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ハイイロ ノ カナタ  作者: mild
第二部
199/281

わかつ

何とかリィラの過去編に入るまではやりたいと思います。

たぶんあと一話で、二日後ぐらいに上げます。


「どういう事だ」

「……どういう事、と申しますと」


 早朝に呼び出され、リィラは"壁"にいた。

 "巣"と"街"の間の崖に位置する"壁"にはいつも通り人が少なく、リィラが向かう先はいつもの無愛想なこの男の元だ。


 かつん、と踵を鳴らしてリィラは姿勢を正してから言葉を返した。

 大きな窓を背にして机に向かっていた男はそこで初めて、顔を上げてリィラを見た。再び口を開く。


「昨夜、イーガル=トータル邸が襲撃された。イーガル氏は死亡。中に居た人間も軒並み行方不明。貴様が送った孤児もだ」

「それが、何か。僕にはもう関わり合いがない事です」


 "その存在を忘れて他人に戻れ"というのがそちらの指示だった事を続けて指摘すると、表情は変わらないながらも、男の周りの空気がうっすらと剣呑さを帯びる。


「それに、イーガル様ほどの方になれば不埒な輩に狙われる事も多いでしょう。町の外周警邏を主な任とする私にはどうする事も」

「もういい、喋るな」


 男としても、"街"の上層部に媚を売るパイプを作る良い機会だったのだろう。

 いつも淡々と業務をこなすだけの男が、抑えきれぬ感情を端々から滲ませている。いい気味だ。


「指名手配を敷く」

「……は?」

「貴様が育て、逃げ出した件の孤児を手配すると言ったんだ」

「……馬鹿な」


 驚きに、それしか言葉が出なかった。その愚かな策もそうだが、この男がそうまで躍起になるとは思わなかったからだ。


「……ただ族に襲われて逃げただけの子供をですか? どこにそのような金があると言うのです」

「ふん、金貨の一枚や二枚捻出するなど訳はない。それに、パンひとつで人を殺す人間など掃いて捨てるほどいるっ」


 だん、と机を叩いて男は立ち上がり、興奮冷めやらぬとばかりに、机の傍らに置いてあった呼び鈴を打ち鳴らした。


「ここか」


 呼び鈴を鳴らした、そのほぼ同時に一人の男が部屋の中に入ってきた。

 しかし違和感が一つ。


 速すぎる。鈴を鳴らすと、ほぼ同時?


