開花に集る
その夜、酷くリィラは喉が渇いて目が覚めた。
起きると、驚くほど自分は汗をかいていて、シーツはぐっしょりと濡れている。怖い夢でも見ていたのだろうか。寝ぼけ眼で辺りを見渡して、どっぷりと浸かった夜の闇を確認する。
窓の外では、ばしゃばしゃと雨が降っていた。
「お水……」
廊下の奥に、近所の人に貰う水を貯める水瓶がある。
ギシリとベッドを軋ませて、リィラはベッドから立ち上がった。同時、隣のベッドでハリアが身動ぎをした。
見ればシーツが蹴り落とされていたので、それを直してからリィラは足音を消して廊下に出る。
本当は怒られるが、柄杓で水をついでそのまま口に運ぶ。リィラの小さい胃はそれだけで一杯になった。
そして、口元を拭って柄杓を元の場所に戻した時だった。
足元でふわりと何かが揺れた。
びくりと、リィラは跳びあがる。何か虫でもいるのかと見渡すが、そうではない。
その正体はすぐ隣にある、聖堂に続く扉の下の隙間から漏れた光だ。続いて、扉の向こうで床板が軋む音。
一瞬ためらった後、恐る恐るリィラは扉の隙間から聖堂を覗いた。
人影が二つ。
車椅子に乗った影と、酷く細長い男の影。細長い方が、口を開いた。
「また三人死んだ。子供生まれたばかりの一世帯。今度も、酷い有様だ」
「……ステラの所か」
「敵は確保した途端、勝手に死んだ。一人だったがな、抑えつけるのに4人死んだ。3人目ェ覚まさない奴もいる」
「よくも、まあ、本当に……」
二人の声は驚くほどに平坦で、どこか押込めたような声。遠くから見てもその表情はどこか暗い。
何か心当たりがあったわけではないが、ただならぬ雰囲気がリィラの体を得体のしれない冷たさを感じさせた。
「上は、なんて言ってる」
「動けないよ。あっちの森で質の悪い龍が出た。今、討伐に軍の主力が動いてる。そちらも切実だ」
「森ってのは、アンタよく行くあそこか?」
それを聞いて、一人は首肯した。そして聞いた方は疲れたように溜息を吐く。
「町の問題は、町で。か」
「コドラクも、出来る限りは協力したいと言ってくれてはいるが、期待はできないね。糞爺の方にも言ってはおいたが」
空気が見る間に沈んでいく。見た事がないその表情にリィラは居たたまれなくなりながら、しかし視線はなぜか外せない。
「……ハリアには、私からもうそれとなく話してある」
その名前が出た途端、リィラは小さく目を見開いた。対して、扉の向こうにいる男は逆に吹きだすように笑った。
「むしろ喜んだだろ、あのガキャあ」
「だから頼みたくないんだよ」
「しかし、才能はある」
「そうだね。あの子を見て初めて、才能の意味を知ったよ」
つられるように、もう一人も頬を綻ばせる。男は背が高く聖堂の椅子は小さい。なので背もたれの上に腰かける。
「しかし、もう一人のォ……、そう。リィラは? 大丈夫なのか?」
「……いつまでも一緒にいられる訳じゃない。丁度良い頃合いさね」
背の高い男が詰まらなそうに言った。
「……そうだな、ハリアは使える。子守りなんてさせなくていい」
男は言う。
ハリアは物怖じしないし、物事もしっかりと話すし、能力も高い。ルグルの言葉には僅かながらリィラを非難する意味も混じっている。
「馬鹿言ってんじゃないよ。才能はあれど、あの子はそんなに大それた子じゃない」
ちらりと、車椅子の女──ギドは、扉の方を見やった。
しかしその向こうにいるはずの子供は、逃げるように布団の中に戻ってしまっていた。ふー、と煙管から吸った煙を吐き出す。
どこまで聞いてくれたのか、とその煙にはため息が混じっていた。
「守るのも守られるのも、あの子らの間じゃ大した違いはないよ、良くも悪くも双子なのさ」
「……へェ、案外真面目にやってんじゃねぇか」
「なにを……。性に合ってない事を思い知る毎日だよ。甘やかしすぎて駄目さね」
