罪の王
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ハリアは目を開けてすぐ、いつもとは違う町の様子に気づいて総毛立った。
(なに……?)
ここの所ずっと魔法を使っていたせいか多少慣れてきて、昨夜初めて2度魔法を行使したので朝食を食べた後、またベッドに倒れこんでいた。
いつの間にか眠っていた訳だが、とてももう一度寝ようという気にはとてもなれない。
「こ、れ……っ」
押し潰される。
不安が驚きが後悔が怨念が未練が、ようやく行き着く先を見つけたとばかりにハリアに流れ込む。
それは"消えた10000人"の魔力と思念だったが、そんな事は混乱したハリアに分かるはずもなく、ただ気味の悪い物が自分の中を侵食していくのを知覚させられるだけ。
不意に胃がひっくり返り、目の下から涙が零れそうになった時、たまたま逃げるように視線が横に向いた。
そして、なぜか隣で寝ていたリィラを見つけた。
「……リィラ」
ぐ、と自然に下唇を噛む。
ちくりと唇に食い込んだ前歯の痛みが、少しだけ頭の中が落ち着かせる。
一度、大きく深呼吸すると危機感から勝手に発動した魔法が鎮まっていき、やがて消えた。
もう一度、今度は自然に息を吐いた。若干乱れた息のまま、汗で張り付いた前髪を退ける。
そして、変わらず大人しい寝息を立てているリィラの前髪を整えてみた。自分に似て美形だと満足げに鼻を鳴らす。
「リィラ。起きて……?」
「ん……」
「私を起こしに来たんでしょう? 何であなたまで寝てるのよ、馬鹿」
そう言って笑うと、リィラが口を尖らせたので頭を撫でる。
「あ、お昼ご飯の買い物行けって、ギドが。僕一人で行こうか?」
「ううん。一緒に行こう」
ハリアの声はどこか悟ったように穏やかだった。。
不思議に思ったリィラが顔を上げるが、口の前に人差し指を立ててそれを制される。
「待ってて」
両の拳を握り膝の上に置き硬く目を瞑る。
頭の隅に先ほどの恐怖がこびりついていたが、構っている場合ではない。
こびり付いた恐怖と焦燥感が、じとりとハリアの背を濡らす。
リィラの顔を見た。相変わらず不思議そうな顔でこちらを見上げている。
ハリアは小さく笑って、そして何となく、この前言われたギドの言葉を理解しながら、目を瞑った。
ふわりと、いつもより軽やかで細く多い糸の波が町中に広がっていく。
──数分後。ゆっくりとハリアは目を開けた。
その顔には驚きと恐怖と焦りとが交じり合って10分の1。残りの9割は不思議と落ち着いた気持ちで、たぶん、使命感だとか責任感だとか、そんな物
「来て。静かによ。ゆっくり」
「……? うん」
静かにベッドを下りて、廊下に続く扉を開ける。その瞬間、大きく地面が揺れて轟音が教会中に響いた。
「大丈夫」
「僕もっ、だ、大丈夫」
「うん。いい子」
慌てる事ではない。既に表に誰かいる事は分かっている。当然、ギドが戦っている事も。
少し魔法の質が変わったのだろうか、いつもより少しだけ明瞭に次の事がわかる。
敷地こそ大きいが、建物自体は小さい教会だ。すぐに聖堂まで行き着いて間髪入れずに扉を開けた。
どん、ともう一度教会が揺れる。
「えっと……」
