大口の中
「何、あれ……」
ずるずる。
ずるずる。
引き摺って街を行く。
足と手と首と。
仲間はずれはそのなかの一つ。
「悪、魔……?」
ずるずる。
道は先に開けていて、道は後ろに出来てもいた。
前は空気の透明と土の色と肉の肌色。
後ろは土色が混ざった鉄臭い赤色があのオアシスから。黄色と白も時々こびり付いている。
人の通りはいつもより更に少ない。
思ったより時間がかかってしまい、今は夕方。人通りが減る時間帯ではないはずなのに。
道には様々な屋台の破片や、時々力なく倒れている人間がいるだけ。
漏れてくる声がある。頬に当たる視線もある。
しかし人っ子一人いないその道の真ん中を歩いて行った。右手に首を、左手に剣を。
片方の目に血が滲んでいて、長時間そのままでいたせいかあまり違和感もない。
世界が赤色のしましまに染まっていて、その赤色越しに確かに見えた。
僅かに仄めかすように爪痕が残っている。町全体が、何かに支配されている。
所々で火の手が上がり黒い煙がもうもうと。遠くからは絶叫じみた叫び声が聞こえてくる。
それはずぅっと町の奥まで続いていて、偉い人達が住んでいる辺りの区画に酷く徹底した爪痕が見えた。
不思議と、あまり関心がわかなかった。
うっすらと西の空に濃い色の雲が浮かんでいる。
きっと、酷い雨が降る事を予感させた。
教会へ行く道を、ゆっくりと進んでいく。
引き摺っているのは龍の首。"国食み"に見せつけてやれば脅しになるかと引き摺ってきた。
しかしそれを見せることなく、リィラは教会に行き着いた。
「……?」
静かだ。血の匂いも、暴力の爪痕もない前庭を眺め、教会に入る。
「──……」
やはり、誰もいない。
それどころか、まるで何年も誰も立ち入らなかったかのように人の気配が感じられない。
何が変わったのかは判らないが、なぜか今日まで慣れ親しんだ教会だとは思えなかった。
薄ら寒い物を感じながら、リィラは教会から出た。
そこからはうろうろと、ただ街中を歩き回っただけだ。
「あ」
だから、見つけたというよりは、行き着いたと言った方が正しい。
不自然なほどに誰もいない世界は背後に消え、ぞろりと人の群れが姿を現した。
その場のほぼ全員の視線が来客であるリィラに向く。
そしてその中の百人ほどが、一斉に口元を曲げた。坊主の恰好。しかしその表情は皆一様で、気味が悪いほどの衝動を滲ませている。
しかし、リィラの視線は一か所に釘付けにされていた。
目を離せるはずもない。それは、昨日までは確かになかったはずの、広場の片隅に真ん中に積み上げられた大きな山。
それが、血に塗れていた。
いやそれだけならいい。顔をしかめるだけだ。しかしそれが、家の屋根すら超える高さのそれが。
死体で出来ているから、言葉を失ったのだ。
見れば所々に立っているのは"首塚"だ。上は夕闇、下は泥混じりの血の色。
それはまるで、大きく開けられた口のよう。
また一人が死体の山の麓に投げ捨てられた。
悲痛な絶叫が響き渡る。
理解する。と言うより、知っている。
先程のは確か誰かの父で、金切り声を上げているのは、その子供の青年だ。
母は、既に口が利ける状態ではなく、ただ青年の腕に抱かれているだけ。
おかしい。これはおかしい。
こんなものがあり得るはずがないので、ここは異界なのではないかと思ってしまうほど。
しかし確かに異界でも地獄でもない証拠を、その山の足元に見つけた。
「……っ! ハーちゃんっ!」
人垣の中。
大きく口を開けたその広場の対岸。
ぐったりとその場に尻餅をつき、遠目にも茫然としていて、地面を見つめている。
しかし、リィラが叫んで数秒後、ふらりとその顔を上げた。そして、ゆっくりとこちらに焦点が合う。
「り、リィラ! リィラっ!!」
やはり双子のせいか、同時に走り出して、しかしハリアが身を凍らせるようにして突然足を止めた。
そして、これも突然。
背後に気配があった。
