地の底
町の中は静かになっていた。
雨は強くなる事も止む事もなくポツポツと中途半端に町を濡らす。
辺りで立っているのはラカンだけ。
気付けば視界の端々に先ほどの坊主共が戻って来ている。とりあえずは気が済んだのだろう。
ぐったりと動かないハリアを受け取ろうとする坊主共を手で払い、ラカンは蹂躙した町々に背を向けた。
そのままゆっくりと遠ざかる。戦士達の決死を悠々と踏み越えて、ギドの体を何の感慨もなく跨いで。
「……待てよ」
その背中に声をかけた男がいた。ラカンが振り返る。
それを確認してふらりと男──、ルグルは足を踏み出した。
脇腹から胸に渡って削ぎ取られたような傷口が広がっていて、ふらふらと足を進める度に地面にびちゃびちゃと血の塊が地面に落ちる。
ふと、ゆっくりとルグルのが、目だけを動かして倒れたギドの体とリィラを一瞥した。
目が細まる。泣いているようにも、笑いかけているようにも見えた。
「────……」
一瞬後、ルグルの表情が一変していた。
ぼたぼたと落ちていく血に交じって何かを捨ててしまったかのように、変わった。
子供染みた表情が抜け落ち、ある意味で純粋な、残酷で仄暗い空気が漂う。その目は、まるで鷲のような。
言葉はない。
何を言っても無駄で、自分が何をやっても何も変わらない事をルグルは気づいていた。
それでも、ひたすらその鷲眼でラカンを射抜き続け、ギリギリと歯を擦り合わせる。
「どうした?」
ラカンは口を開いた。
その表情に緊張感はない。何せ遅々としてでも進もうとしていたルグルの足は既に止まっている。
「──忘れるなよ、俺はお前の敵だ」
「お前は俺の敵じゃないよ」
「ひっひ……、そうかい」
べしゃり、と地面に大量の血を吐いて、ルグルは膝を付いた。
しかし、直ぐに地面に剣を突き立てて体を持ち上げ、再びラカンを睨み殺さんとばかりに見つめ、貫く。
「……今日は勝てない。助かるとも思っちゃいない。だが忘れるな、お前が死ぬまで俺はお前の敵だ」
その不格好な姿を見て、倒れていた戦士たちが立ち上がり始める。
ルグルを、そして、倒れたギドを一瞥して、歯を食いしばる。ゆっくりと、暗い地面から戦士達が身を起こしていく。
それぞれルグルと同じく、倒れたギドとリィラを一瞥して。
立ち上がる意味は、もうないはずなのに。
「この国を嘗めるなよ。この国は諦めない。この国はお前を許さない。この国はお前を追い詰め必ず殺す」
「そうか」
そう言ってラカンは辺りを見渡した。
その後億劫そうに剃りあげたを頭を掻くと、溜息交じりに口を開く。
「なら、もう帰っていいか。あまり濡れたくない」
その言葉で広場中に言い難い怒りが広がった。誰もが目を剥き剣を握り締める、そんな中。ルグルだけが小さくヒッヒ、と笑った。
ゲラゲラと狂ったようにルグルは笑いながらラカンを見上げて、震えながらも立ち上がった。
痛みも疲れも全て無理やり捨て去ったかのように。
「まァ、正直なァ……、俺も帰りたい。勝てない戦いもしたくはないが」
だけどな、とルグルはその細長い指をラカンの肩に向けた。
「そいつは、渡せん」
殺伐とした空気と殺意と言葉が交錯する中、ハリアに向けられたその言葉だけが温度を持っていた気がした。
狂暴で粗雑で貪欲で、しかし、戦士達と破戒僧達を分ける一線がそこにあった。
「そいつは糞生意気で口が悪くて可愛くなくてな。お前の手には余る」
にぃ、と口の端を上げたルグルは、ラカンの顔に酷く似ていたが、決して同じではない。
その顔のまま、吠えた。
「何より、そいつ等を見捨てようもんなら、俺はこっぴどく叱られちまうんだよッ!!!」
剣を持ち上げ、切っ先を向け、ルグルは止まったはずの歩みを再び進めた。
そして、その汚らしい雄々しさに伝染した人間達が、同じように無理な笑みを顔に浮かべた。
「──死んでも奪え、ろくでなし共ォッ!! テメェ等負ければ丸坊主だぞコラァァッ──!!!」
怒号のような戦の鬨があがる。
