それぞれの夜
「まあつまり、見てた。あんた等が遅かったから様子見にな」
「だからっていきなりケンカ売ってくんじゃねえよ」
「別にケンカしたかった訳じゃない。どの程度か知りたかったんだ」
頭頂部をしかめ面で押さえながら、ビィトが呻いた。
「それで、満足したのか」
「……あんた何者だ?」
「身分証明できるような物は持ってないな。名前と、身一つだ」
そもそも、身分なんて物がない。
生きた軌跡も少なくとも一万年近く遡らなければ見つからないのだ。証明しろと言われても難しい。
「まあほら、神さまって事で」
「ちっ……」
舌打ちをした後、ビィトは黙り込んだ。
もう用が済んだ、と言う訳でもなさそうで居心地が悪そうにビィトは頭を掻いている。
既に第一印象とは大分違う性格だったな、と心内で呟き終わっていたので俺もする事がない。
春先だ。
しっとりと冷たい闇が下がってきて、帰宅には良い頃合い。
腹が減ったというのもあって、木の壁から背中を離した。ぎし、と頼りなく壁が鳴るのと意を決してビィトが口を開くのが同時だった。
「修行に付き合ってくれ」
まず、修行、という言葉にげんなりした。
いやまあ、まだ魔法が自衛の手段から生活の細部にまで利用されているようなので、魔法の上達が今後の人生を決めるのだろう。
腕を上げたいというのは解る。
「あんたに魔法を教わるつもりはない。なんなら、"それ"でもいいんだ」
それ、とはハルユキが何気なく手に持っている、黒塗りの鞘とまるで形は合っていないのになぜかきちんと収まっている銀のサーベル。
寄越せと言っている訳ではなく、手段に拘っている訳ではない、とそう言いたいのだろう。
いや、とにかく強くなりたい、と言う事かもしれない。
「何するんだよ。俺は教える事なんか出来ないぞ」
困った。
そういう事に付き合うかどうか以前に、そんな事に意味があるとは思えなかった。
魔法は当然解らないし、自分の真似をしろというのも難しい。
「組み手」
「アホか」
「いいんだよ。やれる事は全部やった。新しくできたから、それもやる」
ビィトはそう言った。
少しばかり威圧的な態度でそう言った。
もしかすればこれからやろうかという風に、いやそう見せようとしているのか。
(充分強いと思うがなぁ……)
エースと同い年なのでおそらく歳は十五。
いや、考えてみればそのぐらいの歳で異常に逞しい連中は未だ記憶に新しいのだが、深く思い出す事はしなかった。
「――……」
ここで重要なのは、少なくとも教会を出ても一人で生きていけるほどの力は充分に持っていると言う事。
おそらく、昼間の傭兵達ぐらいなら物ともせずに相手どれる。
「……理由は? それ次第だ」
だから、それを聞いたのは社交辞令の一つだった。
断る理由を作るきっかけを作ろうと、そんな軽い気持ち。
「あいつ等を守る。俺が、守るんだ」
だから、そんな言葉に思わず身を固めた自分を、ハルユキはどこか遠くで不甲斐なく思った。
まじまじとその目を見た。いや吸い寄せられたといった方が正しい。
ガラス玉のような目だった。
ただ冷たい印象は受けず、ただただ純度と透明感が高いガラスの目。
中に夕日の欠片でも取り込んでいるのかと思うほど、その光は揺るぎなく、しかし静かに、透明な光を讃えていた。
泥と死体の色のこの町で、それはやけに目に痛い。
「聖人か、お前は」
「……まだガキだよ」
一瞬眉をひそめて、直ぐにそのすれ違いに気付いた。
しかし、勘違いを否定してもつまらない冗談にしかならない。
さて、どうしたものか。
断るのが懸命ではあるが、こいつは先程否応なくケンカを仕掛けてきて、結果があれで、そして望みもあれな訳だ。
断ったら最後、そこかしこでいきなり攻撃を仕掛けられる事は明白である。
ならば断らない方が自然だと、そう思った。