静かに、しかし巨大な気配。そう巨大だ。まるで突然雪崩でも迫ってきたかのような存在感が背中に圧し掛かる。
「よう」
無遠慮にかけて来る声が、その正体を教える。
するりと、ラカンは背後からリィラの前に出た。
声も表情も変わらない。
しかし、周りの状況が事実を十分に教えてくれたし、それを受け止める事にも意外と抵抗はなく、するりと殺意は馴染んだ。
「それ、お前が殺したのか? リィラ」
未だ持ったままになっていた龍の生首をラカンが指した。
むくりと何かの感情が顔をもたげる。首を渡す。人間ではない方の。
嬉しそうな顔は、大きな手を伸ばし、ごしごしと頭を撫でる。
ぎり、と歯が鳴って、歯茎が痛くて。自分の物とは思えないほどの吐息と共に怨嗟の声が零れ出た。
どくり、と全身で血液が脈動する。
首を渡したのは、喜ばせるためではない。邪魔だったのだ、剣を抜くのに。
ぱしん、と頭に乗った手を弾く。
そして、そのままラカンに手を翳す。
力が心臓の近くから腕の先に集まり、そのまま放出された。
どん、とラカンの体が吹き飛ぶ──、いや、わざと受けて自ら跳んだのだ、ダメージはない。その証拠に顔に浮かべた笑みを更に深くしている。
ギリギリと開き切った瞳孔で、リィラはその顔を覗き返す。
そして、訣別の言葉は端的に。
「──お前か」
「ああ、俺だとも」
然らば敵。
敵即ち撃滅すべし。
その他諸々是非も無し。
剣を抜くと、乾いた血が鞘と擦れて、ガリガリと音を立てた。それを見てハリアは背後で小さく身を竦ませ、ラカンは笑う。
「俺だが、それがどうかしたか」
とん、と後頭部を小突かれてから、リィラは目の前からラカンが消えている事に気付いた。
背後に剣を振る。
するとまた、消えるように姿が消える。
「てっきり、俺を殺すつもりかと思ったが」
「殺す!」
今度は油断も、瞬きすらもしていなかった。しかし一瞬。今度は額を正面から小突かれた。
「青いな。ちゃんと才能を使って、血反吐吐いて努力して、仲間の支えを得ないとな。手順が大事だ」
また消える。
今度は積み上げられた屍の上に、その形を崩す事もなく座っていた。
「俺は、そんな人間を殺す瞬間に、快感を甘味を爽快感を酸素を得られる、分かってくれな?」
空のほとんどを覆い始めたの帳を背負って、ラカンの口元に赤い三日月が浮かび上がる。
町に光はない。
ただ、所々に上がっている火の手が怪しく影を躍らせる。
「さ、お前はどうするのが楽しいかな」
「ふざけるなぁッ、出て行け、出て行ってよこの悪魔ぁ!!」
ハリアの言葉など誰の耳にも届かない。
ラカンの視線は、じっとリィラを見つめている。
「──おいおい、そりゃ駄目だって、リィラ」
「……?」
「無自覚か? いけねぇなあ。感じてる振りなんてのも、萎えるだろう」
そして納得したようにそう言うと、ラカンはリィラを顎で指し示した。
ラカンの仕草に敏感に、坊主が一人前に出た。ラカンと同じ背格好。頭。そして立ち振る舞い。しかし感じる威圧感は劣っている。
「勝負だ。こいつ等を殺したらお前の勝ち。広場から逃がすか、お前が広場から出ればお前の負け」
楽しそうにそう謳うラカンの言葉に眉を顰め、リィラは辺りに並んでいる坊主共を見た。
「広場から出たらこいつ等は楽しむぜ。お前が止めなきゃな」
ある者は腕を組み、ある者はその場に座り込んでこちらを眺めている。
一対一で戦えという事だろう。
遊びのつもりでここにいるつもりはない。
非難がましい視線をラカンに向けようとして──、
「さて、どこかに仲睦まじい男女でもいないかね」
脇を通り抜けた男の声に、全身が総毛だった。
振り向く事すら間に合わない。踵か肘か、何やら固い何かが思い切り背中を打つ。
反射的に魔法で勢いを殺したものの、そのせいで地面にバウンドし体が浮き上がる。
そこに今度は前蹴りを叩きつけられ、リィラの体は吹き飛んだ。一度、二度と魔法越しに地面を跳ねて、家屋に突っ込む。
