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ハイイロ ノ カナタ  作者: mild
第二部
194/281

響く音は




 その竜は、最後の務めを言葉として託した後。その場に蹲って命を終えた。

 羽をたたみ、体を伏せて、目を瞑り。そしてその首は小さい膝の上に乗って最期を終えていた。


「ごめんなさい」


 その膝の主──単調な服を一枚身に纏っただけの少女はそう呟きながら、目の前にある血に濡れた蒼いたてがみを、優しく梳くように撫でた。

 眠る竜の顔は安らかで、今にも寝息が聞こえてきそうだ。まるで、母親の膝の上で眠っているかのように、静かに安らかに。


「ごめんなさい」


 少女はもう一度、小さく呟いた。

 少女にはどうしようもなかった。彼の命を捨てる事になった命令に抵抗する術もなかったし、抵抗する意思さえも持たせてもらえない。

 そして何より、少女は今まで自分より強い物に抗うという経験がなく方法も知らなかった、と言うのも大きな要因の一つ。


 少女本人すらも、その事は自覚出来ていてただ途方に暮れる。

 分からない。声一つ、指先一つ、いや思考一つで縛られてしまうこの身に一体何の価値があるだろうか。事実、今少女は本来の姿に戻る事さえも許されていないのだ。


「でも、」


 許された行動の中に、一つだけ。

 少女の意向と自分を支配している者と利害が一致しているものがあった。そして、その為に"軍"を動かす事も出来る。


「待っていて、今は無理だけど」


 人間を、殺しに行こう。この子を殺した誰かを殺しに行こう。

 もしかすれば、この思考も支配された物にすぎないのかもしれないが、それでも。人は嫌いではない。でも、しかし。


「直ぐに行く」


 少女の声は、凛然と少女が必要とする存在の全てに届いた。

 歩く度に光を反射するその髪の穢れの無さは、そしてまた、彼女から発する全ての熱も情熱も鼓動も凍りつかせてしまうような佇まいは。

 視界いっぱいに広がる雪景色を幻視させる。


 夜は更けている。

 浮き上がる白銀のその姿は、触れられざる禁忌の一つ。





   ◆





「くそっ、あの禿げ共め!」


 "街"でおそらく一番の地位と金を持つと思われる男──イーガル=マルスは男が出て行ってきっちり一分後に悪態を吐いた。


 もう夜も遅い。暑い風呂に入って、少しばかりの趣味の時間にいきなり男の部下はやって来た。


 あの男がエルゼンを掌握してからと言うもの、たまたまその事変の際に縁があった以来、常々こう言った役割を押しつけられる。それも今回のようにいきなりだ。

 その代わりのこの生活なのだが、しかし不満は吐き出しておかないと溜まってしまう。

 それに、今の治世はイーガルにとって非常に居心地が良いと言うのもまた事実だった。


「おい」


 イーガルは人集めが趣味だった。

 いや、それは"蒐集"と言った方が正しいし、趣味というよりは生き甲斐だった。


 声をかけ、振り向いた少年をイーガルは打ち据えた。

 少年は苦悶の声を漏らし、地面に倒れるがそれ以上の事はない。もう既に顔に痣は三つ。四つ目は軽い方だった。

 今リーガルがいる部屋は執務室だったが、その背後にはほとんど衣服も身につけていない少年少女が直立している。


 無表情の彼等を眺めて、そしてやっとイーガルは満足気に笑った。


 そう、思えば、これが。この趣味が。この生き甲斐が。自分の今の状況を作ったのだ。

 ひた隠しに、それでもこそこそと行っていた"趣味"をあの男に見つけられたのが全ての根源。


『すばらしい、この変態め』


 言葉が特別な訳ではなかった。

 しかし、肯定された自分は魅入られた。心臓を優しく握られたような気分だった。三段ほど贅肉で重なった顎を撫でながら、その時の思いを愛でる。


 しかし。しかしだ。ここに来て"巣"の小汚い子供を預かれと来た。

 分かっていない。分かっていない。誰でもいいなどとそんな事はないのだ。出来れば高位の、そして誇り高く、将来有望ならば言う事はない。

 それなのに。ああ、それなのに。

 失望だ。幻滅だ。失墜だ。


「連れてこい! 貴様等も部屋に戻ってろ!」


 しゃがみ込んだままの少年の腹を蹴り上げる。そのまま一列に並んでいた少年少女達に思い思いの暴力を奮って、その感情を押し殺した表情を楽しむ。

 これは確かここの所成長してきた家の長男だったか。この歳でまさか男への奉仕の仕方を覚えてしまえばもう取り返しは付かない。


 よし。

 こいつの処理をしよう。丁度一人増えるのだ。

 厄介事を抱える自分に、褒美の一つがあってもいい。

 無表情で走っていく少年の後姿を見て、また、数日後に滑稽な肉の塊になっている所を想像して、イーガルは分厚い唇を醜く捻じ曲げた。


──しかし。


 少年に連れられて入って来た少女を見て、イーガルの頭の中から少年への興味が消えた。


「……っ」


 訂正。

 我が王は、やはり分かっている。


 "巣"出身だからと、小汚いボロを纏った子供を想像していたのが逆に良かったのか。