「……俺が暇な時にな、少しだけなら相手してやる」
「助かる。でな、リィラとか、他の奴等には言わないで欲しい」
「修行してますって? 言わねえよ、恥ずかしい」
「何でだよ、普通だろ」
「世代が違うんだよ、世代が」
やれやれと息を付く。
「やる時は俺から言うからな。そっちから来んじゃねえぞ」
「行かねえよ。何で用もないのに好きこのんで男に会いに行くんだよ」
憎まれ口もそのままに、やれやれと教会への道を歩き出す。
しかしふと見て見ぬ振りをしてはならぬ事態を思い出した。
「なあ、あの女男はいつもああなのか?」
「……少なくとも、教会にいる全員は老若男女構わず襲われてるよ。そしてしばしば成功する」
「な、なんてイカれた野郎だ……。いや、野郎なのか……?」
老若男女構わず、と言う事はまたしても男か女か分からないが、それはいい。
恐ろしい事に気が付いて、ビィトを見やる。
「ま、まさか、お前も……」
自分の質問の内容が判然としていない事に気付いてはいたが、本人の前では言いづらい。
結果その内容は伝わったのか伝わっていないのか、その所作が何の意味を指すのか分かりたくもない。
ただ、ビィトはどこか遠い目をしながら首を振った。
「ど、どんまい」
思わず肩に手を置きながら、少しだけこの街の奴等に同情する。
そんな経験をした。
◆
「おや、お帰りなさい」
ぺこり、と丁寧に頭を下げてビィトと俺を出迎えたリィラにたじろいでしまった事に誰が責められよう。
「……? 何か距離が遠いですね?」
「遠くない。遠くないぞ。俺とお前の距離はこの程度だ。いいか、絶対に間違えるなよ」
「……まあ、考えてみれば会ったのは昨日でしたね」
教会の、この街にしては少し広めの前庭の真ん中。
リィラはそう言いながら、一緒にいた周りのガキ共に教会に戻るように示唆する。元気よく、あるいは渋々とチビ共は返事をしてぞろぞろと教会の中に入っていく。
もう、外は暗い。
街灯もなく、喧噪からも離れたこの場所は街の中でも一層暗い。
その代わりに、淡い光で溢れた教会の中が温かく感じるのは勘違いではないだろう。
「ビィト。話は終わりましたか?」
そのままリィラはビィトをハグしようとし、それを拒まれた。むぅ、と残念そうに唸る。
「終わった。何の問題もねえよ」
「なによりです」
そしてまたそれとなくビィトの手を引こうとするリィラだったが、慣れた物でビィトはそれを軽くはね付ける。
あれ、と今度は楽しいのか残念なのか判然としない声を出して、リィラは手を引っ込めた。
微笑ましい光景に、しかし鳥肌が立つのはあの女男がイカレているからだ。
ハルユキが足を止めている間に、す、と2人が教会内の光に紛れて消える。
「さて……」
ポケットの中身を確認する。
銀貨が二枚。あの鷲目はこの街の頭目らしく、金には困っていないおかげか、ハルユキの懐も温かい。
ちょっと、"街"とやらの方に散歩に行ってもいい。
と言うより、リィラがいる時にここに帰ってくる理由も既にない。ルグルに言えば、寝床の一つや二つぐらいは用意するだろう。
と、そんな事を思いながら、扉に背を向け教会の鉄柵に手をかけた。
「おい、どこへいく」
「あ?」
そんな声と共に、ぐい、と服の膝の上の辺りを引っ張られる感覚に振り向いた。
視線をやれば、そこに小さい手が引っかかっていて更にそこから小さい腕が続いている。
「かんげいしてやろう。来い」
昼間にやった防犯ブザーを律儀に肩にかけて、こちらを見上げる視線には疑問の念しか浮かんでいない。
「……俺の分は要らない、って言っただろうが」
「すいません。でも、この家に住むのなら原則食卓は囲んでもらわないと」
教会の入り口から、少し逆光になっているせいかその表情は見えにくいが、恐らくしてやったりな顔をしたシータが顔を出していた。