もう一口、煙草を煙管の先にいれようとして、しかし少し考えてギドはそれをしまった。
「歳をとったよ、本当に」
「その割には、昼間やけに町中動き回ってると聞いてるが」
へぇ、とギドは感心したように呟いた。ルグルの顔も悪戯っぽい笑みに変わる。
「なに企んでんだ、噛ませろよ」
「は、嗅ぎ付けるのが遅いよ。もう仕込みは終わった、何と十年掛かりだ」
「おいおい。死ぬ前に、物騒なもん残すんじゃねぇぞ」
「馬鹿だね。私には感動に咽び泣くアンタ達の姿が既に目に浮かんでるよ」
本当に歳を取った、ともう一度ギドは言う。
「笑える話、毎日この町に何を残せるかばかり、考えてるからねぇ……」
感慨深げにギドがそう言うと、ルグルはややあって詰まらなそうに舌打ちをした。
その様子に、今度はギドが困ったように笑って、会話は終わる。
さて、とルグルに強い目を向けた。
「ともかくこっちに皺寄せたんだ。しっかりやんないと殺すよ」
「は、まさか心配してんのか?」
「……ああ、そうだね。こんな婆置いて先に居なくなるなんて親不孝は止めなと。私の愛しい馬鹿共に伝えておくれ。死んだら殺してやるって」
ぎゃはははは、とルグルは悪童丸出しで腹を抱える。自分で言っていておかしかったのか、ギドも小さく笑う。
「あァ、笑った」
ぐるりとその長身を翻して、ルグルは教会の外へと続く扉へ向かい始める。必要な事は話した。もう用もない、帰るのだろう。
「あんたもだよ、ルグル」
そう言うと、ルグルは扉を開いた所で立ち止まって振り返った。その顔にはやはり悪戯っぽい笑みが浮かんでいる。
「こんな良い女にそんな事言われると、むしろ張り切っちゃうなァ。俺」
「格好付けすぎるんじゃないよ、悪タレ」
ぱたん、と扉が閉じて、聖堂にはギドだけが残った。
◆
五日が過ぎた。
教会にある小さな個室は、リィラとハリアが二人で使っている。
エンゼルの朝は早い。同じ柄の寝巻から普段着に着替えながら、リィラは言った。それはリィラが唯一緊張を伴わないで話せる時間だ。
「え? 外に? また? 一人で?」
「うん」
寝巻を神経質に畳みながらハリアは思わず聞き直した。
「ど、どうしたのよこの所。あ、危ないわよ?」
「うん。だから、なんだけど。今日はご奉公なかったよね」
「そ、そうだけど……」
止める理由はない。実はそんな危険な事などめったにないし、いざとなればハリアの魔法で町中を探査すればいい話だ。
「あ」
しかし、しかし駄目だ。それを思い出して、ハリアは悪戯っぽい笑顔を浮かべる。
「駄目よリィラ。今ね、この国に怖い人が来てるらしいの。何だったかな、……そう! "国食み"って言うね!」
「国食み……?」
「そうよ。今ギドとルグルが対応してるから、大人しくしてなくちゃいけないの。分かった?」
「……うん」
「いい子」
ハリアは目の前の頭を撫でて、いつも通りにリィラが言う事を聞いてくれたことに安心した。
実はルグルにも今日"また"町中の探査をしてほしいと頼まれたのだ。ギドは難しい顔をしていたが、先日ほど反対はしなかった。
三日ほど前の夜、その淀みを感じた場所に行ってきたらしいルグルは返り血をその体に浴びていた。危険なのだ、間違いなく。
「ハーちゃん?」
「うん、そうね。今日は暇だから、歌の練習しましょう。孤児院で発表するんだから」
それを言うと、リィラは苦い顔になった。
歌を歌うのが嫌いなわけではない。それどころか歌を歌うというのは、唯一リィラが自分からやりたいと言い出すものだった。
「……ギドと、ハーちゃんと、三人が良い」
「またそんな事言って」
言いつつも、なんだか少し安心してしまった自分にハリアは気づいて、少し顔をしかめた。
「どうしたの?」
「ううん。何でもない」
そう言ってハリアは簡素な木綿のシャツのボタンを一番上まで閉めると、振り返り手間取っているリィラのボタンを付けたやった。