──あまりの対応の速さに、リィラは思わず振り返る。視線の端で呼んだ男も、驚きを顔にありありと表していて、リィラに少しだけ先んじてその表情を凍り付かせている。


 時間が遅い。呼び鈴を押した男の驚いた顔を見て、リィラはほぼ確信じみた予想を得た。

 そして。

 振り返って、見えたその顔が、予想に違わない事を、見た。


 ぞわり。と。

 鼓膜の裏から聞こえたのは、何かが裏返るような音。



「これはこれは、"獄卒……──!」

「邪魔だ」



 目を剥き、殺意を噴き出したリィラになど気付かず、椅子から立ち上がりリィラの前を横切ろうとした男の首が、体から独立してコロコロと転がった。

 笑顔で固まったまま、本棚の、下に。


 グロテスクな断面から、頸動脈を通ってマッカッカなナニカが床を汚し天井を濡らし、部屋中に血色の雨が降り注ぐ。



「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああッ!!!!!」



 吠えた。

 全身を首をもぎ取られた男の血で濡らしながら、リィラは吠えた。びりびりと壁が震え、床に広がった血溜まりに波が広がっていく。


 対して目の前の武僧は。

 まるで慎ましいクラシックでも聞いているように目を閉じて、血を受けても眉一つ動かさず、しかし口元だけは、卑しく、楽しげに釣り上げていた。


「──っ!」


 既に、剣は抜き放っている。

 剣を持った腕は右腕、左手も持っていって両手で剣を握りこむとギリギリギリと肘から伝って鼓膜までを揺らし頭の中でガンガンと。


 視界が赤く赤く。脳がトプトプと麻薬に浸かっていく。カチカチと鳴っていた顎をぎちりとかみ合わせ、もう一度、なぜか動き出さない足を動かすために、声を──。



「伝言だ、リリィ」



 びくり、とリィラが体を震わせた。

 三秒ほどかけて言葉の意味を理解して、そして同時に目の前の存在があの男ではない事に気づいた。


 顔も、格好も、背格好も、出来の悪い物真似のような出で立ち。こいつは、あれの取り巻きの一人だ。



「"腐りきってはいないようで、何よりだ"、と、仰っていたぞ」



 体から力が抜ける。あの男ではない。

 そう確信した瞬間、ぜっ、と限界まで堰き止められていた呼吸が口から溢れた。

 せき込み、体を苦の字に曲げると、がしゃんと剣を取り落とす音がした。何故か、手が、足が、ガタガタと震えている。



「"それで、いつ来る"」

「……黙れ、黙れぇッ!!」



 剣を握ろうとして、取りこぼす。ころんと剣は何かを否定するかのように手の届かないところまで。

 憎々しげにリィラは舌打ちを一つ。拾い直すことなどせず、女のように小さい手で拳を作り、ヒステリックな声を上げながら振りかぶる。



「……これは私自身の言葉だがな」

「がっ……ァ!」



 当然のように、男の拳が先にリィラの鳩尾に突き刺さった。古臭い机を叩き潰し、リィラは窓側の壁に受け身も取れず叩きつけられ、肺から空気が押し出された。

 一瞬だけ、意識が飛ぶ。


「それで本当にあの五人を殺したのか?」

「──ぁ」

「まあいい」


 ひょい、とリィラの体が片手で持ち上げられる。そのまま、何の躊躇いもなくリィラを持ち上げた腕は振りかぶられ、最後に男は言った。


「適当に、伝えておく」


 返事も待たず、男は腕を振った。

 軽いリィラの体は数メートルほどの宙を飛び、窓の外でその勢いがなくなった。

 びょうと耳に風切り。視界の向こうに雲と青。一切の間をおかず体に重力の鎖が絡みつく。。


「く……っ!」


 一瞬で、武僧の姿が上空に流れた。

 一層強い風の音が耳を打つ。背中越しに下を見て、その高さに、以前龍とともに上空から落下した事が脳裏に蘇る。


 "壁"の一番上の部屋だ。高さは五十メートルほど。このまま落下すればそれで死ぬ。


「──づゥッ!」



 腰から剣を二本抜き放ち、壁に突き立てる。あまり出来は良くない剣だ、三秒と持たず二本とも圧し折れた。

──あっという間に地面まで、あと十五メートル。



「──"斥離わかつ"!!」



 瞬間、リィラの魔法が、極端な威力で落下のエネルギーを殺した。その魔法は強すぎて、リィラの骨を軋ませ、筋肉を捻じれさせる。

 残り三メートル。


 しかし、そこでプツンと魔法が切れる。



「あ……」



 もう手はない。

 今度こそリィラは硬い地面に落下して、激突した。



 どん、と生々しい音が"壁"に続く階段の中心に響く。



「──っきゃああああああああああああ!!!」



 流石にこの町といえど、突然人が一人空から落ちてくれば、平然とはしていられない。

 きちんと一瞬場が凍り付いた後、悲鳴がそこら中で響き渡った。


 "壁"に続く階段と、その先の広場はパニックに陥り落下したリィラから逃げ出すように人の波が遠ざかっていく。


 悪魔だ、悪魔が降ってきやがった、とそんな事を言いながら逃げる男がいた。

 気が動転してリィラを罵倒しながら遠ざかる女がいた。

 他はまあ、脇目も振らずに逃げる者が大勢で。

当然、誰もその人間を助け起こそうとはしない。


 だからリィラは、一人で起き上がった。

 昨日の傷が開いて包帯に血がにじむ。がんがんとあまりの痛みに頭が騒音を中で反響させる。とめどなく流れる血は顎から滴り落ちた。



「──っく、くひひひひ、うふ、あははははははははははは」



 頭から血が抜けた。

 少し寒いほどの体の感覚が、妙にさめざめとした気分にさせる。



「そうかぁ……。道理で」



 クイーンの事は、あの男の差し金だったらしい。自分が未だ、抗う意思があるのか、こちらに剣を向けることができるのか。

 それを試されたのだ。そして、結果は。


──"腐りきってはいないようで、何よりだ"



