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ハイイロ ノ カナタ  作者: mild
第二部
184/281

開始します。





──西暦幾年、日本。


 少しだけ都会の。しかし周りの近代化をゆるりと拒絶したかのような古造りの大屋敷。

 その敷地の端にひっそりと建てられた土蔵の中。


 いらない荷物がそこかしこに積み木のように几帳面に積まれ、しかしあまりに量が多いため整頓されているとは言い難い。

 事実、小さい陶器や、何やら古いテレビ、場違いな鎧などが雑然と置かれているのだ。統一感だとか、雰囲気だとか、そう言った物とは無縁の空間。


 そこで、一人の女が冷たい地面に座り込み、やはり冷たい壁に背中を預けていた。


 案外、部屋の中は寒くはない。ただ外気を防いでくれている壁と地面が僅かに冷たいだけ。

 今は女の少しばかり熱すぎる体温が勝って、女に冷たさは伝わらない。


 ふと、女の手が届く場所に刀が落ちていた。

 柄も鍔もどこぞに消え、赤茶色に錆びた刀身だけが静かに冷たい地面に落ちている。


 好都合だ。誰かが来て、この子を殺そうとするならこの錆びた刃を突き立てやる。

 震える手を刀に延ばし、引きよせ、握る。


 そうして、力なく天井を仰ぐ。

 決して熱い訳ではないのに、体から熱を奪った汗が体中に滲み、髪と襦袢を肌に張り付かせていた。


 そんな中、女はふと自分の死を悟った。


「────」


 その、大きくふくれた腹を女は優しく撫でた。

 お兄ちゃんを頼りなさい。あの子も難しい子だけれど、きっと興味を持ってくれるから、と。


 父は既に殺された。

 旧家の、しかし名家だ。宗家の女がそこ等の男に孕ませられたのは由々しき事なのだろう。

 閉鎖的なこの家だ。

 父が居ないなら、子を無くしてしまうのも難しくはない。ましてや、母も傍についていてやれないのだ。


「あ……」


 途端、ずぐり、と筆舌しがたい痛みが女の脳髄を走り抜けた。



  