 小さな体は綺麗にドレスアップされ、香油を振った髪は年相応以上に柔らかそうでここからでも手が伸びそうになる。


「な、」言おうとして、その前につばを一度飲み込む。「名前は?」

「……クイーン」


 性格、反抗的。不悪わるくない。気が強そうな吊り目が好印象。

 容姿。この上ない。沼の中から拳大の宝石を拾い上げたような高揚感を感じる。


「"巣"、」もう一度。乾いた口腔内を唾で潤す。「──いや、"下町"ではどんな暮らしを?」


 びり、と少女の顔に怒りに似た緊張感が走った。"巣"と言った事にではない。おそらくそれは気を使われた事に対する不満。

 "巣"が"街"に劣っていると、誰でも知っているその事実も受け入れないのだろう。


「さぞ、良い所で育ったのだろうね」


 少女の眉が揺れる。本心からの言葉だったので、本意を図り損ねているのだろう。

 聡明だ。それに誇り高い。


「私は、」少女は言う。力強く、こちらを見据える。「最高の場所にいました」

「だろうな!」


 その大声に、びくりと少女の肩が揺れた。

 これ程年齢が少ない人間は珍しいが、ああなるほど。この無垢で崇高な人生を悪意の波で呑み込んでやりたい。


 舌なめずりを我慢して、質問を続ける。


「それで、得意な事は何かあるかな?」

「あっ」


 ふと、クイーンが子供の表情に戻った。興ざめする、寸前。しかし未だ自分が知らぬ快楽があると知ったばかり。

 話を聞く。


「私はっ、魔法が得意で!」

「ほおっ」


 ここぞとばかりに食い付いた。餌を撒いたつもりはなかったが、知る事は大事だ。

 クイーンは慌ただしく袖を捲って、二の腕を露出させる。白く、少しだけ荒れた肌。むしろ良。"癒"、という文字もそこにあった。


「治療に特化した力で、病気の患者も治せます! ……全部では、ないですが」

「そうかぁ……」

「だからっ、もし、あの。これを活かせる機会があれば……!」

「そうか……」


 ならばならばならばならば。

 ──もういいだろう。


「では、まずはそれからな」

「……それから?」


 机の傍らに立てかけてあったそれを持つと、かちゃん、と音がした。

 冷たい鉄の棒。これだけでは少年の頬を打ち据える程しか意味はない。だから、その先を暖炉の中に埋めた。


「"×印"を知っているか?」


 少女は答えない。視線をやると困惑している。知らないらしい。

 知るはずもないだろう。条約のせいで奴隷は封じられている。まあ見えぬ所ではむしろ増えているのだが。


 ただそうなると、皆一様に与えられる魔法の文字が邪魔になる。魔装具を奪えばいいとは言うが、それでは不十分。制御できないだけで魔法は使える。

 だから、この×印を"文字"に押し付ける。一切の抵抗を封じた豚に成り下げるために。


 全く誰だ、こんな悪意の塊のようなシステムを作ったのは。

 少女に背中を向けたイーガルの口元はもう、隠すつもりもなく欲望に歪んでいる。


「なあ、クイーン」

「……っ!?」


 振り返った途端、クイーンは息を呑んだ。同時、背後から少年がクイーンを羽交い絞めにする。


「何から奪って欲しい?」


 クイーンの口が大きく開く。悲鳴だろう。察した少年が素早く口を塞ぐ。


「無駄だ。叫び声ぐらいじゃ、外には聞こえん」


 歩み寄る。

 クイーンは足をばたつかせるが、所詮は五歳の女の子。逃げ出す事も出来はしない。


「全てもがれて奪われたら、君は何になるのかな?」


 口を塞いだ分、一つ空いたクイーンの手が動いた。

 口を塞いだ手を離そうとしていたその手が、ポケットの中に入れられる。




   ◆




 かちん。





 かちん。かちん。かちん。



 かちんかちんかちん          かちんかちんかちんかちん



    かちんかちんかちん



           かちんかちんかちんかちん

           


 かちんかちんかちんかちんかちんかちんかちん



           かちんかちんかちんかちんかちんかちんかちん


かちんかちんかちんかちん


        かちんかちんかちん

                              かちんかちんかちんかちんかちんかちんかちん


かちんかちんかちんかちんかちんかちんかちんかちんかちんかちんかちんかちんかちんかちん


  かちんかちんかちんかちんかちんかちんかちん

かちんかちんかちんかちんかちんかちんかちん

                        かちんかちんかちんかちんかちんかちんかちん

   かちんかちんかちんかちんかちんかちんかちん

          かちんかちんかちんかちんかちんかちんかちん


かちんかちんかちんかちんかちんかちんかちんかちんかちんかちんかちんかちんかちんかちんかちんかちんかちんかちんかちんかちんかちんかちんかちんかちんかちんかちんかちんかちんかちんかちんかちんかちんかちんかちんかちんかちんかちんかちんかちんかちんかちんかちんかちんかちんかちんかちんかちんかちんかちんかちんかちんかちんかちんかちんかちんかちんかちんかちんかちんかちんかちんかちんかちんかちん