「あっはははははははははははははははははははははは!!!!」



 馬鹿め。

 馬鹿め馬鹿め馬鹿め。まるで見当違いだ。


 五人を殺したのは自分ではない。

 戦ったのも、怒ったのも、駆け付けたのも。

 そして、あの子達を助けたのも、自分ではないというのに。



「ああ、じゃあ……」



 僕は、腐ったのか。


 周りには誰もいない。一人で実際に口に出すと、それは酷く説得力を持っていた。間違いなく、既に自分は腐っている。

 そうだ。ここはエルゼン。神の腐る街。ならば人間が、もしくは悪魔が腐っても不思議ではないのだ。


 ああでも。

 いやだから。

 あの人が来てくれたのだ。僕の代わりに、きっと、あの優しくて強い神様が、守ってくれる。馬鹿みたいに優しい人だから、きっとあの子達を投げ出す事などできないだろう。


 神様だったのだ。

 きっと息をするように容易くこの国を救って、悪を滅ぼしてくれるのだ。


 素晴らしい。なら、笑おう。



「……あーあ」



 笑うつもりで出した声は、ひどく乾いたよくわからない声になった。




   ◆




「で、どうする。今からサクッと頭を取りに行くか?」


 言うと、サヤは少し考えて、首を横に振った。


「止めておきましょう。この国の役人は臭すぎて使えないので丸ごと替えます。ならばすぐ動く手足と機構を用意していなければ空中分解が落ちでしょう」

「ならどうする?」

「あのルグルとか言う男。どうでしょう、あれを使うというのは」

 

 嬉々として悪だくみを続ける奇怪な二人組を、呆然とクイーンは眺めていた。

 書いている文字は普段この世界で使われている物ではないし、話している内容もまるで破天荒な物。

 実はまるで違う事を言っているのに、使っている言葉が違うせいでたまたまそう聞こえているのではないかと思ってしまう。


「互いの地力の差は明らかです。あのルグルは一息に頭を狙うはず」

「失敗させ、弱った所に手を貸して、利権を狙うと」

「はい」

「それ俺すごい嫌われない?」

「駄目なんですか?」

「やぁだよ!」


 やんややんやと、まるで緊張感はないが、言っている事は現実的だ。


(本気で……)