 ──そして、それは、生まれ落ちた。


 温い液体の中、陸に上がった魚の様に不器用に呼吸を繰り返し、しかし十全に生きていた。

 それ、としか言いようがない。名前はまだないし、名づけるべき存在も既に息絶えている。

 ならば、人間と呼称するか。──否。


 それは異常だった。

 人間と言うには憚られる程には、異常だった。


 それは知った。

 今の自分はあまりに無防備で、爪も牙もなく、絹よりも脆い肌で、水の様に柔らかい骨で出来ている。


 ああ駄目だ。これでは死んでしまう。

 思考があった訳ではない。もしかすれば母体の死を感じて、自分を守る物が一つたりとも存在しない事に本能で気付いたのかもしれない。


 そしてそれはまた、ふと気付く。

 何やら、ある。


 身を守れる物が、ある。

 赤茶色の、無造作に地面に転がった、硬く、害し、守れる手段が。


 手を伸ばす。

 しかし、それを扱うには自分の体は余りに短く、弱く、脆い事に絶望し。


 そして、それは。

 容易く常識を脱ぎ捨てた。




  ◆





 しんしんと、雪が降っていた。

 音もなく雪は降るのに、擬音を付けるのはどうかとも思うが、しかしこれが実に的確だ。これを思いついた人間は、さぞ得意気にほくそ笑んだのだろうと。

 志貴野冬夜は、そんな事を思いながら窓の外を眺めていた。


 彼は天才と謳われる。

 それは紛れもない事実ではあったが、こんな馬鹿な事を考えている横顔もなかなかに理知的なのは少々誤解を招くのも確かだった。


「冬夜様」


 志貴野家は旧家の名家だ。

 寂れた田舎にありながら、優秀な人間を次々に輩出した家として、志貴野の名前はあらゆる世界でささやかに有名であった。

 志貴野家が異質なのは、そのバラエティの豊富さだ。


 政治家がいれば画家もおり、類稀なスポーツ選手もコンツェルンの長もいれば、芸能界の重鎮も、ヤクザで幅を利かせているものもいる。

 志貴野家の人間には、何かしらの才能があった。明らかに他とは違う、突出した"一"が必ず存在するのだ


 それが余りに確実なので、まずその才能を見つけなければ家から出られないほど。と言えば少しはその異常さが伝わるだろう。

 しかし聞くところによると、これでも弱くはなったらしい。


 外から血を取り入れた故の必然か。

 残っている古書には"異才"どころか"異能"を発揮する人間が、事細かにそれでいて臨場感溢れる文体で書き綴られている。


 事実、居たのだろう。

 しかし今は居ない。

 それを衰退だと嘆く人間がほとんどだが、それは違うと言うのが冬夜の考えだった。


 時代に合わせて、変化したのだ。

 事実、手から火を出せる異能より、火を何よりも知れる異才の方がこの現代では役に立つ。


 まあ、どちらが好みかと言われれば──。


「冬夜様、いらっしゃいますか」

「……ん?」


 聞こえた声に、冬夜の思考は中断された。ふい、とその声の方に視線を向ける。


「母刀自殿が、見つかりました」

「何処だ」

「西端の土蔵に。しかし……」

「待て。今行こう」


 死んだ。

 使いの男の声と表情で冬夜はそれを察した。

 流石はこの自分の母親と言うだけあり、中々豪胆で思慮深く、何より面白い人だったが、残念ながら体が弱かった。

 恩もある。腰を上げない訳にはいかなかった。


 几帳面に張られた襖をあけ、縁側から下駄を履いて外に出る。

 途端、ぶるりと体が震えた。今日は四月の終わりのはずだが、気温は朝から報道されるほど低く、空も灰色の雲に覆われていた。

 何より朝から雪が降っているのだ。春もうららなこの時期に。


「ふははっ」


 一人、志貴野冬夜は隠そうともせずに笑った。


 柄にもなく何かが急かすように背中を押すのを自覚しながら、しかし志貴野冬夜はゆっくりと歩を進める。

 噛みしめる様に、踏みしめる。


 予感、いや、それは確信だった。

 季節違いの雪もそれを暗示しているようで、余計に胸を高鳴らせる。

 この日が来る事を待ち望んでいて、しかし時間を待つしかなかった為にもどかしさに布団の中で悶えた夜の多い事。


──西端の土蔵に続く最後の角を曲がった。


 その期待は。確信は。

 もしかすれば想像を超えて志貴野冬夜に、満を持して訪れた。


 かちりかちりと、それを中心に世界が変わっていく。

 あっという間にパリパリと薄鼈甲の膜がはがれ、空気に溶け、鮮やかな世界が広がった。


 ああ、今まで自分が生きてきた世界は灰色一色だったのかと、冬夜は陶酔しながらそう思った。


「さて」


 ならば会合を果たそう。

 そこにいるはずの生まれて間もない弟の姿などない。

 在るのは転がった死体と、雪の上に飛び散った鮮烈な赤色と、立てもしないのに縫い付けられたかのように手の平に刀を握った、少年が一人。



──、─、─……。



 少年は常識を知らないらしい。

 何の不自由も、不思議もなく、目の前で異常をきたす。


 雀卓で隣の牌を何のためらいもなく覗くような、子供じみた可愛さすら感じる。ルールを知らないのだ。

 異彩でも異才でも偉才でも異能ですらなく、それはまごう事なき異常である。


 ぼこり、と背中が膨らんだ。

 それは凝縮された筋肉で、ポンプで水が運ばれるようにぼこりぼこりと体に配分されていく。


 骨は軋みながら膨張と硬化を繰り返し、命を脱ぎ捨てるような所業でそれは成長を遂げた。


 ──いや違う。

 志貴野冬夜は確信を持って確信する。


 これは命を捨てる所業ではなく、どこまでも生にしがみつく本能の権化であると。


「抑えます」


 志貴野冬夜の傍仕えだった男が、隣を走り抜け"それ"を制そうと走る。


 優秀な人間だ。ボディガードを兼ねている為相当に腕も立つ。しかしそれでも止めるべきだと冬夜は知っていたが、口をつぐんで、かわりに端を釣り上げる。

 何の事はない、好奇心が邪魔をしたのだ。


 とん、と傍仕えの男の首が凛々しい表情のまま雪の上をコロコロと転がり茂みの中に消えた。

 想像通り。心地良い。


「ふははっ」


 愉快気に志貴野冬夜は笑いながら、無遠慮に歩み寄る。

 それの、今の姿は十八かそこらだろうか。もう殺すのは難しい。

 もしかしたら、この化け物を殺す事が出来たのは、生まれ落ちた一瞬だけだったのかもしれないとそんな取り返しのつかない事を思いながら、志貴野冬夜は"それ"の前に立った。