そして、リィラの手を引いて行ったのはステンドガラスの目の前に置かれている大きな女神像。
ギドに言われたのは確か──。
「……あった」
十分ほど女神の像の台座を調べていると、その一部に薄く切れ込みが入っている事に気付いた。
それを何とか引き抜くと、現れた空間の奥に手を突っ込んで、上の方にあるレバーを迷いなく引く。
ゴゴン、と台座が震えた。
「うわっ……!」
小さく地面が揺れて、リィラが飛びのいた。
やはりそれもまた驚きはなくハリアは振り向いた。いざという時の為にギドが作っていたらしい。
何だか最近やけに使っていたようだが、今はいい。
「入れる?」
「う、ん。ちょっと暗いけど」
恐る恐るリィラは狭い通路に下りて行った。ハリアから見える分には、大人一人がやっと通れるくらいの広さだ。
暗がりは遠くまで続いていて、小さく風鳴りの音がする。途中で落盤しているという事もないだろう。
町の外までは魔法で探査できないので、安心した。
安心して、ハリアはリィラの背中を押した。
「え……?」
リィラがつんのめりながら通路に入り込んだのを確認する。
ハリアがすかさずもう一度レバーを引くと、リィラが入った通路の入口が閉まっていく。
「リィラ。ここで待ってて。大丈夫だから」
ハーちゃん、と叫ぶ声が聞こえる。
何だか最近リィラは強くなった。少し寂しくてちょっと拗ねてしまいそうだったが、今考えると少し嬉しくて安心だ。
完全に入口が閉じた事を確認して、ハリアは振り返った。
外へつながる扉の向こう。何故だか、少し静かになっている。
終わったのか。──いや、先ほど感じた圧迫感染みた空気はむしろ近付いてきている。
(危ない……!)
爆発的に危機感が増した。
扉に走る。扉に触れて、また危機感が膨れ上がる。
なんだ。いったいこの先に何がいる。悪魔か神か、人間であるとは信じたくない。
扉を開け放った。
「────離れて、ギドォ!!!」
瞬間、思わず叫んでいた。
目に映ったのは、めくれ上がった地面とねじ切られた大木と、初めて見る人の死体。
そして、この世の罪を押し固めて人の形を作ったような化物だ。
にぃ、とその化物はおもむろに口の端を上げる。
◆
ずん、と樹の巨人が足をもぎ取られて地面に沈んだ。
ギドが地面に落ちる前に何とか宙にその体を放り投げ、新たに生えた樹の腕でその脆い体を受け止める。
「ちぃ……」
この樹の巨人は教会の地下に残した脱出経路と同じくあらかじめ準備していた物だ。そうそう簡単に消費はできないのだが、これで残るはあと二体。
じゃり、と国食みは黒皮のブーツで地面を踏みしめながら、右手に持った樹の巨人の足を後ろに投げ捨
とん、ともう一度樹の巨人の肩をたたく。すると国食みを挟んだ向こう側にもう一体、──最後の樹の巨人が姿を現した。
緊張感もなくそちらを振り向く国食みにギドは舌打ちをする。
どうにも、地の力に相当の差があるようだ。その才能の違いにこの歳になって嫉妬する事はないが、それがこちらに向かっているとなれば苦々しい。
「戦い慣れているな」
「昔取った杵柄だよ」
目に見えはしないが、国食みから立ち上る魔力が酷くこちらを威圧する。
(国を喰らうってのも、大袈裟じゃない……か?)
