平坦と赦しの国
シータ達を家に連れて来て、次の日。
チビ共は"エルゼン"では浮いた新宅の中でエースやクイーン達を見つけて浮足立っていた。
シータが言うにはチビ共にも教会を離れる理由は教えたらしいが、あまり暗い表情は見られなかった。何か企んでもいるのか。
「ぐ……」
集中力が乱れたせいか、作り上げていた巨大な砂の城が崩れて、何もない寂れた荒野に戻った。とはいっても、まだ城壁もできていなかったが。
『ナノマシンで小さい物は砂の一粒を』
『大きい物は、出来るかぎり。操れるようになりましょう』
『狙った物を、狙った物に変換できるように』
サヤが俺に指示したのはそんなこと。
しかしこれがなかなか難しい。別段体が疲れることはないのだが、続けていると頭が重くなり、僅かに気怠くなる。
最初は針で刺すような痛みがあったりしたので、それと比べればだいぶ慣れはしたのだが。
サヤが言う修行編とやら。思ったよりも厄介である。
まず夜2時就寝、朝5時起床。これでだけでもう駄目だ。もう止めたい。
少し休もうと座って、そのまま無意識で流れるように寝転がった。
地面は岩肌のように冷たく固いため、あまり汚れもしない。空をぼーっと見上げると太陽はほぼ真上。
これから一か月は、朝五時に起きて六時間以上これをやる羽目になりそうだ。
という事だ。突然で悪いが。
やばい、寝る。
「えーい☆」
「わぁいっ!?」
目を瞑ろうとした瞬間、狙ったように刀の刃先が落ちてきた。しかも額めがけて一直線。間一髪でその凶刃から額を守りきる。
「え、ええ、はあ!? 何してんの!?」
「いいえ別に。眠ろうとなされていたので。より深く眠れるように。手伝って差し上げようかと思いまして。愛ですね」
「冒涜すんな!」
「お褒めに預かり」
「褒めてねぇよ!!」
にこにこ、と言うよりにやにやと楽しげに笑うサヤを見て、警戒を少しだけ残して立ち上がる。
何で俺はこんな奴を取り戻そうとしてしまったのか、過去に戻れるのならまず先に過去の自分を止めてやりたい。
「ところで、ハルえもん。消えちゃったので自家発電機を出して下さい」
「知ってるか、今やネコ型ロボットなんざ過去の遺物だ」
ちょい、とナノマシンを操作して自家発電機を精製する。
キャリーバックほどの大きさの、しかし一世帯を4096時間電力補給できるという優れもの。
「まずまずだな……」
目標の岩を使って作ろうとして、結果は僅かに近くの地面を抉り取っている。何も意識せずにやれば半分以上が地面で出来てしまうので、結果はまずまずなのだ。
「上出来ですね」
「これなんか意味あんの……? 目的ないと早くも挫けそうなんだけど」
そう言うと、サヤは意外にも教えてくれるのか口を開く。
「そうですね。これは大きな目的の一つなのですが、ナノマシンで食料を作ろうかと思っています」
「……それは無理だ」
サヤの提案にハルユキは力なく首を振った。何度それを試したと思っているのだ。どうやっても無理。
人体の細胞が完全に入れ替わるのに、おおよそ三年がかかるという。
素粒子レベルで組み替えるのだ、体に吸収された後別の物に変われば体が壊れる。しかし、体外に排出される三年以上を保たせるのは、ほとんど不可能に近い。
「いいえ、それもやり方次第です」
「……と言うと?」
「体に吸収された後、変異するから問題なのです。だから、胃に入った瞬間に元に戻す程度の造りならば問題はないでしょう」
「……ちょっと待て。なら胃で消化するんだから食べ物から作る必要があるだろう。それは本末転倒だ」
「だからこそのこの修行です。単純な単分子結晶や混合物ならば、疑似神経で作る事が可能なはずです。もちろん、途中で元に戻る事もない」