がちゃん、と扉が開いたのはそんな時。見ると、ギドが車椅子に乗ったまま呆れた顔でこちらを見ていた。
「本当に仲が良いね、あんた達は……」
「そうよ。ずっと一緒なんだから。ね?」
「……うん」
そう言葉と笑みを交わす二人を見て、ギドは大きく溜息を吐き直した。そして、結局呆れたように苦笑すると、言った。
「ルグルが来てる。朝早くで済まないが少しだけ協力してやっておくれ」
「え、朝から?」
「自分で決めたんだろ?」
うーん、とハリアは渋い顔をする。
それを朝にやってしまうと自分は今日一日とても外に出る事は出来ない。夕方辺りまでぐーすかと眠りこけてしまうだろう。
実はそれはこの前一度頼まれていて、ルグルはその辺りも鑑みて夜に来てくれたのだ。
しかし、昨日は別の目的でさっさと使ってしまって時間が無くなった。
「……断れないじゃない」
「自業自得だね」
「でも今日はリィラと歌の練習……」
「また明日やりな。明日もあの馬鹿が頼んで来たら私が引っ叩いてやるからね。それでいいかい、リィラ」
「うん」
淀みなくリィラは返事をする。残念ではあったが、歌が駄目なら、迷う必要がないとさえ思っていたからだ。
「じゃあね、リィラ。外に出たら駄目だからね。ちゃんとお祈りするのよ」
「うん」
ぱたん、とハリアが名残惜しそうに扉を閉めた。壁が薄い教会は、遠ざかっていく足音も教えてくれる。
それを確認して、リィラはいそいそと外行きの靴を履き始めた。
◆
「お、お、おお。いいね、やっぱり才能あるよ、お前」
「本当?」
「ああ、ホントホント。ほらこっち」
かつん、とラカンが持った木の枝に、リィラの木剣が当たって小気味いい音が鳴る。
ラカンが木の枝を反対側に持っていくと、誰に教えられた訳でもないだろうに足は滑るように移動し、剣は最短距離を走って枝を打った。
「あー、しかしやはり力が足らんなぁ。リィラ、お前魔法は?」
市場がすぐ傍で騒がしいが、エルゼンの町は基本的に疎らで長閑。
ラカンの格好はそのまま僧のようなので少し目立つが、そんな輩が道の端でチャンバラごっこに興じていても微笑ましいぐらいだ。
力もそうだが、あまり体力もないリィラは膝に手を付いて荒く息を吐いていたが、ラカンの声に顔を上げた。
「ハーちゃんとギドに、人前ではやるなって、言ってた、から……」
やはり尻すぼみになるリィラの言葉を許すように、ラカンの手がリィラの頭を撫でた。
大きくも、小さくもない手の平。何となく、印象に残りづらい。
「よし、やってみ。……大丈夫だって」
提案した途端に泣き出しそうになったリィラに、ラカンは苦笑しながら言う。
「"ハーちゃん"も"ギド"も忙しいんだろ? だからお前、ピンチの時に颯爽とお前が登場してみろ。そりゃもうお前、あれだ。ヒーローだ」
「……よく、わかんない」
「馬鹿。ドラマが大事なんだよ、何事も」
ラカンはとにかくどんな魔法なのかだけリィラから聞き出すと、ふぅんと唸った。
「なるほど。確かに少し難解な類の能力だな。"異文字"ってのは強力だが把握するのが難しい」
「……そう」
「いや、落ち込まんでいい。俺のもそうだしな。考えなしに使うのは危険ってことだ。ギドとやらが正しい」
「うん」
何故か少しだけ得意げ返事をしたリィラの額に、ラカンは人差し指を当てた。キョトンとリィラが呆気にとられる間に、ラカンは指を離した。
「体を動かすセンスと魔力量は、かなり良い感じなんだぞお前」
魔力が常人よりも多いというのは、以前から言われていた。だからこそ制御が難しく、人前で使うなと言われていたのだ。
「ちょっと、言われた通りにやってみ。俺なら大丈夫だから」
「……うん」
使うな、と言う言葉を忘れていた訳ではなかったが、リィラはその言葉にうなずいた。
