈍く痛い。


「エースもビィトもシータもジャックもクイーンも。待ってるのは俺じゃない」


 つらつらと、言葉は並べられていく。

 平坦に何の起伏もない、ただまるで台本でも読み上げるように事実だけを。


「ルグルが剣を取る。"巣"のほぼ全員が戦うんだろう。殺意も憎しみも剥き出しにして」


 "それが良い事か悪い事かなんてのは知らんが"。

 ハルユキは最後にそう言葉を繋いで、言った。


「もうこの国でおれに縋ってるのは、お前だけだ。リィラ」


 顔を上げる事は出来なかった。

 ただ、沈黙すらも怖いのか焦った声でリィラは口走る。


「……何が言いたいんですか?」


 そんな事は、気付いている。

 リィラだって、とっくの昔から知っている。


 そして、質が悪い事にリィラの目の前の男はやはり、気付いている事に気付いている。



「お前が救えよ、全部」



 リィラはゆっくりと顔を上げた。

 壊れた教会があって、パンと冷え切ったスープがあって、そして。


 深く濃い灰色の目が、リィラを見ている。



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