例えば、とある宿の壁を防音性に改造した事がある。
ナノマシンの"カタログ機能"で作れば一年と持たず消えてしまうため、本の知識を元に疑似神経で組み立てたのだ。
思えば以前無理やり瓦礫をタンパク質の塊に変えて飲み下した事があったが、あれもよく考えれば問題ではなかったのだ。
「つまり、必要な栄養分の塊を"疑似神経"で造り、今度はそれを"カタログ機能"で食べやすい何かに変えれば良いのです」
「……なるほど。少し手間だがそれなら……」
「可能ですか」
「ああ、食べやすい物ならパンなんかがあったし、それに胃の中で元に戻すってんなら調味料とかでいつもやってる。可能だろ」
試しに拳大の石を拾い上げ、先ずは栄養素の塊に変える。半液状のそれを空中で今度はクロワッサンに変化させる。
「……っち」
べしゃり、と僅かばかりの栄養素の塊が地面に落ちた。
掌に大きめのクロワッサンが出来上がってはいるが、栄養素8割、空気2割といった程度の構成だろう。
「想定していた進行より随分先行できています。お気になさらず」
「そうか……」
「はい。では食しましょう。混じっているのが空気なら、胃で戻る分には構わないでしょう」
言うと、サヤはそのクロワッサンに手を伸ばした。
その手を制して、クロワッサンを半分に千切りその片方を手渡す。
俺では胃の中で食べた物がどうなったかなど分からないが、自分でも食った事がない物を人に勧めるわけにもいかないだろう。
受け取ったそのクロワッサンをサヤはしげしげと眺めて、そしてやがて柔和な笑みを見せた。
「半分こですか」
「……恥ずかしいこと言ってんじゃねぇよ」
サヤの顔を見ないように、さっさとクロワッサンを口に放り込む。焼きたてのように僅かに温かく、サクサクとした食感もあって、なかなか美味い。
「……味は良いですね」
「ああ」
しばし待つ。と、何やらクロワッサン一個の割には酷く腹に貯まっている事に気づいて顔を上げるとサヤもこちらを見ていた。
にやり、と口の端を上げる。
「成功です」
「ただこれゲップ出るな」
「二割が空気ですからね。今日の午後からは回数をこなすことになりますので、そこで修正してください」
「……え、今日から?」
「と言うより、今からです。行きましょう」
ぐい、とサヤに手を引っ張られる。
「これで名実ともに神様ですよ」
自信過剰かもしれないが、たぶん。こいつはただ俺を困らせるためにこんな事を考えているに違いない。
◆
そこは町の中の、往来の邪魔にならない程度に路地に入った人溜まり。
「神様が、いるらしい」
そんな噂が、町中を勝手に歩き回っていた。
曰く、白く長い外套を頭から被り、背の高い神様らしい。
曰く、風のように現れ、瞬きする間にいなくなるらしい。
曰く、とてつもなく美味い、それでいて腹に溜まり、次の日の体調を良くしてくれるパンをくれるらしい。
そして曰く、その辺の石や空気から、パンを作り出すらしい。
一週間ほど前から現れ始めた神様は、町中の話題を独り占めにし続けている。
「ホントだって! 俺貰ったし!」
「俺も貰った。基本的に行き倒れに配っててな。こっち見たかと思ったら頭の上に落ちてきやがった」
「傾いた家のど真ん中に鋼鉄の柱突き刺していた奴なら見たが、あれもか?」
内容は様々。様々な噂は、錯綜して入り混じって、"神様"とやらの実像をかき乱していた。
「しかし、気味悪いな。タダで物くれるなんざ、裏があるんじゃねぇか?」
「タダじゃねぇよ」
「ああ、タダじゃねぇ」
「頑張って働けって言われるな」
「ああ、言われる」
「それだけかよ」
「つってもな、別に体に異常が出たわけじゃないし。何かそれ以上を要求されるわけでもないし」
「食わなきゃ死ぬなら、食うだろ」