「合図があるまでほどほどに。だったね? ボス」
「ああ、行って来い」
「うふふふふ」
とん、と坊主は地を蹴った。
その脚力も身のこなしも並みの物ではない。一跳び、二跳びとした所で、広場の敷地を越えるには十分だ。
手下の有象無象。こいつ等は強者の群れなのだ。
その一撃は岩を砕き、空を蹴る。
「──死ね」
ぬらりとリィラは立ち上がった。音もなく、今度はその背中に幼い凶刃が迫る。
「邪魔だよ。糞ガキ」
"一人目の坊主"は既に半歩広場の外。つまり"一戦目"は終わり"二戦目"が始まっていた。
リィラの刃が走り出す前に、背中に鈍い衝撃を受け、リィラは地面に叩きつけられる。
「──ッァあ!!」
メキメキと当たり前のように骨に罅が入り、口から血が噴き零れる。
一人目の坊主は振り向く事すらなく町に消え、リィラの背中を蹴り付けたもう一人もそのまま広場の外に出た。
「リィラッ!!」
ハリアの悲鳴のような声が飛ぶ。駆け出そうとするその体を、周りの街の人間達が必死に抑えた。
その脇をすり抜けるように、次の男がリィラに向かって走り出す。
巻き起こった土埃が消え、その中ではリィラが蹲ってピクリともしない。
「あ?」
しかし、三人目の坊主がその上を飛び越えようとした瞬間、刃が走り、坊主の足を膝の上の辺りから切断した。
二の句を継ぐ前に、返す刀で首めがけて刃が閃く。容赦も熟慮もない一閃は、容易くその首を斬り飛ばした。
体は勢いのまま家に突っ込み、首はゴロンゴロンと転がっていく。
しん、と広場が静まり返る。
町人はその凄惨な光景に。坊主共は警戒心を取戻しての事だ。
「人を殺したのは初め──……」
「次だ、ラカン」
ゆっくりと、リィラの顔がラカンに向けられる。
そしてリィラの不慣れに釣り上げられた口元を見て、ラカンはこれでもかと言うほどに邪悪にほくそ笑んだ。
死体の山に座ったまま、偶然にもその背に月を背負っている。
「応とも。あと、ほんの105人。むしろ殺した方が良い」
逃がした男達も、これから闘う男達も一人残らず化物だ。
事実逃がした男達はその身の瘴気を撒き散らしながら町に侵入した。
殺さなければならない。
剣の柄に力が入ると同時、ラカンが高らかに告げた。
「次だ」
◆
何時間経っただろう。
どれだけ打ちのめされただろう。
また、リィラは拳に踵に地面に打ち付けられ、奮闘空しく、化物を自分の故郷に解き放った。
「──駄目ぇ!!」
ハリアの声は聞こえていた。
しかし、次の坊主が抑えられたハリアの横をすり抜けていく。
「次」
ハリアの声がだんだんと掠れていき、やがて嗚咽に変わった。
「次」
■■人目。
町には火の手と悲鳴が増え始めた。主の手を離れた破戒僧たちが、抑圧されたその欲望の限りを奮っている。
「次だ」
火と血と肉と、視界は真っ赤。
空を見上げれれば煙に覆われた夜空で、視線を下げても炎の影が踊っていてこれも赤い。
「つぎ」
もう何度目になるのか。
しかし、不思議と拾っただけの剣は折れなかった。
ただ気付けば、いくつかの死体が転がっていて、酷く音が遠く、体には他人や自分の流した血がこびり付いていた。
「最後だ」
一瞬だけ意識が途切れていて、気づいた時にはリィラは路傍で大の字に、空を見上げていた。
夜の闇の中にびっしりと、厚い雨雲が掛かっている。
「次、俺な」
目の前にいる。
リィラは膝を付いて、──いや、顔から倒れこんだ。肺は呼吸の仕方を忘れたように不規則に風鳴りのような音を繰り返している。
地面に顔を擦りつけるように視線を上げた。
視線のずっと先に泣いているハリアが居た。
「あ、ああああ……!」
手に剣がない。
二度三度と間違って地面を掴んだ後、四度目で剣の柄を捕まえた。
「最後だ。意識しろよ、お前の両肩にこの町の命運が乗ってる」
剣を持つのを待っていたかのようにラカンの拳が振るわれた。
「──あ」