 国を取る。

 ルグルが国を盗ると言っていたのは、正直驚きはしなかった。

 反乱だとか革命だとか、そう言った動きはクイーンが覚えている間にも何度かあった。その度に鎮圧され、首謀者が衆目の元に殺されたのはまだ鮮明に覚えている。


 そんな中ルグルの動きは、圧倒的に巧妙だった。

 そもそも、ずっと"巣"ではルグルが一番の地位を占めていたのだ。いや、聞いた話では"巣"になる前からずっと。

 しかしひっそりと息を潜め、役人に媚を売り、敗れた人間達を集めて下に付けて、そして今。確かに、街の空気は少し違う。


 ようやく動き出したと、人は言う。

 他の人間に言っても首を傾げる程度だが、この町が長い人間は確かに感じ取っていた。

 まるで街に巣食っていた大きな何かがようやく目を覚まして身じろぎを始めたような、そんな気持ちにさえなった。


 しかし、敵もまた遥か怪物だ。

 この間の武僧の姿を思い出す。あれが、おそらくエルゼンの力の一部の、その中の更に指先ほど。ぶるり、と身震いする。


「まあ、そう仰るだろうと思っていました。では、腹案、と言うより折衷案が一つ」

「折衷案?」


 きっと、今の所この二人だけの勢力。

 しかしそれが街の中で動き始めた大きなうねりに、多大な影響を与える予感がある。いや、それどころか全てを呑みこんでしまうような何かなのかもしれない。


「主様は、神様と呼ばれているとか」

「……かっこ良いだろ」

「かっこ良いかかっこ悪いかと言ったら、かっこ笑いです」

「(笑)?」

「神様(笑)」

「この野郎!」


 いや、まあ。

 正直に言えば、見ただけでは暢気な談話にしか思えないので、自分の直感を疑うが。

 だってここは荒野の真ん中で風は吹き晒しで。円卓は土。策を書き連ねる紙は土。筆は木の棒だ。子供の悪戯の為の作戦会議でもなかろうに。


「お、おい……」

「ん?」


 思わず声をかけてしまったのは、それがあまりにテキトーだったからで理由はなかったのだが。

 不意におあつらえ向きの疑問が一つ頭に浮かぶ。いや、一度思い付けば、それはどんどん気になって、聞かないと気が済まなくなる。


「どうして、お前が。国を取るなどと、そんな事をするんだ……?」

「ん? ──まあ、国に恩を売って伝手と、あとはある程度の権力があれば俺の目的が達しやすくなるのが一つあるし、」


 ぽい、と木の枝を放り出すと、腰を伸ばしながら居候は立ち上がった。

 ごきりごきりと、首やら腰やらを鳴らして体のコリをほぐしながら、いきなりだ。居候の目が細められた、まるで憎き敵をその先に見るように。


「気に入らないんだよ」


 しん、とその言葉を最後に強い風でさえ、形を潜めて静寂を作っていた。ただ、サヤだけが呆れたように苦笑している。


(……き、気に入らないって、)


 クイーンは当然今の答えを理解してはいない。納得もだ。

 だから二の句を継ごうとして、しかし居候の無表情な顔に思わず言葉を詰まらせた合間に、


「気に入らない」


 居候がもう一度そう言った。

 特別強い口調でもなかったが、なんとなく聞き返すのを無言で制されている気がして、クイーンはその言葉を呑みこんで、口を開く。


「わ、私が……?」

「……いや、お前は途方もなくどーでもいい」

「途方もなく!?」

「途方もなく」

「この野郎!」


 取っ組み合いのけんかになろうとするが、いつかのように頭を掴まれ持ち上げられ、足でさえも届かない。せいぜい二の腕を殴りつけるが効いた様子もない。


「大人げないですよ」

「……何でかね。こいつらと居ると自然と」


 ゆっくりと地面に下ろされて、ごしごしと撫でられる。それで、何故か怒る気は失せた。


「さて、では先程の続きですが」

「折衷案?」

「はい」


 サヤは告げた。

 足元に書き連ねた文字に見向きもしないのは、それらと全く異なる作戦なのだろう。



「本当に神様になってみましょうか」



 そして事実、言い放たれた言葉はおおよそ荒唐無稽だった。




   ◆




 サヤの荒唐無稽な話を聞いて、帰って来た。

 玄関前に着地し太陽の位置を確認すると、昼前と言ったところか。

 と言うより、出ていってから数時間も経っていない。小脇に抱えたクイーンにも口止めはしてある。

 一応、あの荒れ地まで移動して話すほどには機密事項だ。


「は、話せば、根野菜しか食べられなくなるって言うのは本当なのか……?」

「いや、嘘」

「死ね! もう死ね本当にお前は!!」


 すい、と暴れ出したクイーンをお決まりのように攻撃圏外に持っていく。

 それをさっとサヤが横から掠め取った。


「おおよしよし。可哀想に」

「さ、サヤぁ……」


 ひし、とクイーンはサヤに縋りつく。

 いつの間にそれほど懐いたのかと思う。まあ多分サヤが食わない分の朝飯を分けた時だとは思うが。


「クイーンさん。今後は名前を付けてあれを警戒しましょうね。そうですね、技名は間合いを抜かす事とあの男の頭の中を掛けて"間抜け"にしましょうね。やる度に"間抜けが出たぞ"って言うんですよ?」