素手でこの樹の巨人を屠れる身体能力と、あれほど高機能な岩の巨人を大量に製造・操作できる力はそうそうあるものではない。
「しかし、」
国食みの声と同時、どん、と空気が爆ぜる音がした。
続いて向こう側の樹の巨人がぐらりと揺れる。
それ以上見なくても、何があったのかは想像できた。何しろギドの目の前の女の魔力がさらに一段階大きくなっている。
地面を揺らして、樹の巨人が地に沈んだ。その体には、上半身と下半身を分断するほどに大きな風穴があいていた。
「格上を相手に戦力を小出しにするのは、悪手だよご老人」
「何だぁ? つまりそれで全力だったのかい、格下」
「──いいや、」
瞬間。
ただ静かに女の魔力が宙を渡って地面に潜り込み、捲れ、削り、凝縮し、それが成された。
出来上がったのは、岩の巨人ではなく、女の体。
色も形も服装も寸分違わぬ"国食み"の特徴を携え、ギドにのし掛かる魔力はその数の分だけ倍加していた。
「これで本気。敵としての敬意を払うよ、三下」
律儀な言葉は、含んだ殺気と魔力のせいかもはや一つの暴力のよう。
残る巨人は一体だけ。大きな幹の腕も、体も、もはやまるで楊枝のように頼りない。
「……っくく」
そんな中、ギドは笑った。
自暴自棄な表情ではない。リィラやハリアをからかった時と同じ、子供のような顔だ。
「戦力を小出しにするのは悪手、ね。どこの兵法書に書いてあったかは知らないが、必ずしもそうではないよ、小娘」
「なに……?」
"国食み"は不審げに眉を顰めた。
自分の全力を示したのも、目の前の老女にもう力が残っていない事を確信したからで、それは間違っていない。
「──私が敵? 馬鹿な、まるで違う」
ただ間違っていたのは、戦っていた相手である。
「お前の敵は、この国だよ。"国食み"」
気づけば、二人の周りを大勢の気配が取り囲んでいた。
この岩のような大地の色と同じ服を全身に着込んで、浮き上がるようにそれは姿を現す。
その数は十やそこらではない。五十に届こうかというほどの数の男が、白質の地面に合わせるような衣装に身を包み、砂ぼこりに隠れながらじわじわと姿を現し始める。
「──っ」
初めて国食みの眉根が面倒そうに寄る。
そして、分かれていた分身達が揃って周りを取り囲む人垣の一か所を見据えた。
そこには一人。一歩だけ他の人間より前に出ている、長身痩躯の男の姿があった。
ぎょろり、とその男の獣じみた眼が国食みを見据えた。
「見ィつけたァ!!」
「貴様は──」
「黙ってろ黙れ口を閉じろ微動だにするな殺すぞォ!!」
躊躇はない。猶予もない。女に見据えられたルグルは己の庭を荒らされた事に"煮えている"。
「黙ってろよ。余計な感傷は邪魔だ。さっさと済ませる」
「お前が? この私を?」
「いや、ただ道に晒すからよ。首だけ貸してくれればいい」
ふ、と女は肩から力を抜いた。先ほどまではあった一握りの緊張感すら捨てて、溜息交じりに口を開いた。
「引け。貴殿達では私を倒すには至らない」
「──へぇ」
乾いた土を一歩踏み進めて、ルグルが前に出た。その切れ目は見開かれて血走り、瞳孔も危なげに切り開かれている。
──と、そんな事を思わせておきながら、ルグルは一歩退いて、おどけて見せた。
殺意も敵意もまるで消えている。
「どうしてそう思うんだ? 聞いとこうかな」
「なに……?」
「いやうん。判ってる大丈夫。そうなんだよなお前等は。どんなに強ぶってもそうだ」
互いの敵意がぶつかりそうになった瞬間、コロコロとルグルはまた調子を変える。
「──貴様っ」
「遅ェよ。どうでもいい事暢気にくッちゃべってんじゃねェぞ、カス死ね」
ルグルの言葉と同時、女の視界が地面の色で覆われた。
あまりにも突然だ。地面に倒れ伏したのか──否。これは"現れた"のだ。今まさに。