直撃はしなかった。
しかしそれでも、広場の敷居を越えなかったのは奇跡に近い。
人の身の、その人並みの大きさの拳には人知を超えた物が宿っていたように思え、それは事実、世界を削り取った。
音が消える、景色が消える。
気付けば、リィラは地面に横たわっていた。
ラカンが遠い。吹き飛ばされたのだ、先ほどいた場所からは酷く遠い。
「あ……」
寒い物が背中を這い上がる。
痛みも悲鳴も火の焼ける匂いも、恐怖でさえも遠かったのに、その感触だけが嫌に鮮明で肉薄している。
ラカンの一撃は容易く地面を抉り、地形を変えていた。
広場は全体が大きく広く抉れ、沈んでいる。
「あぁ、やりすぎた」
寒気が、今まで無視していた感覚を容易く引き戻した。
剣の感触も、こびり付いた血の温度も、空気がへばりついたかのような体の疲れも、早鐘のように胸を打つ心臓の音も、しまいこんでいた恐怖さえも。
とん、と、またラカンが目の前まで一瞬で移動する。
「いや、しかし八勝すれば大したもんだ。お前、俺が褒めるなんて珍しいんだぞ」
「く……、ぁあ!!」
剣を振る。
視界が怪しいせいか、その剣は見当違いな場所を薙いで、しかもそのまますっぽ抜けてラカンのはるか後方に転がった。
「……っ」
自分の体を地面と反発させ、呼び動作も無しに宙に飛び出す。
背中から地面に着地し、地面を転がりながらも剣を拾い上げ、再び狂ったように叫びながらリィラは剣を構えた。
そしてふと、気付いた。
構えた剣先が震えている事に。
かちかちと歯が鳴っている事に。
脳裏に死んだ人間の顔が、抉れた地面が、金切り声が、真っ赤な炎がこびり付いている事に。
いつの間にか、殺意よりも大きい感情が分水嶺を越えた事に。
戸惑うリィラに、ラカンはこれ以上ない程の愉悦を顔に浮かべた。
「──気が触れた振りは、終わったか? リィラ」
「あ……」
その戸惑いをも慈しむようにラカンは微笑み、そして今度こそその体に拳を叩きつけた。
終わる。迫りくるその一撃で幼い意地もすべて叩き折られて押し潰される。
──そして、再び轟音が響いた。
「無理して強がるなよ。泣かせたくなるだろう?」
地面すらも更に押し潰される中、ほぼ無意識に差し出された剣にリィラはまだ死んでいない。
リィラの体とラカンの拳と、その間にある剣で攻撃力のほとんどは殺されている。
それでもそのダメージはあまりに致命的だ。
地面に倒れ、時折体を痙攣させ、意識を留める以外に出来る事はもうなかった。
とは言っても、その体の震えはダメージだけではなく、仮に攻撃を完全に防いでいたとしても、立てなかった事は明白だった。
その背中をゆっくりと見下ろして、ラカンは口を開く。
「……さて、俺の勝ち」
「ハリアぁっ! リィラ連れて逃げなぁっ!!」
瞬間、生々しい音とともに、ラカンの体に樹の槍が襲った。
太い幹が何本も捩じり編まれた強靭な槍。完全に不意をうった、生易しい攻撃ではなかった。
しかし、それすらもラカンに残り数ミリの所で届く事さえ許されず、やがて勢いが死んで、ラカンが指先でそれに触れた瞬間地面に押しつぶされた。
「化け物め……!」
「おい、生きてんのかよ」
ギドが居たのは、死体で押し固められた山の中。
血で全身を汚しながら、ギドはラカンに向かって手を伸ばす。
ハリアは既に走りだし、同時にラカンの周りに発生した硬い木の幹が、半円状の檻となりラカンをその中に閉じ込める。
「リィラ」
一瞬の時間も稼げない。がばり、とその樹の檻が容易く縦に裂かれた。
気にした風すらなく、ラカンは言葉を続ける。
「お前の負けだ」
ラカンの表情が喜悦に歪む。
自戒を取り除き、坊主か仏のようだったその柔和で穏やかな顔。それが、肉欲に飢えた獣のようなおぞましい物に変わっていた。
それは、まるで空気が震えるようだった。
「──さあ、イカレにイカレた獄卒共」
比喩でもなんでもなく、静かな声は何故か街の隅々に届くまで大きい。