少しずつ成長していく自分に気づいていたのと、やはり日頃から少しずつ積もっていた劣等感が背中を押した。
胸の下の辺りに刻まれた"反"の文字。
ラカンは言う。引き寄せる力と、引き離す力を持った魔法だと。
だから。
この世界には物と物がせめぎ合っている事を意識して。全てが隣り合っている事を意識して。
その場所に向かって手を伸ばし、今までいた場所を蹴り付ける。
──イメージする。
木剣を振った。
鋭く、疾く、強い。勢い余って一回転。無様に地面にぶつかった。
打った枝の音はしない。ただ、少し遅れて枝の先が千切れて目の前の地面に落ちた。
リィラはラカンの声に顔を上げた。
は、は、と疲れている訳でもないのに息が漏れる。
"斬った"木剣と、"斬られた"枝を三度ほどきょろきょろとリィラは見渡して、一度唾をのんだ。
その向こうでラカンが僅かに目を見開いて、口を開いた。
「──良かったな。多分お前は天才だ」
「強く、なるの?」
リィラは喰い気味にそう聞いた。
リィラにしては珍しく表情を隠せていたが、その言葉には期待と不安が詰め込まれている。
「なれるだろうな」
「一緒に、いられる」
「それはお前次第」
ラカンの声は淡々としたものだったが、リィラはそんな事に構いもせずにその言葉に噛みしめるように聞いた。
決して舞い上がるわけでもなく、強く剣を握って肩を震わせる。それを見て、ラカンは首をかしげた。
「泣いてるのか?」
「泣いて、ないよ」
「なら、嬉しいのか?」
「うん……?」
本当に泣いてはいない。
ただ、漠然と後ろをついて生きているだけの自分に、最近はその未来が見えなくて、言われるまでもなくその事に気づいていたから。
ようやく、自分の役割を見つけた気がして、力が抑えきれなくて体が震えた、それだけ。
「何がうれしい? 教えてくれ」
「え……?」
そんな事はつゆ知らず、ラカンはこちらに問いかける。
リィラの背中をまた冷たい空気が背中を撫でたが、リィラは考える事に精一杯で気にも留めない。
「僕でも、ハーちゃん達の、役に、立てる……から?」
「そうか。なるほど、なるほどな! 分かった」
ギドと、ハリアと、ついでにルグルとも。
必要で頼られて、そうすれば一緒にいられると、リィラは思った。そして、それを理解して、隣でラカンは笑っている。
その顔のまま、ラカンは突如両の手を打った。
「よし! リィラ! 夢を決めるぞ!」
「夢……?」
楽しげに、その顔は本当に少年のようだ。
「夢って、言われても……」
「何でもいいさ! そして幾つでもいい! 夢ってのはそう言うもんだ!」
「ひ、ヒーローとか……?」
「いいな!」
「騎士、とか……」
「おお!」
「勇者とかっ」
「はっはァッ、ゴキゲンだ!」
「すごく強い正義の味方とか、英雄とか、あと、あと──っ」
ぱしん、とラカンは手を叩き、興奮に色めき立つリィラの言葉をいったん止めた。
「騎士に勇者に英雄に正義の味方にヒーローか。欲張りだなお前、びっくりした」
「……う」
「いやしかしお前は俺が認める天才だ。可能性は山ほどある」
ゴシゴシと、ラカンはリィラの頭を嬉しそうに撫でて、お前は一体に何になれるんだろうな、と呟いた。
小さすぎる違和感にリィラは気付かない。
しかしふと空の色が変わり始めている事には気づいて、口を開く。
「あ、今日は帰らないと」
「そうか、気を付けてな。くれぐれも死ぬなよ」
そんな妙な別れ言葉にリィラは首をかしげて、そして、それを思い出した。
思い出せないまま、日が沈んでしまうと急かす体は勝手に走り出すが、角を曲がる直前でようやくそれを思い出し、リィラは振り返った。
「"国食み"って人がいるんだってっ。知ってる?」
「ん? ああ、知ってるぞ」
同じく背中を向けていたラカンが振り返る。
辺りはうっすらと暗く、ラカンの姿は離れ過ぎたのかよく見えない。