「俺の魔法は何の因果かしょぼくてな。しょぼっしょぼだよホントに」
何の意味もない薄い土の壁。女はそれを容易く破壊する。そしてその先にはルグルが変わらずいる。
障害物はない。しかし女は二の足を踏んだ。
ルグルの、横に持ち上げたその手首の付け根の辺りから、じわじわと"隠"の文字が浮かび上がっていたからだ。
ここからルグルのいる場所まで、何が隠されているか分かった物ではない。
「ただまァ、俺の性には酷くよく馴染む」
女の表情が強張る。
思い違いをしていた。先ほどの老婆が時間稼ぎと言ったのでまるでこの男が切り札かと思ったが、違う。
この男もまた、時間を稼いでいる。時間を稼ぐために、時間を稼いでいる。
それはつまりその先に待っている物が、酷く大きく恐ろしい物だと言っているに等しい。
「隠したのは全部で三つ。壁と、文字と。んで、もう一つ」
何の合図もなしに、再び隠されていた物が姿を現した。
思わず、女は目を見張る。現れたのは巨槍か、砲台でもないが、しかし脅威に値するものだ。
人だ。先ほどからこちらを取り囲んでいた五十人とは別に、その倍、二倍。──いやその更に五倍はいる。
総勢五百を越えようと軍勢が隙間ない壁となって女を取り囲んでいた。
「────……」
しかし、女はかえって興ざめしたように肩から力を抜いた。
"国食み"だ。一対多は日常茶飯事。五百などと言う数は、これまでにも腐るほど相手にしてきた。
「大した数じゃないってかァ」
その壁から一歩前にいるルグルが変わらず獣のような眼を女に向けた。ギラギラとその奥では粘つくような殺意が蠢いている。
「知ってるさ。手前が国食みってんならこの程度の数が脅威でない事くらい知ってる」
「……ならば」
「ああ知ってるよ。知ってるがよ、なあところでお前まさか、」
ぎりぎりと、ルグルの口元が上がっていく。意地汚く、誇りなく、赤い三日月の形を作った。
「俺が数で押せば勝てるなんて、そんな馬鹿な考えしてると決めつけちゃいねェだろう」
「なに……?」
「悪いな、隠してたのは五つだ」
瞬間、女の体に鋭い痛みが走った。
痛がるよりも先に、女は視線を足元に向ける。そこに見えたのは足に絡みつく細い木。時には皮膚に肉に食い込んで、既にそれは膝の高さにまで至っている。
「な……!?」
樹の魔法。
もちろん知っている。先ほどまで戦っていた人間の物だ。しかし何時からだ。
辺りをひしめく戦士達に意識を奪われ、目の前の男に敵意を向けて、何時から、あの老婆の存在を見失っていた。
「準備に6月かかる大技だよ。全くこんな事で使う事になるとは……」
「自衛手段だろ。良いじゃねェか、他にも何か仕込んでるって言ってたし」
「あれは、仕掛け大きくし過ぎて魔力足らないんだよ……。古くてでかい奴が見つからん」
「まァ、それはおいおい」
地面にはルグルの魔法により隠されていた魔方陣が浮かび上がっている。
茂る青草のような緑色の陣。大型の魔法だ。そもそも多人数目的の魔法なのだろう。あちこちからツタが伸び、数人に分身していた女の体に侵入して締め上げる。
「これは……っ」
それも、急激に魔力を吸われている。伸びたツタはすでに腰の辺りまで絡みつき、最早簡単に取り除けるものではない。
「で、さっきの続きだけどな」
言いながら、すっとルグルは手を肩の高さまで上げた。
同時にその指先からわずかに魔力が零れ、それが更に隠されていた物を暴いていく。
「あんたは大人数を相手取る事に慣れていた。でもな、俺達も強い一人を追いこんで殺してきた」
現れたのは、空に浮いた白い魔方陣が、重ねて五つほど。
「それこそ、アンタが殺してきた数と同じほどに」
足元に広がる緑のそれとは違い極光のような眩さを放ちながら、脈々ととてつもない魔力を波打たせている。
「俺達がアンタの常識に当て嵌まらないほどには、アンタは俺達の想定を越えなかった。だから、アンタの負けだ」
