月
ここは店の奥の、更に端の方。
現れた男は、剃り上げた頭袈裟のような妙な服。聞いていた通りの格好で、またその名前も同じだ。おそらく間違いない。
「アンタがあんまりにも浮いてるからさ。気になってな」
しかし、この男が"そう"だと確信したのは、ハルユキの第六感だ。
聖人のようで悪魔のよう。その共通点は人を惹きつける事がぐらいだが、まさにそれは言いえて妙。
これほどの存在感で、どうしてここまで普通に歩いてこれたのか不思議でさえある。
「……浮いてるか?」
「浮くよ。アンタみたいな人は、俺みたいな奴に」
この姿、知っている人間は知っているはずだ。
こんな人が多い場所まで悠々と歩いてこれたのは、何かの魔法なのか。
(──いや)
これは技。単純に気配を絶つというだけでなく、自分を意識させない術だ。
意識してみなければなかなか気づけず、一度気付いてしまえば何故これに気付かなかったのかと愕然としてしまうほど、その姿は常世から浮いている。
ちょっとした仕草からも伺える鍛錬の跡。
それは一分のズレもなく彫りだされた彫像のような神聖さを思わせる。
「で、何か用なのか、エセ坊主」
「ひでぇな、おい」
「見るからにそうなんだよ……」
カラカラとラカンは笑う。
「ま、用はないんだけど、最近暇でな。真新しい物に目が行く」
見る限りでもかなり強うそうな酒を、がぶがぶと浴びるようにラカンは飲み下していく。
「暇? あくどい事やってるんだろ、お前」
「いやぁ? 今は賢者みたいな心地だよ。何だろうな」
疑問がある。
自分で言うのもなんだが、今自分はこの町で決して小さくない影響を与えている。
それをこの男は知っていてここに来たのかと。
一応自分の目的もある。
大義名分があれば例えここで殺す事になったとしても、ルグルは根に持たないだろうか。
「何考えてんだ?」
「お前が嫌われるのがよく分かるなって思った」
冗談だと思ったのだろうか、またラカンは笑うと、追加した酒の底を再び空にした。
曰く、死体の雨を降らせるだとか。
曰く、触れる事も出来ないだとか。
曰く、軽く小突いただけで何十メートルも吹き飛ばすだとか。
曰く、数千度の炎の柱を手の平で押し潰すだとか。
曰く、蹴りの一つで、崖下のこの地獄を作ってしまうだとか。
なるほど、ここまで見ただけで伝わってしまう。それは全て本当で、目の前のこれは刃よりも危険で毒よりも有害な生物だ。
「良いね、良いねぇ、最近は。盛り上がって来てる」
かちゃん、かちゃんとラカンは机に金貨を積み上げる。
五枚、十枚と積みあがっていくうちに、店主や隣の客が目を見開いていく。
当然だ、その一枚でこの国では何年もの安泰が保障される。
「楽しみだよなぁ」
そして二十枚ほど積みあがったそれを指先で倒した。
じゃらじゃらと、無残に金貨が机に散らばっていく。
「じゃあ、ゆっくりとこの国を楽しんでくれ」
"それにしても、あんた魔力低いなぁ"と、最後に緊張感の欠片もない言葉を残して、ラカンは立ち上がる。
帰る気らしい。それなら本当に気になったので立ち寄っただけなのか。
「待てよ」
「あ?」
「別に俺はお前が嫌われ者だろうがどうでもいいが」
「なんだよ」
振り返って、けらけらとラカンは笑う。
まあそうだろう。初対面の相手に言う言葉ではない。
「俺に嫌われるような事はするなよ。俺はお前を殺さないように言われてるんだ」
その言葉で、ピタリとラカンの笑い声が止まった。
ゆっくりと意味を租借し、真っ向からラカンの目を覗き込むハルユキを見て、にたりと先程とは違う種類の笑みを浮かべた。
「ああ、肝に銘じとく」
そう言い残して、今度こそラカンは背を向けた。
するすると、人の群れを避けて、いや、むしろ人々の方が避けているように、まっすぐとラカンは去って行った。
ハルユキはその背中を見送って、ふん、と鼻を鳴らした。
「なるほどね……」
ふと、素直な感想が漏れた。
少しばかり普通の人間の手には負えない類の生き物だ。
理解もできない。更生する事もない。生まれ持った悪意だけで人を殺せてしまうような化物だ。