それは気のせいでもない。その声が町中に響いた途端、ぴたりと町中に広がっていた暴虐の音がやむ。
悲鳴も尻すぼみに消えていき、やがて耳に痛いほどの沈黙が町中に広がった。
「肉があるぞ、血も。爽やかな死臭も、心地よい断末魔まで」
瞬間だ。
息を吹き返した暴虐の音は、今まで精一杯に自制していた物だったのだと思い知らされた。
夜の闇を弾き飛ばすほどの火柱があちこちに。恐怖に濡れた悲鳴は、断末魔か半狂乱の笑い声に。
「供物に感謝を。太平楽だ、楽しめよ」
景色は赤い。
血の、火の、炎の赤が、町中を舐め上げる。
紅く赤く。
ああ、まるで誰かの大きな獣の口の中に入り込んでしまったかのよう。
◆
「さて」
は、とリィラは顔を上げた。
唐突に気を失いかけていた。
目の前にいたラカンがどんな表情をしているかは、陰っていて見えない。
「この後サプライズやるつもりだったのに、あの年寄りめ」
ラカンの背後から、再び樹の槍が起き上がりラカンを穿とうとするが、やはり届かない。
先程と違ったのは、その攻撃に──いや、ギドにラカンが意識を向けた事。半分隠れたその顔にありありと悪意が浮かんでいるのを、リィラは見た。
「さてさて──……?」
そのせいもあって、その言葉の意味を理解するのは早かった。確信じみた凄惨な光景が脳裏にこびり付く。
「──止めろ……」
焦る風もなくラカンはギドがいる場所に向けて歩き出した。
その度に、樹の槌が、槍が、拳がラカンに向かうが、すべて届かず一撫でされて粉砕される。
最後に地面ごとひっくり返してラカンを吹き飛ばそうとして、しかし消えるようにラカンはギドの前まで移動していた。
ギドの目が大きく見開かれ、そして、直ぐに溜息を吐いて体から力を抜いた。抜いてしまった。
丁度ハリアがリィラの隣に辿り着いた。その顔は悔しげに歪んでいる。
「止めろ……!」
ギドは足が不自由だ。
とてもではないが動けない。残されたその意志もギドの目を見れば一目瞭然だった。
地面を押し潰したあの拳がギドに減り込んだ。
軽い体が破片の一つかのように容易く吹き飛んでいく。
ラカンの手が吹き飛ぶその体より速く跳び、ギドの体を掴んで着地する。
着地したのは、広場の端の方。つまり、リィラの目の前だ。
「この婆、こんなもん仕込んでやがった。大したもんだ」
どさり、とリィラの目の前にギドが放り投げられた。
その胸には明らかな大穴が空いていて、しかしそれを塞ぐように薄く光る樹の根が鼓動のように明滅を繰り返していた。
そして、ギドの目が薄らと開いていく。
「ギド!」
ハリアが、ギドを抱え上げた。
「ハリ、ア……? 済ま、ないね。こんな様、だ……」
「ギド、ギド……? ギド、し、死なないよね? 大丈夫だよね……?」
ハリアの言葉にギドはうっすらと笑った。その意味は残酷なほどに理解しやすい。
「……リィラ、よく、頑張ったね」
「ぅ、ぁ……」
「すまないね、もう、助けてはあげられないみたいだ……」
リィラとギドの視線は合わない。
リィラはギドに呼びかけるハリアと、焦点の合わない目でこちらを見るギドの、その後ろを見ていたからだ。
顔を喜悦に歪ませたラカンを、見ていたからだ。
「失礼」
す、と三人の視界に影が落ちる。
「え……?」
「涙ぐましいな、誘ってんのか?」
ハリアが顔を上げた瞬間、視線とすれ違うようにラカンの腕がギドに伸びた。
そして、首を掴んで片手で引き上げ、胸に手を伸ばす。
「……」
「──止めて、お願いっ、止め──……」
ぶちん、と胸に根を張っていた木の根を、ラカンは引き千切った。
ハリアが息を呑み、リィラが瞠目し、ごぽりと大量の血がギドの口から零れ落ちた。
「あ──……」
ギドの口が小さく開いて、また血が零れる。
その顔が意地のように笑って、何か話したい事がある事を悟った。
しかし、言葉を発する前に、ゆっくりと、ギドの目から光が消えていく。