「……まあ、食うけどよ」
訝しげにつぶやく男の手の中には、件のパンが握られていた。
貰って、食べる前に相談したため流石にもう冷めてしまっているが、香ばしい匂いはそのままだ。
男が唾を飲み下しながら、それを見つめると、次第に周りも黙り、それに視線が落ちる。
「食わないなら、俺にくれよ」
「食うさっ」
ばくん、と男はそのパンに齧り付いた。甘い。固い乾パンでも、味気ないサル麦のパンでもない。
両の拳を合わせたほどの大きさのそのパンを、男は夢中で食べ尽くす。
「う、うめえ……」
「な」
「うめえよな……」
「麻薬的なあれか?」
「別に、死んでまで食べたかないが」
男たちは沈黙する。"神様"に対して結論を出しかねているのだ。
「まあ、別に。飯くれる分にはありがたいよな」
「まあな。言われんでも働くわけだしな」
「お前らは良いな」
ふと、道端で話していた男達に、少し老いた、ちょうど労働力としては役に立たなくなった年代の男がいた。見れば足が片方ない。もうこの町で生きていくのは難しいだろう。
「オレは、その神さんに縋りに行く。なりふり構ってはいられない」
「騙されてるかもしれんぞ、爺」
「娘が病気なんだ。食べる金もない」
吐きつけるようにそう言って、男は去って行った。
「……確かにな」
「ああ」
「俺も、神様ってのがいるなら早く出て来いとは思ってた」
再び沈黙。周りの人間は変わらず死に物狂いで騒がしい。ぽつり、と一人が言った。
「何か、変わるかもな」
「そんな馬鹿な」
一人がそんな言葉を一笑する。その後、不思議と全員の視線が"街"に、そしてその奥に鎮座する"月"に向かう。
「もう変わってるかもよ」
最後にぽつり、と男が言った。
◆
「ちぃ……!」
午前中はナノマシンの調整をして、午後は暗くなるまで神様活動。そして夜はエースとビィトの自称修行に付き合わされる。
ハルユキに弾き飛ばされたビィトが壁まで吹き飛び、しかし爆風を利用して、すぐこちらに攻めてきた。
それをハルユキは正面から蹴り返した。
「が……!」
「相手より小さいのに正面から真っ直ぐ来るんじゃねぇよアホか」
ぎ、と今度は体が金縛りにあったかのように軋んだ。今度は背後から、エースが足を止めてこちらを足止めしている。
「それか。言ってたのは」
ばちん、と力尽くでそれを振りほどくと、エースの表情に苦悶の表情が浮かぶ。
直接止められるというのは強いが、しかし人体に直接魔法は効きにくいらしいので、あまり効率的ではない。
「あ……っ!」
「それ、もう止めろ。凄いのかもしれんが役に立たん。代わりにこれどうだ」
そう言ってナノマシンで作りだしたのは鎖。
太く、重く、強い。人の腕ほどの太さで、長さは十メートルほどの黒鉄の鎖だ。ナノマシンに運ばれて、エースの手の上に落ちる。
「うわ、重っ……」
ずん、と鎖と一緒にエースの手が地面に落ちそうになり、その鎖をエースは不可解そうに眺める。
「何で出来てんのさ、これ」
「知らん。何にしろそれで縛った方が速いし、拘束力も強いだろ。攻撃手段にもなる。相性もいいはずだ」
「……そうかもね」
しかしその重さはエースの能力の前では苦にならない。
さっそくその鎖はテレキネシスによって持ち上がり、自在に空中を泳いでいく。自由自在に曲がり、固まり、伸びていく様は、まるで巨大な双頭の蛇を思わせた。
「──うん、これいいよ」
「てっとり早く戦力を上げるには、武装するのも手だ。まあ、それは持ち歩けんが。それとエース」
一瞬で銃を取り出し、エースの額に向けて撃ち放った。
びくりとエースの体が跳ねただけで、当然反応はできない。額に当たる直前に、銃弾はハルユキによって掻き消された。
「これを止められるか」
「……今は無理」