 急激な成長の障害か腰まで伸びた黒髪。隆々とした筋肉の四肢。

 そして、人間らしい理性など欠片も宿っていないその黒目。なるほど、毎朝鏡で見る顔の面影がある。


「どうやら、本当に俺は兄になったらしいな」


 ぴくり、とそれは肩を揺らした。

 とある言葉に反応した事に冬夜も眉を揺らす。


「兄、か?」


 言いながらくっくと志貴野冬夜は喉の奥で笑う。どうせあのお茶目な母上殿が妙な事を言ったのだろう。


 何の警戒も無しに志貴野冬夜はそれの前に腰を下ろす。

 刃は届く。

 しかしそれが振られるのはまだ先だ。


 動く物は何もない。ただ静かにしんしんと雪が降り、血も死体も覆い隠していく。


「名前は貰ったか、弟」


 反応はない。

 この大きさの頭なら、理解能力はあるだろう。名前と言う言葉に反応しないのならば、つまり貰っていないのだろう。


「ふむ」


 静かだ。

 直に騒ぎを聞き付けて屋敷中から人が集まるだろう。だからこの静けさは恐らくこの先得難いもの。


 その景色に目を奪われて、ふと志貴野冬夜は思い付く。

 そもそも、自分の名前もあの気ままな母上殿が適当に決めたのだ。

 冬の夜に生まれたから、冬夜。安易で純粋な名前だが、周りが言うには自分によく合っているらしい。


 そんな事を考えていると、ふとこの人外につける名が自然と頭に浮かんだ。


──"しんしんと、春の日に雪が降る"


 それは、明らかな異を示す、化物にふさわしい呪われた名前。





      ◆





 春雪は目を覚ました。


 目を開けても目の前が滲んでいるのは、何故だろう。

 そんな事を考えながら体を起こすと、目の前に広がっていた緑色の塊がだんだんと輪郭を取り戻し、森の形になっていった。


 どうやら、長い事使っていなかったせいで目が眩んでいたらしい。

 僅かに喉に乾きがある。目が空気を警戒している。声が外に出ることをためらっている。眠気がガンガンと響く鐘の様な頭痛となって訴えかけてくる。

 それでも何度か手の甲で目を擦り、力強く瞼を開閉させるとあっという間にそれらは遠のき、見る見る内に景色が整っていった。


「ここは……」


 森。

 話だけ聞いてそのまま作れば出来ようかというほど典型的な夜の森が広がっている。夜気に濡れ冷気を吐きだす。

 工夫もなければ、遜色もない。

 そんな、それこそどこにでもあるような緑の群れに、ハルユキは郷愁を覚えて思わず首を傾げた。


(……ああ)


 思い出した。

 そう。忘れるはずもない。小高い丘の上、何故か中心に一本だけ生えた大きな木の根元。一億年ぶりの景色を見た場所。

 長い時間眠っていた、その感覚までが同じだ。それはつまり、目が空気に驚いた理由も同時に説明していた。

 