総勢512人。
辺りを囲んだ全ての人間が今や隠すことなく手を翳し、その魔法は集束し──。
「──放て。"五百十二角式儀式魔法・極光葬奏"」
上空から降り注ぐ極細・極光の槍となり、木の根に拘束された"国食み"に差し込んだ。
「────ッァ!!」
国食みの叫び声は、それを超える轟音にかき消された。
いや、その姿も魔方陣一杯に広がった爆炎に塗れて見えはしない。
爆炎が陣のおかげで遮られているせいか、熱や爆炎のほとんどは上空に逃げ、まるで目の前に太く天を衝く柱があるようだ。
中にいる人間など一秒と持たずに炭になり灰に帰す。
「……」
熱と爆風を全身に受けながら、無言でルグルはそれを眺めていた。
この報復はけじめと面子の問題だ。そこに達成感は存在しない。
十数秒、未だ一切の勢いを失わずに燃え盛る炎の柱を眺めて、ルグルはその中で生き残る事は不可能だと判断して、肩の力を抜いた。
「──ぁ、ああああああああああ!」
「な……っ!」
狙いすましたように、炎の中からそれは飛び出した。
女の体。燃え落ちた体の半分を炎の中に置いてきながらも。一直線にルグルに向かって。
その存在に気づく事ができたのは、ルグルの首が女の手の中に収まった後だ。
「……死ねないんだよ」
「ぁあ……!?」
女の体はもう持たない。
火傷どころか、残った体のほとんどが既に炭になっている。しかしそれでもなお、女の力も敵意も衰えない。まるで何かに追い縋るようにその表情は鬼気迫っている。
「私が、どれだけ──ッ!」
女の腕にかかる力は一層増していき、ルグルの頸椎を締め上げる。
ルグルの顔も青褪めて引き攣り、既に女の手を引き剥がそうとする手にも力が籠っていない。
周りの人間が向かおうとするも、その周りに出来損ないの岩の巨人が現れそれを阻止する。
「死ねな、いっ……。こんな所で死ねるかっ。私はッ……!」
女の口から次々に呪詛に満ちた声が漏れる。
それはルグルの耳に届いていて、しかしルグルは薄れゆく意識の中でそれが自分に向けられている物ではないという事に気づく。
まるで、意地悪な大人に大事な物を奪われた子供のように。
無力感と、後悔に満ちた声。
「あ──?」
──と。
瞬間、首に掛かっていた力が消えた。
一気に開けた視界に映ったのは、半ばから捻じれた自分の手に驚く女と、それを通り過ぎ様に成した男。
剃頭に、着崩した袈裟。
仏を思わせる端正な顔つきの割に、吐き気がするほど生々しい表情を浮かべたその男。
あらゆる視線が、死線がここに至るまでにあったはずだ。しかし、それらを全て素通りしてきたかのように。
それは現れた。
「きさ──っ」
女の口がその男に何か言葉を叩きつけようとして、しかしそれは意味を成す前に封じられた。
ぐりん、と、片手間に女の首を腕と同じように捩じり切った男によって。
即死した。
何を思うのか、女の表情は先程とは変わっていない。
しかし、驚きに固まった顔は命が抜けていると言うだけでひどく滑稽で作り物のようだ。
それを見て、一体その男の脳がどう作用したのか。まるで下らない駄洒落でも聞いたかのように、鼻で笑った。
そして女の首から、男は手を離した。
「悪い。思ったより楽しくなくってな」
地面に落下する直前、凝り固まったその表情の鼻先に男の足が減り込む。
ぽん、と蹴鞠でもするような気軽さで女の頭は炎の中に蹴り込まれた。
炎の中で何かが足掻いている気配があったが、やがて動かなくなり、そして、遂には形も失った。
圧迫されていた気道が解放され、雪崩れ込んできた空気にルグルはそれまでの思考を取り落とす。
「──げほっ、ぁ、ぇほッ……!」
「ああ悪い」
まだ脳に十分な酸素が入っていなかったのだろう。ルグルは差し出されたその手を何気なく取ってしまい、立ち上がってからその愚に気づく。