かちん


 急げや急げ。

 あと、三十と七分。



   ◆



 既にクイーン達三人がここを出た事を伝えると、他の14人は手に持った荷物を取り落として表情を固まらせた。

 一番最初に泣き出したのは意外にもシータで、きっと教会に帰って来るまでに何とか他の子供を励ましていたのだろう。

 取り落とした荷物の中には18人分のちょっとしたご馳走が入っていた。ハルユキが初日に食べた油っぽいベーコンもその中に。


「……」


 結局夕食はなかった。

 リィラはいつも通りの警邏に行っていて、置き手紙には次の週から新たに三人の人間が増える事が書いてあり、それも子供の落ち込み具合に拍車をかけたのかもしれない。


 そうして子供達は少し早目の眠りに就き、ハルユキはなぜか腹が減らない代わりに眠気も来ない気分を抱えながら、誰もいなくなった教会の椅子に座っていた。

 別に雰囲気に合わせて冷たい空気が流れている訳でもなく、少々暑いぐらいの生温さが鬱陶しい。


 不意に、がちゃりと音が鳴る。

 クラシックの中でギターソロが始まったかのような場違いな音に聞こえた。


「あれ」

「よう」


 あの騒ぎから半日。

 リィラの声を聞いても、冷めてしまった感情は再び熱を持たなかった。リィラは扉から歩いてハルユキの背後に立つと、口を開いた。


「起きてたんですか」

「腹減って眠れん」

「お金は?」

「ねぇよ」

「じゃあこれ。どうぞ。もらい物ですが」


 ぽん、と肩の上からパンを差し出された。パンは何やら見ただけで湿気ている事が判ったので、うへえ、と声に出す。


「手当てするので、手伝ってください」

「……相変わらず厚かましいな」


 言いながら手渡されたタオルと包帯を見て、さっさとパンを口に放り込む。


「自分でやれ、クソガキが」

「あれ」


 まるで断られるのが意外だったとばかりにリィラはそう言った。それを不審に思い、振り向く。


「──お前」

「今日は一匹だったんですけれど。強かったので。これからは無理は控えないと」


 やはり、数が飛躍的に多くなってきていますから、とリィラは続けたが、呆気に取られたハルユキは言葉を返せなかった。

 あれ、とやはり場違いな声を出してリィラの体は地面に沈んだ。


「馬鹿が……」


 沈んだリィラはどくどくと出血し、教会の床に血溜まりを作っていくが、ハルユキがそう言うと、ふふふと楽しそうな声が聞こえた。

 何だか水たまりで遊んでいる子供に見えて、肩から力が抜ける。


「……軽すぎるぞ、お前」


 首根っこを捕まえて引き上げると驚くほどその体は軽かった。

 大きく黒目がちな目。短い癖毛の髪。細い顎と首。白すぎる肌の色。血塗れな顔は更に男女の判別が難しくなっていて、本当に服の下がどうなっているのか分からない。


 じっとのその体を見渡すハルユキの視線をどう受け取ったのか、リィラは首をかしげて言う。


「脱がせたいんですか?」

「結構だ」


 そのまま椅子に転がし包帯を体の上に投げて、そのひとつ前の椅子にハルユキはどしりと腰を下ろした。


「まだ、居てくれてるとは思いませんでした」


 遠慮を知らないストレートなリィラの言葉。

 返事はしなかったので、びりびりと服を破きながら包帯を巻いていく音だけが続いた。


「……昼の事は悪かった」


 しばらくしてそう言ったが、先程の意趣返しなのか言葉は返ってこない。違った。単に寝ていただけだった。


「お前の方が正しいんだろうし、それに。俺にはもともと関係がない話だ」


 寝たふりに。寝たと見せかけている事も気付いてないふり。


「だからお前が正しい事をしたいのなら、良いんだろ」


 そう言って、きっとこちらには聞こえないように呟いた、そうですね、という言葉をハルユキの耳は拾っていたが。

 やはり、ハルユキは聞こえないふりをした。




   ◆



「あー……、疲れた」

「良くもったな、ここまで」

「君がやれって言ったんだろ……」


 綺麗に敷きつめられた石畳の上に着地して、一人は手を腰に辺りを見渡し、もう一人は着地の勢いのまま石畳の上に寝そべってその涼しさをしばし味わう。

 そこにはゴミ一つ落ちて落ちておらず、きれいに並べられた区画はまるで方眼紙のようだ。


「人間浮かべるのって疲れるんだよね」

「帰りは飛んでくか?」

「爆発しろっての? やだよ」


 辺りを見渡していた青年が、目的の場所にめどを付けた頃、ようようともう一人は立ちあがった。

 しとり、と夜は更けていて、ここは"巣"より少し夜は早いようだ。窓の中から温かいオレンジ色の明りが漏れているにもかかわらず、出歩いている人間は一人もいない。

 慣れてしまえば普通なのかもしれないが、慣れる事になぜか嫌悪感を覚えた。


「戒厳令の、密告制か。本当に趣味が悪い」

「手間が省けて良いだろ」


 こんな状況でさばさばと言ってのける相棒に少年は笑った。

 "巣"と比べて、"街"は暮らしが良い。