ちらちらと、店員がこちらを見ていた。倒された金貨の塔が気になるのだろう。
隣席で話していたハルユキが居なくなれば、回収に来るはずだ。
しかし、まだジョッキの底に酒が残っていた。
チビチビとそれを飲みながら、指先で金貨を弄る。
「あー……」
とん、とん、と金貨を叩く。
店員の顔が引きつっていた。
見れば指先が金貨を貫通している。
収まらない。どん、とカウンターに立てた拳を叩きつけた。
ハルユキにはそれだけの力のつもりだったが、カウンターが弾け飛び、床も大きく抉れた。
しん、と酒場が静かに凍り付く。
「……苛々する」
金貨を机に押し付けて、ハルユキは外へ向かった。
去り際にカウンターを修復する。それでも苛つきは収まらない。誰にだろう、ラカンの事だと思うが少し違う気もする。
苛立ちが空気に滲み出たのか、波が引くようにハルユキから離れた人の間を、まっすぐと辿って外へ出た。
人ゴミの中ぐるりと辺りを見渡し、目的の物が例の高い崖に阻まれて見えない事に気付く。
ふと、視線を落とす。メイドがいた。
「遅かったので御出迎えに」
この界隈ではどうしても浮いてしまういつものメイドの格好で、サヤが目の前に立っていた。
足のつま先に掛かっていた力が、ふ、と抜ける。
「よくお耐えになりました」
「……全く、面倒な街だ」
そう言って、ハルユキは帰路へ着く。
その前にもう一度だけ例の塔の方を見て、そして溜息を吐きながら歩き出した。
◆
静かな"街"は、いや口を塞がれた"街"は酷く緊張感を含んだ沈黙を強いられている。
その中を悠々と一人の坊主が歩いていた。
鼻歌交じりで、懐に手を突っ込んだままペタペタと裸足で道を行く。
ざ、ざ、とその後ろにどこかから浮き出てきた人影が加わる。ラカンと同じ格好をし四人の坊主だ。
「近々動きがある事は間違いないかと。しかし余程巧妙に隠しているのか詳しい日時は不明です」
「構わん。別に阻もうとしてる訳でもなし」
煽り、助長させる事すらあれど、その逆はあり得ない。
「では、三日の後」
「ああ。三日後に」
だって、これを待っていたのだ。
この国を沈めて13年。どれだけの人間が死んだのか。どれだけの人間を亡くしたのか。
少しずつ、滴るように沈殿していた憎しみの結晶が、煮え滾る音がする。
舌なめずりを一つ。
この町の空気の味がした。
腐って、匂って、諦めた、いつもの味。ただいつもと違って少しだけ、舌に痺れが残るような、刺激的な味がある。
「先に行ってろ。俺は少し寄ってく」
ラカンがそう言うと、半歩後ろで追随していた四人の気配がうっすらと消えていった。
その姿を捉えることは至難の業だ。ラカンと比べれば数段劣ると言えど、彼等もまた純粋なまでに鍛え上げられた傑物である。
ケダモノ染みた欲求を隠す事もなく抱いているのもまた、ラカンと同じだが。
ラカンはゆっくりと"街"の真ん中を横切る。
台地に設けられた階段を上がり、塔の入口で立ち止まった。
大きな両開きの石扉から視線を外し、ラカンは空を仰いだ。
今日は月が欠けている。
もう春先のはずだが、今夜は風も吹いていないのに冷たい空気がどっぷりと蔓延していた。
腐った水に浸かっている。と、そんな気分にさえなる。
ぐ、とラカンの爪先に力が入った瞬間、ラカンの姿が消えた。
──いや、消えた訳ではない。跳んだのだ。
音もなく、衝撃もなく、もし足元が濡れた紙で出来ていたとしても揺れもしないほど柔らかに。
それなのにその体は空気の壁を押し退けながら、十メートル二十メートルと勢いをほとんど殺す事もなく塔の頂上にまで至った。
音もなく、ラカンは降り立った。
「なあ、知ってるか?」
目当ては、一人の少女。
声をかけても、──いやそれ以前に突如あらぬ場所から現れたラカンに反応すらしない。
そう、まるでそもそもその事が判っていたかのように。
膝を付いてどこかに祈りを捧げる巫女は、それはそれは美しい。
「皮肉だよな。ここ、"月"って呼ばれてるんだと」
意味は巫女にも分からない。
ラカンもネタばらしをするつもりはないらしく、ただ空を見上げて、また楽しそうに笑った。
