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ハイイロ ノ カナタ  作者: mild
第二部
185/281

悪魔と悪魔と生首



 リィラ・リーカーは困っていた。


 高い金を要求する割に大して役に立たない傭兵達が、自分の事を馬鹿にして"リリィ"と呼ぶ事にも困っていたし。

 竜が人間を襲うようになってから次第に人間が住める場所が減ってきているのは、この世界の全員が困っている。

 加えて、戦力の交換など悠長な事を出来なくなり、また出国入国の際に手続きが必要になった為"ギルド"という制度が事実上消滅した事にももちろん困っていた。


 しかし、現在進行形で困っているのは、──そう、もっと刹那的な問題だ。


 どしりと、大きな木を挟んだ向こう側で、重々しい音が地面を揺らした。

 ぐるぐると殺意に濡れた喉の音が、耳元から聞こえるようにも感じる。

 その紅い眼は千年を生きた古龍の証。

 飛竜の瞳は翡翠の様な緑色。霊龍になると目も眩むような金色になるらしい。

 当然、見た事はない。しかし、滅ぼされた国や都市から命からがら逃げてきた人たちの中に、そう言う物を見たという言葉もあるらしい。


 ずしり、とまた大地が震えてリィラは我に返った。


(見つかっては、いないかな……)


 龍は鼻が良い。

 まあ勘が悪い訳でもなく、耳もよく、体は強靭で堅牢と実に迷惑な生物ではあるのだが。

 リィラは森に入る前に、かき集めた泥を頭から被るのが習慣だ。こんな雑多な匂いが集まった森の中。泥に塗れれば匂いは消える。


 ふ、と小さく息を吐く。

 心臓の鼓動は奇妙なほどに遅かった。

 冷えている。心も体も、表情も。

 さもありなん。これが初めてという訳ではない。いや、何十何百と行ってきたのだ。


 鋼色の古龍がリィラの隠れている木を通り過ぎると同時、音もなくリィラは木を登った。

 するすると、十メートルほどの高さに上り詰めるまでに5秒とかからない。


 そして、そのまま龍の背中めがけて体を空中に投げた。



「──ッシっ」



 落ちざまに龍の羽根の付け根を踏み付け、その勢いのまま背に刃を突き立てる。


 ばきん。

 やはり、刃は通らない。それどころか細身の剣は半ばから圧し折れた。


 背中に落ちてきた衝撃に、古龍が肺から空気を絞り出され喘ぐ。

 その一瞬の隙に、腰に差した四本の剣の内の二本を更に引き出し、龍の豪奢な翼膜に突き立て、付け根から刃先のような羽の終わりまでを一文字に引き裂いた。


 この翼に打ち据えられるだけで人の身は容易く両断される。

 出来れば根元から落としたいが、それができる剣などそうそう存在しない。


 かといって何もせず飛ばせれば厄介だ。

 以前、倒したのは良いが地上何十メートルを一緒に落下して3日間動けなかった事がある

 だからこそ、的確に寸分の狂いもなく切り刻んでぶち壊す。


「──■■■■■、■、■■■!!!」

「うるさいなあ」


 龍の言葉は獣のそれとは違う。

 鳴き声ではなく言葉。知能はほぼ人間と変わらない。奴等は"遊ぶ"し、"狩り"もする。

 内容こそ理解できないものの、それはきっと呪詛の声。


──ゆっくりとリィラは口元を歪めた。

『それは、人の世界では今際の言葉と言うんだよ』と優しく耳元で語りかけながら、剣を握り直す。


 まず、先程二つに折れた剣を重ねて呪詛を吐き出す龍の上顎と下顎の間に、猿轡のように差し込んで、捻る。