それは全て決死の覚悟を宿したもので、比喩ではなくびりびりと辺りが震えた。
──同時、ラカンの目が僅かに細められた。
眩しい物を見ている訳ではない。泣いている訳でももちろんない。
滑稽な虫が羽をもがれて足掻いているのを見ているような、そんな表情。にぃ、と口の端も上がっていった。
「その前に、一つだけ」
ルグルの口から、血が零れ落ちた。ルグルは違和感に気付く。脇腹だ、焼けるように熱い。
見ると脇腹にナイフが。それも、それは背中から。
「やっぱり。お前は俺の敵じゃなかったなぁ」
ルグルの目が見開かれる。刺した人間の顔に見覚えがある。見覚えはあるが近しい人間ではない。
そう。確か村の上層の貴族の一人。
「とある貴族の令嬢を手籠めにさせてくれ、だとさ」
男は慌ててナイフを離すと、転がるようにラカンの元に走った。
ルグルの背後に控えていた戦士達も今は茫然と固まって──、
「素晴らしいぞイーガル。この変態め」
そしてルグルの体が倒れ伏した瞬間。
一瞬だけ空気が冷えかけて、しかし、再び怒号が上がった。
広場に唸り声が木霊し、空気が震え、やがて戦士達は一人残らず立ち上がった。剣を抜き、ラカンに突進していく。
ラカンは目を細めたまま──否、薄く笑った表情のまま呟いた。
「良いね。そう言うのは何と言うか、そそるよ」
それをリィラは見ていた。
倒れ伏したルグルの姿。それに激昂する男達。
リィラの足にも腕にも体にも、力が入って。もしかしたら、立ち上がれたかもしれないのに。
リィラは恐らくこの場にいる人間の中で誰よりも戦えたのに。
「──もう、ぐっちゃぐっちゃにしたくてさァ!!!!!」
ラカンの顔が見えた。
笑っている、楽しそうに。極上の酒を頭から浴びているかのように。
その邪悪としか思えない欲望まみれの笑みが、立ち上がるどころかリィラの手から剣が転がり落とした。
たちどころに、戦意が恐怖にのみ込まれていく。
戦士の攻撃は変わらず届く事すらなかった。
決死の儀式魔法は天から降る巨大な矢のようだったが、慣れた仕草で手の平で潰された。
大きい。途轍もなくラカンが大きい。あれを踏み越える事も、壊す事も想像できない。
天高く、そして地平線の端まで続く冷たい鋼の壁を連想した。
「……しかし今は、一旦幕を引こう」
不意に、ラカンが軽く足を振った。
突風もない。轟音もない。これまでの規格外な力に比べてあまりに些細な行動。
しかし、その光景に、リィラは全身の毛が総毛立ったのを確かに感じた。
「止め──……!」
リィラの言葉は間に合わないし、届かない。
その強靭な爪先に地面が弧を描くように削れただけだ。戦士達は気にする事もなく、雄叫びをあげ特攻する。
「さあ、諸君心せよ。地獄逝きだ」
そして。
ばん、とラカンは合掌するように手を合わせて。
──町中を覆い尽くすような膨大な魔力を体中から噴出させた。
「──"苦諦・黄泉楽歌墜天六獄絵図"」
瞬間、容易く。
戦士ごと。
意地ごと。
歴史ごと。
憎しみごと。希望ごと。
リィラの未来ごと。
「それではこれにて。みなさんさようならまたあうひまで」
エルゼンの町は、殺された。
リィラは、誰かがすすり泣く声で目が覚ました。
目を開けた途端、その声は消え、激痛に呻く声、泣き喚く声に変わって鼓膜を揺らす。
その声は遠く遠く、まるで地の底から亡者達が呪いの呪詛を上げているかのよう。
「ここ、は……?」
「エルゼンだよ。お前の故郷」
びょうびょうと強い風が吹いている。
その風はリィラの頭の上から、足元に流れていた。
そこで初めてリィラは自分が宙に浮いている事を知った。
しかし衝撃でぼやけた頭がそれに驚く前に、その"足元の地面"が遥か下にある事に気付く。
崖がある。
誰かはここがエルゼンだと言った。
エルゼンにこんな地獄の大口のような場所はない。何を言っている。
「通りすがりの屑に、片端から凌辱された残滓だがな」
誰──?
誰だ?