しかし男は何の行動も起こさず、ルグルに背を向けると残された女の体も炎の柱に投げ入れた。
「いや凄いな。アレに勝つのは大したもんだよ」
「あ……? いや、お前……」
「まあまあ、それはいい。ああ、どうでもいい」
土の巨人に意識を奪われていた周りの人間も、次第に突如現れた男に視線を向け始める。
ざわざわと警戒感と安堵感が入り混じる空気の中、男は辺りを見渡して目的の人物を見つけた。
人懐こく、その人物に駆け寄っていく。
「あんたがギドだろう?」
「……そうだが。誰だいあんたは」
「俺か? 俺は──」
名乗ろうとすると同時、男は何気なくギドに手を伸ばした。
不意に男は、にぃ、と口の端を上げた。
その顔のせいか、それは握手を求めるようにも、手を差し出すようにも、そして首に手を伸ばしているようにも見えて──。
「────離れて、ギドォ!!!」
教会の扉から突如響いた声に、その場の全員がその男が敵だと認めた。
一番速かったのは、ルグル。その長身を子供の臍の位置より低くしながら接近し、腰から小太刀を抜き放って、男の腕を切りつけた。
「おっと」
男は手を引くが、その腕に薄らと傷がつく。
「何だよ、ひどいな」
この男は何もしていない。
しかし、ルグルの長年培ってきた危機感がこれ以上ないほどの大音量で警報を鳴らし続けているのだ。
それなのに男はルグルとは違い、緊張感の欠片も見せない。
「──何だ、何なんだ、お前」
「何って、だから言おうとしてる。俺は──」
男の言葉は、ルグルの耳に入っていなかった。聴覚を奪うほどルグルの意識を奪ったのは、先ほど自分が切りつけた男の腕。
みちみちと音を立てて、その傷が塞がっている。
「化け、物がァ……!」
「だぁから、」
瞬間、樹の腕が男を横から殴りつけた。
それは、岩をも砕く勢いで、しかし、男は姿勢一つ崩さない。いや、地面に踏ん張った後すらない。
いや、そもそも──。
「ぐっ……!」
"届いていない"。
男の立つ空間の先の先まで打ち抜かんばかりの勢いがあった樹の拳が、何故か男の体の数センチ前で震えていた。
それを何気なく一瞥して、男は再びルグルに向き直る。
「ちぃ……!」
しかし、ギドも然る者。
通用しないと見るや、手を強かに地面に打ち付け、その瞬間、男の立っていた地面が持ち上がった。
「うおっ」
持ち上がった地面の下には太い木の根が蠢いていて、それは地面ごと男を火の柱の中に投げ込んだ。
一瞬で地面の影が崩れて消え、轟音だけが残った。
「ちっ……!」
安堵も一瞬。
ギドにはその燃える炎の中で確かに笑っている男の姿が、脳裏に浮かんでいた。
「全員連れて逃げなァ、ルグルッ!」
「……なに? だがもう、」
「逃げろ! あれは駄目──っ」
ぎちり、と妙な音がした。
その場の全員が、その音ならぬ音に気づいたのだろう。足を止め、口を閉ざし、その音の源に視線が半ば強制的に集められる。
その鉄さび同士をこすり合わせるような音は、悲鳴だった。
空間の、もしくは世界の、そして512人分の魔力の悲鳴。
まるで堪え切れなくなったかのように、それは一瞬だった。
炎の柱が消失する。いや、凝縮と言った方が良いのか。
あっという間に圧縮された炎は手の平サイズ。
それは焼け焦げた地面の中心に立っている男の、両の手の平の間で。
ギリギリギリギリと。
太陽のように眩しい極光を放ったまま。夥しい熱とエネルギーと魔力を孕んだまま。
だんだんとその魔法は小さくなり、やがて男の手の平の間で押し潰されて消えた。
ぱん、と炎をもみ消して手が合わさった音が、寒々しく響く。
「──は……?」
パタパタと男は手を振る。火の粉がかかった程度の仕草に、その場の全員が言葉を失う。
ただルグルだけがギシリと歯を鳴らした。