 当然横に差しこんだときより口の中で縦にした方が龍の顎は広げられ、そしてそのまま固定される。


 流れるような"作業"に龍は反応が追い付かず、口に差しこまれた異物に体を跳ねさせ前足で取ろうと龍は頭を下げた。



 そして、その先で。

 ひらりと宙を跨いで、龍の眼前に剣を構える"リリィ"の。

 その、凄惨な表情を見つけた。


 手に握るは、細身の、しかし使い込まれた最後の剣。



「──"斥駆かける"」



 どん、とおよそ剣の奔った音とは思えぬ音と共に、龍の脳髄を"顎の裏"から差し込まれた剣が貫き、破壊する。


 頭の内から決して穿てぬ鱗を押し上げる感触を最後に、龍は絶命した。


 前足がかくんと折れ、そのまま頭から尻尾まで十メートルはある巨体が傾いていく。

 喉の奥にまで腕を突っ込んでいたリィラの体も同時に傾いて、また地面を小さく揺らして倒れ込んだ。



「……」



 龍の口の中に腕を突っ込んだまま、ごろり、とその場でリィラは仰向けに転がった。

 鬱蒼と背の高い針の葉を生やした木々のせいで空は変な形に押し固められている。

 ちくちくと背中を刺す草の先が、まるで"やるじゃないか"と背中を突っついているように感じた。


 しかし生臭い鉄の匂いが、そんな感傷を押し流す。それが自分の体からしている事に小さく笑うと、上体を起こした。


 龍の鱗は傷付かない。

 しかし、一旦死ねば剥がしやすくはなる。

 付けていた手袋を外すと、素手で手早く鱗を剥がし袋に入れ、一刀の元に龍の頭を切り落とした。


 体はそのまま。

 こうしておけば、なまじ知能の高い龍達だ。しばらくは森の奥から出てこない。


 偉そうな角を引っ掴むと、先程隠れていた木の傍まで引っ張って行き、そしてそこで泥に埋まるように隠されていた"他の二つ"の龍の頭を引きずり出した。


 ずるずる、とそれを街に向かって引き摺って行く。

 あの無理な着地の時に左足をくじいたのか、時折激痛と共に左足が痙攣するが、まあ歩くだけならどうという事はない。いかなる怪我をしても回復する手段がある。


 月が視界をかすめて、頭は鈍痛が巡り、そして茂みの中から誰かに見られているような錯覚に陥る。

 幻覚じみたその症状も慣れた物で、冷静な自分がそれを俯瞰し、ただ少しばかりの既視感に浸った。


 街の人間はまた悪魔が憑いていると言うだろうか。司祭は神の御加護だと言うだろうか。


 血塗れになりながらも、泥を髪にへばり付かせながらも、武具をほとんど壊されるほどの戦いから帰っても。

 次の日には剣と体を引きずって森へ出向くリィラは、傍から見ればそのどちらかにしか見えないのだろう。

 どちらもあまりいい気はしなかったが、こうなってしまった今となってはそれももう一度聞ける物なら聞いてみたい。



「──、ああ、もう全く」



 そう。何しろリィラ・リーカーは困っていた。


 なぜなら龍の襲来は、いつもは週に一度。多くて二度。

 この頃は減って来たかと思った矢先、大群となって一堂に襲って来たのだから、それはそれは、もう、とてもとても困っていた


 この夜だけで既に3体。

 そして香って来るのは、前の3体と同じ、野生と知性の入り混じった禁忌の匂い。


「──っ」


 その場で頭を屈ませたのは、リィラの本能的な判断だった。

 その判断は正しく、出遅れた髪を薙ぎ払ってその先の木々を圧し折って砕いていく。


(擬態……?)


