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ハイイロ ノ カナタ  作者: mild
第一部
182/281

節目

「──ひっひ、」


 その男、いやハルユキ(、、、、)は町並みを、暮れずむ夕闇を、すれ違っていく人々をゆっくりと見渡して小さく肩を震わせた。

 口を押さえ俯いて、それは泣いている所作によく似ていたが、僅かにのぞくその顔はうっすらと上気すらしていて、ドロドロとした興奮で濡れている。


 不意に。

 男が、天を仰いだ。



「あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああッ!!!!!!!!!!!!!!」



 音。声。いや、絶叫。

 頭の中を襲うその轟音が男の絶叫だと気付いた時、ユキネを始めその場の全員が耳に手を当て座り込み、激痛に表情を強張らせていた。

 通りを抜け、窓ガラスに罅を入れ、町中の音を呑みこんでいく。


 一瞬後、しん、とこの時間帯この場所にしては異常なほどの静寂が場を支配した。


 ここは町の外れ。人の通りはそう多くない。

 しかしたまたま近くにいた人間はいて、殆どが気絶し、耳からは血が流している。

 そして、それを一瞥もせずに素通りして、ハルユキは一歩前に進む。それだけの行為が、決定的にハルユキとの差異を漠然と示している。


「気ん持ち良いなあこりゃあ、おい! キャラも変わるわなあ! 妙な突っ込み入れてごめんな兄弟ィ!! って忘れたかぁ! 死ねハゲェ!」


 風が空が緑が町並みがと男は歓喜を叫ぶ。

 周りが再びざわつき出してはじめて、男の叫びが町中に伝わっていて、そしてその異様さに多くの人間の口を閉じさせた事を知る。


 見れば、その異様さにひかれて反射的に剣を抜いた兵士が一人。その判断は常識的には決して間違ってはいなかったが、この状況ではそれは何にも勝る愚行だった。


 僅かな害意に反応して、男の目が兵士を見据えた。


糞発見ファック


 男の手が上がる。手の中に黒い筒状の何かが現れる。そして何の躊躇いもなしに引き金に指の力が加わった。



「おい」



 害意に対してその殺意が撃ち出される寸前、黒い筒の砲門が横合いから伸びてきた足に蹴り上げられた。

 次の瞬間には、乾いた炸裂音と共に鉛の塊が明後日の方向に飛んで行く。


「誰や、お前」


 蹴り足の主はジェミニ。

 その足でゆっくりと歩を進めてハルユキの前に立ち塞がった。その眼は薄く開かれ、その奥では先程の兵士とは比べ物にならないほどの敵意が光っている。

 それを見て、男はへらへらと笑った。


「俺は知ってるぜ。お前はジェミニだ」

「……?」

「でもな、言っただろ。俺は九十九ツクモ。間違えんな」


 ほんの一瞬。刹那といっても過言ではない一瞬、ジェミニが困惑の表情を見せた。

 その一瞬が終わった時。



「不届き」



 ジェミニの体に、ハルユキの前蹴りがめり込んだ。

 一瞬。

 ハルユキの姿と言えどジェミニに油断などあるはずがなかった。ただ、あったのはほんの一瞬の困惑。

 "その程度の隙が"と、そんな常識を嘲笑うかのように、ハルユキは文字通りジェミニを一蹴した。


 ユキネにもジェミニが突然消えたようにしか見えなかった。またも一瞬の後、町の遠くで轟音が響く。



「悪いな。名前間違われるのは酷くイラつく。何しろ、俺はまだ名前しか持ってない」



 ハルユキが前蹴りを放ったとわかったのも、位置関係とそしてその足にべっとりと血が付いているから。

 またしても、しかし今度はまるで凍土のように硬く空気が凍った。もう解ける事はないとばかりに硬く、硬く。凍ったように、誰も動かない。


「さて」


 例外なのは、ハルユキただ一人。

 一体何を思うのか、その視線は何かを探すように町中を彷徨うとある一点を見据えて眼を細めた。


「見つけた」


 口元に再び笑みを戻すと、ハルユキはその場で僅かに屈んだ。

 ユキネは、それが跳ぶための予備動作だと少し遅れて気付くが、間に合わない。


「ハルユキさん──!」


 だから、その跳躍を止めたのはユキネの背後から聞こえた高い声。銃口を真っ直ぐにツクモの額に向けていた。