「なあ、お前のそれはどこまで見えてるんだ、ハリア」
「──全部」
名前を呼ばれて、巫女──ハリアは初めて目を開けた。
「こっち見ろよ」
「あんたの顔よりは、埃塗れの床の方がいくらかマシよ。このハゲ」
「馬鹿野郎。ファッションだよ、この頭は」
返事を待つが、ハリアはまた目を瞑って祈りを続けていた。
小さく溜息を吐いて、ラカンは、中へと続く階段に足を向ける。
「猛り狂って、吹き荒んでいるのに、見えないわ」
「ん?」
「最近、読めない部分が多くなってきたから」
「へえ、やっぱり」
ハリアはここ最近まで必要以上にこの能力を使用していなかった。
それがこの頃になっていきなり日がな一日使用するようになったのだ。
ラカンがここに寄ったのもその事に何かを嗅ぎ付けえたからであり、そしてそれはどうやら当りだったようだ。
「最初は、点。でもどんどん広がって、読めなくなっていく」
ハリアの顔には、広がっていく謎の病原菌を警戒するような表情が浮かんでいた。
「もう、町中。明日にもどうなるか分からない」
ハリアの能力は魔力を感じ取って、そこから独特の波長から先の未来をある程度予測する、そうさながら占いのような能力だ。
だから例えば、まるで魔力を持たずそれでいて世界ごとひっくり返すような力を持った存在がいるのなら。
ラカンは街を見やった。
先程よりも遠く、暗く、何かがこちらをじっと観察しているような感覚を覚えた。
「……アンタも、飲み込まれてしまえばいい」
ハリアも同じような感覚を持ったのだろうか、少しだけ強張った笑顔でそう言った。
──ぞく、ぞく、とラカンの背筋を何か寒い物が走った。
思わず、バチンと首の裏を庇ってしまう。
何しろ、それは初めての事で、それが寒気だと気付いたのはそれから三秒後だった。
「──っく」
思わず笑いが漏れる。
当然だ、これが笑わずにいられるか。
「あー……」
恍惚としたラカンの声に、ハリアはやはり目を開けもしない。
「──なあ、こんなに楽しくていいのかなぁ」
「良い訳ない」
「──生きてるって楽しいなぁ」
「なら死んでしまえ」
祈りをやめないハリアから今度こそ離れ、階段へ向かう。
外の空気から離れる直前、もう一度ラカンは舌なめずりをした。ハリアの頭越しに、ちらちらと光が舞っては消える町を見た。
「なァ、想像できるか! 十三年。十三年だ! 碌に守りゃしないのに重税を課した! 何人も浚っては殺してその辺に放り出した! どんな気分なんだろうなぁ!」
「……黙れ」
「街に行ってきたが、ありゃ糞の掃き溜めだ。街も地面も空も住んでる人間も。不細工も美人も、男も女も、才能がある奴もない奴も。全部糞塗れで滑稽だった! 何で生きてんだろうな、あいつ等!」
「さっさと行って。彼方の声も言葉も嫌いなの」
す、とラカンの顔だけが振り向いてハリアを見た。
「糞まみれの虫共は、一体何を諦めてねェだろう。なァ、ハーちゃん?」
ピクリと、ハリアの肩が反応した。
当然ハリアは知っている。ルグルが動こうとしている事も、それがもう近い事も。
ラカンは僅かなハリアの動揺に気付いたのか、それともどうでもいいのか。ケタケタと笑うだけ。
「もう直ぐだ。もう、分水嶺を越える」
ケタケタと笑うラカンを、ハリアは目だけで追っていた。その目の中に光は薄い。
この塔の中に充満した悪意と欲の泥は、巫女と名を持つ彼女にも容赦なく、そして日常的に襲い掛かる。
消えない傷は一つや二つではない。
「……あの子は、来ないわよ」
「そうか?」
ラカンは汚らしい塔の中の空気を肺一杯に吸い込みながら、やはり笑う。
「なら、どうしてやろうか」
先程よりも確かに、得体のしれない何かが濃く舌に残っていた。
──びょう、と強く風が吹いた。
ハリアは神子装束が飛ばされないように抑えながら、その風をやり過ごし、また手を組み合わせる。
ここは街で一番暗い場所だ。
遥か眼下に淡い街明かりがある他は闇しかない。それを覗き込むたび、ぞくりぞくりと背筋が冷たくなる。
ある程度先の事が判るという事がどれだけ自分に余裕を持たせていたのか、よく分かる。