 確かに間違ってはいない。余程の事がない限り食いっぱぐれる事などないし、屋根と壁がある場所に寝泊まりできる。


 でも、ここに住みたいとは思わないな、と青年は思い、興味を無くして町並みから視線をそらした。


「行くぞ」

「ああ」


 それでも出来るだけ目立たないように、ゆっくりと踏みしめるように前へ出る。

 目的地は、少しだけ漏れてくる明りが強く、そして何やら背伸びをするように僅かだけ背も高い。

 そんな屋敷を見つけた。


「こちら側からの壁は初めて見たかな」

「ああ」


 その屋敷は"街"から"月"に寄り添うに様に、──いや。足元に縋りつくように建っている。

 エルゼンは台地で出来ている。

 "巣"と"街"は崖で、"街"と"月"の間は台地で遮られていて、大きな棚田のようだ、と誰かが言っていたのを覚えている。

 まあ、台地は緩やかで、高さも崖の半分もないのだが、それでも行き来する人の数は崖の十分の一以下だそうだ、とも言っていた。


 ああ、全くその通り。

 薄らと見えるその道は、横に広く縦に長く。先が闇に呑まれているのは夜のせいだろうがこの怖気は勘違いではなく、きっとあの奥には化物が住んでいる。


「……おい、どういう事だ」


 突然、先行していたもう一人の青年が立ち止まり、危うくその背中にぶつかりそうになる。

 目的の建物まではあと少し。まだ見張りか家の人間に見つかるにしても早すぎる。


「……どうしたの?」


 背中と首の間の辺りに、緊張から力が入る。

 しかし、言葉と同時に一瞥した青年の顔があまりに気が抜けていたので、その緊張感もやり場を無くして霧散した。


「見せて」

「あれだ」


 指を差された方向を見て、青年は表情を変えた。

 くしくも、隣のもう一人と同じように。呆れ半分。驚き四分。可笑しさ一分。


「ちっ、助けるぞ」

「左はよろしく」


 その動きに淀みはなかった。

 滞りも、迷いも。その動きを阻害するものは何もない。


 一人は激流のように真っ直ぐと力強く、一人は風に舞う木の葉のように自然に軽やかに。

 "とある少年"を連行していた兵士を二人を強襲した。


 片方の兵士は首の裏を、もう一人は鳩尾の奥の奥まで衝撃を叩き込まれて悲鳴を上げる暇もなく地面に沈む。


「何だ、結構弱いね」

「平和ボケしてんだろ」

「ま、こんな程度なら何とかなるか」


 昏倒する二人の兵士を見て、二人は頷き合う。なにかしら誤算はあるだろうとは思っていたが、今回はそれが有利に働くらしい。

 そしてまた、二人で示し合わせたように、連行されている少年に目をやった。


「さてジャァックゥ……? 何やってんだ、手前はぁァ……!」

「怒らないでよ? うるさいから」


 突然の事で目を白黒させていた少年──ジャックは、呆気に取られて二人の顔を見渡しようやく口を開いた。


「え、エース、ビィト……?」

「だから何やってんだよ、お前は? あ?」

「ビィトこそ何やってんのさ! 何で、こんな所に……!」


 声を荒げるジャックを制しながら、青年──、ビィトは怒りを収め面倒そうに溜息を付いた。


「まあ、お前とと一緒だろ、多分」

「あの世間知らずを、まだ一人には出来ないよねぇ」

「……っ!」


 ジャックは人一倍臆病で、人見知りだ。

 しかし、その分正義感と勇敢さが人一倍だと言う事も、あの教会の人間なら誰でも知っている事だ。


「まあ。後はいいから、帰れ」

「四人で帰るよ。まあ僕達は国外まで逃げる事になるかもしれないけど」

「っ……」


 それを聞いて大きく目を見開いた後、ジャックは俯いて、ぼすん、と二人にしがみついた。ジャックの頭は、二人のへその辺りまでしかない。


「みんな、クイーンを見捨てるんじゃないかって……! だから、俺……」

「分かってるから鼻水付けんな。引っ叩くぞ」

「うん、ごべんなざい……」


 ジャックは一番最後に入って来た人間だった。二年前で、比較的長い間顔ぶれが変わらなかった為、我慢も出来なかったのだろう。


「いやはや、年長者は辛いね」

「そうか?」


 ぐっと、エースが肩を捻ってストレッチを始めれば、ビィトも膝を進展して体を解す。


「じゃ、行きますか」

「作戦は?」

「正面からは面倒だね。まあ国外逃亡も視野に入れるなら見つからないよう慎重に──……」


 瞬間。

 その音が鳴り響いた。虫の声を無理矢理人間が作り出したような、不愉快で甲高い音。


「これ、確か"防犯ブザー"……?」


 ジャックが親切にその音の正体を説明する。当然知っている二人は、静かに殺意を込めて目を細めた。


「……正面、突っ込むよ」

「了解」


 塀を越え、兵を打倒し。

 またしても、迷いなく、淀みなく。二人は敵陣に躍り出る。





    ◆





「ん……?」


 リィラが静かに部屋に戻り、ようやくの眠りに就いていたハルユキは何か耳障りな音を捉えて起き上った。