「止めるにはどうすればいい?」
「魔法の有効範囲の拡大と使用速度の向上かな」
「よし。やり方はお前の方が知ってるだろ。勝手にやれ」
あとは、と蹴り飛ばした力が強すぎたのか、立ち上がりつつもまだこちらを睨みつける事しかできていないビィトに向き直る。
「ビィト。まあ、お前はそのままでいいだろ」
「その、まま……?」
苦しげに息をしながら、ビィトはエースを見やる。早くも鎖を使いこなし始めているエースを見て、ビィトは焦るように言った。
「俺も何か武器を……」
「エースの能力は応用に富んでるかが、お前のはそうじゃない。だが、単純な攻撃力と推進力では、お前の魔法は群を抜いてる」
あくまでこれは、提案の一つにすぎないが、とハルユキは続ける。
いったん言葉を切って、ビィトが先を促している事を確認して言う。
「お前は単純に誰より強く、速くなればいい。小細工も全部正面から破壊できるぐらいに馬鹿みたいに強くなれ」
言うと、ビィトは驚いたのか目を見開いた。
「そしてそのやり方も俺は知らん。勝手にやれ」
「出来んのかよ、そんな事……」
「知るか。出来るか出来ないかなんてお前がやった後にしかわかんねぇよ。お前が決めて、お前がやれ」
「……そりゃそうだ」
「という訳で、今日は終わりな。ここ好きに使っていいから、好きにやれ」
「て言うか、そもそも何なのここ……」
空いた時間は夜しかない。
しかしこの二人がどうしてもと言うので仕方なしに作った地下空間。
地盤が緩いので大変だったが、何とか出来上がった白い部屋。八方を強化プラスチックと衝撃緩衝材で作った部屋は広く、上につながった家の敷地の三倍はある。
「ホントに猫型ロボットになった気分だ……」
「何それ」
「神様! いつまでやってるんですか。時間ですよ。神様が今日は早めにって言ったんでしょう?」
「はいはい。今いく。じゃああれな。今週はこれで終わりだから」
言って、ハルユキは呼びに来たシータの後について部屋から出て行った。
「忙しいね。何するんだって?」
いそいそと休む間もなく出て行ったハルユキを見てそういった後、エースは苦笑交じりに嘆息した。
ビィトも同じくため息をついて、言う。
「文字の読み書き覚えるんだと。ルグルの野郎に会うのが今日だそうだから、早目にやるんだろ」
「……相変わらず、凄いのか凄くないのか分からない人だな」
もう一度。
今度は重なったため息が、部屋にむなしく響いた。
◆
がやがやとその店はいくらかの喧騒を持っていた。
しかし、喧騒と言っても語感から感じるような楽しげな物ばかりではない。
鬱々と心の積もった毒のような何かを互いに零しあったり、何かを臓腑の奥に流し込もうと酒を飲んだり、時には嗚咽のような泣き声も、喧騒には変わりない。
ただ、人が多く集まってくる。
それに自分が加わるだけで、身を寄せ合うように感じるのかもしれない。
何の危機感も持ちえないハルユキはそんな中に浸かることは許されない。素通りし、足元に黴が生えたカウンターの奥にいる男に話しかける。
「酒を。二本」
「ルグルの連れだな。聞いてるよ、ほら、これ持って好きな所座れ」
言って、目の前に小ぶりな瓶酒を置くと、そそくさと男はカウンターの奥に消えた。
「ふむ……」
左を見て、右を見て。一人で広い円卓に座るのは少し面倒だ。
何しろ酒が入った男達は、好き勝手に最近現れた"神様"について、推測や希望、危機感などを話し合っている。あまり同席したくはないのだ。
しかし空いている席も少ない。見渡すと、カウンターの端にいくらかの空席があった。
近づいて、そこに腰を下ろす。日本の瓶のうち一本のコルクを抜いて、一口飲む。やはり酔えそうにはない。
(何か、言われるか……?)