「──このォオオオオァああッ!!!」
迫る。低く男に突撃する様は狩りを行う獣のように鋭利で素早い。
「んん、ちっちぇな」
ただ、振られた剣は不自然に届かない。
剣と男の体まではほんの数ミリだが、それが途轍もない格の差を現しているかのようにすら思える。
「俺はラカン。なあ、聞きたいんだが、」
もう男──ラカンはルグルに視線すら向けない。ただ、自分の用件だけを淡々と告げる。
「リィラ、居る?」
いつの間にか、ラカンの言葉以外の音は消えていた。
びょうびょうと吹く風の音があったはずだが、今はそれすら聞こえない。
「リィラ……?」
ここで出てくるとは予想していなかった名前にルグルは思わず聞き返した。
自分の喉の掠れ具合に驚いて、唾を飲み込む。
ちらりと隣のギドに目を向けると、彼女は驚くというより不審げに目を細めている。
「ああ、そっちのが索敵の娘か。流石は双子ってだけの事はある」
「──リィラをどうする気よ! このハゲ!!」
今にも音を立てて破裂しそうなほど張り詰めた空気の中、全く空気を読まない声が響いた。
肩を跳ねさせて目を丸くしたのは、その場にいる全員。渦中のハゲ男でさえ、キョトンと無様な表情を晒していた。
しかしそれも一瞬、僅かに楽しげな感情を益した表情が戻ってくる。
「いや、お前もだよ。ハリア、だったっけ? お前も気に入った」
「な……っ! 何で──!」
「この国は良いなぁ」
淡々と、しかしどこか薄ら寒いほど喜悦の感情に染まった声色でラカンは言う。
「唯一の才能に溢れ、誇り高く、仲間意識も強い」
ますます欲に塗れた言葉を吐き出すうち、ラカンの顔も変わっていた。
「だから今からこの国を壊すよ」
先ほどまでの表情など思い出せないほど凄惨な笑み。
その唇と口内が真っ赤だからか、その笑みがあまりに憎々しいからか。
ラカンの周りにいや、歩んできた道のり全てに血の池ができ、空からは血の雨が振っている光景をハリアは幻視した。
「──殺せェッ!!」
ラカンの言葉が、一体周りの人間にどう響いたのか。
ルグルの戦鬨を切っ掛けに怒号に似た叫び声が轟いた。
駆けるルグルに追随し戦士も走り、辺りのあちこちで様々な色と大きさの魔方陣が浮かび上がる。
そしてラカンは、そんな敵意と殺意を一身に受けて、まるで甘美な酒を頭から被ったかのように酔いしれていた。
「折れないか。嬉しいね」
──そしてハリアは先ほど幻視した光景が、幻ではなかった事を知る。
「受け取ってくれ、サプライズだ」
ぼたり、と何かが落ちてきた。
びちゃびちゃとぱちゃぱちゃとぼたぼたと、赤色の何かが空一面に。
先陣を切っていた戦士の一人が、認識する前にそれに頭上から激突され地面に転がる。
その体につまずき転んだ男達が、落ちてきたそれを見て表情を無くした。
後方で力を練っていた魔法使いが、頬に落ちたそれを不思議に思い、空を見上げて、全ての術式が頭から消えた。
「んー……」
──最初の悲鳴は誰が上げたのか、しかし落ちてきたそれに強かに打ち付けられ、それは悲鳴に変わる。
地面も服も靴も髪も真っ赤に染まり、未だそれは空から降り続ける。
雨ではない。
雹ではない。
バランスを失った鳥でもない。
おおよそ、空から降ってくる物では決してない。
しかし心当たりは、その場にいる誰の頭にも存在した。
「ぁぁ、ぁぁあぁああああああああァああああああああああああっ!!!」
それを確信し、最初に誰かが絶叫した。狂気は連鎖し、少しでもそれが何か理解した人間を引きずりこみ、そして絶叫が木霊する。
当然だ。
それは。
──先ほどまで死に物狂いで探していた、一万人の、家族と友人と恋人のなれの果て。
「あっはっはっはっは! 流石ぁ! ノリが良いなぁ、アンタら!」
場違いな声は誰の耳にも届かない。
真っ赤な地面に、同じ色に染められた自分の体を這わせながら、戦士は絶望に喘ぐ。