どうなってしまうのだろう。
予知が聞かない部分はどんどんと大きくなっている。
どんな病原菌がいればこんな事になるのか。
ラカンの横暴。貧困。飢餓。加えてドラゴンの侵攻。もうこれ以上の化物には退場を願いたいのに──。
「リィラ──……」
感情まで読む事はできない。
でも、リィラが。双子のリィラだけは。
薄らとあの深淵の底のような町の中から"生きている"とそれだけの気配を感じ取れる。
吐き気を催しそうないつもの負の感情と死の気配がさらにドロドロと、食道を気管を下って体の中を犯していくようだ。
あんな気配の中にいて泣いていないだろうか。
子供達とうまくやっているだろうか。
もしかしたら、自分の事は忘れてしまっているだろうか。
それならそれでもいい。
逃げてもいいのだ。
代わりを見つけて、幸せになってくれればいい。
リィラは決して強い人間ではない。優しくて、それだけでいいのに。
「あ」
それなのに、それを想像しただけでぼろりとハリアの目から涙が零れた。
「……っ」
見たい。会いたい。触れて、抱きしめたい。
もう一度だけ──? いやだ、ずっと、もっと。離れたくない。
それでいいなどと、全部嘘だ。
リィラはやはり笑っていないのだろうか。
ルグルはどうしているのか。
ギドの墓に参ってさえいない。
なにより、会いたい。
ここから助けて、と。
そう願ってしまう自分が嫌でハリアはまた蹲って泣き声を押し殺す。
「ギドぉ……」
名前を呼ぶ。
もういない事は分かっている。
何と言うだろう。よく頑張ったと言ってくれるだろうか。
それともいつものように、もう少しだけ頑張れと言うだろうか。
「私、色んな魔法使えるようになったよ……?」
監禁されている間に、執政のコドラクに持ってきてもらった本を読み込み、寝ずの訓練を重ねた。
"巣"からの声で眠れなかった事が始まりで、今も一番役に立っているのが"耳を塞ぐ"技だなどと、出来の悪い皮肉のようだが。
「ギド……」
寒い。寒い。
夜の"月"は冷たく空に浮かんでいる。
◆
寒い。
水気を含んだ冷気を濡れた肌に受けて、リィラは目を覚ました。
湖のほとり。体の泥と血を落とした後、そのまま倒れこんで眠ってしまったのだ。
目の前には鞘に入った剣が四本転がっている。
三本は、新調──と言うよりは買い溜めてあった予備の剣だ。
そして、もう一本は、使い古した最初の剣。ギドの命が染み込んだあの剣だ。
折れなかった。
死んだ騎士から拝借した剣はあれ以外に何本もあったが、それ等が全部折れても、鞘代をケチる為に同じ大きさで作らせた贋作が8代入れ替わっても、折れなかった。
それは、ギドを貫いたあの感触と血の温度を忘れさせないための呪いなのだろうか。
それとも、何かが自分を守ってくれたと考えてもいいのか。
少なくとも。
つい先日、神様が遂に折ってしまった時に、どこかほっとしてしまった自分が居た事と。
それでも、未練たらしく折れた剣を大事にしまって腰にぶら下げている自分の心理が理解できない事は、確かだ。
「寒い……」
その場で芋虫のようにリィラは丸まった。
毛布も人肌もないのであまり寒さは和らがなかったが、それでも少しだけ楽になったのは、見える物が狭く暗くなった事に安心したからだ。
あの町では顔を上げれば、見たくない物が目に入ってしまうから。
暗闇と地面が好きになっていたのは、そのせい。
ぼろり、とよく冷えた肌に、それでも冷たい滴が頬を伝った。
雨かと本気で思ったが違う。今日も憎らしいほどに快晴で、星は嫌味なほど一生懸命輝いている。
「っ……」
嫌な夢を見たからだ。
だから、気絶するように眠りたかったのに。
「…………ギドォ……、ハーちゃん、っ……」
必死に町の外の龍を討伐した。
自分しか出来ない仕事が、それしか無かったからだ。龍には勝てる事を知っていたからだ。
必死に子供を集めて、育てた。
罪悪感が自分を殺そうと狙っていたからだ。とある"他の事"を考えるのを避けたためだ。
「ごめん、ごめんね……」
あの日、地の底で泣いていた子供は、未だその場で蹲ったまま、立ち上がらない。