「怖い人で、今この町にいるんだって、ギドが……」
「へえ。心配してくれてんのか?」
「だって、友達だから」
「……? 友達なのか、俺達は」
「……多分?」
「疑問形か」
「良く知らないもの」
「んだそりゃ」
ラカンはそう言うと、たぶん笑った。暗がりでその顔はよく見えない。
「──ラカン。えらくご執心ですね」
ラカンの更に後ろの、更に暗い暗がりから、ふらりと男が姿を現した。
豪奢な袈裟に剃り上げた頭。顔はのっぺりと特徴がなく、どこぞに同じ顔の木判でも売っていそうだ。
「あれは、男ですか女で──……」
ずん、とその腹部にラカンの蹴り足が減り込んで、男は地に沈んだ。作ったようなその顔が苦痛でぐしゃぐしゃに歪む。
「おい」
膝を付いた男の頭を、ラカンは踏み付けて地面に押し付ける。
対して力を入れているようにも見えないが、ギシギシと男の頭蓋と地面が軋んで音を立てる。
「お前等は蟲だ。俺が行く先々に付いて回り、食い零したものを漁る羽蟲の群れの端の一匹」
パクパクと頭を踏み付けられた男の口は端が裂けんばかりに動いている。しかし聞こえてくるはずの声はどこにもない。
ただ静かに、骨と地面が軋む音と、ラカン声だけがこの場で許されている。。
「お前等が徒党を組むのは良い。俺の格好を真似て同類ぶるのもいい。俺はお前等だって嫌いじゃあない」
じわり、と静かに男の周りに血が広がっていく。
気づいていないのかと言うほどに、ラカンの表情はピクリとも動かない。怒りに震える訳でもなく、リィラと話していた時の表情と纏った空気のまま。
「ただ、俺の邪魔は駄目だ。殺す」
男の顔に恐怖が浮かぶ。しかし、その恐怖の中に疑問が少しだけ混じっている事にラカンは気づく。
原因がわかっていないらしい。少し考えて、ラカンはつまならそうに鼻を鳴らすと、足を離した。
「──ぁ……っ!」
途端、男の荒い息がようやく聞こえた。
「"国食み"がこの町に入った事が見つかってるよ。お前等も見つかってる。"国食み"のせいになってるんだってよ」
「……民家、に、押しっ、入った人間が一人。捕ま、り、自害しましたっ、恐らく、それで……っ」
「捕まった? その住民にか」
「い、え。捕捉、されていたらしく……っ」
「捕捉ねぇ……。ああ、そういやね。んなこと言ってたわ」
ふーん、とラカンは剃りあげた頭をぺたぺたと撫でた。そして不意に口の端を上げる。
「愉快愉快」
そして、ぐちゃりと男の頭を踏みつぶした。
びくりと痙攣して、男は生物から物に成り下がる。
次の一瞬だ。また闇夜から滲むように、先ほどの男と恐ろしく似た別の男が現れ、ラカンに頭を垂れた。
脳髄をぶちまけた同胞に、その男は視線も向けない。
「つーことでな。邪魔しなけりゃ俺はむしろお前らのこと好きなんだから。恵んでやるし、助けてやるし、使ってやるから」
「は、では、"これ"は片付けますか?」
これ、と頭を垂れたままの男はそこで初めて元同胞に視線を向ける。
言われたラカンはしかし、少し考えると背を向けた。
「いや構わん。それより、ばれてんならもういい。一息に」
「は。一息に」
「ああ、良い晩餐を」
そして、大あくびをしながら、ペタペタとラカンは裸足で歩きだし、同時に後ろ手に"手を振った"。
それは男への挨拶にも見え、事実男はそれを合図に姿を消した。
後には、"何も残らない"。血も、肉も、脳髄も、死も。
誰かが喰らったのか、地の底に飲まれたのか。
ただ不穏と静寂と暗闇だけがそこにある。
「良い晩餐を」
その暗闇が、ゆらりと揺れた。
そしてそれは、音もなくぞろぞろと姿を現す。地獄の亡者でもあるまいに、その顔は皆一様に喜悦と残虐に染まりきって。
その立ち振る舞いは只者ではない。鍛え上げられた体は、卓越した武芸者だという証だろう。
それが、溢れんばかりの悪意を垂れ流しながら、一人、十人、そしてやがて百を超える。