血に塗れていないのは、教会の入口にいたハリアと、とっさに周りに庇われたギドと、そして、確かにその中心にいたはずのラカンだけ。
「はい、おしまい」
そして、容易く一瞬で事は決着した。
「あ、あ……」
残ったのは挫かれた戦士達と、地獄のような景色だけ。
気丈なギドの声ですら、何かを堪えるように掠れていて、ラカンは肩を落とすように空を仰いでいた腕を下ろした。
ずちゃり、と赤い地面を踏み締めてラカンはこちらに近寄ってくる。
その途中に戦士がいた。
しかし、それは近くで聞こえた足音に身を震わせただけで、顔を上げる事も出来ない。
「んん」
視線も向けられないまま、踏みつぶされて殺された。
友人を殺された人間がいた。
しかし、這いつくばるように逃げ惑う。
「待て待て」
その姿を笑われながら、首をねじ切られて殺された。
ラカンに道を開けるように、戦士たちは逃げ惑った。
唯一その中で膝を追っていなかったルグルも、持っていたナイフはどこかに取り落とし、笑う膝を押さえながら、ラカンを待ち構えるだけ。
「て、めえ……っ」
鳴りそうだった歯の根を、ぎちりと軋ませてルグルは歯の間から声を出す。
その鋭い眼には、変わらぬ敵意と殺意があった。しかしそれ以上の恐怖が確かに侵食している。
ラカンが近づく。そこは、既に腕が届く距離。
ルグルの膝が笑う。暗く染まってしまいそうだった視界を上げて、しかし、既にラカンは目の前にいなかった。
一瞥をくれる事もなく、脇を通り抜けようとしていたからだ。
「──手前ェェえええッ!!」
通り抜ける直前、ルグルはラカンに拳を振り下ろした。
距離などルグルの長い腕の半分ほどしかないというのに、その拳は"届かない"。
力なくバランスを崩したルグルを、ラカンは足を止めて見ていた。興味深げに、半笑いで。
──瞬間、ラカンとルグルの間に誰かが滑り込んだ。
ラカンと同じ禿頭に袈裟。
ルグルがそれを知覚したのは、己の体に拳が迫り始めてから。
そしてルグルの意識外で始まったそれはルグルの意識の外で止められた。
何の苦も無く、ラカンの手が腕を掴んで止めていた。
「いい、俺がやる」
そして、何気なくラカンの腕が振られた。
大した力も入っていないラカンのその一振りは、手の甲で軽くルグルの胸を叩いただけ。
それなのに、次の瞬間にはルグルは宙を舞っていた。
冗談のように大きく空を飛び、教会の敷地を越え、柵を越え、その先にある家を三軒ほど超えた何もない地面に叩きつけられ、ごろりとその細長い体を無防備に晒した。
血の雨が全て血の池に変わったころ、ラカンはギドの前に立っていた。
背後で血の池に沈んでもがく人間の事など忘れたかのように、その表情は最初と変わらない。
「何て、事を……っ」
「まあ確かにもうやらないな、これは。臭いし、」
思ったより面白くなかったから、とラカンは言っ
「さて」
そのままラカンが背後にまわり、ギドの車椅子を教会に向かって押し始める。
ラカンは首だけで背後を振り返る。
先ほどラカンと全く同じ格好をした坊主が一人。血で服が汚れる事など厭いもせずに、ラカンの背中に向かって傅いている。
「あとは全部やっとけ。好きにしていい。が、まだ殺すなよ。ステイだ」
「御随意に」
その声を皮切りにとん、とん、と、どこからか坊主が血の池に降り立ち始める。
それは砂糖菓子に集る蟻のように、残虐で貪欲だった。阿鼻叫喚の場が更に悲鳴と血で汚れて。いや、それどころか、町中に鬼共は足を伸ばし地獄を広げ始める。
「行こうか。お前もだ、ハリア」
ラカンはギドを押したまま、それから背を向ける。
向かうのは教会の扉。途中でその場にへたり込んで茫然自失としているハリアを拾い上げ、ラカンは教会に入った。
ぱたんと扉が閉じ、外の地獄はどこか遠い物となる。