 しかし、ツクモが興味なさげにシアに視線を移すとその瞬間、手に握っていた拳銃が空気に溶けてなくなった。


「あ……」


 どれほどの勇気を振り絞った行為だったのか、それを容易く挫かれたシアはその場でへたり込む。

 そして、再びハルユキは強く地面を蹴った。


 しかし地面から足が離れた瞬間、今度は真正面からレイの全力の蹴りが迎え撃った。


「──っ」


 しかし、それを腕で防がれ苦悶に顔を歪めたのはレイの方。勢いなどほぼ削れず、そのまま足を掴まれる。



「邪魔」



 そのまま振りかぶると、ハルユキは明後日の方向に向けてレイを放り捨てた。

 体にかかる負荷に顔を顰めながら、レイは背中に広い血の翼を作り出して、風を受け止め勢いを殺し、──そして。


 無数の黒い何かがこちらに向いている光景を見つけた。

 全て相応の爆薬を積んだRPG。それがどういった物かはレイには判らなかったが本能的に作り出した翼で体を包み込んだ。


 次の瞬間、けたたましい轟音の連続と共に黒い弾頭がレイを釣瓶打ちにした。


 爆煙と爆音を撒き散らしながら地面に墜落した何かからさっさと視線を外すと、九十九は残る三人に目を向ける。


 そして、今度こそ九十九は地面を蹴って空高く跳躍した。

 表情を凍らせる事しかできなかった彼女達を置き去りにして。



「ぎゃははははははははははははははァっ!!」



 一瞬で屋根を超え、大きく宙を跨ぎ、景色が後ろへ消し飛んでいく。


 頬に風が当たる。髪がたなびく。勘の良い人間が此方に視線があたる。視界の下の端で人間の顔や市場、煤けた石の屋根が後方に吹き飛んでいく。

 そんな些細な物に歓喜を示し、男はすべてを置き去りに宙跨ぐ。


「到着」


 そして、着地したのは町の中央に位置する城の前庭。周りにはたまたま一人の兵士がいて、驚きに目を丸くするが顔はお互いに知っている。


「王女──、ノインはどこだ?」

「ノイン様なら、執務室だ。しかしどうしたハルユキ殿。ああそうか確か今日は──」


 どこか遠出に行ったのだったな、と兵士が言葉を続けたならばそんな内容だったのだろう。

 しかし、男に首を打ち据えられ昏倒した兵士からその言葉を聞く事はない。


「執務室ね」


 少しの間、九十九は思考を止めて記憶を探る。

 大事に大事にしまわれているそれらを乱雑に掻きわけながら、目的のそれを手繰り寄せた。


 記憶から引きずり出したその場所は、幸いここから視認できる場所にあった。

 軽く足に力を入れると、重力を引き千切って体が浮いた。景色が霞み、戻った時には男は執務室のバルコニーに足を付けていた。


 男が近付くと、ナノマシンが音もなく窓を寄せて入口を作る。


 赤い豪勢な絨毯と垂れ幕はあの王女の趣味なのか、しかし部屋全体としては寧ろ質素に出来上がっている。

 それらの意匠をも、また乾いた感性が吸い取り感動を吐き出すのを感じながら九十九はゆっくりと部屋を見渡し、──それを見つけた。


 部屋の片隅の平机の上に飾られているそれ。

 布に包まれているそれを手に取り、静かに解いていくと目当てのそれが姿を現した。


「──止まりなさい」


 ひたり、と首に刃物の感触が伝わったのは、そんな時。両手を上げて僅かに視線をずらすと燃えるような紅色の髪がチラついた。


「俺だノイン。落ち着け」

「あらハル? どうしたの? 夜這いかしら」

「とりあえず剣をどけてくれ。落ち着かん」

「ええ──、」


 す、と首の横に当てられていた刃が離れ、そしてそのまま体ごと一回転したノインの剣が今度は反対側から九十九の首に向かった。

 しかしその刃は一秒前に九十九の首があった場所を通過しただけに終わる。

 九十九の訝しげな視線がノインに向けられる。


「……何で分かった?」

「何の事かしら?」

「……何って」

「私はただ、乙女の部屋に勝手に入り込んだ破廉恥男を血祭りに上げようと思っただけ。まあ、実際は間抜けな鼠だったみたいだけど」

「偶々かよ……」

「……偶然。ええそれもいいわね」


 一瞬で目の前から消え、部屋の隅にまで移動した九十九に戦闘力においてノインは自分との圧倒的な実力差を感じた。

 しかしそれでも、不敵な笑みのまま。そして当たり前のように勝つ事を確信して敵意をぶつける。


「もしかしたら、運命かもしれないじゃない」