 夜の闇に隠れていると言ってもそれでも薙ぎ倒した範囲からいっても相当な大きさだ。

 全く見えないという事はありえない。


 しかし、だ。

 古龍の能力は千差万別。


 爆発する炎を吐くものもいれば、鉄の鎧の様な堅牢な鱗を持つもの。

 先程の龍は空気の塊を固定・放出できるというもの。まあ、出す前に殺すのがベターなので早々確認もしていられないが。


 龍の強さは生きた時間で決まり、それは体の大きさに比例する。

 経験から察するに、先程のは1500年。その前は1200年。そして最初の一匹は1800年と言ったところか。


 そして、全容は見えないので正確性は欠くが、恐らく姿を消している龍が群れを率いてきた頭で、ならば、3000年と少しと言ったところが妥当だろう。

 リィラが今まで倒した中で一番大きいのがそれぐらい。


 帰りがけの早朝に出会い、その次の早朝まで戦ったのは記憶に新しい。


 ずしり、と目の前に大きな前足が振り下ろされた。

 可視できるのはそれだけだったが、見る見るうちに目の前に凶悪な輪郭が取り戻されていく。


「……これはまた、立派なトゲだ」


 隠れていたのは用心深さからではなく、その凶悪な姿を隠すためではないのかと思うほどに、その龍はゴツゴツとトゲトゲと。

 何やら過剰なほどに相手を威嚇する格好をしていた。


 それだけなら、まだ良かったのだが。


「こらこら」


 その後ろから。

 背が高く太い幹の木を前足で踏み倒しながら、更に五頭の龍が顔を出した。


 溜息を吐く。

 神が愛想を尽かしたのか、悪魔が飽いてしまったのか。世界が"リリィ"に死ねと言っているよう。


「それじゃあ」


 どくり、と心臓が跳ねた。

 これは死んだかな、と"リリィ"は口の端を釣り上げる。


 幸いにも後ろの群れには目の前のトゲトゲ龍より大きい物はなく、中には飛竜もいるようで、少しだけ気が楽になる。

 それならば。命を省みなければ、まだ殺せる。元より、使い道などここにしかないはずだ。



「──どの首から落としましょうか」



 抜くは造りこそ他と変わらないものの今まで一度も折れた事がない馴染みの剣。

 すらりと小気味いい音を立てて銀色の刀身が夜月を映す。


 見上げるような巨体の下。

 素手では一番後ろに控えている飛竜にも勝てない生き物が、鉄の棒一本持って戦いに臨む。


 神の視点というやつか。

 自分の背中から頭上まで感じ取る事が出来た。

 もし、今本当に神が見ているとして。もし、それを賭にして楽しんでいるとしたら、オッズはどれほどだろうか。

 少なくとも、リィラが一体でも殺せるのなら、神々のほとんどは大損だ。


 どう考えても無謀な戦いに、自然口元が上がっていく。

 捨て身だ、と体が命じるかのように心臓が鼓動を遅くし、しかし何故か荒い息が漏れ、瞳孔が開いていった。


 ギリギリと唇が歪な三日月を象る。


 ざわざわと森の葉が怯えて体を擦り合わせる中。


──リィラの前足に体重が乗り、ぱきりと折れた小枝が音を立てた。




──瞬間。


 一瞬で六頭の龍がその巨体を感じさせない速度でリィラを取り囲み、


──しかし、その内の特に若い一体の首が同時に切り落とされる。


 夜に血が舞う。体に血が躍る。


 小さな嵐が生まれたかのように、余波が辺りを舐め上げ、土埃を上げ、首を落された龍の体が勢いのままどこかへ転がっていく。


「ああ……」


 淡く浮かぶ月の光が、キラキラと血の飛沫を装飾して、その景色にリィラは薄らと頬を紅潮させる。




   ◆




『何、あれ……』


 ずるずる。

 ずるずる。

 引き摺って街を行く。

 足と手と首と。

 仲間はずれはそのなかの一つ。


『悪魔……』


 ずるずる。

 道は先に開けていて、道は後ろに残っていた。

 前は空気の透明と土の茶色と肉の肌色。

 後ろは目が覚めるような赤色。ああでも、黄色と白も時々こびり付くように。


『リィラ』


 顔を上げる。

 嬉しそうな顔だ。


 むくりと何かの感情が顔をもたげる。首を渡す。人間ではない方の。


 嬉しそうな顔は、大きな手を伸ばし、ごしごしと頭を撫でる。

 ぎり、と歯が鳴って、歯茎が痛くて。


 それで、夢はいつも終わる。




   ◆




 どず、と鈍い音と共にその体から龍の棘が引き抜かれた。


「……ッあ」


 今動いているのは一番の巨躯を誇っていた龍と、リィラのみ。

 他の五匹は様々な方法で惨殺されて無造作に転がっている。


 支えをなくしたリィラはその場に倒れ込み、咳き込む。同時に血が零れ胸元を汚した。


 木々の間から歪な形に切り取られた夜空を眺めながら、今はまだ動いている心臓の音を聞く。


 そして。

 "へし折られた棘で自らの頭を貫かれた龍が"、そこで絶命してようやく崩れ落ちた。



「あはは」



 がらん、とリィラの手から最後まで折れなかった剣と、そして竜の脳髄に汚れた棘が転げ落ちる。



「あははははははははははははは!!」



 雪崩れ込む。

 いつから呼吸を止めていたのか、雪崩れ込んだ酸素が肺を侵し、頭を覚醒させていく


「僕の勝ち……」


 血に濡れた手と体が、そこらで香る脳髄の生臭い匂いが、激痛を通り越して甘い痺れを送って来る右足が。

 堪らなく、実感させる。はまる人間がいるのも、最近はまあ分かるようになった。

 脳を直接麻薬の湯船に浸からせたかのような快感に体を火照らせながら、リィラは起き上った。


 痙攣しかしない右足を引き摺りながら、一閃の元に龍の首を斬り落とす。

 大きい龍だ。体の中に宝玉でも作ってやしないかと腹に視線を移して、リィラはそれを見つけた。


 僅かに、動いている。


(……えっと)