 それは、紛れもなくハルユキ自身が渡した防犯ブザーの音であり、起きていたなら直ぐに気付いたし、またこのまま十秒程思考を巡らせれば行き着く答えだった。


 しかし。


──かちん。

 別の音が、ハルユキの鼓膜を叩きその思索を邪魔した。


「あ──……」


 知っている。知っている音だった。


 顔が歪みそうになるのを抑えるために奥歯を噛みしめることが必要で、その代わり言葉は出てこない。

 いや、もしかしたら、口にした途端夢から覚めるのが怖かったのかもしれない。


 かちん。

 まるで果てしない歩みの最後の一つを踏みしめるかのように、ゆっくりと、一拍置いてまた聞こえた。


『自己修復を完了しました』


 それは、少しだけ離れた場所に置いた、一振りの剣。否。ハルユキが見つめているのは、それを受け入れている黒塗りの"鞘"の方。


 そして、それはひとりでに動き出す。

 あの"キチガイ兄貴"とその頭の中など宇宙と等しい程難解なので、原理だとかそう言う事は元々知らないし、質量保存だとかそんな法則もよくは分からない。

 だからただ、あの男は一部の人間から『魔法使い』などと呼ばれていたな、と。


 そんな事を、等身大の人の形になっていく鞘を見ながら思い出していた。


「── 一億と、二千八百六万九百三年ぶりです。主様」


 1280609003年。

 正確に数えれば、それ程の時間が経っていたらしい。

 自分が人工の物だと誇るかのように人間離れした白銀の、肩まで伸びた短めの髪。そして本人曰く、変わらぬ愛の結晶だと言う落ち着いた色の給仕服を着込んで、そいつは恭しく一礼した。


「私を覚えていますか?」

「……サヤ」

「はい」


 名前を呼ぶと嬉しそうに笑顔を作って、そして──。


「どこぞの単細胞が付けた短絡的な名前を覚えていらっしゃいましたか。出来ればこれを機に改名をと思っておりましたが」

「……変わってねえな、畜生め」


 笑顔のまま吐き出した毒は、しかし怒っている訳ではない。表情の通りの感情で間違ってはないはずだ。


「いきなり、毒を吐くってのはどうなんだ?」

「これは私の抑えきれぬ愛ゆえだと。そちらは、忘れてしまいましたか?」

「思い出したくなかったよ」


 気付けば、食いしばった歯は緩んで自然に言葉が出てきていた。むしろとめどなく出てきそうになる言葉を抑える。今の自分は、あまりよろしくない。何が出てくるかが分からなかった。


「相変わらず、童貞のようにへこたれた顔ですね」

「……そんなもんはどこかの鉄屑に無理矢理奪われた気がするが」

「へえ、酷い人がいるものです」


 一歩。ヒールの踵が教会の木の床を叩いて、近付いた。

 途端、自分の中のでジワリと何かが染み出すのがハルユキには分かった。また、歯を食いしばる。

 近付いたその姿は、より克明に。しかし、何故だかそれが幻にも思えて、触れたら溶けて消えそうだと、そう思う。


 瞬間、頬に手が添えられた。


「触れられますね」

「……ああ、そうだな」


 まるで心を読まれたかのように放たれた言葉は、そう珍しい言葉ではなかったし、だから、驚くべきでもなかった。

 少し迷った挙句、当たり障りのない返事を返す。

 しかし残念ながら、返した言葉はいつも通りではなく、少し痛い視線をこめかみの辺りに感じた。目はあっていない。


「どうか、しましたか? 元気がありませんよ。この私と久しぶりに会ったと言うのにもっと喜ぶべきでしょう。ほら何時ものように裸で私の靴に頬を擦りつけながら甘えていいですよ」

「そんな素っ頓狂な甘え方をした覚えはない。いやそもそもお前に甘えるような愚かな真似をした覚えもない!」


 認めたくはないが、こんなやり取りに懐かしさを感じた。

 "いつも通り"ハルユキが声を荒げたのが嬉しかったのか、サヤは微笑む。しかしハルユキは、その手にゆっくりと自分の手を重ねて、頬から引き剥がした。

 む、と目の前の表情が曇る。するりと掴んでいた手は抜け、今度は外から手を掴み直される。


「……何やってんだ」

「触れないでください。イカ臭いです」

「じゃあ離せよ!?」

「私から触れる分には、構わないのです」

「な、なんだそりゃ……」


 ふふふ、と楽しげにサヤは笑う。一番楽しそうな顔が毒を吐いている時の顔だとこいつは自分で知っているのか。


「……私の両の手は、貴方に触れる為に、有るのですから」


 少しだけ。言葉の間に少しだけ沈黙があった。そして、その沈黙すらも懐かしんで、サヤは続ける。


「私の両の足は、貴方の隣に立つ為に。私の両の目は、貴方の姿を見守る為に。私の耳は貴方の声を聞く為に。私の体は、貴方に体温を伝える為に。私の腕は、胸は。貴方を、抱きしめる為に」


 驚いてハルユキは瞠目し、サヤの顔を見た。

 手が小さく震えている。しかし、思えばそれはもうどちらの手が震えているのか分からない。ただサヤは詠み上げる。初めて出会った時の、何の効果もない。しかし特別な祝詞をゆっくりと噛みしめるように。