 九十九は一瞬驚きに口をあけ、そしてそれを閉じ直すと肩を震わせ始める。


「──っく、いやはや、愛されてるね、それもこんな奴に。実に羨ましい」

「心中お察しするわ」


 す、とノインの視線が九十九が握った剣に移る。

 黒塗りの鞘に入った魔法の剣。わざわざ取りに来たという事は何か因縁があるものなのか。

 ノインの視線に気付いた九十九は、楽しそうに口の端を上げた。


「一つ言っておくが、この体は間違いなくお前が知っているあいつの物で、そしてこれを欲してるのも八割方あいつの意思だ」

「……魔法と縁がないあの男が、そんなあからさまに魔法が練り込まれた剣に因果があるとは思えないわね」


 当初より、ハルユキがこの副賞を求めて闘技大会に出場した事は聞いていた。

 だから今述べた言葉は前から心内に秘めていた疑問の一つだった。


 それを聞いた九十九は、常識が食い違っていたかのように不可解な顔を見せ、次の一瞬でああそう言う事かとやはり笑って見せる。

 不意に。

 しゃん、と涼しい音を奏でながら剣が引き抜かれた。


 片刃の剣。

 黒い刀身の中に薄らと波紋が浮き出ていて、重ねられた魔法の余波も相まって放つ光は妖しく畏ろしい。


 九十九はそれを見定めるように細めた眼でゆっくりとそれを眺め、薄い刀身を親指と人差し指で挟み。


「勘違いをしてる。俺達はこんな玩具なんて見てない」


 そして、それを粉々に握り潰した。

 何を、とノインが声を荒げる前に、九十九が本当に楽しくて楽しくて仕方がないという気持ちを抑えきれず全身のあちこちからそれを滴らせている。

 半ば恍惚とした表情のまま、剣を引き抜きそして砕き捨て、手に残った"それ"に九十九は視線を落とす。



「サヤ。起きろ」



 ぱきん、と黒塗りの何の変哲もない鞘が音を立てた。

 しかしそれだけ。拍子抜けしたのは男も同じなのか、小さくため息をつく。


「自己修復に二年ね。まあ、放っといた時間考えりゃ良いほうか」



 僅かに苦い顔をしながら、九十九は天井を見上げた。



「じゃあ、また逢う日まで」

「ッ待て!」


 九十九は壁を背にし、そしてノインの方が扉にも窓にも近かった事が油断を招いた。

 そのまま九十九は天井に向かって跳躍し、しかし天井にぶつかる事は無い。

 頭が触れる寸前に意思を持つかのように天井が口をあけ上の階への入り口を作ると、九十九の姿を呑みこんだ途端直ぐにそれを閉じた。


 ノインの声を置き去りに、更に跳躍を繰り返し再び九十九は城の一番高い場所から外に出た。


「さて」


 しっかりと目的の鞘の感触を確かめ、九十九は屋上を吹き抜ける風に目を細める。

 心の向くままもう一度叫ぼうとでもしたのか、大きく息を吸って──、そしてそれに気付いた。


 鼻を付いたのは、風に運ばれた、何か町の中には決してあり得ない匂い。



「──おいおいおいおいおいおいおい、何だありゃ」



 目を凝らしてそれを確認し、自分が現れた事には一切関係がない事を確信する。

 この空気には身に覚えがある。世界が大きく動くそんな予兆を含んだ不吉な感触。しかしだからこそ、良い時に外に出てきたものだと九十九はゆっくりとほくそ笑んだ。


 遠すぎて分かり辛いが、あれは相当な速さだ。到着までは、あと5分と言うところ。


 九十九はこの町に既に用は無い。

 見物がてら近づいてくるそれを間近で見ようと急ぎ足で町の外へ向かうことにした。


 とん、とん、とんと軽快に屋根を伝って外に向かう。

 もう一度"それ"に目を凝らすと、常人でも十分に視認できる物にまで変わっていた。


 僅かに残った黄昏色は夜の闇とは違う何かで覆い尽くされ、僅かに蠢いている。そしてその先の夜の闇もじわじわと"それ"が侵食し始めている。

 案の定町では人々がそちらに意識を向け出し、あちらこちらで悲鳴に似た声が上がりだしていた。


「悲惨な街だね」


 ふと立ち止まった屋根の上から慌てふためき、こんな時間まで町を復興していた道具を放りだして逃げ出す。

 あれだけ悲惨なテロにあった後で"あれ"は絶望的だろう。


「……ハル、ユキ」

「あ……?」


 興味半分で、逃げ惑う町人達を屋根の縁に座り込んで眺めている時、癇に障る名前で自分を呼ぶ声が九十九の鼓膜を揺らした。

 見れば姿を見つけてよじ登って来たのか、知っている顔を同じ屋根の上に見つける。