"神様"の噂がルグルの耳に入っていないなどと都合のいい事はないだろう。
証拠こそ見せないようにしたが、それでも勘のいい男だ。間違いなく"件の神様"が、"この神様"だと確信しているだろう。
「やべぇなあ……」
ごくり、ともう一口酒を口に含みながら、サヤとの話し合いを思い出す。
『この国の民は、特徴的です』
開口一番、サヤは言った。
『特徴的……?』
『元々は宗教国家だという事もあるのでしょうが、少々妄信的過ぎるきらいがあります』
『現実的な奴も多いが』
『それでも、"巫女"などと言う存在に依拠し、そして魔法と言うオカルトがまかり通る世の中です。刷り込みは容易い。それに事実、主様が持つ技術と力は"程よく"規格外で未知で神秘でしょう』
なんだか微妙に居心地の悪い近代的なリビングのアンティークチェアに腰かけて、ハルユキはサヤが用意した紅茶をすすっていた。
『……こっちの強みは、正直遊びだって事か』
『はい。おおよそ利益も被害もない。汲み入る事も容易く、楽に慣れてしまえば、民の疑問もいずれ薄れていくでしょう』
小細工ではない。言葉は打算的だが、要はこちらの誠意と善意を辛抱強くアピールしようと、そういう事。
『……地道だな』
『民に心象付けるだけで良いのです。有事の際に、"万能の神"が頭にちらつく。それだけで』
『狙いは、話せないのか?』
『いえ。ただ秘密なだけです』
そう言って、楽しげに微笑んで首をかしげるサヤを見て、ハルユキは遠い目で窓の外を見ていた。
間違いなく、自分が困るような展開になるのだろうな、と寂しく笑ったのを覚えている。
「よう」
背中から声が聞こえて、傍らに置いていた開けていない方の酒瓶が持ち上げられた。そのまま手でコルクを空けた音がする。
「お前ら、帰っていいぞ」
振り向くと、その細長い体をうまく群衆に紛れさせるようにルグルが立っていた。
傍らには禿げ頭が二つ。こちらに憎々しげな視線を向けて、去っていく。それを確認もせずに、ルグルが隣の席に座り込んだ。
「あんたなぁ、何してんだよ」
「……やっぱりばれてんのね」
「ばれねぇ訳ねぇだろうが。縄張り争い相手にそれ聞かされた時笑っちまうかと思ったよ、馬鹿野郎」
「どこまで知られてる?」
「一切漏らしていない」
急にルグルの声に真剣みが帯びた。
それが、機嫌の悪さからくるものならば納得もしたが、どうにも様子が違う事にハルユキは首を捻る。
そしてルグルは、そんな様子のハルユキを見て、安心したように息を吐いた。
「あのメイドの姉ちゃんか。恐ろしい女だなぁ……」
「……話したのか?」
「いいや。だから恐ろしいんだ」
ルグルはそう言いながら、妙に引きつった顔で酒瓶を煽った。こいつもまた、酔う気配さえ見せない。
「あの姉ちゃん、この国の人間に神の印象を刷り込むとか、そういう事を言ってただろ?」
今度はこっちの表情が強張る。
「俺ァな、先生。国を盗るっちゃ言ったが、別に王サマになりたい訳じゃあない。柄でもない」
ルグルは依然、ただ他人がでかい顔をしているのが気に食わないと、そう言っていた。
意外とそれは事実なのかもしれない。確かに、王などと言う柄ではないのは、あまりに自然に納得できるのだ。
「だからよ、わざわざ"聖戦"って銘打って、んで、担ぎ上げる神聖な人間がいると吹聴してきた。誰かはばらしてないがな」
"何しろこの国の人間は何かに妄信的になり過ぎるきらいがある"とルグルは誰かと同じ事を言う。
「担ぎ上げる人間?」
「誰か分かるか? 一度似たような事言ったと思うが」
「……リィラか? いやしかし……」
「当たりだよ。あいつを神聖の聖人に仕立て上げて、この国の頂点に置く気だった」
あのイラつく男女が神聖の、聖人──?
ここ一か月ほどで一番納得しかねる言葉に、訝しげな顔を隠そうともしなかったので、ルグルが笑って続けた。
「だから、あいつの過去の話をしようとしたし、特別だって言ったんだ」
「……言ってたな、そういえば。それで、何が特別なんだ」
「一つはあいつは町の人間から悪魔か何か、もしくは人外の何かだと思われてる。ま、これだけじゃ当然マイナスだが」
ああ、とハルユキは相槌を打つ。あいつの性格の悪さと、イカレ方は少々群を抜いている事は知っているからだ。
「だけどな、その異常性が活きるんだよ」
畳み掛けるように、少し早い語調でルグルは言う。くつくつと喉で皮肉気に笑いながら。
「今、この町の連中が支持してる、"巫女様"な」
楽しげに、ルグルは言う。
(巫女?)