 落とした首をもう一度確認して、また龍の腹に視線を戻す。

 そして、やはり動いている事を確認してリィラは頭をひねる。


「あー……そう、子供だ」


 脳内麻薬でデロデロになった思考回路が頼りなく周り、その結論を見つけ出す。

 そう、確か生き物は男根飲み込んで子を孕む事ができたはず。


「売ろう。うん、売ろう」


 当然そんな物売れる訳はないのだが。

 いや、他の街でならともかく、リィラがいる国では絶対に売れない。


 しかし、今のリィラにはそんな事すら判断が付けられない事で、剣を拾い上げると中を傷つけないように腹をかっさばいた。

 上手く切れたらしく、切れ目は出来たがまだ中の子供は元気に動いている。


「よしよし」


 体の中に腕を突っ込み、中をまさぐる。

 そして、龍の内臓とは明らかに違う感触を見つけて掴むと、一気に引っ張り上げた。


 ずるり、とそれが夜の空気に触れる。


「ど、どうも……」

「……どうも」


 そして、出てきた灰色の髪の男を、リィラは龍の胃の中に押し戻した。


「待て待て戻すな! 鬼かお前はっ」

「……そう言う貴方は悪魔か、それとも神様でしょうか?」


 訝しげに、男は眉を寄せた。


「……何でその二択なんだよ」

「人の形をしているのは神様と悪魔と人間だけです。しかし人間は龍の腹から出てきませんので……」

「神様も出てこないと思うぞ……」

「悪魔でしたか。これはこれは」


 嘆息する。龍の次は悪魔と来たか。

 リィラが剣に手をかけると、男は顔をしかめて両手を挙げた。


「こんな奇想天外だが、怪しい者、……でもあるかもしれないが、少なくとも互いに危害を与える関係にはなりたくないだろ? 言葉、通じてるよな」

「ええ、ああ、はい。でも話の中身は全く信じていませんが」

「……何で?」

「僕は神の僕ですから。貴方が悪魔と言うのなら、貴方を信じる事が出来ません」

「……俺にも、お前が神の僕だとは信じられないんだがな」


 悪魔の視線がリィラの足元に流れた。

 リィラはその視線を追いこそしないがそこに何があるかは分かっていたし、これは確か神にも見られてはいけない仕事だったはず。

 転がっているのは、三つの首。

 目を剥いたまま、伸びた舌をでろりと地面に垂らした肉の塊が。


「そうですか」


 ならば、諸々是非も無し。


 握り込んだ剣がチャキ、と音を立てた。

 警戒心を全身に表し、リィラは前傾に体勢を変える。

 心臓の鼓動が遅くなり、瞳孔がゆっくりと開いていく。長年の戦いの中で自然と身に付けた人の体を限界以上に使い込むコツの一つ。

 危機感からか、異常なまでに感覚が鋭敏化し不要な感情が死んでいくなか。


 ぐるんと視界が回った。


「おい……?」


 悪魔のまるで困惑しているような声が聞こえる。死ね。


 ばん、と右の手のひらを顔面に押し付けるが、その眩暈は消えない。

 見れば悪魔が十三人に。分裂しながら減ったり増えたり伸びたり縮んだり。


 悪魔の幻術か。いや、たしか教典に出てくる悪魔がそれぐらいの数だった気がする。

 ならば殺そう。

 その中の一つに剣を叩きつけ、しかしその手ごたえは空虚。


 流石に悪魔に挑むのは人の身には荷が勝ち過ぎていたのか。体が傾いでいくなか、ゆっくりと悪魔の腕がこちらに伸びる。


 その。

 腕が。

 リィラに触れる瞬間。

 万華鏡のように景色が分裂する中、唯一重なっている。そこに。

 剣を突き立てた。


「っ……!」


 体から力が抜ける。

 魂を食われるのか。それとも頭からがぶりといかれるのか。

 やはり悪魔に喧嘩を売るのはまずかった。それが運の尽き。


 突き立てた剣がどうなったのかも確認できないまま、視界が黒く染まる。

 安堵と悔恨と好奇と憎悪と殺意と未練を一握りずつ持って、リィラは自分から意識を閉じた。