舌打ちを一つ。
「……ふん!」
がす、と膝の裏を蹴られる。
正直むかついたが余りにも痛くなかった為、とりあえず大人の余裕を保ったまま振り向く。
「……何だよ」
「よろこばんか、たわけ」
大人の余裕は放り捨てることにした。目にもとまらぬ速さでクイーンの首にかかった防犯ブザーに手を伸ばす。
面白い程にクイーンの顔がブサイクに固まった。
びびびびびびびび。とけたたましい音が響いた。
「ああああああああああ!! 死ぬぅうぅう!!」
逃げ出そうとするクイーンをひっ捕まえる。
無論この町が地図から消える事はなかったので、十分にクイーンの馬鹿を見届けた後。優しく紐をブザーに戻した。
「はい、ウソでした」
大声を出している割にその言葉は聞こえたのか、ぴたりと動きを止めてブザーを見、そしてこちらの顔を覗き込んで、顔を朱に染め、おまけに頬を限界まで膨らませた。
「このォ……! 死ね! 死ねェ!!」
「死なん」
未知の格闘術を披露しようとするクイーンの頭を引っつかんで持ち上げて、攻撃圏外まで持って行く。
「手足が短いぞ、五歳児」
「やめて下さい、下衆神様」
ごすん、と再び剣の柄が額にめり込んだ。
「……てめえに言われたくねえんだよ。シータ、その鬼畜から離れろ。危ないぞ」
シータの上から顔を出していたリィラが小さく笑う。
「まあ、僕が鬼畜だとか神様がゲスだとかは置いておいて、」
「あ……?
神様、とやはり妙な名前でリィラは俺を呼んだ。その視線と自分を呼ぶ声が、優しく体に絡んだ気がした。
リィラの背後から他にも顔が現れ、また何かが絡んで捕まえようとする。
背中に僅かに汗をかく。駄目だ、と誰かは言う。そして、いやしかし、リィラが言った。言ってしまった。
「夕飯の時間ですよ」
す、と自然と足が前に出て、それで抵抗は終わった。
舌打ち、は何だか気まずくて、しょうがなく代わりに溜息を付く。歩き出したのは鉄柵とは逆の方向。間を置かず光の中に足を踏み入れる。
「──……」
ふと、既視感に似た何かが胸を刺した。
ちくりと少し顔を顰めそうになる程の痛みが胸からジワリと広がって、鈍痛に変わりやがて体に染み込んでいった。
それが何なのかは分かっていながら、しかし光は蠱惑的に温かい。
◆
ごろん、とハルユキは通算三十二回目の寝返りを打った。
掛けたシーツが鬱陶しい訳でもなく、寝ている場所が教会の椅子の上だからと言う訳でもなく。ただ、眠気が襲ってこなかったから眠れない。
酒でも飲んでみようか、とも思うがどうも酔えそうになく。
中々疲れる一日だったので、直ぐに眠れるかとも思った――と言うよりは眠れなかった事があまりないので想像すらしていなかった。
朝、見知らぬ場所で目を覚まして。
何か成り行きでここに住む事が決まって。
大量の買い物に付き合って。
ヤクザ者に囲まれて。
妙な熱血野郎にケンカを挑まれて。
騒がしく面倒で貧しくても明るくて温かくて、そしてそんな中にひょっこり紛れ込んでいる自分に吐き気がした。
ぐい、と首を伸ばして窓の外に視線を移す。
カーテンもかけられていない小窓はその時点で既に視界は狭く、空が見える事などない。
星の配置はまた変わってしまったのだろうか。
いや、一億年で一度変わってしまった後に覚え直してなど当然していないので、見ても分かるはずがないのだが。
ぎしり、と椅子が軋む。
軽く爪を立てると、木の椅子は簡単に削れてへこんだ。
ああ、原因は分かってる。
昼間、またしても穏健に事を運ばなかったのはただの八つ当たり。
熱血野郎の申し出を受けてしまったのも、ただ名残に引き摺られただけ。
歓迎祝いだ、と少しだけ脂っぽいベーコンの味がわずらわしく、いつまでも舌に残っている。
『断らない方が自然だと、そう思った』?