ゆっくりと、自分の胸ぐらをつかんで軽々と持ち上げている腕を見る。
それに続く肩を見る。袈裟を見て、そして、その邪悪な笑みを見つけた。
「笑った。いやぁ、笑ったよ」
「──っひ……!」
思わず出た悲鳴を誰が責められよう。
まだほんの子供。一歩進めばいつもの町で、振り返れば地獄の大口。そして目の前には、化け物染みた仇敵が笑っている。
反射的に掴まれていたその腕を掴んだ。
決して、立ち向かおうなどという考えからではない。
せっかく無意識に掴んでいた剣が手から離れ、カランカランと音を立てながら崖の底に吸い込まれた。
それ以外は酷く静かだ。
何の音もしない。
いないのだ。何も。
気付いてみれば日はある程度上っていたし、どこかに吹き飛ばされたのか、頭上には高く青空が広がっている。
故郷もない。
戦士達も、親も、家族も。全てない。食われてしまった。
背後に開いた大口に。
目の前の人の形をした獣に。
もう、何も残っていない。
「死のうなんて、考えるなよ」
びくり、と体が揺れた。
考えてはいなかった。行き着く前に先回りをされたので当然だ。
「お前の妹は、どうしようか」
とん、とラカンのもう片方の腕の指先がリィラの胸を付いた。
「義務と想いが根付いてるな」
「っ……」
知っているとも。
ここでお前が自分を殺さないのが、ギドが何かラカンにしたお蔭だという事も。ハリアが、どこかでまだ生きている事も。
「歴史を重ねて、力を蓄えて、恨みを募って、夢を見て、万感の思いで、殺しに来い。奪いに来い。取戻しに来い」
ガタガタと体が震えた。
「騎士で勇者で英雄で正義の味方で、おまけにヒーローになって──、」
逃げる事も、死ぬ事ですらも、もう自分では選べない。
「そして、空しく惨く無情に。俺に犯されて奪われて殺されて壊されてしまえばいい」
楽しげにラカンの口角が上がり、耐え切れないとばかりに目尻が下がる。
それで、思い知る。
想いも。
命も。
歴史も。
力も。
恨みも。
夢も。
万感の思いも。
全てこいつの甘美な餌。
「じゃあ。さようなら、また逢う日まで」
リィラの体から、手が離れる。
腕で自分の体も支えられず、リィラは空中に放り出された。
ゆっくりと、吸い込まれていく。
瓦礫と血と死体と腐臭が混じる世界へと。
どんどんと空は遠く、赤茶けた崖の壁は、牢獄のようなのに天高く。
喚く声は人の物ではない。この地には何も残っていない。ただ地に這う何かが蠢く様は、何かの"巣"のようだ。
「──、あ」
今度は、ざり、ざり、と土が削れる音で目が覚めた。
薄らと目を開けて、そちらに視線をやると、どこかで見た事のある顔が地面を手で削っていた。
ぶつぶつと、虚ろな目で何かを呟きながら。その手は瓦礫にやられて少なくない血が滲んでいる。
「あ、あっ、ああああああぁ、あああァあああああああッ!!」
誰かが上げた金切り声が、リィラの体を竦ませた。
思わず身を竦め、顔を上げた。その時体中に思わず叫びそうな痛みが走ったが、それを越える驚愕によって痛みは脳にまで届かなかった。
叫んでいる。呻いている。泣いている。喚いている。怒っている。悲しんでいる。
いろんな人間がいて、そして多分、それを全て合わせたより多くの人間が死んでいた。
やはり空は遠く、赤茶けて高い壁は牢獄だ。
「う、あ……」
そして、彷徨った視線の先でそれを見つけた。
戦士達の虚ろな死体の横で、座っているルグルの血の滲んだ背中。そのすぐ目の前には、力なく横たわっているギドの亡骸があった。
脇には、引き抜かれた血色の剣が転がっている。
「あ、あああああ……」
まだ落ちているような感覚が、リィラを襲った。
ぐらぐらと揺れる視界に耐え切れず、リィラはそのまま蹲った。
視界が地面で一杯になり、やがて暗闇だけになる。
「あああああああああああああああああああああッ!!」
その日、ラカンとそれに追随する化け物共は残った国軍を皆殺しにし、恭順する文官数人を残して侵略を終え。
そして、すべてが地に堕ちた。
◆
「リィラとハリア──、巫女はな。まあ、仲が良くて。リィラは気が弱かったからよ。妹のハリアにべったりだった」
ポツポツと、ルグルは話し出した。
その声に懐かしさは感じられない。どこか小馬鹿にしたような節すらある。こんな男だ、平和を愛する事などないのだろう。
「そん時はまだ孤児院なんてのもあってな。まあ、子供が道端で死んでるような事は滅多になかったよ」