「私の、この造り物の命は。貴方を一人にしない。ただ、それだけの為に」


 そして、笑ったままのサヤの目の淵からぼろりと零れ出た物に、ハルユキは驚いて目を見張る。初めて、見る物だった。


「本当に、お会いしとう御座いました。主様」


 それを隠すように、もう一度。スカートの裾を持ち上げ、サヤは恭しく一礼した。



     

    ◆ 


   


 決死の思いで使用したブザーを踏み潰されて、クイーンは虫が鳴くような声を上げた。


「なんだこれは……?」


 クイーンから取り上げて踏みつぶしたそれを見て、イーガルは思わず首をひねっていた。

 笛、鐘、鈴。この大きさで音を鳴らす物と言えばそれぐらいの物だが、これは明らかに違う。


 踏み潰した物を持ち上げてみるとひどく軽く、中には細かな鉄の破片が散りばめられている。

 これがあれだけの爆音とすら言える規模の音を吐き出せる事に疑問は憶えたが、それだけ。


 "巣"には妙な物があるな、と一考しただけでイーガルはそれを放り捨てた。


「気にはなるが、まあ。直に聞いてない事まで喋るようになる」


 そして結局は何も話さなくなり、話せなくなるまで。

 イーガルは欲望に浸っていた。今重要なのはその感触を興奮を感じる事で、それ以外はすべて些事だと勘違いをしている。


「さて」


 思わず取り落とした鉄の焼印を拾い上げる。未だ赤熱している"×印"は少しばかり血と脂で汚れていた。

 北側を向いた大きな窓は、月を写していて。何事もなく睥睨している様は、ああこれは罪でもなんでもない、許された行為なのだと。


 そう、イーガルにも、クイーンにも感じさせた。


「いいか、自覚しろ。今でなくてもいい」


 イーガルは言う。下卑た笑みを浮かべたまま。


「君は美しい。君は強い。君は誇り高く、優しい。それはすべて事実で、それは私が食らうために育った肉なのだ」

「ぃ、を……!」

「否定するか? そうだな、君にとってはそうだろう。だが事実なのだ。どうか考えてみてほしい」


 自分なりの儀式なのかなんなのか、イーガルは一人酔った言葉を並べ続ける。

 一層に醜い形をした口元が、ますますおぞましい物に変わる。


「全て奪われた後で、君は何の為にそこまで自分を作ってきたのか、教えてくれ……!」

「……っ」


 口を押さえた手にまずます力がこもる。

 クイーンはもがいた。

 あの"×印"の正体など知る由もなかったが、口を顎ごと潰そうかと言うほど力が入った少年が、命令に従っているのではなく恐怖で強張っているせいだと分かっていたからだ。

 言葉も通じない。それは本当に冷たく硬い拘束具のよう。


「う、……いぅう……!!」


 少年の体と接触している部分から滲みだすように、恐怖が焦りがクイーンを侵食していく。

 少年に爪を立てても、硬い骨の感触が伝わるだけ。

 言葉で止めようとしても、口は万力のような手に押し潰されている。


──神様なんていない。

 ああ、こんな言葉を思い出したのは、いつ以来だろうか。

 でも、ひょんな事から家が出来て、同じような境遇の人間と知り合って、自分の中にも才能を見つけて。そんな言葉は忘れていた。


「ぁ、……、め…………!!」


 やめてくれ。

 もう、奪うのは止めてくれ。そんな戯れに、悪意に。全てを奪わせないでくれ。

 リィラは助けてくれないし。エースはもう手を握ってはくれないし。あの教会はもう夜の闇から自分を守ってはくれない。


 こんな簡単に失うのならば、それは。誰かに壊される為に、手に入れたみたいじゃないか。


「──ぃぅぅぅぅぅううううううううう!!!」

「……ちっ」


 目の前の脂ぎった顔が不快そうに歪んだ。

 それを認識した瞬間、左の顔面に大きな衝撃が襲って視界が白く染まった。


「あ、あ……?」


 悲鳴が上がった。もしかして自分が上げているのかとクイーンは思ったが、違う。

 少年がクイーンの口から手を離し、不自然に折り曲がった手を見つめて唸っていた。


「あ……っぇ……!」


 しかし、クイーンを抱えた腕はますます強張ってクイーンの体を締め付けるだけで逃がしてはくれない。

 痛みでタガが外れたのか、クイーンの未成熟な体をギリギリと締め付けて、クイーンの意識を奪っていく。



「クソガキが。豚が食われる事に抵抗を覚えてどうするのだ。──おい! 立て!」



──だから。

 最後にたまたま見上げた月に重なっている影が、待ち望んでいたものだと、すぐに気付けなかった。


「ぇ……?」


 がしゃん、と容易く分厚い窓は吹き飛ばされた。爆炎を背に飛び込んできたのは見覚えのある顔。