「……うん。言う」

「言うな! 吹き込むな! 楽しそうにするなっ!!」


 結託してしまった二人を警戒しながら玄関に向き直る。

 するとそこで、柱の陰から顔を出している見覚えのある少年を見つけた。気づかなかったので、驚いて思わず肩を揺らした。

 数秒見つめて、ジャックが逃げ出さなかったので、用があるのかと察してみる。


「……な、何やってんだ、ジャック」

「お、お前、お前に、伝言……」

「で、伝言? 誰から」

「……リィラ」

「うえぇ。えぁあええええ……」


 思わず言葉にならない言葉が口から飛び出た。

 リィラから。

 正直に言えば俺がクイーン達を助けに行った事はもうばれているのは明らかなので、正直に言えば会いたくはない。何を言われるか分かったものではないのだ。


「無断欠勤とはいい度胸だ、って」

「……えぇ?」


 思っていた物とは違った言葉に、ハルユキはしばし呆気に取られて、しかし少し考えて返事をする。


「嫌だよ行かねぇよ。どの面下げて行けるんだ。もう辞めるって言っといてくれ」


 クイーンを無理やり奪った事で、少なからずリィラの信用は悪くなっているはずだ。正直、顔を合わせるのは気まずい。


「……もしそう言ったら、"キャンキャン言わずにさっさと帰って来て下さいと伝えて下さい"、って」

「……嫌だよ」

「"なら違約金を払って下さいと、伝えて"と……」


 め、めちゃくちゃ読まれてやがる。とそんな思考が顔に出たのか、うふふと顔を輝かせながらサヤがこちらを覗き込む。何かを口走る前に一睨みすると、肩を竦めて一歩下がった。一言残して。