 記憶が曖昧だった。

 確かビッグフットから帰ってきてオウズガルに居た。そして──。


 するすると芋づる式に記憶が甦って行くにつれて、ハルユキの目が大きく見開かれていった。


「──九十九ォォォオッ!!!」


 思い出したと同時、ハルユキは図らずも怒声でその名前を叫んでいた。

 寒気がするほどに静かな森にその声は大きく響いて木霊するが、何処からも返事は返ってこない。


 鼻息も荒く、血走った眼で辺りを見渡すが当然現実で会えるはずもなく、そしてどういう事か頭の中にもいないようだ。


「……」


 体を取られてからの記憶は曖昧だ。

 しかし、どういう訳か。いや、無意識的に抵抗しようとして意識が浮きあがったのだろう。

 それぞれ思い切り誰かを痛めつけた時の記憶ばかりが残っている。


 抑えきれず、思い切り拳を地面に振り下ろした。


「……っち」


 飛んできた飛礫を手で顔を覆って防ぐ。

 軽く殴っただけの地面が抉れ、破壊の跡が大きく広がっていた。

 上がり過ぎた力がそれでもまだ闇雲に上昇していて、これはまた日常的に手加減する練習が必要だ、と。

 そんな思考が割り込んできて、少しだけ頭が冷えた。


 舌打ちを一つ。

 とりあえず状況を把握するかと、ハルユキは立ちあがった。


 鼻から森の空気が入り込む。

 やはり、感じるのは懐かしさ。ここで生まれ直したと言っても過言ではないのだから、故郷と呼ぶのもやぶさかではない。


「何だ──……?」


 しかし、先程から頭の隅に引っ掛かっていた違和感が五感の至る所でチラついた。


 先ず、動物や虫の気配がしない。

 怒鳴ったり、地面を揺らしたりしても一切だ。それにここがあの場所なら、流石にまだドラゴンと戦った時の痕跡が残っているはずだ。

 しかし、今はそれもない。当然あの時から一緒に居た少女の姿も見当たらなかった。


「……なら」


 鬱陶しい程の鋭さを誇る感覚神経が、傍に誰もいない事を何度も何度も繰り返し教えてくる。

 まるで体の中に別の生き物がいる風にさえ思えるその感覚を意識的に抑える努力も必要だろう。

 情報を処理しきれないせいか頭の後ろに鈍痛を覚えながら、ハルユキはもう一度当たりを見渡した。


「街に、行ってみるか……」


 とん、と軽く地面を蹴れば隣に屹立している大木の背を簡単に追い越し、頂点に達するころには目に見えるほとんどの物より高い位置に居た。


「あっちか」


 夜の森と大地が広がる中、ある一部分にだけ光が群生していた。

 見たところ5kmあるかどうかといった所か。前回はフェンを担いで辿り着くのに一晩かかったが、今度は迷う事もない。


 吹き荒ぶ上空の冷たい夜風を浴びながら、もう少しだけ周りの様子をうかがって、再び街に向き直る。


 とん、と宙を蹴ると、推進力を得た体が滑るように夜の空を進んでいく。この調子だと1分もかからないだろう。


 動く度に、何かがずれていくのを感じていた。

 感じる歪さは体ではなく、周りから、空気から、視界から、世界から。

 そしてその事にあまり疑問もわかない。

 張り付けたような星空に前の様な感動もない。

 限りなく薄めた油をかき分けて進んでいるような、妙な感覚が常に付きまとう。



 それはまるで、出来損ないの夢を見ているようだった。




「これは……」


 結局1分かからず街の入り口に着地したハルユキは、やはり驚きは沸いてこずただ困惑に眉をひそめた。


(ホラーだな、まるで)


 喧騒があった。温かいオレンジ色の明りがあった。その明かりに照らされて伸びる影があった。

 しかし、その全ての源である人間の姿はどこにもない。

 どこからともなく喧騒が響き。

 明りと笑い声が聞こえる部屋の中には誰もおらず。

 地面に張り付いた影だけが大通りを行ったり来たり。


(……狂ったかな、遂に)