 町の騒ぎも意識に入らないかのように、ただ只管にこちらを見つめるその顔は、まだ先程置き去りにした時のまま。

 "信じられない"と、迷わずこちらを無力化しようとした奴等とは違う子供じみた顔。


 ──瞬間。

 ぎしり、と周りの空気が軋んだように感じるほどの悪意が、九十九の表情を象った。


「ユキネ、悪いな大丈夫だったか?」

「──……ッ!」


 ユキネの表情が固まった。


 そして、どうしようもない程悲痛に無様に歪んで。

 終いには、その眼に滴を溜めて何とか溢さないようにと、ぐしゃぐしゃに表情を崩してしまった。


「あれ? やっぱばれるのか。表情と、声と、あと、何だ? まあ、色々気を使ったつもりだったんだが」

「ハルは何処だ……!」

「居ねえよ、何処にも」

「嘘だ……! 嘘をつくな……!」


 首を竦めながら、ユキネに歩み寄る九十九の顔はやはり楽しげに笑みを保っている。


「……止まれ」


 そのまま膝をついて、二度と立ち上がれそうにも思えたユキネはゆっくりと顔を上げた。同時に手の中に現れた剣を、ハルユキの額に向けて。


「嫌だね」

「止まれッ!」

「断る」

「止まれぇッ!!!」


 ぴたり、と突然ユキネの言葉に従って九十九は足を止めた。


しょうがねぇな(、、、、、、、)分かった止まるよ(、、、、、、、、)ユキネ(、、、)



 そこはユキネの目の前。

 顔と顔が三十センチも離れていないその場所。ユキネが構えていた剣の先、それがハルユキの額に触れるか否かという、そんな位置。


 九十九の悪意むき出しの顔が僅かに前に傾いた。


 刃がない剣と言えど片刃だけだ。ほんの僅かに、剣が"ハルユキの体"に食い込む感触が、剣を伝ってユキネの体に伝わった。


 何か考えたわけではない。ただ反射的に本能的にハルユキに剣を向ける意味があまりに分からず、小さく息を呑んでユキネは剣を引いた。



「あ……」



 その隙はあまりに大きく、九十九は悠々と逃げて行った剣を捕まえて、

 ──そのまま、容易く握り潰した。



〈────〉



 バラバラと大小様々な破片になって、剣だったそれは地面に落ちた。



「メ、メサイアっ!」



 声がしない。先程何か言葉にすらならなかった声が断末魔だったのだと知る。

 あまりに呆気なく、無くなっていく。


「メサイアぁっ……!」

「大丈夫か? ユキネ」


 その声に思わず顔を上げた自分を、直ぐに嫌悪する事になった。

 同じ声で、同じ顔で、しかし優しげに細めた瞼の奥でぬかるんだ泥のように粘ついた悪意が渦巻いている。


「う、……あ……」


 フェンがいない。レイがいない。ジェミニがいない、シアがいない。

 これまで一緒に戦ってきたメサイアも居なくなった。

 そして目の前に、ハルユキももういない。それを自覚すると頭が何もかもを放棄し膝から力が抜け、ユキネはそのままへたり込んだ。


「ハ、ルぅ……」


 同時にぼろり、と溜め込んでいた滴が決壊して零れ落ちる。

 "ハルユキ"のそんな顔を見たくないと自己防衛でも働いたかのようにじわじわと視界を濁らせ形を崩していった。


「なあ、お前知ってるか?」

「ぅ……ぇ……?」

「"こいつ"な。お前の事襲おうとした事もあるんだぜ? 何しろ一億年だ。よく我慢したもんだ」

「一、億……?」

「そう、お前はそんな事も知る事が出来ない。なあ、自分に酔って理想を語るのは気持ち良かったか? 虎の威を借る自分に辟易もできなかったか? だからお前は雑魚なんだよ」


 ぼろぼろぼろぼろと、ユキネはそれ以上何か言う事も出来ずただますますぼやけていく視界を眺めるだけ。

 ふと、俯いた頭の上に滴が落ちた。

 九十九が空を見上げる。今にも泣き出しそうな空と、そしてますます近づいてくる"それ"を見つける。


「ほら、頑張れ。お前はいつでも頑張れる奴だろう、ユキネ」


 その声は嗜虐に染まり、その顔は狂気に歪んでいく。ただ楽しくて楽しくて堪らないから、九十九はユキネを削る手を止められない。


「頑張れ頑張れ頑張れ頑張れ頑張れ頑張れ頑張れ頑張れ頑張れ頑張れ頑張れ頑張れ頑張れ頑張れ頑張れ頑張れ頑張れ頑張れ頑張れ頑張れ頑張れ頑張れ頑張れ頑張れ頑張れ頑張れ頑張れ頑張れ頑張れ頑張れ頑張れ」