「何百世紀分年の離れた子供に、思考を読まれてますよ。間抜けですね」

「うるさい」


 行きたくなどないが、リィラの名が出た途端に黙ってしまったクイーンの事を考えると、行った方がいいか。

 それに、いきなり仕事を辞めるのもやはり無責任ではあるし、まかり間違えてこちらに押しかけられると色々と気まずい。


「……しょうがねぇか。少し行って来る。サヤ、頼んだぞ」

「お任せを、我が主」


 クイーンは未だ狙われる、と言うより、昨日の報復に合う可能性が依然高い。

 エースとビィトは二人いれば相当な戦力なので放っておいてもかまわないが、クイーンは俺かサヤが付いていなければ危険だ。


「お気を付けて」


 去り際に、サヤが言った。




  ◆




「お邪魔しまーす……」


 教会の柵を通って、そのまま前庭を横切り玄関の扉を押しあける。

 ここ数日で慣れ親しんだ感触だが、中はこの時間帯にしては静かで、心なしかうす暗くも見える。埃臭い匂いが鼻をついた。


 しかし、人がいない訳ではないようで、食堂へと続く廊下の所に、誰かがいて、見開いた目をこちらに向けていた。


「……神様!」

「シータ、どうした?」

「無事だったんですね……! "街"で騒ぎがあったって聞いてっ、クイーン達は……!」

「無事だよ、ピンピンしてる。リィラは?」

「あ、えっと、今……」

「やっと来ましたね」


 シータが今来た食堂への入口を振り返った瞬間、リィラがそこから姿を現した。


「では、お願いします」


 そのままリィラは聖堂の真ん中に突っ立ったハルユキに近づき、そしてそのまますれ違って扉に向かった。

 龍を相手にするのなら、あまりに軽装すぎる胸当てと小手、具足。服の隙間と、髪の間からは妙に真新しい白い包帯がちらちらと覗いている。


「おい」


 ハルユキが呼び止めると、リィラも止まってこちらを向いた。

 新調したらしい四本の剣がガシャリと鳴った。


「自分勝手で悪いとは思うが、俺は辞めに来たんだよ。ほら」


 一応用意しておいた辞表を渡した。クイーンに文字を教えてもらって書いてもらったものだが。

 リィラはそれを受け取ると、それを即座にぐしゃぐしゃと握りつぶして、びりびりに破いて、バラバラと地面に撒いて、そしてそれをぐりぐりと踏み躙った。

 こちらに何かを当てつけたいのか、ハルユキは僅かに目を細める。


「駄目です。どうしてもと言うなら違約金を」

「……しょうがねぇか。幾らだ」

「幾ら?」


 言っておいて考えていなかったのか、少し考えてリィラは言った。


「金貨100」

「……てめえはいい加減恥を知っとけよ」

「喧嘩ですか? やるなら買いますよ」


 そう言って、リィラはちゃきり、と剣から刀身をのぞかせる。瞬間、その柄を、リィラの体ごと思い切り蹴飛ばした。


「大体気にいらねぇんだよ、手前は……」


 勢い余って椅子の間に突っ込んだリィラの小さい体に背を向ける。瞬間、がつんと後頭部に何かが当たった。

 振り向けば、カランカランと音を立てて足元に落ちた剣の鞘と、床に血を吐きだすリィラがいた。その目が殺気立ってこちらを睨みつける。


「言い負かされた事が許せないんですか? 器が知れますね」

「ああ、そうだよ」

「あと言っときますが、貴方が僕を嫌うその十倍は──、」


 すらりと、リィラはさらにもう一本剣を抜く。


「僕は貴方が嫌いです」

「俺だってお前なんか嫌いだよクソガキが!」

「子供ですね」

「死ねっ!」


 飛び込み様に放った前蹴りを、リィラは首を捻ってギリギリで避ける。


「へえ、本当に腕が立つんだ……」


 ぱしんと剣の腹でハルユキを押し退け、リィラは距離をとる。


「ああ、ならやっぱり嫌いです」

「そうかよ──」


 リィラが剣を握り直して前傾に構え直し、ハルユキは無防備にゴキリと骨を鳴らす。

 じり、と両者の距離がわずかに縮まった。


「止めなさい!」


 その声が聞こえた途端、お互いが動こうとし、しかしその声が誰かを思い出して体を止めた。


「なんなんですか! 良い大人がバカみたいな事で喧嘩して!」


 怒鳴りながら歩いてきたシータが、ハルユキとリィラの間に入った。隙を見て接近しようとしていた二人が、舌打ちをする。


「今! 今、舌打ちしたでしょう!」

「してません」

「してません」


 必死に気を張って怒るシータをリィラは見つめると、ふ、と肩の力を抜いた。そそくさと剣を腰に戻す。