 言葉はない。見知ったその顔は、今は暴力の権化に化けている。


 また、爆音が続く。同時にその爆風に視界を一瞬塞がれた後、気付いた時には目の前にビィトがいた。


「────」


 しかしクイーンの方は向いてくれず、ただクイーンを庇うようにイーガルの前に立ち塞がり、左手はクイーンに迫っていた鉄の焼印を横から握り締めて止めていた。

 ぼとり、と赤熱された焼印の先が床へと落ちる。


「死ね」

「なっ……!」


 そこでようやく、イーガルが異変に気付く。

 あまりに違う。実力が違う。器が違う。役者が違う。慌てるしか出来ないイーガルが、今まで怯えていたイーガルが、どれ程小さな人間だったかを知る。


 そして、もう一度爆音。

 その音は、尻もちも許さぬとイーガルの首元を掴んだビィトの右手から、些かの迷いも躊躇いもなく命が刈り取られた。


 リーガルは、ピクリとも動かず床に沈んむ。

 爆炎の名残が、ビィトの手から尾を引いて空中に火花を散らした。淀んだ欲望も仄暗い悪意も一蹴する、その純粋な暴力には神聖さすら宿っている。


──同時。


「汚い手で」


 聞きなれた声が、今度は背後から。どろりと、殺意を孕んだ怒気が背中を寒くさせた。


「僕のクイーンに触るんじゃない」


 万力のように締め付けていた少年の腕の力が緩んでいる事に気付いた。

 ぎりぎりと震えながら、一定の速さで腕は離れ、密着していた体も離れて、そして容易く少年の体が宙に浮く。


 そのまま体が逆の方向に降り曲がりそうだったが、後ろから小さく鼻を鳴らす音が聞こえたかと思ったら、ぽい、と扉の外に少年は投げ出された。


「やあやあ、お待たせ」

「……囮はどうした」

「別に倒しちゃいけない訳じゃないんだろ? 護衛十五人くらいだ、時間はかからないよ」

「相変わらず嫌な奴だな、お前……」


 なあ、クイーン。とビィトは振り返った。エースの手が、クイーンの手を拾い上げた。

 そしてやっと状況に呑み込んで、そうすると今度は濁流のようにこみあげてきた物がクイーンの体を震わせる。


「遅いわ、馬鹿ものぉ……」


 どうして良いか分からず、とりあえず繋いだ手に力を入れて目の前のあった足を軽く蹴り付けた。


「あだっ!? んだコラァ! 礼はどうした、礼──……!」


 俯いたクイーンの顔を覗きこんで睨みつけたビィトが一瞬固まって、舌打ちをした。


「……泣いてんじゃねえよ」

「君は、何だか神様に似てるよ、ビィト」


 ぐじぐじと顔面を涙と鼻水でぐしゃぐしゃにしていくクイーンを、エースが取りだしたハンカチで拭いていく。


「ほら、警備を倒して来ちゃったんだからさっさと逃げるよ。捕まりな」

「うん……」


 自分の首に手を回させてエースはクイーンの体を持ち上げた。


「時間がないからよく聞いて。僕等はこの町には残れないんだ、君もだクイーン」


 そう言った途端、エースの手を強く握っていた小さな手が揺れた。エースはそれを握り返す。大丈夫だと、頭を撫でて言葉を続ける。


「帰って来るのは、五年後」

「五年後?」

「僕とビィトがこの国を取れるように力を付けるまでの、五年だよ」


 小さく息を呑んで、思わずクイーンは辺りを窺った。その言葉を発しただけで、殺された人がいる事は有名だった。

 そしてやはり、ぼそりと聞き返す。


「く、国って……」

「取る。国を」


 その声は強く、部屋の中に響いた。エースの声は自信と言うより、確信に──いや、それは決意と言った方がいいのだろう。

 僅かに漂う悲壮感が、その言葉を更に強くゆるぎない物にしていた。


「ずっと、そう思ってた。そしたら、もう一人そう思ってた馬鹿がいた」

「手前よりゃマシだ」

「また気付いたのが最近でさぁ、この馬鹿が恥ずかしそうに言うんだから。笑っちゃったよ」

「……そこに座れ。新たな国の最初の礎にしてやる」


 言いながら、二人は少しだけ得意気に笑っていた。それが、若さゆえの盲信なのか、それとも卓越した才能が見せる未来図なのかは分からない。






──分からない。そう、分かる事はない。

 そんなことは待ち構えていた悪意の塊が、この先思い出させる事すらしないからだ。


 最初に、その悪意のはしくれを嗅ぎ付けたのはビィト。その表情が凍り、弾かれるようにエースが入ってきた扉に視線が向かう。


──その先に、いる。



「……ビィト?」



 続いてエースが、そして遅れてクイーンが、話しながら扉を警戒していたビィトの表情が強張っている事に気付いて、そして不穏な空気がどこからか滲み出て、飽和し、滴り落ちる。