 

 言う度にユキネの肩の何かが重みを増すかのように、ユキネの体が小さくなっていくように感じられた。

 興奮で飽和しそうな頭で、もしこのまま小さくなり続けたらポケットで飼おうなどと考えながら九十九は叫ぶ。


「……返せ」

「あ?」

「ハルを、返せぇ!!」

「居ねえ、もうどこにも居ねえだろうがよッ!!」


 びりびりと空気が震えるほどの大声に、振り返る人間も居ない。

 "それ"が迫る中、こんな街の外縁部にとどまっていられるほど人間は悠長ではない。


「…………ぅ……」

「あ?」


 出鱈目に何をいったかも覚えていないような言葉を続けていた九十九が、ふと言葉を止めた。

 叫び声に近い自分の声のせいで聞き取れなかったが、目の前の少女が何かを言った。


 「ハル……、……ハル……」


 それは。

 子供のようにただ伸ばされて、ただ何の意味もなく掴まれた九十九の服の裾を鑑みるに、ただの駄々にすぎなかった。


「──お前は、」


 そのどうしようもない程に脆弱で卑小な行いに、絞り出した九十九の声は震えて、


「このタイミングで、この状況で、それでも甘えるのか……!」


 心底感心したと、初めてみる物にただただ興奮と好奇心を示していた。


「っふ、い、いやお前、くひっ、失礼。隣に立ちたい、とかっふ、ふふふひっ、言っといてさ、っそんだけ依存してどうすんだ馬鹿かハゲ死んどけぇ!! ぎゃっっははははははははははっ!!!」