馬鹿な。思わない。笑ってしまうわ馬鹿め。そんな事は全く思わない。ただあの透明で頑固で強い目に、誰かの名残を見つけてしまっただけ。
引き摺っている。
後ろ髪を引かれている。
代わりが見つかった事に罪悪感があるのかもしれない、いや代わりにしてしまった事にと言う考え方も。そして、はしたなくそれに縋った自分にも。
確かなのは、代わりを立ててそれで実際に少し忘れられて、しかしやはり一人になれば引き摺る自分がいる事だけ。
特に慌てる訳でもなく、それは受け止めている。
「……」
ごろりと、寝返りは三十三回目。高い天井を見上げて、眠れるまで思いに耽る。
初めてではない。
コンクリートの、窓もない部屋に閉じ込められて自分の生きてきた世界が無くなったのを感じた事がある。
はて、あの時はどうしたか。
「……ああ、そうか」
そう、一億年が必要だったのだ。
少なくとも一万年じゃ足らないらしい。気持ち悪い。感傷的にはなりたくない、だから眠りたい。
がりがりと、引っかかれた椅子が悲鳴を上げる。
遅い。遅いのだ、何もかもが遅かった。
間抜けに寝過ごしている間に、大事にしたかった物は再び手の届かない場所に行ってしまった。
やはり、諦めるのは嫌いだ。
忘れてしまおう、そう思うと体から力と一緒に何かが抜けていき、しかし少しだけ楽にはなって、やはり歯痒さは消えてくれず。
ただ、眠気が落ちてくる事を願って目を瞑る。
もう誰かが天井の上から落ちてくる事もない。
◆
かちん。
何でもない、部屋の一室でそれはまた小さい歯車の音を漏らした。
実際はその小さな体の中に数え切れないほどの歯車が回ってはいるが、砂粒のような小ささと、そして細胞のように多い機構のせいで耳を押し当てたとしても聞こえはしない。
かちん、かちん。
ここはどこだろう。上は曇天。下は灰色の砂地。かと思えば灰色に四方を固められた窓のない部屋。
とにかく、硝煙と死と退屈の匂いが鼻を付く。
さらさらと頬を打つ小雨は、どこか気分を鬱屈させた。
(……ああ)
いや違う。これは逆だ。あの人の心を写した景色なのだ。景色が心情を指向するのではなく、これが彼の今の心象風景。
それはそう感じ取り、歩を進めようとして直ぐに止めた。
かちん、かちん。
寒い。寒い。寒い。この景色はとても寒い。
鉄のこの身が凍えてしまいそうになるほど、ここは寒い。
かちん、かちん。
目をつむる。そして、それを見つけた。
冷たく固いだけの自分を、それでもしっかりと握り締めて。
寒い寒いと喚く何かを事も無げに押さえ付けて。
それでも生きている彼の姿を。
その歩みは力強い。自分を持ってくれているその腕は熱く、逞しい。
しかしそれが今は、何かにしがみついて焦っているだけに見えた。
いや、事実そうなのだ。
だって彼は諦めが苦手だ。引き摺って引き摺ってそれでも手を伸ばす事を止められない。
そんな、もしかすれば冒険小説の主人公のような。でもやっぱりわがままな子供でしかないような。
彼はそんな人だから。
一度諦めるには、一億年はかかってしまう。そんな馬鹿な人。
かちん。
ああ、だからせめて。
かちん。かちん。
この私が。
この私を持つ手のひらの中だけでも、温度を分けてあげられたなら。
かちん、かちん。
急ぎ足で刻むその音は、何かを追いかける足音のように。
──かちん。
そしてまた、刻む心臓の音にさえ。
◆
黒い水面の中に沈むように、視覚も触覚もあやふやに薄らいでいく中。
俺の意識を引き上げたのは。
「――――……」
ほんの一節の音節。
途中から曖昧に消え去り、また最初から繰り返される。
うろ覚えで、しかも繰り返される音がその前までと少しだけ違っていたり。しかし不思議と、そのどれもが聞いていて不快になる物ではなかった。
「……」
上体を起こす。
どれぐらい眠る事が出来たのかは知らないが、外はまだまだ暗く、夜はまだ明ける兆しも見せていないのは確かだろう。