 異様な光景に何故か怖さは付き纏わない。

 どちらかと言えば、手が込んだ芸術を見ているような、そんな感心と物珍しさが先に来る。


 暢気に頭を掻きながら、ふらふらとハルユキは歩き出した。

 オウズガルとは違い石で舗装はされておらず、しかし踏み固められた地面はそれはそれで歩きやすい。

 露店があった。

 食事処があった。

 服屋があった。

 ハルユキが行った事もある武器屋があった。

 暴力ババアがいた酒場もあった。


 しかし、どれだけ探しても人っ子一人見当たらない。

 それほど大きくは無い街だ。ざっと見て回ると、ハルユキは往来の中で突然立ち止まった。


 大通りのど真ん中で、それはそれは通行の邪魔だろうが、周りの景色も何も変わらない。

 この町には、もう本当の意味で何もない事を再認識して、ハルユキは僅かに視線を上げた。


 視線の先には、城。

 白を基調とした、高い壁に囲まれた堅牢な城。


 確かに地面ごと叩き潰した城が、所々に明りを灯しながら悠然とこちらを見下ろしていた。

 不思議な感覚。まるで二度と他に意識などやらないとばかりに、城は存在感を振りまきハルユキの視線を誘導する。


 それに刃向かう事はせず、ハルユキは導かれるように足に力を入れて、地を蹴る。


 とん。

 とん。

 とん。

 とん。


 城門の前に来た。

 ふと、ここまで来た際の道のりで見た景色がぼや付いている事に気付いて振り返る。


「……そうか」


 闇が広がっていた。

 踵のすぐ後ろまで黒い何かが侵してきている。いや、よく見れば城の背後もそして左右も漆黒の何かに飲み込まれていた。


 もうこの世界にはハルユキと城しか存在しない。


 それでも、やはり驚きはやってこない。

 ああ、ならばやはりこれは夢なのだ、とハルユキはそこで断定した。


 視線をゆっくりと、目の前の城門に戻す。


「お邪魔します」


 何となくその木の門を手で開ける気にならず、思い切り拳を振り下ろした。

 扉は吹き飛ぶ、かと思ったが、力加減を間違えて拳が扉を貫通する。


「……」


 拳を抜き、普通に手で扉を押しあけて城内に入った。

 先ず目の前に広がったのは前庭。以前は、ぞろぞろと集まってきた兵士をここで相手取ったはずだ。


 扉もなくそのまま中庭に続く入り口を潜る。

 そこから色々な廊下に枝分かれしていて、そこでいったん足を止めた。


 ここは知らないはずの場所だった。

 辺りに視線を配りながら、ハルユキは考えなしに廊下を歩いていく。


 一度見た事がある廊下もあれば、妙に壁が分厚い部屋もあったし、先程一度見た部屋に行き着いてしまったりを繰り返して。


 それからどれぐらいの時間彷徨っていたかは、例によってあまり記憶には残っていない。


 気が付けば。

 本当に気が付けばと言った具合で、目の前に扉があった。


 城門を除いて一番大きな扉。いつもこんな大きい扉を使う訳ではないのだろう。脇に小さな扉も付いている。

 施された意匠の微細からいっても、恐らくこの奥は玉座だと推測できた。


 ふと違和感が頭をよぎる。

 この場所は知らないのだ。それなのに見えている光景はいやに鮮明だし、ここに来たのも偶然ではない気がして。

 そして、その違和感はこの扉を開ければ消えてなくなる、と自分が理解している事にも疑問を感じた。


 何の躊躇いもなく、小さい方の扉を開けて中に入る。

 予想通り視線の先には背もたれがやけに長い据え置きの玉座があって、何やら白と青の布が天井を煌びやかに装飾して。



 玉座に続く赤絨毯の上に一人、男がぽつんと立っていた。



「誰だ」



 侵入しておいてこの文句はどうかとも思ったが、あちらはそれが判っていたように柔和にほほ笑んだ。


 毒気と一緒に警戒が解ける。

 細身でひょろりと縦に長い体躯はあまり健康的とは言えず、またハルユキには、その姿にとても敵意があるようには見えなかったのだ。


「いやその、悪い。ここに入ったのはつい、少し懐かしくて──」

「気にしなくていいよ」


 その声と同時。だん、と足元で音がした。

 見れば男の姿が消えている。そして、視界の端から迫ってくるのは、鋭い銀色の軌跡。


──先、鼓膜を揺らしたのは、稲妻のように鋭い男の踏み込みの音。



「──っ」



 ぞん、と音を立てて下から振り上げられたサーベルが空を斬った。

 その鋭さに思わずハルユキは距離を取る。

 追撃を警戒したが、男はその場に留まって自分で振った剣を眺めて相変わらず柔和な顔。


「……駄目って言うなら出ていくが、それは酷いんじゃないか?」

「いや、君は私に斬られる──ではないにしろ、殴られる義務はあると思うがね」

「……はあ?」


 そう言いつつも、その男は何事もなかったかのように細身のサーベルを腰の鞘におさめた。


「しかし、私は君が嫌いになれないんだなこれが。何しろ掛け替えなしの恩人だ」

「判るように説明して欲しいが……」

「判らないように説明している。それに嫌いではないが恨みはあるんだよ」

「何なんだよ」

「何なのだろうな。義務というか、責務というか」


 そして、男は不器用そうな笑みを作った。


(……?)