 その言葉に、ユキネから返答はない。

 ただかろうじて引っ掛かる程度に九十九の足を服だけを掴んで拘束し、恥ずかしげもなく啜り泣きながら"何処とも知らない誰か"の名前を呼ぶだけ。


「な、なあ、おいおい止めろ、やべぇぞ。ってかあの野郎よく我慢しやがったな」


 容易く九十九はその手を引き剥がすと、ユキネの胸倉を引っ掴むと眼前にユキネの目がくるまで持ち上げた。

 顔は悲痛に歪んで、目の周りは真っ赤にし、顔を涙で汚し、それなのに顔面は蒼白で、唇は震え、どうしようもなく無様なその顔が、残念ながら九十九の目に美しく映った。



「──やめろよ、ぐっちゃぐちゃにしたくなるだろぅ?」



 瞬間、ユキネの体が地面に落ちた。



「あ?」



 一瞬。



「ハル……?」



 血液の代わりに悪意を顔の下に巡らせているような九十九の表情を横切って、全く九十九の意思にそぐわない行為を九十九の右手が行っていた。


 具体的にはユキネを掴んでいた左手首を握り潰し、それを左肘から引き千切った。



「……はいはい、愛されてるね」

「ハル! 駄目だ、そんな!」

「黙ってろ」



 ぎりぎりと、ただ只管に千切った左手を握り締めるその右手に理性と言った物は感じられない。



「ハ──」



 九十九の言う事などきくはずもなく、呼びかけようとしたユキネの声は、しかし言葉もなく強制的に止められる事になった。

 一瞬のうちに、左肘の切断面から何か角のような物が生えた。

 次の一瞬でその先に細い角が更に五本生えた。


 そのまた次の一瞬で、荒が削られ人の腕の形になったそれは、今度は右手を二の腕から引き千切った。


「あ……」


 そして、それがゆっくりと運ばれる。九十九の未だ楽しげに歪んだままの口の中に。


「う……あ……、ああ……」


 最後の一口を終えた九十九は、再び一瞬で蘇生した右腕をぐるぐると回しながらもう右腕が勝手に動かない事を確認する。



「お前に触れると、俺は死ぬな、多分。怖い怖い」



 もうどうしても掴めない場所まで九十九は下がる。

 ユキネとの間はたった三メートルほど。しかし、これ以上間を詰められない事をユキネは内心分かってしまっていた。



「気ィ付けろよ。お前の大好きなあいつはいないが、ここから先は多分──、」



 そこで、初めて。

 ユキネは空を覆うそれに気がついた。



「甘えてなんか、いられない」



 牙。爪。翼。鱗。それら全てを持った生物はそう居ない。


 空を覆い尽くす無数のドラゴンは、言葉を強制的に失わせるほどの威容を誇っていて。


 結果、一瞬だけそれに目を奪われたユキネが視線を戻すと、既にそこには誰も居らず、涙も流し果ててただユキネは先程までハルユキがいた場所を見つめ続ける。





  ◆





「お爺様。ただいま帰りました」

「メイ。あまり出歩くんじゃない」

「相も変わらぬ溺愛っぷりね、祖翁。その十分の一でも我らに分けて欲しいものだけど」


 そこは人は入れぬ森の中。そして古の龍すらも辿り着けない洞の奥。そして、そこに居るのは世界で最も古く尊い存在だ。

 しかしそこで繰り広げられる光景は、下手をすればそこ等の一般住宅とそう変わらない。見ているだけでは誰もそこが伝承深き霊龍共の住処だとは思わないだろう。


 変わっているのは、そこが温かみのある木の家ではなく、巨大な石の座が存在するだけの広すぎる部屋だという事。

 そして、気軽に言葉を交わしているのが決して人間ではないという事だ。


「ガク、セツ。ロウは何処に行ったの?」

「人間殺しよ、ヨウ」

「本当──!?」


 思わず立ち上がったのは黒い濡れたような髪を足首まで伸ばした長身の美女。

 その声は驚きに潰されて、喜んでいるのか悲しんでいるのかは分からなかったが、その顔にはこらえきれない歓喜が浮かんでいた。


「ああ、やっとあの趣味の悪い人間観察を止めてくれるのね! どれだけあのおぞましい生物が私達の邪魔をしたか!」

「喧しい。いい加減慎む事を覚えろ愚劣」

「何ですって? もう一回言いなさいよ。ムサイ筋肉達磨が」

「よして。今日はあたし頭が痛いの」


 扇形に設置された椅子の上。

 中心に居る老人を挟んで黒髪の女の向かい側に座るのは筋骨隆々の二メートルを大きく超える大男。

 その隣に座る少女は今度は酷く小さく、病的なほど白い肌と更に白い髪を短く切り揃えていて、座敷童子のような印象を感じさせる。


「セツ。大丈夫か」

「ええ。大丈夫ですわお兄様。ただお兄様のお膝の上に座らせて頂ければもっと大丈夫です」

「今日も絶好調でイタいわね、貴女──」