「あ、あ……」
だらん、とギドの体から力が抜ける。
ラカンは愉快気に笑った後、それをぞんざいに投げ捨てた。
ギドの小さい体が、強かに地面に打ち付けられ、地面に転がる。
こちらを向いた背中は、車椅子を下りてしまうとひどく小さく、また、生気すら感じられなかった。
「──お前ぇぇえええええええ!!!」
吠えたのは、ハリア。
リィラが手の平から零していた剣を拾い、ラカンに向けた。
その震える剣先を、細い腕を、歪んだ表情を見て、卑しくラカンは笑みを深める。
「悔しいか」
「許さない……ッ」
「憎いか」
「殺してやる」
「そうか」
"なら、ここだ"
そう言って、ラカンは自分の首を差し出して誘うように手の平で叩いた。
ぶちん、とハリアの頭の中で血管が切れた音がする。
振り切られた。
幼い腕とは言え、剣は知られぬ名刀。
その斬撃は、皮を裂き、血管を千切り、筋を切り裂いた。
頸骨に刃が食い込み、血が噴き出す。
しかし。
それなのに。
ラカンは笑ったまま。
「うそ……」
既に切られた傷が収縮を始めていた。
ハリアは未だ力をかけ続けているにもかかわらず、刃は押し出され、傷はやがて消えた。
「残念」
剣を指先で押される。
それだけで極端な力が剣に加わり、ハリアは吹き飛ばされ、リィラを巻き込み倒れこんだ。
「ぐっ、ぅ……!」
ハリアは歯を食いしばり、顔を上げる。
両手を広げてギドの死体の前に立ちふさがるラカンを強く睨んだ。
ぐつぐつとその目の奥では激しい感情が渦巻いていて、しかしハリアは奥歯が割れるほどに強く歯を噛みしめて、そこから目を逸らして。
茫然と俯いたままのリィラに向き直った。
「──リィラっ! 立って!」
ハリアがリィラの肩を担いで立ち上がった。
茫然としたまま、リィラはその顔を横目で見る。
恐怖と怒りと絶望と悲しみがあった。しかし目は潤ませながらも、その最後の意地は零れてなるものか、と。
ハリアはゆっくりと、羊にさえ追いつかれるような速さで歩き出した。
必然的にラカンから背を向け、広場の外に視線が向く。
「……、おい」
そこに、いた。
力の限り走ってきたのだろう。
似合いもしないのに息を切らして肩を揺らして、呆然とそこに立っている。
ゆっくりと、リィラとハリアを見て、ラカンを見て、そしてその後ろに横たわっている人物を見た。
「手前──、」
瞬間、それ以上ないと言うほどの激情が膨れ上がって、爆発する。
「──手前ぇ!!! 何やってんだぁッ!!」
その男──ルグルだけではない。
ルグルの背に続々と追いついてきた再び剣を取った男達も。
ギドの最期に一瞬表情を忘れ、死体を見つめ、しかし直ぐにその表情を一様のものに染め上げた。
「殺せェェえええええええ!!!」
一斉に怒号が上がる。リィラ達の横を数十人の男達が駆け抜けていく。
「リィラ、立ってっ。行かないと、ギドが言ったの……! お願い……!」
「あ……」
ハリアに支えられてリィラは立ち上がった。
鬼の様な形相でラカンに殺到する戦士達とすれ違いながら、ゆっくりと広場の外に向かう。
その途中で、足を引きずるルグルとすれ違った。
「──っ」
反射的にその体に縋り付いた。ルグルの足が止まり、リィラに顔を向ける。
「駄目、駄目だっ、逃げないと……っ!」
ルグルは目を瞠り、しかし直ぐにラカンを睨みなおした。
血の付いた手でリィラの頭を撫でつけると、言葉もないままにラカンに襲い掛かっていく。
ラカンの視線は一切ぶれもせずにリィラを見据えていた。
こちらを振り向き、ゆっくりと──、僅かにリィラ達より速い速度で近づいてくる。その視線は決死のルグルなど見ていない。
ルグルが剣を振った。
しかし届かない。
その前に立ちはだかる事も、意識を向ける事さえできない。
ぱちんぱちん、と虫を払うような気軽さで振るう腕の一振りごとに、歴戦の戦士達が吹き飛んでは死んでいく。
まるで剣も殺意もラカンを避けているように届かない。