「愉しめよ、愛しき羽蟲共」
そしてそれは毒となり、町を犯し始める。
◆
ギドは、朝食をリィラ達二人と共に摂った後、木製の車椅子を器用に動かしながら教会の大扉を開けた。
我先に教会に入り込んだ風がその窓めがけて吹いていく。
午前十時。
今の季節だと、この時間この場所に丁度陽だまりが出来る。
その暖かい空気の中で一服するのが、ギドの習慣だ。そしてまた、考えをまとめやすいのもこの場所だった。
「温かいねぇ……」
我が街ながら、草木一本ない殺風景な風景に小さく笑う。
この単色で侘しい風景も嫌いではないのだが、やはり今後の国の発展にもある程度の緑は必要なのだ。
土地が痩せているせいか作物も育たず、それに、緑を見た事ないと言う子さえいるのは少し心苦しい。
「ん……?」
そんないつも通りの景色の奥で、何かがちらついた。
暢気なほどにだだっ広い道の真ん中を、ちらちらちらちら。目を凝らすと、それが何度も躓きながらこちらに走って人影だという事に気づいた。
全速力だったのだろう。
教会の入口まで走ってきた男は、その場で膝に手を付いて荒く息を吐いた。
「……何か、あったね?」
その男からも不吉な気配が漂っていて、しかしギドの声は必要な分だけ落ち着いている。
それが、男に頼もしく見えたのだろう。強張っていた表情を僅かに緩めて、改めて顔を上げた。そして、増していた不吉な気配の正体を、男は口にした。
「消えた……! 人が消えちまったんだ、ギド!」
「人が消えた……?」
息を切らして教会に入って来た男はルグルの使い。その蒼白な顔色だけで事の大きさを物語っていて、ギドにも緊張感を強いる。
「何だい、そりゃあ……?」
「分からない! だが実際に!」
街の東側のその一角。
一角と言えど、そこに住む人間の数は百や二百ではない。この時間になれば賑わうし、喧騒は絶えない。
しかし、目の前で取り乱す男は言うのだ。
それがないと。
それどころか知った顔も知らない顔も、どこにも無いのだと。誰一人。影も残さずに消えてしまったと。
「"国食み"だ……! 喰われちまったんだ……!」
「落ち着きな。全部で何人やられた」
「わ、わかんねぇ、今ルグルさん達が総出で家を回ってるけど。もし本当に一人もいなかったら、一万人近く……!」
一万人と言う数に、ギドの目が大きく見開かれた。そして直ぐに憎々しげに細められる。
「他に情報は?」
「あ、ああ。そうだ! 前に言っていた"国食み"の姿の話なんだが……」
「姿? 例のか?」
"国食み"の容姿については、諸説分かれている。
酒場で交わされるような話の中では、人間離れした化け物の姿、またどこかでは絶世の美丈夫だとか。老人だとか。坊主だとか。子供だとか。一般人だとか。
まるで何人もの"国食み"が存在しているかのような噂の錯綜具合だ。
「その噂の人物像の中に、町中で目撃されてる奴がいた。特徴は……!」
男は捲し立てる。
しかし、ギドはゆっくりと男の背後に視線を移し、そして一つ溜息を吐いた。
「──いや、もういいよ。下がりな」
凍てつくような冷たい声がギドの口から出た。
自分でも驚くほど冷徹な声。冷たいのはあまり好きではなかったが。
「尾けられたね」
「え……?」
遠くの道の、陽炎の中に。人影があった。
そして、既にその殺意は形を成して、牙を剥いている。
「見事」
──しかし、ギドもまた力を行使していた。
空気と地面を揺らして異なる二つの力がぶつかり、衝撃により尾けられていた男は吹き飛ばされる。可愛そうだが、その方が都合がいい。
「……"国食み"かい?」
「そう言われる事もある」
まるで旧知のように落ち着いた様子で話す声に、国食みは答えた。
その声で、解る。並々ならぬ殺意をこちらに向けている事に。
こいつは、ここにいる人間を殺しに来たのだ。