 しかしもし、この"善行"の中で死ねるのならばと。

 生き残る度に、何を為せと言われているような強迫観念から救われるのならば。


 それもいい、とリィラの口元は上がったまま。




    ◆




 ばしゃばしゃと騒々しい音でリィラは目を覚ました。

 目は覚ましたが、瞼は開けない。

 肌に伝わるのは草の感触と日光の温かさ。聞こえているのは水音だ。森の匂いに紛れて僅かに水の匂いもする。


「お、目、覚めたか」

「……何で分かったんですか」

「そりゃ分かる」


 悪魔の声だ。

 悪魔の常識をこちらにも当てはめないでほしいが、何にしろ寝たふりは通用しないらしい。


 目を開ければ湖があった。

 ここは広大な森だが、リィラは何十回、何百回とこの森に訪れている。

 知らない場所など滅多になく、そしてこの場所もよく血と泥を落とすのによく利用した場所だった。

 そこで、今は悪魔が体の汚れを落としている。


「──……」


 灰色の髪。灰色の目。

 少し珍しい出で立ちだが、それ自体はそれほど珍しい事ではない。

 しかしなぜか、その姿に少し不気味なものを感じた。底、と言うより、そもそも淵がどこにあるか分からないというか、器かどうかも分からないというか。

 人間的な口調とは裏腹に、感情も思考も読めない仄暗さ。


 別に美形でもなんでもないのだが、変な生き物だ。


「……う」


 リィラの体も汗と泥と血でこれ以上ない程に汚れている。水で洗い流したいが、そうもいかなかった

 別に悪魔が先に入っているからだとかそう言う事ではなく、体にきつく縄が食い込んで自由を奪っていたからだ。

 自分で解く事も出来る、が、あまり自分の魔法を見せるのはよくない。一応交渉を試みてみる事にした。


「解いてください」

「……暴れんなよ」


 言って、悪魔は──。

 なにもしなかった。

 しかし、なぜかリィラの体を縛っていたロープが解けた。いや、それどころか空気に溶けて消えていく。


「悪魔」

「悪魔じゃねえよ」

「悪魔の業じゃないんですか、これ」

「……魔法だよ」

「そうですか」


 縄の跡が残る腕を擦りながら、服を着たまま水に入る。

 頭まで潜り、髪をわさわさとかき乱してこびり付いた泥と血をこそげ落とした。

 元が薄い茶色の髪なので、あまり綺麗になった気はしないが、やらないよりはましである。


 一分ほどそうして体中の汚れを粗方落とすと、ぶはっと水面から顔を出して空気を吸う。


「お前に聞きたい事があってな。ここまで連れて来たのはそれだ」


 何で助けたのだ、とリィラの疑問を先取りしたわけではないだろうが、悪魔が段取りよくそんな事を言った。

 リィラが声の元に顔を向けると、入れ替わりに悪魔は陸に上がっていて、どこから取り出したのか柔らかそうな布で体を拭いていた。


「使うか?」


 ぽちゃん、と男が放った何かが目の前の水面に落ちた。

 波紋を作って沈んでいくそれを掴みとり、再び空気に晒すとそれは目にまぶしく太陽の光を反射した。


「石鹸だよ」

「こんな高価な物……」

「なんか言ったか?」


 悪魔が大量の石鹸でジャグリングをしていた。それもそれはどんどんと増え、どさどさと地面に落ちだす。


「魚が食べても大丈夫な樹脂石鹸だ。安心して使え」

「……はあ、でも遠慮しておきます。知らない人から物貰うなって習ったので」

「へえ、やっと俺が人だって認めてくれたのか?」

「そりゃあ。僕、悪魔とか全く信じてないですから」

「悪魔の否定ってのは神の否定につながるそうだぞ」

「やだな、僕は敬虔な神の僕だぞ。近付くなこの悪魔め死ね」

「…………正直ね、お前」


 ごそごそと服を着だした男に対して、リィラは逆に服を脱いだ。


「おい」

「男ですよ、僕」