 いや、扉ではない。その近くの壁に体を預け、こちらを見ている男がいた、楽しげに、口元を釣り上げて。


 ぞわり、と不吉な気配が悪寒となってクイーンの背中を撫でた。



「……クイーン、良いかい。よく聞いて」

「何を、」

「いいから!」



 言いながら、エースの視線はクイーンを向いていなかった。向いているのは、ビィトと同じくエースが入って来た扉の方向。

 そちらに目をやると、見知らぬ男が一人。扉から寄りかかっていた背を離した所だった。



「いいね、僕達があいつを扉から遠ざける。外にジャックが──……」



 その言葉の先をクイーンは聞けなかった。


 だん、と強く地面が強く叩かれる音がした。

 それは"それ"が一跳びでこちらの懐にまで接近した音。

 言葉の続きが途切れたのと同時、扉の前の男の姿が消え、エースを見ると、その男に首を掴まれ容易く持ち上げられていた。


「──はて、さて」


 "それ"がゆっくりと口を開く。紡ぎだされるのは知らない声。

 早口だったのか、ゆったりとした口調だったのか、目の前の光景に理解が追い付かないクイーンには、それすらも分からない。

 ただ、クイーンの視線は圧倒的な存在感を示す男に縫い付けられている。


「筋書きは概ね予想通り。不悪わるくない。しかし少々役者が違ってしまっている」


 大きい。

 男は大きかった。背もそう。鎧の様な筋肉も、崩して着た袈裟の様な格好も、その印象に一役買っていのかもしれない。

 その袈裟は自戒を、その鍛え上げられた肉体は自律を、その剃りあげられた頭は無欲を表す記号である。


 しかし、浮かべたその破顔は、それら全てを破戒し、悪意の手段に変えている。


 確信する。

 この男は、強く、冷静で、大器で、しかし子供のように欲望に忠実で残酷だと。


「──……」


 無言でビィトが動いた。

 怒りも焦りもない、ただ純粋に繰り返した行為を最適に反復する。手の平の爆炎が弧を描き、美しいとも言える血の様な爆熱の赤を空中にすら刻みつける。


 ただ、しかし。


不悪わるくない。が、幼く、何より弱い」


 純粋に、力が速さが積み重ねる年月が足りないと、そう言う口調はまるで理を諭すかのように柔らかい。


「っ……」


 エースの首から手が離れる。

 瞬間、一体その大きい体がどれだけ器用にどれだけ速く動いたのか。

 気付けばビィトの腕を千切れんばかりに弾き飛ばし、そしてもう一方の手が拳を作り、縦に構えられたそれが最短距離を走ってビィトの胸に突き刺さっていた。


「……ッ、!」


 一瞬だけ踏ん張ったように見えたビィトの足がふわりと床を離れ、そして部屋の両側壁に並べられていた本棚の中に叩き込まれた。

 転身。

 そこでようやく、地面に着地したエースに向かって拳が唸る。

 それは外れる。いや、エースがかわしたのだろう。しかし独楽のようにそのまま回転した男の踵が、エースの側頭部を捉えた。

 そのまま、今度は扉のすぐ横の壁に何かが激しく衝突した音が響いた。


「っ……!」


 そして、扉からここまで道中何もなかったかのような気軽さで、クイーンに男の手が伸びる。


 瞬間。


「いやはや、しかしまあともあれやはり」


 男の口が、綺麗な左右対称の三日月の形を描いた。


 同時。爆炎を帯びた拳が、空中で加速した踵が男の体に迫っている。


不悪わるくない


 男は迫る暴力を目前にして笑いながらそう言った。

 赤く赤熱した踵が男の額に当たり爆発する。夥しい量の爆炎が舞い上がり、そこを中心に吹き飛ばされそうな突風が部屋をなめ上げる。

 しかし、それでも表情が苦悶に染まったのビィトの方。


「視界を塞ぎすぎるのは、悪手。減点だ」


 そう言うと、男はビィトの足を掴み、──そして、何もせずにそっと離した。


「次だ」

「──舐めてんじゃねェぞ」


 より一層ビィトの表情が冷たく無機質に凍りつく。

 蹴る、殴る、投げる。様々な場所で爆破の魔法を使って、ビィトは畳み掛けた。


「やはり練度は悪くない、が。弱すぎる、遅すぎる」

「こ、の……!」


 避ける事すら男はしない。その頑強な体はビィトの攻撃の一切を弾き飛ばす。それはそのまま、大人と非力な子供がじゃれ付く光景にしか見えない。


「終わりか?」

「──手前がな」


 瞬間。

 天井を破って、それが降ってきた。


「──死ね」


 巨大な岩。いや、それを岩だと表現するのなら少し規模が足らない。この部屋の半分ほどはありそうなその巨岩。

 氷柱のように尖った部分を男に向けて、落ちてくる。


 それは一体どれほどの高さから降ってきたのか、その速度と重さはこの家を縦に貫くのも容易いだろう。


 しかし、エースの全力の攻撃だといえるそれを。何となく眺めた男は暢気に息を付いた。


「ふむ」


 時間など十分の一秒もない。そのはずなのに嫌にゆっくりと見える動作で、男は足を広げそれを見上げた。


「──っふ」


 だん、と踏みしめられ、とんでもない速さで向かってくるそれに、正面から男は手を添えた。

 それだけ。


 部屋の床一面に罅が広がり、同時。巨岩は勢いもその巨躯も粉々に砕かれて、地面に落ちて行った。


「……くそったれ」


 ぎり、とビィトは歯を食いしばる。

 あれほどの攻撃をほとんど消耗すらせず撃墜し、石の欠片が降り注ぐ中男はゆっくりとビィトとエースの方を向いた。


「悪くはなかった。しかしやはり課題は威力と速さだな」


 にこやかな声。柔和な顔。


「さあ、もう一度だ」


 しかしその胸の中心には命を弄ぶ快感に酔いしれた、卑しい感情が確かに渦巻いている。


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