「へえ……」
「まあ、貧しくはあったんだけどな。昔からこんな土地に住んでるせいか、"やりよう"は知ってたし、神の教えが清貧尊ぶべしってんだから、まあ、何とかなってた」
今度こそ、吐き捨てるようにルグルは言った。
戦争が、禁じられている。ありえないその条約が、資源や人材が乏しい国を圧迫する事は明らかだ。日頃苛ついていたのだろう。
「孤児院は少なくてな。だから教会で子供預かる事にもなって、そこにリィラとハリアが居たんだが、そこの婆さんが偏屈でよ。厳しくて、まあ男前だったね」
「婆さんだろ」
「婆さんだよ」
ルグルもそことは懇意だったらしく、その婆さんの事を詳しく聞いた。
リィラの昔の性格や、ハリアとやらの生意気さ。
昔の街並みを話す時には、その言葉の端には隠し切れない懐かしみを滲ませて、ルグルは話した。
「──纏めるとな、ギドが死んで。原因の一因がリィラと"国食み"だって言う、ありふれた話だ」
「……一因ね」
「一因なんだよ」
話は終わりだとばかりに、ルグルは木のジョッキをあおった。
机に銀貨3枚とジョッキを一緒に置くと、さっさと立ち上がる。
「それなのに、あいつは駄目なんだ。時間ももう無い。なら"神様"を神輿に担ぎ上げたい」
「……そう言われたら、手を組めって言われてるよ」
「何だよ先生、尻に敷かれてんのか。嫌なメイドだなァ」
ふん、とハルユキは鼻を鳴らして、追加していた酒を口に運んだ。
「じゃあ、そういう事で良いな」
「ああ」
「詳しい事は後で連絡する。──ああ、それと」
返ろうとしたルグルが振り返った。
「例の"パン"。ちょっと食わせてくれないか」
「ああ、ほら」
ぽん、とルグルに一瞬で作り出したパンを差し出した。
空気と水で、ほとんどエネルギーも使わずに。理想的であるはずの食べ物だ。
「……美味いな」
「そうか」
「あァ、で、悪いが正直。反吐が出る」
「……そうか」
理想的な食べ物だ。
いとも簡単に。息をするように容易く。
しかしそれは、パン一つが食べられなくて死んでいった人間の死を知る者にとっては、気持ちのいいものではないだろう。ルグルの気持ちは想像できる。
「俺がさ、」
「ん?」
ハルユキが最後に呼び止めると、ルグルは最後のパンの一欠けらを口に放り込みながら視線を向けた。
「俺が、その国食みとやらを今から殺しに行ってやると言ったら、お前どうする」
す、とルグルの目が据わった。
しかし対して口元は歪に吊り上る。
曲がりなりにも温和寄りだった感情がぐるりと裏返り、暗い殺意が首をもたげた。
「まず、あんたを殺す算段を立てるよ」
「誰が死んでもか?」
そう問うと、キヒヒと薄ら寒い笑みをルグルは顔に浮かべた。目の端から途方もないほどの憎しみのほんの一部が零れている。
「俺は、正しい事をしたいんじゃねェんだ」
静かに、淡々と、しかしどうにも耳の奥の方に響く声でルグルは言った。
「……そうか」
それを聞いたハルユキをさっさと背を向けて、カウンターに視線を戻した。
「じゃあな」
「アンタも大概自分勝手だなおい」
ヒッヒ、とルグルは低く笑うと、部下の数人を引き連れて店を出て行った。
これからがピークなのだろう。長い話だったせいか、酒場に人が増え始めた。。
これを飲み終わったら俺も帰ろう、とハルユキは決めて、ゆっくりと最後の酒を飲み始めた。
「──……」
この町は暗い。
精神的な意味でも、崖下と言う立地の意味でもだ。
とてもルグルが懐かしそうに語っていた町だとは思えない。
"国食み"とやらの来訪に、そして龍達の蜂起が重なって町の人口は爆発的に増えバランスが崩れた場所から腐りはじめ、異臭が漂う。
ここはそんな町だ。
国食みとやらの狙いがこれならば。なるほど。この町の者からすると虫唾が走る思いだろう。
「店主。火酒くれ。きついヤツ」
ガラガラと隣で椅子が引かれて、ボーっと思考に耽っていたハルユキは我に返った。
丁度酒も空になったので、立ち上がって帰ろうとした時だ。
隣に座った男の剃りあげた頭に、目が留まった。
「あんた、あんまり見ない顔だな」
「お前──」
「俺か?」
その男がやけに整った目でこちらを見上げていた。
切れ長でその瞳の底は酷く深く見える。
「俺はラカン。あんたは?」
かつん、とハルユキの分の酒をハルユキの前に置くと男、──ラカンは、薄く笑った。