「俺もそう思ってたが、なら何で胸を隠してる」


 目を落とした。胸にだけサラシが巻いてある。


「見たいんですか?」

「見たくねえよ、男なんだろうが」

「冗談ですよ」

「…………どっちが?」

「さあ」


 びしり、と額に青筋を浮かべた男は、しかしリィラに取り合う事を止めたらしい。


 舌打ちをして男は服を着終えると、あらかじめ準備しておいたのか、パチパチと音を立てて薪を燃やす焚き木に近付いた。

 その焚き木の周りには大量に魚が配置されていて、恐らく全て食べる気なのだろう。


「あの、神様」

「何だ手前この野郎。神様じゃねえって言っただろうが手前この野郎。一口もやらんぞ手前この野郎」

「いえ、それはいらないんですが」


 事実お腹は空いたが、我慢できない程ではない。


「僕はリィラ・リーカーと言います。あなたは?」

「……勝手に名乗るのは、どうなんだ?」

「はい」

「会話しろよ」


 名乗らせておいて名乗らない不義、と言う物が通じるかどうかは知らないが、どうもこちらの意図は理解はしてくれたらしい。

 まあ、それに応じてくれるかどうかもまた相手の裁量次第だが、


「……志貴野春雪しきのはるゆきだ。好きに読んでくれて良い」


 どうも、今日日きょうびの悪魔はお人好しに出来ているらしい。




   ◆




「九十九」

(あ? 何だよ。しつけえな、謝っただろうが)


 パチパチと薪を爆ぜさせる焚火の前。

 魚に火が通るのを待ちながら頭の中の九十九に話しかけた。

 相変わらずイラつく声に癪に障る口調。顔など見た事はないが、さぞ俺の不興を買う表情をしているのだろう。


 頭にやっていた手が、ぐしゃりと灰色の髪を握り締めた。


「忘れるなよ。まあ俺がそもそも忘れんが」

(はっは、特別扱いたあ、身に余る光栄だ! 大好きだぜこの野郎!)


 一瞬で沸点を超えた激情が、頭の中を一周して逆に凍らせた。

 拳を地面に叩き付けそうになり、しかし同じ失敗はしまいとただ掌を地面に押しつける事で凌ぎ、しかし独りでに拳を作った手が、ガリガリと地面を抉り取る。


「どうしたんですか?」


 余程殺伐とした表情をしていたのかもしれない。

 近寄り様に知り合った男女──リィラが声をかけてきた。まあ、心配して、と言うような声ではまるでなかったが。


「……何でもない。食っていいぞ。それ塩」

「では、遠慮なく」


 偶々あった石に腰かけると、リィラは手近な魚を手に取った。

 しかし、塩を振りかけるのに苦労していたので掠め取って先ず俺から使ってみせると、要領を得てリィラもすぐに魚にあり付いた。


「塩は、高級品じゃないのか?」

「いつの時代の話ですか」

「あっそ」


(……質問だ、九十九)

(おお、待ってたぜ。当たり前だよな。聞きたいよな。聞けよ。さあ聞けよ今聞けよ。懇切丁寧に答えてやる)


 何か考えていた訳ではない。

 ただ、その質問をしたのは目の前の焚き木がそれから10回程薪を爆ぜさせた後。

 

 散々吟味した挙句、結局何の工夫もないそれをぼそりと口に出した。

 ただ一言。


──『あれから、どれ位時間が経ったのか』と。


 しばしの沈黙。九十九が小さく笑った。


(安心しろよ。残念ながら、一億年なんて経ってねえ。今回はちゃんと数えてたぜ? 褒めろよ)

(……さっさと言え)



 そう言うと同時。


 何処かでいやらしく口元を上げた九十九の顔が脳裏に浮かんだ。その顔はやはり琴線に触れるな、と思った時、九十九がそれを言った。



 13053年。


 一万と、三千飛んで、五十三年。

 一万三千五十三年。


 13053年。


 色んな顔が、浮かんで、消えた。




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