もう眠れる気はしなかった。
それが聞こえていた教会の入り口まで歩いて行き、扉を半分だけ開くと、扉の前の石段に座り込んだ歌い手の横顔が見えた。
男か女か分からない顔は、他と見違う事はない明らかなもの。
それなのに胸に訪れた違和感は、きっと扉を開けた向こうには上機嫌で歌を歌っている人間がいると思い込んでいたからだ。
しかしそこにあった顔は、何を感じる事も何に酔うわけでもなく、ただ何かを見つめている。
月を見ているわけではない。しかしただ見る物が無くて虚空に視線を向けているわけでもない。
確かに、何かを見ている。
ひたり、と冷たく感じるほどの静寂が戻る。何も思考していない目が、表情がこちらを向いた。
何故かこちらから声をかける。
「うるせえぞ」
「下手でしたか? 上手だとは、よく言われるんですが」
「俺の辞書に音程という言葉はないと言われた事があるから、そこは気にしなくて良いが。今は夜中だ」
「そうでしたね。やはり、気になりますか?」
その言葉が、まるでまだ歌っていたいと言っているように聞こえて思わず額に皺を寄せる。
「思い出し思い出しなので、上手くいかなくて。助言を下されば助かります」
「まあ、別に本気でうるさいと思ってるわけでもない」
なら、と小さくリィラは夜の空気を吸って、それを音に変えて、更にそれを紡いで歌にする。
なるほど。確かに上手いのだろう。
扉を介さずに聞けばその声はしなやかで柔らかく、なぜこの声を聞いて起きてしまったのかと思うほど安らかだ。
しかし、それ以上に目を引く。
静かに静かに、リィラの意識がどこかに向かっていくのを。それはあまりに顕著で、リィラの視線もそこを向いている。
その視線を追えば夜闇があり、高い城壁の上を越え、そしてその向こうにある何かに届くのか。
「なあ、聞いて良いか?」
「何です?」
音を忘れて途切れた時を狙って、言った。リィラはすぐに返事をした。
「何で、俺をここに連れてきた?」
「それは二度目。いえ、三度目じゃないですか?」
その答えがどちらも納得に足りる答えではない事は自覚していたのだろう。
リィラは途中に歌を挟むことなく、こちらを見た。
「本当はただ誰でもよかったんです。龍も増えてきて、子供達も大きくなっていたのでもう一人いるなってだけで」
「何で俺なんだ。この街の人間が信用できないのか?」
「それはそうですが。別に神様が辞めるなら他の人を探します」
「じゃあ、」
「ああでも、神様が良いなとそう思った理由もちゃんとありますよ」
「……何だよ」
「秘密です」
そう言って意味ありげに唇に人差し指を当てた後、リィラはまた腕を背後に突っ張ってどこかを眺め始める。
「寝る」
「では子守歌になりますね」
「勝手にしろ」
ばたん、と静かに扉を閉めると同時に、またあの中途半端な歌が聞こえてくる。
いそいそとシーツにくるまりながら、その歌ともいえぬ歌を聴く。
下手ではない。声も綺麗だ。それなのに感動を覚えないのは、この歌のせいだ。
ただでさえ妙な歌で、しかも中途半端なものだから――……。
「……ああ」
ふと気付く。
この歌は、そうじゃない。これじゃない。そもそも前提が間違っているのだ。
子供の声が抜けきれていないアルトの音調は、おそらく正確で間違いはない。
ただ、合わせてやれるソプラノがいないだけ。これは二部混声の歌。
下手なわけでも、歌が低レベルなわけでもなく、一緒に歌う誰かが欠けていた。
(……)
ふと眠気が体を重くしている事に気付く。
そのまま、手を引かれるようにゆっくりと意識は薄らいでいった。
◆
かつん、かつん、と足音さえも高貴な響きを並べていく。
大理石の床。金と銀で惜しむ事無く龍の装飾を施した柱が、廊下を歩く老人と高い夜空の間に立っている。
かつかつと速足で歩くその男は細長い出で立ちだったが、それも加わり連続するその柱は太く豪奢に映る。