 不意に黒髪の女──ヨウの動きが止まった。

 ぴしり、と何かが罅割れた音がした。それは緊張感から来る幻聴なのか。


「メイ。私の後ろに隠れていなさい」


 いち早く事態を察したのは、部屋の上座に坐する老齢の男。


 見つめる場所には一見何も見当たらない。


 ──しかしいや、あり得ない場所に確かに罅が入っている。

 壁でも天井でもない。どこでもない空中の中空に。


 ばきん、ばきんと空間が割れて地面に落ちて甲高い音を立てた。

 そしてその中から現れたのはその罅の中に吹き込む風にたなびく金色。


「……人間?」

「神さ」


 瞬間。

 男の周りに巨大な黒塗りの巨槍が出現した。それは人が持つにはあまりに大きすぎ、その数は男の姿が隠れてしまうほど。


 そしてそれらはただ男の意思に忠実に、間も置かず言葉もなく、ただ純粋な奇襲として部屋中に暴虐の限りを尽くした。


 巨大な岩の柱を貫き、地面を抉り粉塵を撒き散らす。


 しかし相手は霊長の龍。

 星を砕く黒塗りの槍も、それらが巻き起こす風も煙も知命打にはなりえない。



「──"戦女神ヴァルキュリア"」

「──"武神アレス"」

「──"大黒天マハカーラ"」



 瞬間、神だと謳う男の背後から更に三人の人影が飛び出した。

 巨大なそれら三つの影は土埃に囲まれながらも奇妙な威圧感を隠されることはない。


 君臨したと言っても過言ではないそれらは、しかし元の国を守る精霊獣だったころの面影はなく、ただただ欲望を形にしただけの歪な形。



「手筈通りだ。三分でいい」



 言うと、男は悠然と歩き出した。

 背後では三柱の霊龍が暴れ出し、配下の三人がそれを受け止め、人外魔境の様を呈す中ゆっくりとオフィウクスは歩を進める。


 空中に踏み出し、まるで透明な階段を上がっていくようにオフィウクスは近づいていく。

 止まったのは、静かに腰を下ろしたままの老人の前。そこは地面の上ではない。けらけらと"神の字"が笑う。



「応龍。祖龍。貴方を指す言葉は書物の中にそれこそ星の数ほどある。どう呼べば良い?」

「好きに呼べ。どれも仮名かりなだ」



 瞬間、背後で壁の一部が吹き飛んだ。

 パラパラと破片が舞う中、二人は眉一つ動かさずただ相手の言葉を待つ。



「此方の小倅が邪魔しとったはずだが」



 白髪で短髪。仰々しい髭を蓄えているわけでもない。

 しかしその老人を見てただの人間と断ずる者はいないだろう。霊龍特有の静かな金色の目は心の内まで見透かしているかのよう。

 手に持った杖を、かつんと鳴らした。


「私達がここに居る事が、答えになっているだろう」

「そうじゃなあ。そう簡単に死ぬとも思えんが、つい先日同じような奴が一人死んだ」

「聞いている。そちらも一枚噛む必要があってな」

「ほう。それはいい事を聞いた」


 初めて、老人が立ち上がった。

 それだけでオフィウクスは体を押されるような感覚を覚える。霊龍の長。名だけである事はあり得ない。


「龍の法に許されている事が三つある。一つは自衛。一つは報復、残る一つは何だか判るかの」

「戦争だろう」

「……割かし、愚かでもないらしい。だが、違う」

「違わないさ。君達は戦争がおこる場合にのみ、"それを止める為"に動くのだろう?」

「──それこそ、違ったようじゃの」


 驚く風でもなく、ただ哀しげに応龍は目を細めた。


「狂っている訳でもなく、憤っている訳でもなく。貴様はただ只管に愚かだった」

「そうだ。だが、蛮勇と勇気を区別するのは結果だろう」


 再び背後で轟音が響いた。

 ただならぬ視線を感じてオフィウクスが振り向けば、時間稼ぎを命じた三人が地面に叩き伏せられていた。

 人の皮を早々に脱ぎ捨てて見上げるほどの霊龍達の体は、しかしそれぞれ神々しい。


「まだ、無理だったか」


 聳える山岳の化身が、凍て付く吹雪の権化が、沈む夜闇の具現が。

 気付けば、立っているのはオフィウクスのみとなっていた。ゆっくりと、視線を応龍に戻す。


「こういった事はお主等が初めてではない。また最後でもない。誰もが我等を過小に見て死んだ。純然たる事実として人では我等には勝てん」

「……過小?」


 何を馬鹿な、とオフィウクスはそれを一笑に付した。

 物怖じしないどころか、まるで事態が好転したかのように笑う顔に応龍は眉を顰める。


「最初に疑問に思ったのは、龍族が人間を避けるように生きている現実だったよ」

「……」

「飛竜一尾で小さな村は潰せよう。古龍が五尾もあれば小国と戦えよう。そして知能も人と変わりがない。それなのに何故大きい争いにもならず、人と龍の間で奇妙な均衡が保たれているのか」