その存在は一度見たきりだ。初めてシータと買い物に行った時にたまたま知ったその存在。
龍を祓っているという、この上ないほど"神聖"の巫女。
「あれ、リィラの双子の妹なんだよ」
不意に頭に浮かんだのは、驚きでも、納得でもなく。
ただ、遠いどこかに向かって、半分欠けた中途半端な歌を口ずさむ、そんな誰かの姿だった。
────……。
湖に浮かんでいる。
今日、龍は一体だけ。空は闇、しかしエルゼンが遠いせいか星はいつも以上に光を主張する。
体にへばりついていた泥が、水面に溶けて広がっていく。淀んだその水の中にいるのが嫌で、リィラは髪から服から水を滴らせながら岸に上がった。
薪はいらない。慣れた夜目は、光を嫌うほど。
星と月の明かりだけを頼りに着ていた服を脱いで、軽く洗い直し思い切り引き絞る。そのまま皺を軽く伸ばして、リィラはさっさとそれを着込んだ。
べたりと、いやな感触が肌に張り付くが、気にはしない。
このまま眠るわけではないのだ。動いていれば直に乾く。
眠れない。特に夜のうちは眠れば死ぬ。
龍共が言うのだ。あの赤い血のような眼で、よくもよくもと嘆き恨み、呪詛を吐き出しながら死んでいく。
少し、龍共の毛色が違っている事には気づいているようなきもする。
殺すための大義はある。
しかしそんなものは建前で、自分の勝手な都合が殺す動機の大半を占めている。ならばその呪詛も納得だ。
その通り。呪われて、然るべき。
静かに床に就いたことなど、もう何年していないのか。
泥のように眠れるように、気絶同然で気を失うように、そうしなければ見てしまう。
今夜はもう敵はいない。
しかしもう、あそこに帰る必要もない。
事実、もう随分戻っていない。何かから隠れるようにこの森に籠っている。
都合がいい。
あそこは駄目なのだ。
慣れ親しんだものの中で唯一残った教会は、優しく軋んで慰めてくれる声にすら聞こえるが、それも静けさを強調されているようで。
もう駄目なのだ。
◆
「ルグル、来たんなら線香でもあげていきな」
強く、しかし落ち着いた語調で老婆は言った。
「何で教会で線香上げんだよ、手ぶらで祈っとけ。金かかる」
鷲目の男は、そのひょろりと細い体を気怠そうに左右に振った。
「そこじゃないでしょ! 正直線香は私もどうかと思うけど!」
少女は男の太もも程の位置にある目で男を睨みつけた。
「……ハーちゃん」
その少女とちょうど同じ身長の何かが、こそこそとその背中に隠れた。
「ハリア。その妹ォ──、いや弟ォ? どっちなんだ、結局」
「教えない、駄目よリィラ。リィラは弱いんだから。変態に襲われちゃうわ」
「う、うん……」
「いい子」
「ルグル。リィラはハリアの兄か姉だよ。何度言えば分るんだい」
「て言うか、ギド。手前は知っとけよ」
にぃ、と老婆は不敵に笑う。キュルキュルと木製の車いすを器用に動かし、換気の為に教会の扉をあけ放った。
「美形なら何でもいいだろう? 違うかい?」
「そりゃそうだァ。ただしあんたの取り巻きは、不細工でごつくて、おまけにおおむねハゲだがな」
「馬鹿だね。あんな男前な連中はいないのに」
老婆はふかふかと安い煙草を、年季の入った長煙管で吸って、吐く。
また目の前で煙管を吸って怒るハリアをからかいながら、老婆はやれやれと陽だまりの中で車いすの背に体重を預ける。
広く、何も隔たる物のない空と、平坦な大地、まばらに広がった街並み。街の一番奥に建ったばかりの"赦しの塔"。
そして、町のどこからでも覗く事ができる地平線が、エルゼンが誇る景色だった。
就活します。