そんな中ラカンだけは悠々と歩を進め、やがてリィラ達に辿り着いた。
焦ったハリアが足をもつらせてその場に転ぶ。
逃げきれないと悟ったのか、ハリアは背後にリィラを庇いながらラカンと相対した。
「逃げられなかったな。そんなもんだよ」
「……あ、ぅあ──……」
カタカタカタと、ハリアが持った剣が震える。言うまでもなく持ち主から伝わる震えだった。
それを知ってか知らずか、ラカンは凝り固まったように笑顔を浮かべたまま、ハリアに指先を向ける。
「負けたら、一人。こいつを殺そうか、なあ、リィラ」
するりとラカンの手が伸びて、とん、と指先がハリアの額に触れた。
それでけで、小さく苦悶の声を出してハリアはその場に倒れこんだ。死んではいない、ただ完全に気を失っている。
そのまま、今度は背後で足掻き続けていた男達を見て、"少しだけ強めに"腕を振った。
「な──っ」
瞬間、戦士達の顔が一様に驚愕に染まり、途轍もない衝撃と突風が巻き起こる。
冗談のように、大の大人が何十人も吹き飛ばされていく。
直接触れていない人間さえも突風に巻き込まれて、視界の彼方まで戦士達は吹き飛ばされた。
恐らく腕に当たった人間は、生きてさえいない。
「ほらもう、後はお前だけ」
広場が途端に静かになった。
ぽつ、と雨粒が落ちてくる。
多分数分もしないうちに、町の火は消え、雨と一緒に何か大切なものまで流れていく。もう、結末は覆せないを示唆しているように思えた。
「今度こそ最後だ、盛り上げよう」
それで、会話は終わった。
膝を付いたまま、リィラは顔を上げられないでいた。
(立て、立て、立て、立て、立て、立って……!)
怒りなど吐いて捨てるほどあった。
思考と混ざり合って真っ白になり、目の奥がチカチカするほど波打っている。
しかしそれでも、手はカタカタと震え、汗が滲み、いくら命令しても顔は上を向こうとしない。
まるで、見えない大きな手で体ごと押さえつけられているような。
強く、強く。
抗いようもない。
気付けば、噛みしめた歯の間からか細い声が漏れていた。
まるで懇願するように、惨めな言葉で。
「……は、ハーちゃん、は、」
逃げるようにすぐ傍で小さく寝息を立てるハリアに視線を移す。
膝は震えていたが、剣を杖に立ち上がり、意を決してラカンを見上げた。
「ハーちゃんは、見逃して、欲しい……」
「駄目だ。お前が負けたら殺す」
厳格な声。
しかし一歩二歩とよろけるように後ろに下がり、そのまま尻餅をついてしまったのはそれに気圧されたからではない。
「っ……」
笑顔だったからだ。
この上ない景色を眺めるように清々しいほどに笑顔で、今の状況を考えればそれは歪で邪悪だったから。
「──あーあ」
それは、言われる前に気が付いた。恐らくは逃げる事を防ぐ為に設けられた敗北の条件を、リィラは犯していた。
先程よろけるように後ろに下がった最後の一歩で半歩分。
リィラは広場から逃げ出してしまっていた。
「おしまい」
「ま、違……! 今のは……!」
「なら、よかった。今から戦うか。別にそれでもいい」
当たり前だ、と、上等だ、と。
そう力強く言い放ち立ち上がる自分が居たはずなのに、それは何故か今に限ってどこにもいない。
「あ、え……?」
不意に、今ここには自分しか残っていない事を改めて自覚した。
ハリアを見て、戦わなければいけない事も、そして。
動かなくなったギドを見て、今。自分は独りだという事に気付いた。
「っ……」
少しだけ、ラカンが動いたかのように思ったのだ。
だから小さく悲鳴を漏らして、無意識で剣を離し両手で顔を庇った。
ただその後固まったように腕は顔を守って動かなかったし、しきりに震える膝も立ち上がろうとはしなかった。
唐突にがしりと頭を掴まれた事にも、抵抗は出来ない。
薄らと腕の隙間から覗いたラカンの笑みは、変わっていなかった。
「おしまい」