 つらつらと言葉をつなげるオフィウクスに、一向に焦りは生まれない。


「成程。龍の法。許されているのは自衛と報復か。これはいい。いやこんな物でも無ければこの様な現状にはならないだろう。しかし、そうするとだ」


 口にするのは、この歪な世界の核心を掠める言葉の数々。


「何故、そんな事をしなければならないのかという疑問がある」


 じりじりと、近づいていく。同時に、祖龍の目に確かな殺意が灯っていく。


「知能が高いと言えど飢えている獣だ。誇り高き龍だ。押さえつける労力も要る。貴方達に人は勝てないのだろう? それならば争って従属させれば話は早いはずだ」

「もういい」

「ああ、もういい。私は理由を知っている。だから聞いてほしいのは、だ」


 楽しげに、勝ちを確信して。

 "過小評価している"などと、こちらの企みに気付いていない事をわざわざ教えてくれた爬虫類に、オフィウクスは微笑をくれる。



「──私が貴殿等を軽視する事などあり得ない。出し抜けるように、万全を期したのだ」



『スコーピオ』とオフィウクスがその名を呼んだ。


「ええ」



 返事が聞こえたのは、背後。

 オフィウクスではなく、応龍の背後。

 今度こそ応龍は驚きに目を見開き、背後を振り向こうとして。


 ──そして、後ろから伸びてきた手に心臓を抉りだされた。


「知ったのは、偶々だ。君達について調べている内に彼女が教えてくれた。祖の心臓は龍に法が敷けるらしいと。そうすると最高の"軍"が見つかった」

「メ、メイ──! お前……!」

「ごめんなさい、お爺様。私だってこんな事をしたくは無かったの。でもねしょうがないじゃない。私に力を返してくれないし」



 背後から心臓を抉りだし、目の前のオフィウクスに差し出すような体勢のままスコーピオ──命龍は申し訳なさそうな顔を作った。



「お爺様、詰まらないんだもの」

「それでは」



 オフィウクスは心臓を受け取り、応龍の顔面に巨大な槍を突き立てる。

 体から力を無くした応龍は、石の椅子から転げ落ち動かなくなった。


 一瞬空気が凍り、そして背後で三柱の霊龍が怒りに咆哮した。



「防げ。まだ三分まで三十秒も残っているぞ」



 それを、地面に付していたオフィウクスの三匹の従属が抑え付けた。先程より明らかに上昇している力に霊龍達も直ぐには振りほどけない。



「一番はやっぱり実践って事かな」

「来ていたのか」

「全力で隠れてたけどねー。あー怖かった。それで? それどうするの? 移植しちゃう?」

「いや、体の一部とするだけだ。そんな面倒な事はしない」



 そう言うと、オフィウクスは手に持った心臓を口に放り込みそのまま嚥下した。

 どくりとオフィウクスの心臓が大きく一度脈動し、頬の上で"神"がけらけらと喜び出す。



「止まれ。岳龍。雪龍。夜龍」



 びたり、と揺れていた洞窟内も震えていた空気も一瞬で固まった。

 届いているのは殺意に満ち満ちている視線だけ。


「便利だな。あまり多用したくはないが」

「で、どうするんだい?」

「そうだな。あの城は気に入っていたが盛大に吹き飛んだ。色々やる事は多いが、先ずは本拠地をこちらに移して──、」


 三柱の龍は体を凍らせたまま、その隣を通り過ぎて配下の三人もオフィウクスの元に集う。

 それを改めて見渡して、オフィウクスは言った。



「世界に宣戦を布告する」





  ◆




「ユキネ!」

「……フェン、ハルが」


 のろのろとこちらを見たユキネに危うい物を感じて、フェンは小さな体ながらも全力で駆け寄って隣に膝をついた。

 すれ違った形になったのか、自分の体の貧弱さが恨めしい。


「ハルが、行ってしまった」

「……大丈夫。今度は私達が連れ戻せばいい」

「でも……」


 そう言って、ユキネはまた力なく空を見上げた。

 それに倣うようにフェンもまた空を見上げる。そして、判ってはいたがその異様さに息を呑んだ。


 竜、または龍。

 グルグルと街の上を旋回するそのドラゴン達は何をするわけでもない。

 だが、明らかにこちらを見つめ、吐き気を催すほどの殺意を此方に、いや人間に示している。まるで、漸く鬱陶しい何かから解き放たれたかのように。


「あれは、一体……」

「布告です。戦争が起きます。人と龍の間に」


 横から割り込んできた声にフェンは驚き物凄い勢いでそちらを向いた。

 そこには、同じように夜の空を覆い尽くす龍達の影を見上げた少女が一人。


 こちらの視線に気付くと、にっこりと笑いスカートの裾を持ち上げ一礼して見せた。


「御機嫌よう、フェン・ラーヴェル様。ユキネ様、──いえ、スノウ王女」

「っ──!」


 知らない顔ではない。

 寧ろよく知った顔だ。ドンバ村でギルドの登録をお願いし、そして何故かこの国でも遭遇した、ギルド協会の受付の少女。

 名前は、確かウェスリアと。

 疑問は判っていたのか、少女はまたにこやかに笑い近づいて恭しく頭を下げた。


「ある時は受付の少女。ある時はハルユキ様の一ファン。そして、ある時はメロディアの間者でございます。ハルユキ様は残念でした」


 ぴくり、とその名前に反応してユキネがウェスリアを見た。


「彼を捕まえるのは貴方方と言えど簡単ではないでしょう。我等は力に成り得ます」

「……何か、条件が?」

「はい、お恐れながら」


 そう言うと傅いた顔を僅かに上げ、その視線をユキネに向けた。


「スノウ王女」

「お前は、一体……」

「ウィーネ様──、お母様がお待ちです。どうかご一緒に」


 ユキネは、上手く言葉を理解できず。

 ばしゃばしゃと、夏の終わりの雨が街を冷やしていく事だけを感じていた。






──そして、物語は長い停滞を経る事になる。



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