 既視感。

 どう考えても初対面の男に感じるはずもない感覚に気付いた頃。


──だん、と再び足元から音。

 鍛錬を重ねた特別な歩法でも使っているのか、2回目でもその動き出しは見切れない。


 しかし、その動きに置いて行かれるという事はなく、下から振り上げようとする拳をハルユキは容易に捉えていた。


「まあ、娘を泣かされた親としてはね」


 ところが、その言葉を聞いたハルユキの体は硬直し、迫るその拳を避けられなかった。

 がつん、と生々しい音が響く。


 骨ばった拳は、思ったよりもひ弱でハルユキの顎を浮かせる事も出来ない。

 しかし、ハルユキを襲った衝撃は思いのほか大きく、ハルユキが言葉を発したのはその拳が離れた後。


「……お前」

「いたた、人の顔なんて殴るものじゃないね」


 ぷらぷらと殴った手を振って熱を冷ましながら、男は数歩下がって距離を取った。


「好きにはなれないな」

「え……?」

「簡単に避けられるのに、わざわざ当たってくれたし。お陰で避けると思って振り抜いた私の右手がすごく痛い」

「……そんなつもりはなかった」


 顔を顰めるハルユキに、またしても柔和に顔を綻ばせ、──それとほぼ同時。

 立っている床以外の全てが闇に飲み込まれた。


「……まずいんじゃないのか、これ」

「うーん、私にとっては関係ないとは言えないけれど。まあ、君に影響はない。安心していい」


 それは何となく判っている。

 お前が大丈夫なのかと聞いたつもりだったが、伝わらなかったらしい。


 いや。今頃気づいたのか、呆れたような笑みを此方に向けていた。ハルユキは気まずくなって舌を打ち、視線をそらす。


「……そもそも、ここは何なんだ?」

「うーん、強いて言うなら君の中だけど。そうだね、私が入り込んだせいで図らずも改築してしまった」

「入った?」

「ああ、君しか魔法の耐性が低い人間がいなかったからね。思わず」

「意味が判らん」

「まあ、そういう魔法ってことだよ」

「またそれか……」


 いつまで経っても魔法にはなれない。溜息をついて視線をそらすと、その瞬間、また視界の端で鉄の色が躍った。

 跳ねるように視線を上げると、緩やかな放物線を描いて此方に近づく細身のサーベルがあった。

 抜き身のそれを、何とか捕まえる。


「それをね、それが判る人に渡して、あと伝えて欲しい」

「伝える?」

「ああ、"この剣を使う役目は果たせなかった。君の手を汚してしまう事を許してほしい。でもどうか耐えてくれ、何があってもだれが敵でも、僕だけは君の味方だ"と」


 意味は、測りかねる。

 しかしそれもまた、判らないように、──判る人間にしか分からないように婉曲させた言葉だという事は判った。


「判った。これを見せれば判るんだな?」

「ああ、すまないね。少しだけ長くなったけどよろしく頼むよ。その剣も中々に貴重なものだから丁重にね」


 刀身に目を落とせば、成程薄く、さも意味ありげに何かの文字が彫られているようだ。


 その隙に、ずるずると男は闇に溶けていく。もう姿はない。

 この世界の中心がまるでハルユキにあるかのように、どんどんハルユキに向かって闇が近付いてくる。


「あ、そうそう」


 ずぼん、と目の前の闇から先程の男が顔を出した。

 どういう訳かそもそも闇は怖くはなかったが、ますます怖さは薄れてしまう。それこそ、口元にあきれた笑みが浮かんでしまうほど。


「君のために祈っておくよ。どうか、幸せに」

「どうも」


 ずぶん、と今度こそ男が闇に沈んだ。


 遂に地面が、いや世界の全てがハルユキの足元だけに。

 目の前の闇に触る。

 液状か、ゲル状かと思ったが、触った感覚はなく何やら中途半端に温かかいだけ。


 視界の全ては既に黒一色で、今闇に包まれているのか、それとも自分だけ孤立しているのかも判らない。




  ◆





 目を開けた。

 そう、目を開けた。

 先程の目を開けたという感覚が、どれほど現実とかけ離れていた物なのかを思い知る。


 そうだ、風はあんな乾いた物じゃない。

 星はあれほど淡い物じゃない。

 草の匂いはあんなに上品じゃない。


 これこそが本当の世界である──!



──と。


 そんな目覚めを俺は期待していた訳だが。

 なにやら生々しい腐った肉と骨の匂いが鼻に付くわ、ぬるぬると体に絡みつく粘液が肌にピリピリとした痛みを送ってくるわ。

 何やら伝わる感触が生温かいわ。ズタ袋にでも詰められでもしているのか、どうも体の自由が利きにくいわ。


 それも何処かに運ばれているようでぐらぐらと、そして時折激しく揺れている。

 生温かく、生臭く、そして身動きが取れない状態で不規則に揺れながらきつく締めつけてくるのだ。


 この状況に感謝できる人間は、一人もいないと断言できる。


 だからその理不尽さに、目を覚まして三秒で額に青筋が浮かぶのは仕方がないし。

 そして、その状況を打破しようとイラつきに任せて拳を握り込むのも。それをろくに考えもせずにぬるぬるとした壁に向かって振り上げた事も。


 とてもとても仕方がなかった事なのだと、記しておく。



「う、おっ!」



 しかし、振り上げた拳は一際大きな揺れのせいで解かれる。


 しん、と静かになった状況に困惑する事数秒。目の前の暗闇が、一筋の光の線に斬り裂かれた。




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