「神様」

「なんだよ」


 あからさまに不満を顔に出しているハルユキを見て、リィラは少しきょとんとした後、小さく笑った。


「お願いしますね。やり方は任せますので」

「嫌だよ」

「でも、エース達ももういないので、多分僕に恨みがある人間が襲って来ます」

「じゃあ、ここに居ろよ」

「それじゃあ、"四層"の人が龍に襲われてしまいますよ」

「……巫女ってのが、守ってるんだろ」


 そう言うと、ころころとリィラは笑った。

 反論するのも面倒だとばかりに何も言わず、ただ教会内に少し調子外れの笑い声が響く。


「……ああ、まあはい。ともかく、お願いしますね」

「ふざけるのも大概にしろよ、手前は……」

「ふざけてなんか。だって、」


 リィラは目を細める。それは笑っている顔にも見えてハルユキは言葉に詰まり、そのせいで次の言葉を理解するのが少し遅れた。


「この子達を守るのは、貴方の役目じゃないですか」

「──な……」

「リィラ!」


 少し遅れてリィラを呼ぶ声がハルユキの言葉に重なった。

 ばん、と扉がものすごい勢いで開いて、一人の子供が飛び出して来た。買い物籠を床に散らかし、転がり込む。


 真っ青な顔を上げたのは、エフリム。少し悪戯好きだが、責任感も芽生え始めた中頃の子供。


「アイとイースレイとエルトリアが! 妙な奴等に……!」

「何……!?」


 朝ルグルに言われた言葉が頭の中で繰り返された。

──"気を付けろ。狙われている"。少し遅れて、先日のクイーン達の血みどろの姿も脳裏をよぎった。


「お願いしますね」


 ハルユキがそんな事を考えているうちにすい、とリィラが扉を抜けた。止めようとして、止める。とてももう追う気にはならず、ただ去り際にその背中へ声をかける。


「……俺の都合に合わせるぞ。いいな」

「はい」

「後で文句言うなよ」

「はい」


 何のためらいもなくそう返事をしたリィラに舌打ちをしたくなる。そしてそのまま本当に躊躇いなくリィラは扉を出てどこかに消えた。


「馬鹿が……」


 追いかけられない事はない。

 しかし、ハルユキよりも強い失望の視線でリィラの背中を見送ったエフリムの視線が、ハルユキにふらふらと送られている。


「どこだ」

「あ、あっち……」

「抱えるぞ。シータ。何かあったらこれ鳴らせ」

「……はい」


 十歳のエフリムの体はまだ軽い。小脇に抱えて、リィラが消えた方とは九十度ほど違う方向を向いて、地を蹴った。




──五分後。同じように身体能力に任せて上空から降って戻ってきたハルユキをシータが小走りで出迎えた。


「遊具じゃないぞ、おい……!」


 屋根の上を飛び移るのが面白かったのか、先ほどの恐怖も忘れてキャッキャと騒ぐアイとエルトリアを見て、シータは分かり易いほどに胸を撫で下ろした。

 寄ってきて自慢をするアイとエルトリアをシータはそっと抱える。イースレイもじゃれ付きはしないものの、その体に近寄った。


「ただのチンピラだった。クイーンがいなくてリィラが怪我してるから、何か狙ったんだろうな」

「そう、ですか……」


 わあわあと楽しそうにまくしたてる二人に笑みを返しながら、しかしどうしてもシータのその顔には疲れや陰りがあった。

 エースとビィトが居なくなり、子供たちをまとめるのにも苦労が増えたのだろう。


「大丈夫ですよね、神様……」

「……何がだよ。人減って不安になってるだけだよ、お前」


 本当は、大丈夫ではない。

 チンピラではなかったのだ。いや、正確には考えなしのチンピラではなかった。

 少し脅すと、チンピラ達は誰かからこの教会の人間にちょっかいを出すように頼まれた事を話した。手紙でのやり取りで、顔は分からないらしい。


 クイーンを探しているのか、それとも助けた誰かを炙り出そうとしているのか。目的はまだ見えない。

 考え込んでいると、ふとシータがこちらを見て、疲れたように笑っている事に気づいた。ハルユキは難しい顔をしている事に気づき、眉間から力を抜いた。

 それを見て、笑みを何とか保ったまま、ぼそりとシータは言った。


「……分かってたんです。リィラは仕事なんだって」

「シータ……」

「でも、誰か危なくなれば、きっと、絶対、助けてくれるって、思ってたんです」


 リィラはクイーンが特例だといった。そもそも働き口を用意して教会から出す事さえ今まではなかったのだろう。今回の事の異質さは明らかだ。