見ればその反対側の壁にもまた豪奢な、ぬらりぬらりと今にも動きそうな龍の彫り物が続いている。
ここは、天の宮。
エルゼンに在り、最も高く尊く及び難い天の棲家。
法螺貝を縦に立てたかのような塔は、天を衝くほど巨大ながらも震えもしない佇まいを誇る。
奇しくも、いや必然か。遠い"巣"にあるリィラの視線はこの場所に向かっている。
かつかつかつ。
寂しく響くその音は周りの人間の気配を感じさせず、しかし老人はこの寂しさを好んでいた。
そうして、その足が塔の最上階に達した頃。
聞こえてきた物、見えてきた物に。自分の好いた物が粉々になっている現状に、老人は一瞬で沸点を越えた自分の感情を、努めて冷静に味わった。
"────っ"
聞こえてくるのは喘ぎ声。いや、悲鳴だろうか。
床に散乱しているのは酒と体液と一齧りだけして、そしてそのまま踏みつぶされた果実。
生臭く爛れたような匂いは、鼻の粘膜が熱く泡立っているような感触を錯覚させる。
気持ちが悪い、と口にしたくなる。
あまりの臭気に口を覆いたくなる。
穢された怒りに顔が紅潮しそうになる。
しかし、老人は知っていた。
そのいずれかの反応を示して殺された人間達をそれぞれ両の手で数えられない程に。
「ラカン殿」
「あ? おおコドラク。おいお前ら黙れ。手前も離せ」
老人が声をかけると、騒がしい室内を不思議と通り抜け目的の男に届いた。
そうして帰ってきた言葉にぴたり、と部屋中の音が消えた。
狂宴に興じていた屈強な男達もそれに組み伏せられていた女達も一様に黙った。
大木のように逞しく猛々しく鍛え上げられた男達はともかく、一般人であるはずの女は荒い息遣いを自らの手で無理矢理塞いでまでだ。
そして、その中心を男が歩いてくる。
その下半身に顔をうずめていた女を蹴り飛ばし、通る道で伏せていた子供の背を踏み躙りながら。
ぎし、ぎし、と布と綿張りの床があまりの静けさに一人鳴く。
「いつもの物だな」
老人の返事も待たず男は老人が手に持っていた書類を手に取り、素早く目を通した。
大きい。
布張りの床の境界を挟んでいるとはいえ、平均的な男性の身長を保っている老人より頭二つ分男の背丈は高い。
しかし男は"高い"のではない。
巨大なのだ。
また、そのほとんど半裸に近い体は、骨と皮とそしてその間に鋼鉄を押し込めて作ったような体。
剃り上げられた頭に似合わぬ通った鼻梁は、なるほど。多少は神々しい。
男は、にまりと口元を歪ませた。
「結構」
振り返りざま、男は書類を投げ捨てた。男の言葉は二つの意味を含んでいる。
一つはそのまま老人にもう下がれという意味。そしてもう一つの意味を受け取って、後ろの男たちの欲望が息を吹き返す。
ばさばさと音を立てて散らばる書類の奥で、男は穢れ爛れる神性を見る。
落ちた書類には、とある子供が古龍を殺した報告が載っている。
それを老人は一枚一枚拾い上げていく。
これを見せなければならないのはこの男。"見せたい"のは、別の誰かだからだ。
──かつかつと踵を鳴らして去っていく老人の背中を男は笑って見送った。
「楽しそうですな」
男の傍に控えていた別の男がそう声をかけると、肯定するようにくっくと男は笑った。
ここにいる男は全員が武僧だ。極限まで鍛え上げられた体。しかし信奉するのが神ではなく己の欲である為に、破戒僧と言うべきなのだろう。
それを証明するように屈強な男達の下では女が苦しげに喘いでいる。
「またコドラク殿は巫女の所でしょうか」
コドラクはそう、こんな所になど来たくなる人間ではない。
あの男が現れるのは全てはあの報告書を一人の少女に見せてやるためだけ。
「愉快愉快」
傍の男にではなく、虚空に向かって男は呟いた。
熟れた熟れた。落ちた果実が腐ることなく踏まれる事無く、よくぞここまで熟れてくれた。
男は楽しげに考えにふける。
その果実を、やはり踏み砕いてやろうか。一齧りしてまた路傍に捨ててしまうか。
気紛れに、そんな事を考える。