先程とも、最初に出会った時とも。
一切変わらず、この男は最初からこうだったのだ。
終わった。
それを示すように、ラカンの体が殺意を灯して倒れ伏したハリアに向き直る。
「──あ?」
「え……?」
瞬間だった。
足に絡みついた物が、ラカンの歩みを止めた。それ以上、一歩も行かせないとばかりに。
絡みついているのは、枯れたようにか細い木の根。
「ギ、ド……?」
リィラの前のラカンの、ずっと向こう。
水たまりの中で、少しだけギドが顔をこちらに向けていた。
「あー……」
ぶちり、とそのか細い根は踏み潰された。
それどころか、振り下ろした足は湿った地面に減り込み、小さく町を揺らす。
ラカンの目が、じろりとギドを見て、そして嬉しそうに笑った。
「良かったなぁ、リィラ」
屈託がない笑顔がリィラを向く。
同時、ラカンがハリアに向かって手を振った。ハリアの頭の上に突如人の頭大の水球が現れ落下した。
気付け代わりなったのだろう。ハリアの瞼が薄らと開いていく。
「ほら」
いつの間にかラカンが目の前。
その大きな右手に引きずってきたギドの頭を、その大きな左手に意識も薄いハリアの頭を、それぞれ鷲掴みにして。
「どっちかだ」
言葉の意味をリィラは理解した。同時に必死に頭を振った。
「ほら、まだ、こいつも助かる、かもしれん」
ギドはまだ生きていた。
それどころか、ラカンが意識を集中した途端胸の傷が塞がって消えた。小さいながらにも呼吸も整っている。
「──ぃ、あああぁあぁぁああッ!!」
安心したのも束の間。
今度は、反対側の手から悲鳴が聞こえた。
ハリアが聞いた事も無いような声で泣き叫ぶ。見れば大きな手が頭に食い込んでしまっている。
「どっちだ」
ラカンの手は二人の頭を持ち上げているのではなく、握り潰さないように気を使っているようにすら見える。
「それとも、」
かしゃん、とラカンが足元に転がっていた剣をリィラに向かって蹴った。
「別の選択肢をさがしてみるか?」
ハリアを選ぶ事。ギドを選ぶ事。そして、剣を取ってすべてを救う事。
英雄に、勇者に、騎士に、正義の味方になって。
「──選べ」
「あ──」
みしり、とまた二人の頭にラカンの指が食い込んだ。
不吉にも、二人との思い出が頭の中に溢れて、気付けば剣を握っていた。
「ああああああああああああああああああああああ──!!!」
今までにないほど強く地面を蹴った。今までで一番力を込めた。
しかし。
「ああ、残念だ」
その剣先が貫いたのは。
切っ先はラカンの鼻先で止まっただけ。貫いたのは、ラカンが目の前に差し出したギドの体。
僅かに、ギドの目が見開かれ、ゆっくりとその瞳が自分の胸と、刺さった剣と、そしてそれを握るリィラを見た。
悲しそうな、悔しそうな顔で。
「あ……」
それが自分で出した声なのか、ギドの絶望の声なのかはリィラにも分からなかった。
ただ、小さく首を振り、リィラは後ずさろうとする。
しかしそれを、ギドの手が剣を掴んで阻んだ。
強く強くギドは刃を握りこむ。ぽたぽたと赤い幾何学模様がリィラとギドの間に重なって、そして、それ以上に。
剣に、ギドの命が染み付いていく。
「あ、あ、あ、あ、ああああああああああああ……」
リィラの手に剣を伝って温かい物が伝う。
ゆっくりと剣から手を離し、真っ赤に染まった手の平をリィラは見た。
「どちらも欲しいって時は、戦え。だからそれでいい」
ゆっくりとラカンの指先がリィラに迫った。
「こうなったのは、お前が弱かっただけの事だ。気にするな」
避ける事も出来たのかもしれない。だが、リィラはそれを見る事すらしなかった。
触れた瞬間、頭の中に岩でも落とされたかのような重い衝撃が響き、リィラの小さい体は一メートルほど転がった。
「こいつは貰っとこうか」
そう言うと、ラカンは力なく横たわっていたハリアを担いだ。
雨は強くなるばかりで、やむ気配は未だない。
鬱展開ばっかりですみません……。