「馬鹿みたいですね。勝手に期待してた事が違ってて、それだけで、びっくりするぐらい不安で」

「シータ──」

「エースとビィトも、もういなくてっ。私が頑張らなくちゃいけないのに、リィラが少しいなくなるだけで怖くて……!」

「シータ」


 強い語調でシータの言葉を強引に止めると、シータは肩を跳ねさせて口をつぐみ、絞り出すように謝った。

 既にシータに笑みはない。唇を強く噛んで俯くシータに、さすがのちび共もそれを感じ取ったのか、たどたどしい言葉でシータをあやした。


「悪いが俺にもやる事が出来た。請け負った仕事を投げ出すのは情けないが、この教会に帰ってくるつもりはない」

「……はい、分かっています」

「だから俺の家に来い、中にいれば守ってやるし、帰りたければ帰ればいい。好きにしろ」


 呆気にとられてこちらを見上げるシータから顔を逸らした。思わず舌打ちを打ちたくなるが我慢する。

 すると何がおかしいのか、今度はくすくすと笑いだした。


「神様は、素敵な人ですよ」

「……うるさい」


 力なく笑うシータに安心したのは周りのちび共で、じわりと笑顔が伝染する。


「イースレイ、皆を。聖堂に集めてくれる?」

「……分かった」


 言うと少し離れた場所からシータを見ていたイースレイが教会へ走っていき、シータもそれを追うように立ち上がった。


「少し、皆と話してきます」

「待ってればいいんだな」

「はい、ありがとう。神様」


 そのまま両脇のアイとエルトリアと手を繋いで、シータは教会の中に消えた。

 五分待って、十分が経った。


 それぐらいの時間では陽は少しも傾かない。今は昼ごろだが、春先のような気温のせいで肌にたまった熱気を冷えた風が浚っていく。

 そんな風が届くのはこの教会が、他の建物と離れた位置にあるからで、町の波にのまれない穏やかな場所だからだ。

 たぶん、この町では随一で、唯一と言っていいほどに。


 がちゃりと、教会の扉が開いた。

 皆が皆、少しだけ荷物を持って、一塊に。近づくと一歩だけシータが前に出た。


「行きましょう」

「いいのか」

「はい、この子達を守るのが私の役目です」


 その目に少し圧されて、そうか、と遅れながらに呟いた。

 やはり一塊にぞろぞろと教会の敷地を出る。振り返る人間はいなかった。


    ◆




 午前二時。


 ずるずると、女にしては大きく男にしては小さい人影が、教会の鉄の柵を潜って中に入った。

 十三時間ぶりに帰ってきた自分の家を見上げて、ふと疑問がよぎる。


 光がない。

 気配もない。


 はて、どうかしたのかと体を不規則なリズムで引きずりながらリィラは教会に入った。

 ぎぃ、と古びた木の扉の音が嫌に響いた。


「シータ?」


 その声も、まるで部屋の中を探し回ってきたかのようにぐるっと大きく部屋に響いた。

 誰もいないようだ。


 ずる、とリィラは教会の奥に進んだ。

 女性の像の前。確か許容と包容を司った神だとか。名前は知らない。

 その膝元に倒れこむように座り込むと、まるでそれがわかっていたかのように、救急箱と置手紙があった。


 しばし迷って、まずは置手紙に手を伸ばす。シータの字だ。


 自分の力がたらない事。しばらく教会を空ける事。子供達も一緒に神様のところにお世話になる事が、書いてあった。


「なんだ、行っちゃったのか……」


 いないのか。

 そうか、そういえば神様がそんな事を言っていたような。

 まあ、無理を言ったので多少は仕方ないかもしれないが、いきなりやめると言うのも困るのに。


「あはは」


 いや、違うか。

 彼は僕が嫌いで辞めようとしたのだ。嫌いな奴の事を慮る必要がどこにある。


「うふふふふふふふふふ」


 くつくつと、特別楽しくも嬉しくもないのに次から次に漏れてくる。ああ、ああ、ああ、ああ。今浮かんでいる感情の一つでも言葉にすれば、自分はどうなるのだろう。

 くぅ、と腹の虫が鳴った。


「お腹、空いた……」


 ふと、救急箱の裏の影に隠れるように何か皿が置いてあった。

 パンと、ベーコンと慎ましい蒸した根野菜のサラダと冷スープ。実は少しだけ好みの、慣れた献立だった。


 かぶりつく。味はしない。




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