力を再び解放したのは、完全に同時。
ギドは"木の大腕"を、国食みは"黒鉄の巨塊"を顕現して、再びそれはぶつかり合った。
続く攻撃はない。今のはあいさつ代わり。国食みは、教会の柵の手前で立ち止まってこちらを見ている。
「リィラ・リーカー。ここに居るだろう?」
「リィラ……?」
それは、聞いた通りの外見の一つだった。
立ち止まる、その行為は何かしらの問いかけだったのだろう。
例えば、国食みの言葉を正しく理解して正しく対応すれば、この柵を越える事はしないとか。そういった類の。
目を細めたギドは、その意味を確かに分かっている。
「リィラの家はここだが、それは全くもって。アンタには関係が無い話だね」
「……なるほど。了解した」
そしてその言葉もまた、十分に意味を持っていた。少なくとも開戦の合図くらいには。
国食みが軽々と鉄柵を乗り越えた。
同時、ギドが車椅子の肘掛を指先で軽く叩いた。
途端、黒鉄色の塊が、蠢く巨木の腕が。地面から姿を現してぶつかり合う。
「──っ!」
衝撃に岩も樹も粉々に砕け辺りに破片をまき散らし、それに紛れてギドの視界から国食みが消える。
とん、とギドはもう一度車椅子の肘掛を叩いた。
たちまち木製の車椅子が巨大な手に姿を変え、その手が続く地面から巨大な樹の人形が姿を現し、ギドを肩に乗せて立ち上がった。
「大した技量だ、ご老人」
「衰えたもんさ」
──"宿木"。
そう呼ばれて恐れられた時代から、体こそ衰えたものの魔術の技法は失われていない。
そして、それに負けじと既に国食みの背後にも岩の巨人が隊列をなしている。それも、ギドのそれよりどれも頭一つ大きな。
ギドの目が、僅かに細められる。
「小手調べだ」
岩の巨人がその巨躯からは考えられない程の速さと精密さで樹の巨人を取り囲んだ。
ぐるりとギドを囲んだ岩の巨人は全部で12体。
またもその巨大さに考えられない動きで、宙に跳んだのは6体。そして逆に地を這うようにこちらに突進してきたのもまた6体。
巨体ゆえか地面は抉れ、空気は嵐のように掻き乱れる。
──しかし、ギドの表情は変わらない。
ただ、樹の巨人の肩をとん、と指で叩いた。
瞬間、木の根を押し固めたような拳が、一体の黒鉄の巨人の頭を貫いた。
目にもとまらぬその動きに、岩の巨人は対応もできずに、自分の勢いそのままに回転して転がった。
そしてまた、ギドは指で叩く。
ずん、と樹の拳が今度は地面に突き立てられ──。
一瞬遅れて地面から突き出た巨木の槍に、残り11体の岩の巨人が股下から貫き殺された。
撒きあがった砂塵の名残の中に、ギドが小さく吐いた溜め息の音が混じる。
「──あまり嘗めるんじゃないよ、小童が」
国食みの目が大きく見開かれた。
「……失礼した」
そして、何を思うのか国食みは笑った。その表情はどこか寂しげで、今度はギドの眉が揺れる。
「──なら少しだけ、本気を出そう」
ガラガラと岩の巨人が魔力を抜かれて崩れる音が、どこか遠くからギドの鼓膜を揺らした。
つ、と乾いた肌に久しく感じていなかった冷たい汗が流れる。
何かが劇的に変化したわけではない。
ただ、思わず息を止めたくなるほどの強く濃い魔力は、陽炎のように空気をぼやけさせ始めている。
「やれやれ……」
ギドは樹の巨人の肩の上で一旦肩から力を抜いた。煙管を取り出し、その中に煙草と火種を入れ、一度だけ吸って、吐いた。
(ああ、温かい……)
そして、背後に庇っている教会を肩越しに覗いて、笑う。
「まあ、命の賭け所としちゃあ、悪くないか」
吐いた煙の向こうで、"国食み"が薄く笑った。その姿は変わらないが、中身は噂に違わぬ化け物だ。
ばたばたと、強い砂混じりの風が吹いて、国食みの黒衣をなびかせる。
「……しかし、まさか女だとはね」
溜息を吐く。"国食みの綺麗で華奢な女の体が"、酷く無機質なものにギドには見えていた。